第6話 挫折と再会

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赤錦屋は皐月屋に隣接して建てられ、根津遊廓の中では大きな門構えの店で手代の人数も多く、人の出入りを厳しく監視している者に佐助は目配せし暖簾を上げると志野は店へと入った。表の人通りとは別に閑散としている店内に佐助は手代に店主を呼びに行かせ、直ぐに恰幅の良いが皺顔の眉毛が細長く狐眼をした白髪の老人が姿を現した。

佐助が、弥平治殿と会釈し男は志野の前に立ち「志野殿ではありませんか。今日は何様で来られました」と伺うような声に暖簾を掻き分け、咲が店に戻ってきた。弥平治はその様子に何かを察したように「上の男の事ですか」と困った顔をした。志野は咲から相談を受けて此処へ来たこと、咲のためにも男に面通り願いたいと伝えた。弥平治は当惑しているようであったが、云いだしたら聞かない志野の性格を知っており、手代を手招きして「お通ししろ」と指示を出し「志野様、当方としても厄介者で困っておりますが一応銭を払う客でございます、其処をご配慮願います。」 と小声で良い、志野は頷くと佐助、咲を伴い二階へ上がって行った。

手代が奥の角部屋に向かうと、「木村様、お客様で御座います」襖を開けた。手代が下がり佐助が中を伺うと、薄暗い室内から湿ったなんとも言えない匂いに「酷い匂いだ」と顔を背けた。床に敷かれた布団に小男が裸で寝て、一升瓶が数本脇に散乱して汗と混じり湿気を起こさせていた。

志野は木村と言う苗字に聞き覚えを感じながら襖の縁に座ると、「私は女学館で教えている有賀志野と云います、お願いの儀があり参りました」云ったが微動だにしない男に今一度「起きては頂けませぬか」と促した。男はその言葉に上体を上げると散切り頭を撫で背中越しに「今一度名を申せ」と詰まったような声を上げた。志野が今一度名前を云うと、「志野と申すか」と此方に向きなおした。

その顔を見た志野は唖然として「正造兄様」と言葉にならない声を上げた。其処には昔の幼馴染木村正造は目が沈み、髭が伸び放題の哀れな姿に思わず「兄様此処で何をしているのですか」と云ってしまった。正造は苦笑いして「個の様なとこで志野と再会するとは思わなんだ。」と顔を逸らし、咲に目を向けると「酒を持ってこい」と言い放した言葉に咲は恐れた様子で志野の後ろに隠れた。志野は昔婚儀を交わそうとした相手の正造が此処までになるには何があったのかと湧き上がる悲痛な胸の内を察しようとしていた。

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「何を申されます、昼間から酒とは」志野の悲しい声に、正造は膝を立て「なに」と怒鳴る声に佐助が身構え正造を睨みつけた。志野は正造の前に移り「何があったかお教え下さい。私と最後に会った時の事を覚えていますか、あの時優しい目で(志野なら大丈夫)と言って下さった兄様とは思えません。」愁いた表情に、肩を落とす正造は「志野にはきちんと云わねばなるまい」とため息混じりに答えた。

正造は廃藩置県後に任を解かれ浪人なったが、元藩の家老である織駕植野守の推挙により新政府の役所へ勤めていた。しかし、どうしても自分が武士である事に拘り、同僚達に対して威張り、腐る態度に何時しか孤独となり離職した。其れからと云うもの親の蓄えと貯蓄を使い果たし、最後は質屋で家宝の宝と称する名刀を売りその銭で此処に居付き、腹違いの兄(雄之助)が探しているため、表に出る事が出来ず隠れていると怯えた表情をした。正造は後妻の先妻との間に3つ違いの兄が居た。子供の様に肩を竦める正造に志野は憐みを感じていた。「志野に合わせる顔が無い」と下目使いに志野を見て「すまぬが、少し工面してくれぬか」と蚊の様な声に憐みの感情は怒りへと変わり「何を申されます。武士への拘りとはこの様な哀れな姿を晒すことだと申されますか。兄に会い全てを打明け謝るのが先では御座いませんか」正した。

正造は黙って志野を見て「志野も知っておろうが、兄は剣の達人ぞ」正造の兄は昔道場で師範を負かした程の腕前で城下では右に出る者が居なかった。

「雄之助兄様は妄りに人を殺めたりはしません。剣を極めるほど人には優しくなれると以前私に申しておりました。きっと分かって下さるはずです」志野は正造に説いた。正造は項垂れながら黙っていたが、「己に出来るか」と云うと志野は「兄様なら出来ます。何故なら、私が昔好いた方ですから」と笑みを零し、正造はその言葉に涙が溢れ手に滴り落ちた。佐助と咲は志野の気迫に圧倒され、茫然と眺めていた。

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二日後正造が遊郭を去った事を咲は嬉しそうに志野に伝え「先生有難うございました」と頭を下げた。喜ぶ咲を見詰め志野は正造の先を案じると神妙な面持ちになった。有山からの封書を秀治は書室で読み終え、妻の房江を呼んだ。秀治は五年前上役の勧めで街の材木問屋の娘と夫婦の契を交わした。 房江も遊学館で学び歳は三十三歳で秀治とは十歳違いであったが、御淑やかな物腰と口調は年上の女子の印象を醸し出していた。

「旦那様何用で。」と割烹着姿で現れ、嬉しそうに封書を見せる秀治に「東京の恩師からの手紙で御座いますね。本当に何時も心待ちになされて要る様で、今回はなんと書いてありました」と頭の頭巾を取ると微笑みを返した。

「房江も知っておろうが、教え子の志野が開いた女子学館と申す学び舎が盛況で生徒が増えて、日々奮闘していると書いてある。恩師は志野の行動力と知力には圧倒されると書かれ、今では有志館を離れ学舎の近くの借家に居を移したそうな。お前の眼は確かだったと書いて下さり、此れを喜ばずして何を憂う」と子供の様に興奮した面持ちに「よろしゅうございました。」と房江は笑みを浮かべていたが(昔は恩師から「こんな女子を紹介しおって」と書かれ項垂れていた秀治を思い出し、男とは単純な生き物)と思った。夕日が部屋に差し込み秀治の顔は福の神(恵比寿様)の様に輝き房江は歓喜の声に平穏を感じていた。

その時正造は兄雄之助の館を訪れていた。同じ夕日が座敷に差し込み対面に座った二人の影が長く伸びていた。正造は志野と約束した通り、根津遊郭を去るとその足で故郷に帰ってきた。髪を整え髯を剃り身なりを正したてはいたが、項垂れうつろな目を兄雄之助は見逃さなかった。

「正造、よく来た。元気そうではないか」と心にもない言葉を口にし、黙って儘に俯く正造に業を煮やし「何かいう事は無いのか」と問い質した。

正造は「兄上殿、私が犯した罪をお許し願いたく、参上致しました。」と震える声で深々と頭を畳に押付け「釈明は致しません、全て私の至らぬ事で御座います」と肩を震わせた。雄之助は「全てと申すか」と呟くと、急に膝を立て床の間の刀に手を回すと同時に正造は殺気を感じて後ろへ仰け反ったが、雄之助の刃先は既に正造の眼前に達し、夕日に鈍く光る太刀先に瞬きも身動きも出来ずになった。

「正造、この刀に同じ事を申してみよ」と雄之助は図太い声に、正造は太刀が質に家宝である名刀である事に気付き、雄之助は名刀を探し質帰りしていた。

「兄殿、この刀は・・」怯える声に「そうだ、そなたが質に入れた当家の家宝だ」と鋭い声を上げ「正造、この刀に詫びえるのか、昔父上に自分は不遇の身だと申したと聞いたが」と雄之助の刀は小刻みに揺れ動いているのを正造が眼見して、「今となっては全て身から出た錆で御座いました。」と更に方は震えその声に鞘に刀を収め姿勢を正すと、正造は改めて平伏し、「貴様は家宝を質に入れた、この事は家を売り、己の心も売ったのと同じ事だ。もう、木村家の人間ではないと思え」と絶縁とも思える言葉に。正造は「兄様、私は変わりとう存じます。」と涙と混じり声にならず、雄之助は哀れな弟の姿に「悔いるなら、己を悔いろ正造」と吐き捨てたが、眼には涙が滲んでいた。

何時しか夕日は生垣の向こうに消え、暗が部屋を支配して、遠くで鴉の無く声が寂しげに聞こえていた。

雄之助は「人は直ぐには変われない者、見捨てはせぬが見届ける事は出来る。今後は兄の傍で暮らせ。」と正造の肩にそっと手を添えた

。正造が人目も憚らずに兄の胸に飛込み号泣した。

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