第5話 有山と千鶴
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志野は心の芯から湧き上がってくる真が分からずに「千鶴殿、書はお好きで」と問うと「好きでございます、読めるようになってからは、自分の世界が広がりました。今は先生がお持ち下さる書を心待ちにしております。志野様が申されますように私は遊郭の遊女です。然し、先生はそんな事は気も留めず熱意すら感じます。」と何時しか優美な千鶴へ戻っていた。
何時しか表は夕日が作り出す明暗の世界へと変わり、千鶴は部屋を出て付火を持ち戻り、蝋燭の明かりに照らされた千鶴の顔は夜の女になっていた。
志野は「千鶴様、有志館で学問を学ぶのは如何でしょうか」と問いかけた。すると、千鶴は有山からの簪を髪に刺し「志野様、其れは出来ぬ事です。」 志野は「なぜですか」と問うと「上遊女が有志館へ行くなどとは先生にご迷惑が掛かります。尤も遊郭に来る事も憚られると私は思っておりました。」と俯きくと、ため息を漏らした。沈黙が二人の間を埋め千鶴は「遊女とは簡単には人生を変えられないものです、お分かりでしょうか」と真剣な眼差しをしてその言葉に志野は「簡単に変えられない。でも自分次第ではないですか」と答えてしまった。
千鶴は苦笑して「志野様と私は住む世界が違います、出発点が違うと申した方がよろしいでしょうか」その時、先程の佐助が千鶴を呼ぶ声に「志野様今日は有難う御座いました。女子として志野様の様な方は初めて会いました、此れからの世が楽しみで御座います。」と会釈すると、佐助が「千鶴」と階段を上がって来る音がし、志野は千鶴と未だ話し足りないと思っていたが辞去した。
志野は千鶴の「住む世界が違う」とはどの様な意味かと自分に説いていた。辺りは暗くなり男達が遊郭に向かい歩く姿を目も留めず志野考え込みながら学舎へ歩いた。
有志館へ帰る頃には辺りは月夜となり泰三が夕餉の支度をしている最中で、味噌汁の匂いが玄関先にまで漂いその匂いに空腹を覚えたが、志野は上がると有山の部屋へ向かった。
行燈に照らされ有山は相変わらず写生を続けて襖を開け志野は「先生、届けてまいりました」と伝えると、「ご苦労であった」と筆を止め此方に向けた顔は優しく。「志野、何か言いたい事があるか」と笑顔で問いかけた。「先生、聞きたい事があります。千鶴様にお会いして先生が行っている事を教えて頂きました。」「ほう、千鶴は何を言った」と有山は額を触りながら興味有りげに視線を向け「先生が遊郭にて読み書きを教え3年は経っている事、写生を行っては届けている事。敬服しているともおしゃいました。」と言い有山は「敬服か」と呟くと志野は「こうも云いました」声に有山は何を云ったという顔をして「先生をお慕いしていると」志野は答えた。有山は少し考え込む様子に志野が見入ると「あの女子そんな事を申したか」と声を抑えてはいたが笑みが顔全体に広がり、其れを隠すかの如く「志野は千鶴から何を学んだ」と問いに志野は呆気にとられていると。今一度「何を千鶴から学んだ」と声と上げた。志野は「学ぶとはなんでしょうか」と有山に聞き返すと。有山は「志野、何故そなたを千鶴の事へ行かしたのか、知りたいであろう」 志野は「何故ですか」と顔を前に乗り出した。「志野は、昼夜を問わず学問に精通して来た
、有志館でも一二を争う位に成長して、長く要る泰三とは比べ物にならない位になっている。」と笑みを浮かべながら「英語も達者であるし」と髯を撫でた。志野は「先生の教え通りに、人が3年掛かる所を1年で覚えるようにしてまいりました。」と頭を下げ。
「尤も、机上の事だが」言葉に志野は顔を上げ有山を見ると、腕組みをして眼は鋭く変わっていた。「勉学とは机上の上だけでは存在するものでは無い。無論、歴史、文学、辞書から学ぶのが一番ではあるが、其れでは人に問いに答える事は出来ない。志野は前に行ったであろう、(花園の蕾となり、何時しか咲誇り、種となり蕾を育てると。)其れは自分が教鞭に立つという事であろう、然し今の志野は知識だけは備えているが、教える為の知力は備わってはいない。教えるとは人に上に立たず、人の価値を見出す事だ。」
志野は突然21歳の自分が湧き上がり「目の前の全ての物から感じ取る事、自然造形、空気感、自分が体感出来る全てから」と自然に言葉が出た。有山は「人も同じだ、人に上下は無い全ての人をから学びなさ、さすれば光は自ずと見えてくる」と云うと大きな声で「また一つ、志野大きくなったな」と云った。
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志野は何時しか有山と共に遊郭へ出掛け教えるようになっていた。最初有山と共に歩く志野を訝しげに見ていた男達も何時しか認めるまでになり、何より有山を驚かしたのは志野の行動力であった、遊郭大店の寄合に駆け込み遊郭全体の現状と学問の必要性を説いて回った。勿論、商売あっての遊郭であり最初は怪訝な顔をしていた店主達も、志野が問いかける事に頷き始め、最後には遊郭の端に女子学館と命名し学舎を建てるまでになっていた。女子学館は夕方まで遊郭全体の女子が学問は元より女子の嗜み、着付け、作法等色々な習い事が出来る場として開放され全て志野は考え通りに事は運んだ。
そんな折、翌春に吉田有山と千鶴は籍を入れた、当初は反対している者が大半を占めていたが、一人一人説得したのも志野の功績があっての事だった。志野が有山から千鶴を妻にしたいと言われた時、有山の芯の心を見たからで、「先生は何故、千鶴様と夫婦になりたいと思われたのですか。千鶴様が先生をお慕いしている事は存じております。」と有山の部屋で訊くと。
有山は神妙な面持ちで「千鶴は勉学に勤しみ、真綿の如く吸収している。志野も存じているとは思うが、遊郭は簡単に落籍出来ない、見受けしなければならない。私は千鶴を妻として落籍させるつもりだ。」 志野は大きな眼を更に大きくし「その為に妻にすると云われますか」と驚いた。有山は「早合点するでない
。」と額を撫でる癖をし「女子の志野に云うのは憚れるが、千鶴の事は最初から好いておった、男が好きでもない女子に此処までしまい。尤も、歳が違い過ぎて千鶴の気持ちが見えずに、二の足を踏んでいる自分もいたが。」と散切り頭を撫でながら苦笑し「千鶴には自由に好きな事を学ばせたい。」と真面目な顔に変わった。
師の愛しく愛らしい姿に志野は千鶴の言葉を思い出した、有山の事を「外見に見合わず優しい方」と称して有山の別の一面を千鶴は見ていたのだと思い志野は嫉妬している自分に気付き妙な気分になった。其れを打ち消すかの様に「先生私にお任せください、誰が何を云おうとも私は先生に御味方致します。」と答え。31になった志野に恋華はまだ到来しては無く、春風が心地よく学舎に吹込み華の香りが流れ始めていた。
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千鶴が来てからの有志館は活気に溢れ皆が楽しそうにしている声を志野は玄関先を掃きながら聞いていると、「朝餉だぞ、志野」と泰三の声がした。箒の手を止め泰三は下駄を履くと近寄ってきて耳元で囁いた。
「先生は千鶴殿が来てから皆に優しくなったとは思わぬか。この前も厠の使い方が汚いと先生が怒られておった。」志野は驚いた様子で「千鶴様に」と伺うと、「なんと、先生に孔子の教えを云って説いたと聞いた」笑いを抑えようとする泰三を志野は訝しげに見て(千鶴様も勉学に勤しんでおられる様子と安堵した)泰三は様子に気付いたのか志野と距離を置くと「然し、志野殿が来られてから有志館も華やかになった。やはり、女子(おなご)が居るのはいい事だ」と腕組みをする姿に「泰三兄様、私も女子でございます。其れに、兄様は朝餉、夕餉の支度、掃除などせずに良いと思われているのではありませんか」と憮然として態度で問うと、泰三は頭を掻きながら「そんな事はない。何時も率直に申すな、でも、千鶴殿の飯は旨い、志野もそう思わぬか」と云うと「朝餉だ、朝餉」と玄関に消えていった。
志野は優しい気持ちになっていた。泰三の言う通り千鶴が来てから先生の世話は元より掃除、洗濯、食事と全てを楽しそうに励んでいる姿は、舎に華が咲いたようだった。 前に千鶴に泰三が「なぜこんなおいしい飯を作れるのです」と聞いた時、千鶴は満足そうに「下働きの時に覚えました」と云ったのを思い出した「学問は机上だけでは無く、諸所を覚え、経験する事から学び、いつの日か其れが役立つ時が来る」そう千鶴に教えられた気がした。
志野にとっても千鶴の存在は大きかった。 自分が設立したとも言って良い女子学館の評判が良く生徒数も倍増して、外部からも評判を聞きつけ入学したいと思う者がいたくらいで、志野は教師の確保、運営等忙しい日々を過ごして、翌年には建物を増築して程である。当初遊郭の各大店から資金を調達していたが、今では融資したいと呉服問屋、醤油問屋など多方面から受けて、実際遊郭に足を運んでいる商人に志野が話を持って行ったのが始まりではあるが。
そんな折、女学館で教鞭を立った志野にある遊郭の女子から相談を受けた、女子の名前は咲(さき)でほっそりとした体格で利発そうな子であった。咲が言うには昼間に女学館に行きたいのだが、遊郭に遊びに来てそのまま居ついている男に纏わり付かれ困っているとの相談だった。店には云ったが、男がお金はあると言い確かに毎夜毎夜支払は済ませており、店側も何も言えない状態であった。時々暴れては殴ることもあると、着物の裾を上げた太ももに痣が出来ていた。
志野は深い憤りを感じ、一人では危ないと云う佐助を伴い店へ出向いた。佐助は女学館設立から館の番人的な役割をしていた。
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