第4話 新天地
(9)
志野は進言通り昼夜を問わず学業と有山の身の回りの世話を望んで行っていた。たまに泰三を含めた門徒との東京見物をするのが唯一の息抜きであったが、時は過ぎゆくもので志野が有山門下となってから3年の月日が経った秋の夕刻の時。
書庫から志野を呼ぶ声に廊下にでると西洋文学の師であるイギリス人教師ブラハムマシューが庭で手招きをしていた。背と鼻が高い金髪で一見すると外交官のような生出達で線が細いが四十歳位の男性だった、マシューは「志野、日本の秋はすばらしい。なぜ、こんなに情緒があるのだろう。特に夏から秋への移り変わりが実に切なく、愛らしく感じる。」と紅色に染まった紅葉と大きな銀杏の木を眺めていた。志野は笑みを浮かべながらマシューに近づくと「先生はもう立派な日本人です。或る意味日本文化人かも知れません、落葉が切ないと思われるのは」と英語で答え。
マシューは志野に顔を移し「落葉では無い、紅葉です。」と適切な日本語で言うと、お互いに可笑しくなり笑った。マシューは英語教師として有山が連れてきた臨時教師である。素性は分からないが週に二日から三日有志館で教え、その中で志野は特大生として目を掛けていた。マシューは志野に関心を持ったのは、渡した英語辞書が赤ペンだらけで、手垢でボロボロになっているのを見てからで、何時しかマシューは志野を学業虫と言うようになっていた。
志野は下駄を履きマシューの横に立つと、紅葉と銀杏を交互に見比べ、「紅赤色に染まる紅葉の見事さを黄金色が際立たせ、秋一対となる」呟くと、マシューは「志野は表現力が豊かだ。」手を叩き喜び、満たされる心を志野は感じていた。平穏な時を打ち破るかの様に「志野、部屋に来なさい」と有山の声が轟いた。マシューは片目を瞑り「大先生がお呼びだ」と促すと、志野は有山の部屋へ向かった。
有山は部屋で古文の写生をしている最中であった。志野が格子を開け後ろ姿の有山に「先生お呼びでしょうか。」と声を掛けると、写生を続けながら「志野悪いが、其処にある包みを届けてもらいたい。」と姿勢まま指で横の風呂敷を指した。志野は呆気にとられ包みを見ると、有山は補足するかのように「泰三を含め皆出掛けている、志野お願い致す。」と小声で神妙な声に「何処へお届けするのですか」と尋ね、「横に書き留めてある」とだけ答えた。包みの横に住所と相手先の名前が書かれた紙が添えてあった。志野は有山の態度に思惑を感じていた。
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志野は包みを大事そうに抱えると小走りに表へ出たが住所を良く見てない事に気付き、止ると紙に書かれた文字を見た。根津八重垣町皐月屋、名前は千鶴殿へと女子名前が太く確かな有山の字で書かれていた。未だ方向が分からない志野ではあったが同町でもあり探し、何時しか桜の並木にたどり着いた。そこは根津遊郭と言われている場所で志野は一瞬躊躇したが師のお願いではどうする事出来ず俯きながら進むと、歩く男達が興味有りげに視線を向け志野は恥ずかしさに逃げて帰りたい心境に駆られていた。(根津遊郭は慶応年間江戸幕府陸軍奉行の許可を得て、遊廓が建設され、徐々に繁昌し、明治3年根津八重垣町の両側に桜200余株を植えつけ、総門をかまえて新吉原に倣ったが、元々年限を限って許可した遊廓であり、明治21年に撤去された。)(引用)
志野は何故、先生は私を此処へ向かわせたのだろうと有山の考えを思案して歩いき、屋敷風な佇まいの店先に黒い表札の中に赤文字で皐月屋と書かれた建物を見付けた。志野は店先で躊躇していると店の中から男が暖簾越しに顔を出した。
「御嬢さん、何か御用でしょうか」と云い志野が黙っていると笑みを浮かべて「花魁にでもなりたいのかい、其れなら先ずは下働きからだよ。」と繁々と志野を見て、更に「歳は幾つ。今からだと辛いかもしれないな」と暖簾を潜り志野の肩に手を掛けた。風呂敷を抱え黙って俯いている姿はまさに男が考えている恰好そのもので、志野は二三歩後ろに下がると鋭い目で相手を睨み付け「私は吉田有山の門下生で有賀志野と申します。今日は千鶴殿へ師から頼まれ物をお届けに参りました。」と風呂敷を差し出した。男は志野の険相に驚きながら「有山先生の門下生」と答え、着物を整え会釈し中へ案内した。
遊郭の中に入るのは志野にとっては勿論始めてな事で、白粉の匂いと色柄に特徴のある着物を着た女性が志野へ視線を向けた。遊女の着物、特に花魁の華やかさは平安時代の衣装が元と言われている。男は奥へ入ると華やかな衣装と纏った女を伴い志野の前に立返り、女子が「千鶴と申します。先生からのお届け物とはなんでしょうか」と志野に問いかけた千鶴は丸顔に白粉を付け真っ赤な紅をして背は高くはないが体は細く、妙に幼げに感じる女子であった。志野は無言の儘に風呂敷の包みを差し出すと千鶴は「店先で頂くのは失礼な事。せっかく届けて頂き、奥へどうぞ。」と促した。志野は只白粉の白い手を訝しげに見ていた。
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前を歩く千鶴の優美な歩き方に志野は二階の角部屋に案内された。女子(おなご)が談笑をしている横を掻き分け奥の居間へ入り、座布団を叩き志野前に置き「どうぞ」と促した隣の部屋では意味ありげに女子達が此方の様子を伺っているようで、千鶴は襖戸を閉め志野の前に座った。目の前の千鶴は先ほどの幼く見えると思ったのとは違い、胸の膨らみと福与かな体から匂い出る分泌液を同性ながら感じると、沸き上がる不快感を理性が抑えていた。
志野は不快と有山へ対する失墜の念を覚える自分を悲しんで、風呂敷を千鶴の前に置き「確かにお届け致しました。」と相手を伺うように云った。千鶴は愛しいく風呂敷を見詰めている表情に志野は「先生とはどのようなご縁でしょうか」気持ちに声が出てしまうと。
「佐助が有賀様と云っておりましたが、先生の門下生とはさぞ優秀な方でしょう。」
愛らしい視線を志野に向け「志野で構いません。」と鋭い視線を返した。
垂髪を手で掻揚げ「では、志野様は先生とはどの様な間柄でしょうか」と先ほどとは違い相手を伺う問いに、志野は真意が分からず「先生を師と仰ぎ、勉学に勤しんでいる書生の一人です」と唐突に答えた。千鶴は苦笑し「では、先程から包みに中身を気になさっているのは、何故でしょうか。」と視線を逸らし「貴方の様な綺麗な方が先生の傍にいるかと思うと、私が気になります」と少し悲しい目をした。確かに、志野は時々風呂敷に目を遣り気にしていた。千鶴は「私は有山先生をお慕いしております。」確りした口調で云うと。
志野は背筋に寒気がするのを感じ「千鶴殿は少し勘違いをなさっています。私は確かに包みの中身を気にしていますが、其れは師が遊郭の女子に何を持って来たのか気になるだけです。仰ぐ師がこの様な遊郭で遊んでいるとは沈痛な思いです。師は私に昼夜を問わず学問の励めと仰いました。しかし、自分が遊んでいては門下へ示しがつきません。」と何時ものように率直な言葉は口にしていた。
千鶴は徐に包みを開けると其処には綺麗な簪と写生をした書が数冊重ねあり、簪を取り「有山先生は外見に見合わず優しい方です」と光る簪を眺め、「志野殿なら、この書はお分かりになるでしょう」と云い、志野は書を手に取り捲ると其処には有山の毛筆で古い万葉集が原文で書かれ、横には現代語訳が赤毛筆で書かれていた。
千鶴は志野に「私は幼いころに遊郭に連れて来られ、碌に読み書きも出来ずにいました。或るとき茶屋で他の遊女とその様な話をしていた時、横に居た有山先生が「難儀な事だ」と私共の話を聞いてくださったのが始まりで御座います。其れから先生は私共に解るように書を認めて下さり、夜な夜なお越しになっては、遊郭だからとお酒を飲み私に色々お教え下さりました。」と零れる涙を押さえ、垂れた髪をまた直し「もう、三年程になります」と云った。
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