第3話 旅立ち

(6)

幾度の春の息吹、夏の太陽、秋の落葉と月日は何時しか流れ冬の木枯らしが舞う頃には志野は二十四になっていた。今日も何時も通り山道を学舎へ向かい、空には低く長く垂れ込めた灰黒色の雲が降雪の準備を整え凍える手を擦り足早に歩く志野に降り注ぎ始めた。

志野は皸の掌を上にするとタンポポ種が浮遊するかの如く舞い落ち、降り出した雪は大粒となり行く手を白銀の世界へ変え始め、志野は掌に落ちる雪に息を吹きかけ温めると雪は白から透明な物へと変化して、山野は静まり返り雪を踏む音だけが聞こえていた。

「深々と積ゆる雪に山野黙して語らず、我踏音だけが命と感じる。」白い息を吐くと先を急いだ。

夕刻までには雪は上がり学舎の庭雪に積もった雪に用務を従事している佐平治が歩道を固めているのを志野は眺めながら皆帰り支度をしていると秀治が廊下から「志野、教務室に来なさい」と呼ぶ声に振返り、隣席の学友である志保が「また、志野何かした」と訝しげな顔を向けた。志保は三つ年下であるが、志野とは遊学館初等からで授業が早く終わると良く茶店で暇を潰す程の中であった。「何もしていない。」とだけ言う志野に志保は早く行った方が良いよと促され、志野は不安に駆られながら足早に教務室へ向かった。

教務室を訪ねると秀治は隣室へ志野を案内し座る否や話始めた。

「志野は此処へ来て何年になる。」

「もうすぐ3年になります。」と低い声で答えると。

秀治は咳払いをして「志野は一度も休まず、成績も良い。他の先生とも相談したのだが、どうだろう東京へ行くつもりはないか。丁度、私の恩師が教えている舎がある、相談したら会いたいと言って下さった。東京へ行けば西洋文学も学ぶ事が出来る。」

志野は当惑していた、その様子を見ていた秀治は。「何か問題でもあるのか、良い話だと思うが。」と促した。

志野は堅い口を開くと「先生、私は来年には25になります。」と答え。

秀治はその言葉に当惑している様子で「学ぶ事に歳など関係ない。そなたは前にわが身に説いたではないか。志野、生きるとは学ぶことぞ、己を成長させてくれる縁は切らぬことだ。」と真剣な眼差しに。

「父母に相談せねばなりません。」と言い秀治はその答えを用意していたかのように。「父君母君には了解を頂いている。2人とも志野の為になるならと旅費の工面に走り回っておられる。皆、志野の将来を見ているのだ」秀治は満足そうな顔をしていた。

志野は最近2人が朋だって出かけた理由を此処で知って、非力な自分が周りに助けられて此処まで来ている事に改めて涙腺の思いに駆られた。

「人は一人では生きていけない者、成長とは人に助けられながら進む事なのですか。」と思いを口にした。

秀治はその言葉に「人の上に自分は居ず、下にこそ価値を見出す。そなたが将来、人を助ける要になれば良い」と答えた。志野は師の溢れる愛に黙ったまま頷いた。

「今は花の蕾だが何時しか咲き誇り、数多くの蕾を作る種となる。」秀治は志野の門出をこう表現した。


(7)

光線のような夏の光が駅舎を射し志野の出立は半年ほど遅れてしまい、いま旅立つ汽車を待っていた。遅れた理由は工面もさることながら秀治の恩師である吉田有山が視察との名目で福岡へ出かけ先月帰ったとの連絡により急遽向かう事となった。

真新しい着物は張りがあり優美さを兼ね備えた志野をより美しくさせていた。たねが生地を買い今日の為に仕立て、艶のある髪を後ろで束ねて着物の布で結んでいた。驛には秀治、父の義三、母たねと学友数名が出立を祝おうと集まっていた。


「色々教えてきたが、今日の此処に立って志野殿を見ると満漢の思いだ」と秀治は眼を真っ赤にさせ有山への紹介状を手渡すと、父義三が「志野、学問に励め」と普段は見せない福与かな笑みを浮かべていた。

志野は義三の後ろに隠れるように眼頭を押さえて立っているたねに近づくと手を取り「母様、行ってまいります。」とその手は冷たく母の気苦労が自分に伝わってくるようだった。たねは「志野、私が言ったことを覚えていますか。今新天地に旅立つ貴女は此れから幾つも新しい扉が前に現れるでしょう、其れは苦行な扉か幸福な扉か私には分かりません。然し、選ぶのは志野!貴方です。選んだ上は誠と信じ進みなさい。」重ねる手に涙が零れ落ち、母の手は尊く冷たい手の中の温もりを志野は感じていた。遠くの汽笛の音がし始めて皆の万歳との声が重なり合った。


吉田有山は東京根津に居と学舎を構えていた元は道場であった建物を改築し有山本人を慕う門徒が学んでいた。有山は事前に面接を行い、自分が認めた以外の者は入塾を断ることもあり、志野は秀治の紹介状を持ってはいたが有山に会うのは初めてであった。

全てが新鮮な東京の景色に志野は圧倒されながら、手には父から渡された鞄と風呂敷を抱え道行く人に聞いて廻ると、どっしりとした門構えの前にたどり着いた。古びた門柱の中央には真新しい木板が付けて有り、其処には「有志館」と書いてあった。志野はその文字を確認するかのように見入り、深呼吸をして潜ると一人の書生が玄関を箒で掃除している所だった。

志野は恐る恐る「失礼いたします。有山先生はご在宅でしょうか。」声を掛け、男は黙ったまま掃除を続けていた。志野は聞こえないのかと大きな声を出すと、顔を上げ男は「失礼ではないか。先ず自分の名を名乗るのが筋であろう」と志野の顔を睨み付けた。

志野はその気迫に圧倒され「誠に申し訳ございません。」と頭を下げ「私は有賀志野と申します。今日有山先生に入塾のお願いに参りました。」と云うと相手伺うように顔を少し上げた。

男は箒を支えに腕組みをして「分かり申した拙者は加藤泰三と申す。」と自分は門徒の一人だと付け加えた。志野は繁繁と泰三を見ると、大きな目は鋭く、がっしりとした体格と背が高い印象で年の頃なら自分と同じくらいではないかと思っていると、泰三は「何、私を凝視している。俺の顔がそんなに美しいか」と笑みを浮かべた。屈託のないその笑顔に志野は安堵した。


その時玄関の奥から「表で何を騒いでおる。」と有山の声に泰三が背筋を伸ばすと志野に先生が来た事を目で知らせ、直ぐに大きな足音と共に有山が玄関に現れた。

志野が今後の師と仰ぐ有山との最初の出会いだった。


(8)

志野は有山に圧倒された。目の前に仁王立ちする熊とも思える巨漢で眉が太く、角ばった顔と細い目が妙に不釣り合いな顔をして、腕の毛も黒々として勉学の師と称するには憚れる印象を有山に受け。黙っている志野に「泰三、其処の遊女は誰だ

」と言うと、泰三は苦笑しながら「先生遊女ではありません。先生の門徒になりたいと来た者です」と答え。

遊女という言葉に志野は当惑し「私は有賀志野と申します。今日は有山先生に入塾のお願いに参りました。」言うと。有山は額を大きな手で撫でながら「秀治からの書付に認めてあった、門徒になりたいと申す者か」と言い志野を直視し「女とは聞いてない」と少し黙り「然し、男とも聞いてなかった」と額から顎から伸びる髭を触った。志野は「女ではいけませぬか」と憮然した表情に、泰三が控えろと目配せをした。有山は笑みを浮かべ「学問に男女は問わず。」と大声で笑い、泰三に中に通すように促した。

泰三の後を追い昔道場であった大広間に通された志野は中央教鞭用机の前に促された。横には門徒用の机が積まれ此処で、勉学に勤しんでいるのが肌で感じた。泰三は「少しお待ちください」と言うと辞去し、風が大広間に通り花の香りを志野は感じて其れは夏の花の香りで何処かで嗅いだ匂いを考えていると、足音に我に返り頭を下げた。

有山は志野の前に座ると「そなたが志野殿か。顔を上げられよ」言葉に志野が顔を上げると。「先程は玄関にて失礼した、貴女があんまり小奇麗で美人だからてっきり遊女かと思ってしまった。」その言葉に志野は有山を買い被り過ぎていたのかと自分に説いた。「遊女とはあんまりな言いようと思いました」と口にしてしまうと。有山は散切り頭を撫でながら「そなたに言ってもしょうがない事だが、昨日ある遊廓で色々あっての」と苦笑すると庭に目を逸らし。志野はこの様な人物に会ったことが無く当惑していると。

「秀治から紹介状は持ってまいったか」と語りかけ、志野は慌てて風呂敷から取り出し手渡した。有山は書面を読み終えると志野に顔を向け。「志野とやら、お幾つになる。」の問いに「はい、二十五になります」と志野は答えた。有山は眉を曇らせ「難儀だな」と呟いた。その言葉に志野は唖然として「難儀となはどうゆう意味でしょうか」と聞くと有山はまた頭を触り「歳を取っていると言う意味だ」と答えた。

志野は今までその様な言われ方をされたことが無く、半ば茫然として「歳を取って学問は無理と申されますか。」と荒い口調で言ってしまい。直ぐに「先生に無礼な振る舞いと」頭を下げた。有山は少し黙っていたが、「志野殿、私が言いたいのはそなたの知力である。歳を取っても勿論学問は出来る。然し、時は巻き戻せぬもの、人が三年掛かる事を貴女は1年で学ばねばならない。故に、貴女にその覚悟が有るかと聞いているのだ」と眼は何時しか鋭く光っていた。更に「今までどの様な人間と関わっていたのか知らぬ事だが、この有山の門徒となった後は遅れを取り戻すために昼夜を問わず学問に邁進出来るか。秀治の書面では貴女は優秀で優れた才能をお持ちの様だが、学問に必要な事は己を知り得られるかどうかだ。人と同じ事をしては人の先には立てぬ。その自覚が有るか否や」と有山の気迫が志野に降りかかった。

志野は気迫に負けまいと「人と争うのが学問でしょうか」と言ってしまった。すると有山は「人と争うのではない、自分自身と争うのだ。置かれている状況を把握して今何をすべきか考える事だ」と説いた。そして「秀治も未だ若いな。貴女をこの有山に紹介するとは

」と呟いた。志野は秀治を蔑む言葉に「秀治先生を侮蔑する事を私は許しません。先生の恩師の言葉であっても」と咄嗟に口から出てしまった。有山は「気に入った」とまた大きな笑い声をあげると。

「今日は泰三の夕餉を一緒に囲みなさい。そして明日から始めよう」と言い、志野は茫然とただ有山の顔を見ていた、そして「入塾は許されたと考えてよろしいのでしょうか。」恐る恐る聞いた。

有山は「来る者は拒まぬ、されど去る者も追わず。全て志野殿しだいである」と答え。其れに「そなたは美人だしな」と笑いながら髭を撫でた。志野は有山と言う人格が読めずに不安に駆られていた。

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