第2話 縁談

志野は下級武士の娘として生まれ。城下の町はずれ下屋敷の一角に2間続きの居を構える父である有賀義三と母たねと共に裏庭で作物を育てながら生計を立てていた。藩の財政は厳しく禄高は低くかったが、厳格な父義三より読書きと学問を学ぶ事を説かれた。時代は新生の世に変わろうとしている時、16歳の志野に縁談話が持ち上がった。相手は同じ下級武士の倅で木村正造という志野とは3つ違いの男子で、禄高は有賀家より高く藩の財政を担当していた。父義三は良き縁であると喜んだが母のたねは黙ったまま喜ぶ義三を見ていた。正造は背が小さいが利発そうな男で志野とは小さいころからの許嫁で家柄は違えど行き来はあった。ある時夜の膳を終え、たねが志野を横に座らせ何時もなく真剣な顔をして話始めた。

「志野、いま縁談が来ている事は知っているでしょう。父上は喜ばしい、早々に進める気構えですが。私はそうは思わない。」と今までたねは父義三のやる事口を出した事はないが今回は心痛な面持ちがあるようだ。

「木村様との縁談ですね。承知しております」と返答した。

蝋燭に照らされた たね の顔に気迫すら感じ、志野は背筋が伸びるのを感じていると

「私は今回の縁談は良きものとは思っておりません。」言葉に志野は

「母上は父上に逆らうおつもりですか」と驚いた声を上げた。

「志野、今から話す事を聞きなさい」と言い蝋燭へ目線を移し、

「今は太平の世ではなくなりました、世論は動き始め戦の世になるかもしれません。武士へ嫁ぐのが貴方の将来にいい事とは私は思えないのです」

「父上は厳格な方ですから、私の話など聞かないでしょう。武士の世界が何時まででも続くと思っているかもしれません。然し、私は志野には私と同じ事はしてほしくありません。貴方は頭が良いし感性が豊かです。私は来る時世で男女が同席できる時代が来ると思っています。その時に後悔はしてほしくないのです」とこんな母上を見たのは初めてで、物を言わず常に父の世話と黙々と毎日を過ごす日々にある意味敬服もしていた。然し、自分の心は常に持ち合わせ先を見ている母の凄さ、女の強さを感じまた、同じ血私に流れている事に熱い思いに駆られた。

志野は母の思いに「私の中では決めております、縁談は父上の為にするのではありません今の時代が変わろうとも私は変わりません。私は母の子です心の中に芯を持ち続けたいと思います。」と自分の心情を伝えた。母は黙っていたが頷くと席を外した。たねの考えている通りに時は変革を受け入れ、志野の縁談話は何時しか破断となり、武士世は終焉を迎えた。新しい時代が自分の婚期を破断させたと、新しい世への憤りを志野は何時しか持つようになっていた。


縁談が破断になった後の志野は朝早く起き、畑仕事と母の手伝い午後には書物を読み又夕餉の支度と規則正しいが若い志野には退屈な毎日を過ごしていた。そんな折畑仕事をしていると玄関先に声が聞こえ志野は覗き込むとそこには1人の男が立っていた。後姿から正造である事が分かり志野は少し躊躇した。破断後正造とは一度も会ってなく両家の往来も無くなっていたからだ。

正造は刀そこ差してはいなかったが鼠色の着物と濃紺の袴を着て今一度「木村正造でござる。誰かいらっしゃらぬか」大声に志野は「はい」と咄嗟に答え、後ろを振り向いた顔には半年ぶりに会う正造の屈託のない笑顔があった。志野は恥ずかしさに手に持っている鎌を後ろに隠し会釈をすると、「志野久しぶり、元気そうでなによりだ」と言いながら近づいて来る正造に志野は2・3歩後ずさりをすると「正造兄さんも元気そうです」と答えた

「兄さんと言うな志野。破断になった事は俺も残念であったが、一度は契を交わそうとした」と云うと陰った顔に変わり「そうか、破断とは兄さんに戻る事か」と寂しそうに言った。志野はその様子に「玄関では人目もあります。どうぞ此方へ」と庭の縁側を指した。正造は「気付かずに、すまぬ」と言うと志野の後を追った。

庭にたわわに柿色の実を付けた木が1本植えられ、収穫を終えた畑を正造は縁側に座りながら見ていた。秋風が心地よく顔に当たり、もし、志野と夫婦になっていたら今頃こうして2人で縁側に座ることもあっただろうと思うと胸に空虚感が湧き上がってきた。誰が悪いわけではない、時代が悪いのだと呟くと、志野が正造の横に座わり茶を差し出した。

「有賀殿と妻女は息才か」と一口茶を含んだ。

「はい、今日は2人で出掛けております」と志野は答えた。

「志野、私の事を恨んでおらぬか」と正造は急に真面目な顔になり。「時代が変わり、武士もかわった。私も藩の役職を解かれ今は浪人と変わらぬ。」と寂しげに答えると。

「私は誰も恨んではおりません、恨めば自分が堪えるだけです。 私は兄さんを慕っておりました。でも、今となってはそれも夢物語の一説です。」と柿木に目を移した。正造は志野の強さに改めて感じると、現世を憎み、蔑んでいる自分が哀れに思え。「これから志野は何を目指す」と俯き言うと「正造兄様、私は時世の中に生まれました、此れからの世をみとうございます。私の様な者も役に立てる事が出来ると思っております。」正造はこの先を考えている志野に強い意志を感じて「志野なら大丈夫」と答えていた。

志野は正造の意図が分からず「兄様、今日は何用で」と聞くと「何もない、ただ志野の顔を見に来た。元気で良かった」と言うと有賀殿に宜しくと言い辞去し、正造は志野との復縁を願っていたかもしれないがしかし今の自分には志野を支える事は出来ないと思い今の世に蔑まれている自分に無性に腹が立っていた。正造は改めて志野を愛らしいと思い始めていた。

学舎の窓から綿菓子の様な雲が空色の中に流れ心地良い風が志野の顔にあたっていた。教室の隅々まで届く秀治の声が教室に溢れ、皆その声を真剣に聞き。ただ、志野だけは雲の流れる様子を眺め自分の世界に入り込んでいる様子に秀治は声を掛けた。「志野、何を見ている。今は雲を見ている時ではない。」と一喝した。

一瞬体が反応し志野は我に返った。既に秀治は志野の机の前に立って、「時を無駄にしてはだめだ、一瞬を大事にしない者から良い感性は生まれない。そなたは文学を学びたいのであろう。 其れなら一瞬を大事にすることだ。今は集中する時ぞ」 と窘めた。

志野は秀治の言葉に「その言葉先生にお返しします」と強い口調で返答すると。

秀治の眼が吊り上るのを感じていたが、志野は微動だにせずにその眼を見据えた。

「お返しするだと、この授業が無駄と申すか。」と手が震えだし「我に対しての冒涜として受け取って良いと言うのだな」と更に大声を出した。

廻りの生徒の視線は皆志野に集中し温厚な先生として慕われ、この様な怒りを露わにする秀治を見たことが無く、志野には皆の神経が自分に注がれている事に半ば当惑し(なぜ、こんな事を言ったのだろう。ただ、謝れば済んだ事なのに。志野の頭の中では後悔が渦を巻いていた。然し、言った言葉は嘘ではないと自分に説いた)

秀治は相変わらず鬼のような険相を志野へ向けていた。

「先生いま一瞬を大事にしない者から感性は生まれないと申されました。私は一瞬も無駄にしておりません。感性とは眼に映る全ての物から感じ取る事だと解釈しております。其れは自然界、人間界、その他万物の全てから得られるものです。外では夏空が広がり、雲の流れ、風の流れを肌で感じて心を平穏に保ち、中から出てくる歌を私は考えておりました。先生の授業を謗るような事は考えもつかぬこと。」 志野は一呼吸置くと一心腐乱に続けた。

「授業を聞かぬことは謝ります。しかし、一瞬を大事にしないとの言葉に心痛な思いになりました」と言うと少し涙目になり「志野は先生に心酔しております」と言うと、周りから「わー」と言う声が聞こえた。

秀治は騒ぐ皆を制止すると考え込んだ様子で、「では、どんな歌が生まれたのか述べよ」と言い、志野は涙を拭き深呼吸をすると「綿雲が流れる空に響く師の声に、心奥に秘める志を見る」と歌い、そして、先生は先ほどこう述べました。

「歌は心の奥底から生まれる、常に心に慧眼を持ちなさいと」

「志野は私の話を聞いていたのか。」 秀治は驚いた。

「先生は私の師でございます、聞かぬはずがございません。然し空の綿雲を見ている内に歌が湧き上がって来ました。」と照れ臭そうに空を見上げた。

秀治は志野の才能に敬服するとともに、さらなる可能性を見出した時でもあった。


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