肉食な深窓令嬢とチキンな暴君~私、お妃選考からどうにか逃げます~6

「娘とぉ~、一夜を~……一つのベッドを共にしたですとぅおおおぉ~? この世の果てまで追い詰めて樽詰めにして深海に沈めてやろうと思っていたろくでなしデックの他に、あなた様も我が娘を我が物にしたですとぅおおお~~~~?」


 その手の素養がないはずなのに今にも呪いの黒魔術でも放ちそうに薄暗い顔付きの男爵は、まだディランへと仄暗くも高圧な眼差しを送っている。

 ミサは自国の王太子の身に穴が開かないかとちょっと冗談みたいな心配をした。しかもデックの事をそんな風に思っていたとは知らなかった。

 これは王宮陰謀劇以前にガチで国を巻き込んだ舅と婿のバトルが勃発するかもしれない。

 ミサにはまだディランとの真実を告げる気はなかったというのに、彼の不用意な発言が彼女の男爵への思いやりを台無しにしてしまった。


(気を抜いていた私も悪いけど、どうしたって配慮なく口走ったディラン殿下サマサマには腹が立つわ。この馬鹿殿下ッ、お父様がショックで昇天しちゃったらどう責任取ってくれるのよ。そりゃあいつかは天国でお母様に会わせてあげたいって思ってはいたけど、まだまだ全然早いでしょ。お父様も死ぬなら孫の顔と立派な成長を見届けてからにして)


 心の中が罵りと勝手な父親死亡フラグへの嘆きで忙しいミサがどう言い訳をしようかあたふたする前で、ディランが男爵へと身を乗り出した。


「義父上安心しろ。生涯を懸けて俺はミスティリアと腹の子を護り抜くと誓う。血腥い王宮陰謀劇になど巻き込まない。それにその通りだ、彼女とはもう既成事実があるし、――腹の子の父親は紛れもなくこの俺だ。誰より俺が責任を取るべきなんだ」


 堂々として臆面もなく恥ずかしげもなく、また悪気もなくディランが更なる真実を告げる。

 サニー男爵が怪訝にした。


「な、にを仰っているのですか? ミサの腹の子はデックという行商人の腐れ外道の馬の骨ですが?」

「……。そ、その腐れ外ど、いやいやその行商人デックは俺の秘密裏の視察の際の身分なんだ」

「な、んですと……?」


 娘夫婦のイチャコラを見たくないと常々思っていて見なくて済みそうだと安心していた男爵が、まるでこの世の終わりのような顔になった。彼にもし強大な魔力があれば確実に絶望で世界を崩壊させていただろう。


「……殿下の御言葉は本当なのか、ミサ?」


 男爵のか細い声が、何をしでかすかわからない人間特有の危うさを孕んで聞く者の不安を掻き立てる。


「ええと、残念ながら本当です」

「残念!?」


 ディランがどんよりとして項垂れた。

 男爵は事実の確定に更に顔色を悪くしている。

 二体のゾンビと無言の座談会をしている心地のミサは頬をヒク付かせつつ、面倒臭い男達を置いてさっさと馬車を降りたいと本気で思った。でなければとっとと出ていけと蹴っ飛ばしてやりたかった。


(ああもうどこまでも辛気臭いわねっ。胎教に良くないしっ)


「お父様、どうかそう悲嘆しないで下さい。この子は男でも女でも絶対美人ですから!」

「いやそう言う事を懸念しているわけではなく……」

「誰の子供であれ、私の子供でありお父様の孫であるのは揺るぎませんし、そんな怒った顔をしないで下さいお父様」


 ディランもはたと我を取り戻して背筋を伸ばすと男爵を正面に見据える。


「義父上、俺はミスティリアと腹の子を生涯護り抜くつもりだ。どうか怒らず俺を認めてほしい」

「殿下、それは……ありがたきお言葉ですが、その……あくまでも私は娘の意思を尊重します故、私を懐柔しようとなさっても娘との関係の好転や進展は期待なさらないで頂きたい」


 男爵は後々の曖昧さ或いは足枷になってはいけないと、ピシャリとしてハッキリ意思表明を試みた。最悪ディランの不興を買うかもしれなくとも一人の娘の父親として決して避けてはならない一線があるのだ。


「はははっ、奇遇にも義父上の信念は俺にも通じるところが多々あるな。俺も義父上の立場ならそう考えるだろう。好きな女のハートは己で勝ち取れってな。そうだろう?」


 果たしてディランはあっさり同意できると頷いた。


「あ、左様ですねー」


 貴様のような男に娘はやらーん!な頑固な護りを披露してでもミサを嫁がせないつもりだった男爵は肩透かしに間抜けた相槌を打った。


「まあ、殿下が子供の父親なのはどうやら事実のようですし、そこだけは、その一点においてのみは認めましょう。しかしそれと婚姻はまた別ですぞ」

「ははは、わかっているって。だが俺は諦めないからな。それに懐柔するというよりは、やはり嫁の父親には正式に婿に相応しいと認めてもらって家族になりたい。そこは義父上に承諾してもらえるよう努力を続けるさ。……ただ、反対されたままなら、俺はミスティリアを連れ帰られないよう義父上から隠してしまうかもしれないが」

「「えっ」」


 からからとして監禁も辞さないと示唆するディランにサニー父子は震えた。

 ミサに至っては本当にヤバイのに目をというか手を付けられてしまった……いや、手を付けてしまったようだと、改めてひしひしと無計画な若気の至りが招いた引き返せない人生というものを感じていた。


(ううっ、これはもう子供のためにも無駄な足掻きはやめて王太子妃になるのが無難?)


 ミサは自問自答する。王太子妃などという大舞台の大役が務まるのか、いや務められる胆力があるのか。それは本当にミサである必要があるのか。我慢してこなす必要があるのか。

 ミサの願いは国を拡げるとか高い地位を得るとか巨万の富を築くなどという大それたものではない。どこにでもある家族の平穏だ。

 しかし「どこにでもある」が誰にでも当てはまるわけではない。

 しかも、今のところは王宮を掌握しているとは言えディランには敵が多い。

 一部は恐怖政治にも似た強硬な進め方をする彼とその一派を心の中では苦々しく思っている者達は確かにいるのだ。

 実際にミサの父親もざっくり分ければ敵側に入る。

 将来反逆なり革命が起きディランの傍らが危険地帯になる可能性は否定できない。


(そりゃあ長く一緒にいれば情が湧くかもしれないけど)


 愛する人とならどんな困難も乗り越えられる……なんてのは理想論だとミサは思っている。

 ミサの両親のように最愛と言えど秘密を乗り越えられない時もある。

 それでも二人はありきたりだが死が二人を分かつまでお互いに愛し合い幸せだったとミサは信じられる。そんな形もある。


(って、そもそもディラン殿下が私にとっての最愛の人になるかしら……?)


 彼の顔と体は頗る好きだ。声だって。少ししかまだ知らないが性格的な部分だって。彼は怖い男のくせにミサには勇敢で優しくひた向きだ。

 そう思うと怖くないのがとても不思議だった。


「ミスティリア、俺は俺の持つもの全てを用いてお前を誘惑してやるからな。この顔も体も地位も財も権力も、今までは退屈で無価値にもどこか感じていたそれらの全ては、お前と共に歩むために俺のこの手にあるんだと思えるんだ」

「殿下……」


(ううう、愛が重いっ……!)


 内心では嘆くミサが感激したとでも受け取ったのか、ディランは少し困った風に微笑んだ。そしてミサの手を握り指を絡めた。

 彼はミサを慈しむ柔らかな表情を浮かべている。

 ミサは純粋にドキリとしてディランを見つめ返した。

 氷下に置かれた能面のような顔で人を殺す日もあるのだろうこの男にもこんな幸福の体現者みたいな顔ができるのかと思えば、一体どんな表情筋をしているのかなんて気になって、気付けば指先を彼の頬に滑らせていた。


「ミ、ミスティリア……?」


 予期せぬ接触にドギマギとなるディランへと、ミサはじっと探るような眼差しを差し向ける。


「フィ、フィスフィリア……?」

「ミ、ミサ……?」

「へ? あっ、申し訳ございませんっ!」


 ついつい本人ではなく誰かが変装したディランでは、と無意識にぐいぐいと彼の頬を横に引っ張っていたのを慌てて放す。

 幸いディランは怒ったりはせず目を白黒とさせていた。ミサは恐縮して握っていた手を密かにぎゅっと更に握りしめる。


(私には誰よりもあなたで正解って思う日が来るかもしれない。来ないかもしれないけど)


 国外へは簡単には逃げられなくなったこのなし崩しな状況を案外ミサは悲嘆していなかった。むしろ国の中枢へのベクトルが生じるくらいには興味津々になれる男ができてしまった。


(まずは子供のため、じゃなくて私自身のために、彼を知ろう。そのための第一歩は、やっぱり王宮魔法騎士だわ)


「ディラン殿下、私――」


 決意のミサが顔を上げたその時だ。


 ガタンと馬車が大きく揺れた。


「きゃあっ」

「くっ」

「ぬおっ」


 御者が「申し訳ありませんっ予期せぬ段差がっ」と声高に謝罪するのを耳に、サニー男爵は馬車の座席で跳ねて打った尻を擦りながら向かいの席を案じて目を上げる。


「ミサ大丈夫、かあああああ!?」


 男爵は両手を頬に当て絶叫した。

 彼の目の前では何と娘と王太子が口を合わせているではないか。馬車が弾んだ拍子にミサがディランに乗り上がってそのまま……という具合だった。

 完全なる事故チューだ。

 ディランへの殺意を胸にする男爵は、偶然の重なりなので二人は慌てて離れるものと思っていた。


 しかし、しかしだ。


 若い二人は、男爵の前で想定外にも二人の世界に突入しようとしていた。





 馬車が揺れ、ディランが咄嗟に抱き寄せてくれたのはわかった。少しは衝撃を感じたが彼の体がクッションになってくれたおかげでミサに大事はなかった。

 ただ、思わず体を強ばらせて目を瞑ってしまい気が付いたら唇に何やら柔らかいものを感じた。温かくもあり、何だろうとそろりと目を開けたらディランの唇だったというわけだ。

 ディランにキスをしていたというわけだ。

 ミサは思い切り赤面した。

 それは相手も同じだった。

 慌てて離れようとするも、何故か甘い気持ちが広がって体が動かなかった。

 もっと、もう少し、あと少しだけこうしていたい。

 ミサもディランもどちらからともなく再び目を閉じ互いに求め合う――……


「アウトだそれはーーーーっ! さっさと離れんかっっ!」


 烈火の如く怒り出した男爵から事故じゃないチューは阻止された。

 とは言え、娘を向かいの不埒男から奪還せんと伸ばされた男爵の手をディランは払いのけた。男爵が「貴様小癪な!」とか言い出しそうな悪役紛いな歪めた顔になる。いいのか婿ポイント。

 一方、今は婿ポイントは気にしないらしいディランはミサを自分の隣から放さなかったのでミサは男爵と依然向かい合う位置にいた。そんな彼女は暫くの間は羞恥のあまり膝の上で両手を握って下を向き、父親の顔をまともに見れないという苦行の時を過ごしたのだった。


(私ってば信じられない信じられない信じられない~っ。よりにもよってお父様の目の前でやらかすなんて~っ)


「次は義父上のいない時に、な」

「――!?」


 最早そんなつもりはなかったと否定しても取り繕っても遅いだろう。耳元に口を寄せて声を低めたディランは男爵の手前行儀良くしたが、手はまた繋いできた。

 しかもこの上なく嬉しそうに蕩けるような笑みを浮かべていて、ミサはくらくらして倒れるかと思った。

 一分一秒毎にこのディラン・ルクスという男に嵌まっていく。

 加速度を伴って。どんどん、どんどん。


「ああそうだ、馬車が揺れる前ミスティリアは何を言いかけたんだ?」

「え? ああ、私はやっぱり王宮魔法騎士になりたいと思いまして、直談判しようかと」

「半魔の、魔法の力を公表するのには乗り気じゃなかったんだろう? どうして考えを変えたんだ?」

「それは……」


 まさかディランを知りたくてとは言えない。妃候補視点では客観的にはわからない部分もあるに違いなく、だからこそ傍に仕えても不自然ではなく恋愛事とは一線を画する王宮魔法騎士なのだ。


「て、敵を知るには近くで見極めないとと思いまして。将来的にこの子の害になりそうな相手を事前に把握しておいた方が、いざという時に対策を練れますから」

「なるほど、それは賢明だな。貴族達の思惑は未だに読めないところがある。まあ拷問でもして吐かせてもいいんだが」

「あ、はは……そこは諜報活動で探った方が国家としての損失は少ないかと。例えば私の音を拾う能力などで」


 血の嵐が吹き荒れるのは勘弁だ。そういうのはやはり胎教に悪い。


(全く、この子まであなたみたいなサイコになったらどうするのよ!)


「……確かにお前の能力は魅力的だ。だが俺はお前をそのために傍におくつもりはない。危険な目には遭わせない」

「それは、私の魔法騎士は認めないという意味ですか?」

「そんなになりたいのか?」

「私はただ……、これは仮の話ですけど、もしも妃になったとして、王宮に、あなたに護られるだけの存在にはなりたくないんです。身分はともかく、パートナーとは心だけは対等でいたいとそう思います。叶うならあなたと同じ舞台で国のために働きたいんです」

「ミスティリア……」


 ここでミサはぎゅっとディランの手を握り返した。強く痛むくらいに。微かにディランの顔が困惑と硬さを滲ませる。


「…………閉じ込められるだけの妃なら私には務まりません。土台無理です。死んでも逃げます。そこを忘れないで下さい」

「え」


 ミサから据わった眼差しで見上げられてディランは完全に固まった。

 向かいでは男爵がごほごほと噎せる。彼はたらりと汗を額に浮かべつつ信じられないものを見るような見開いた両目を娘から逸らせないでいる。


「そ、そのブラック化、アリエルそっくり……っ」


 男爵は亡き最愛の妻にそんなところまで似たのか、と感慨深くも思っていた。


「わ、わかった、よ、よく考えてみる」


 男爵はディランに少しの同情と共感を覚えた。あの頃の自分も目の前のディランとほとんど同じ反応しかできなかったのだ。ミサやアリエルのこの肝の据わった豹変が半魔の血によるのかはたまた単に性格的なものなのかは男爵にもわからない。

 だが、逆らえない怖さがある。惚れた弱みと言ってしまえばそれまでだが。


「ああですが、魔法騎士になっても何の憂いもなく街中で顔を晒して歩けないなんて嫌ですし、顔を隠すのは許可して頂きたいですね」


 こうやって最早決定事項のように話している強さも亡き妻とそっくりだと男爵は涙ぐんだ。


「そもそものところ、私の顔は王宮の人達にはあの肖像画の通りだと思われているはずですよね。このまま素顔で参上して王宮を欺いたって非難されたら目も当てられません。そんな女は王太子妃不適格だと早々に後ろ指を指される事でしょう。ですから、舞踏会の時のように仮面を被ろうと思うのですが、そこはどうでしょう」


 尤もな意見にディランは重々しく頷いた。


「それは一理あるな。よしそうしよう。どこか途中で買って行こう。……これならミスティリアに変な虫が寄ってくる心配もない」


 最後の台詞はほくそ笑みながら一人口の中で呟くディランは、彼女を非難する者がいれば容赦はしない腹積もりだ。周囲もそれをわかっているだろうから愚かに非難はしないだろう。

 加えて、ミスティリア・サニー男爵令嬢には非難する気も起きない大きな功績がある。

 若くして数々の軍功を立てた父親にも劣らない輝かしい手柄が。

 まだ彼女と父親は知らないだろうが、王宮に到着次第知る事になるだろう。

 そんなこんなで途中ミサの仮面を買い、三人の思惑を乗せた馬車は石畳の道を走って王都へと到着したのだった。





「えっと何だか道の両側の見物客が凄いですよね……。子供が手を振ってくれてたりしますし、花びら撒いてくれてる人もいますし、さすがは王太子殿下の馬車ですね」


 王都の大通りの歩道を埋め尽くす人の多さに、念のためもう仮面を装着済みのミサがどこか嬉しい気分で驚くと、ディランはふっと笑んだ。


「いつもは俺でもこんなにはならないな」

「へ? そうなんですか? あ、もしや他にも何かイベントが?」

「いや、ない」

「今日って記念日か何かでしたっけ?」

「いや、普通の日だな」


 ミサは首を傾げた。

 何もない日に王都の人々はこんなにもはしゃいで誰かの馬車を歓迎するのだろうか。


「でしたら、きっと先日のグラニス撃退で殿下の人気が駄々上がっているんですね」

「はは、俺も評価はされたようだが、そもそもこれの原因は俺じゃないんだよ。民達が歓迎しているのは別の人物だ」

「へえ、そうなんですか。この後にどなたか重要な方が通る予定なんですね」


 ミサの言葉に何故だかディランは悪戯を仕掛けた子供のように可笑しそうにしただけで明確な答えはくれなかった。


「ディラン殿下、もしやあなたは……」


 先程から一人無言で窓の外を注意深そうに眺めていたサニー男爵は早々に何かを察したようだ。気分が悪くなったのか外が見えないように全てのカーテンを引いた彼は深刻な面持ちを隠さない。ディランを怨めしそうに暫しジッと見つめた。


「お父様、この賑わいに何か心配事が?」

「ミサはまだ気付かない……いや、じきにお前にもわかるだろう」

「ええ?」

「殿下、一つ確認したいのですが、娘の魔法力はちゃんと伏せてありますな?」

「当然だ。今は余計な目から身重の彼女を護るためにも、明かすのは得策とは言えないからな」

「え、私に関係するんですか? 一体何事です?」

「ミサよ、じきにわかる」

「そうそう、王宮に付けばな」

「むー……」


 珍しくも教えてくれないのにミサが訝りながらも拗ねていると、横のディランがカーテンを少し捲って窓の外を見て「そろそろ王宮に着くな」と上機嫌に呟いた。

 もうっとミサは一人だけ蚊帳の外な気分で憤慨した。


 今日の王宮前広場には街路以上に王都民が詰め寄せていた。ミサ達を乗せた王太子の馬車が到着するや人々の熱狂染みた歓声はいやが上にも高まった。

 ディランの促しによりサニー男爵が初めに馬車を降りる。

 次に王太子ディランが。

 最後がミサだ。正直彼女は外からの歓声に少し気圧されていた。


「ミスティリア、手を」

「ありがとうございます」

 

 外にいるディランから差し出された手に手を添えてミサはゆっくりと馬車の扉口を潜る。

 その瞬間、ワッと言うよりはドッと歓声が大きくなった。


「え、何事……」


 短いタラップを下り石畳に爪先を着いて顔を上げれば、目の前の大観衆は紛れもなくミサを見ていた。最初ミサのどこかの土着の部族的な仮面には驚いたようだが、王都までの途中の土産物屋には変な仮面しかなく一番マシなのがこれだったのだから仕方がない。

 それはともかく仮面の英雄だなどと最前列の何人かが声を上げたのが聞こえて、ミサは仮面の奥の疑問の目をディランへと向けた。


「仮面の英雄……英雄って、まさかこれは私の事ですか?」

「ああ、そうだ。グラニスの姑息な奇襲作戦を見事我が国に一人の犠牲なく撃退できたのは、全て極秘裏に国のために動いてくれていたサニー男爵と、そしてその娘のミスティリア・サニー嬢が事前に敵の動きを察知してくれたおかげだと、そう皆には言ってある」

「なっ何ですかそれ!?」


 事実とは半分以上が異なる。

 極秘裏には行動していたが、国のためにサニー家が動いていたというくだりなど真っ赤な嘘だ。

 ディランは我が事のように誇らしげに胸を張っている。見ればサニー男爵は頭痛持ちのように額に手を押し当てている。してやられたと苦々しく思っているのだ。

 望まずも、王太子妃候補の父親として株を上げられてしまったせいだ。

 更には、ミスティリア・サニーの名はゼニス国内に周知された。今や時の人、有名人。こうなるとそうそう簡単には妃候補から抜けられない、難易度めちゃ上がったわーと男爵は悟って嘆いていた。


 呆然と立つミサへの人々からの称賛は止む気配がない。


 おそらくは最終選考に残った令嬢の関係者だろう貴族達の姿もある。無論令嬢本人達の姿も。

 選考そのものがなくなるのだとはまだ知らない彼らは、ほとんど皆対抗心を剥き出して悔しげな面持ちでいた。


 時に、妃は容姿ではない。あのキテレツな肖像画を見ていても利権のためならとミサを指示する勢力は出てくるだろう。

 この先は本当の本当に厄介事が増えそうだと男爵は愛娘へと向けていた潤みそうになる目元を手でそっと覆った。


(急にそっぽを向いちゃって、お父様ってばどうしたのかしら)


 ミサは声を掛けようか迷ったが、その前にディランを問い詰めたいと後にした。ちょっと殿下こちらにと馬車に寄ってもらって周りに聞こえないように声を潜める。

 歓声が煩いので必然的に彼に顔を寄せる格好になったが仕方がない。

 仮面を着けているとは言え、それが周囲からどう見えるかまでを彼女は失念していたが。


「殿下、私を英雄になんて担ぎ上げてどうするつもりです?」

「担ぎ上げたつもりはない。俺は他者の功績を自分のものにする悪趣味はないからな。だから真実を真実として皆に伝えた、それだけだ。ま、多少の脚色はしたが」

「多少でもないですし、その脚色自体が問題です! 私が気付けたのは偶然ですよ。気になってたまたま聞き耳を立てたから気付けただけです。それを何ですか、軍の極秘任務みたいな言い様は」

「ああそれな、軍と絡めたのは義父上のためでもある。担当方面とは全く異なる地域に大物軍人が予告なく滞在していたとなれば、要らない非難を浴びかねない。それが旅行だろうとな」

「な……、そうなんですか?」


 その可能性を考えた事のなかったミサは動揺を浮かべる。指摘をもらって感謝だ。しかし父親はミサとは違いその危険性を知っていただろう。何しろ彼は現役軍人だ。思い至らないわけがない。

 それでも娘のために共に来てくれたのだ。

 どうせ亡命するから関係ねえっと思っていたのかもしれないが。


「それなら、まあ、致し方ないですね。わかりました、極秘任務とそのようにしておきましょう。ですが、私の方は偶然です!」

「運も実力のうち、だ」


 納得行かない気持ちでいると、ディランがミサの背に手を当てる。何だろうと疑問を抱くと同時にあっという間に両腕に抱え上げられた。


「え? 何ですかちょっと? ひゃっ!?」


 しかも状況把握も儘ならないうちに彼の破格な跳躍で広場を見渡せるバルコニーにまで運ばれる。

 瞳を赤くしたディランはミサの仮面越しに、おでこの辺りに軽くキスすると観衆を見下ろした。ミサは固まるばかり。

 観衆はディランの仮面ちゅーに驚き表情は様々だ。直前に馬車の傍で顔を寄せ合う親密な光景もあったので尚更に二人の関係の怪しさ濃厚だ。

 ディランはついと眼下へと目を向ける。想像もしていなかっただろう展開にあんぐりと口を開けたサニー男爵へと一度視線をやってから、ミサの肩に手を回して並んで一歩前に出るとふふんと得意気に微笑した。


「待たせたな! 此度のグラニスへの大勝利の功労者を改めて皆には紹介しよう。ミスティリア・サニー嬢だ。仮面なのは彼女は極度の恥ずかしがり屋だからだな。此度の件も表舞台に出るのを渋っていたが、俺がこうして強引に連れてきた。故に余計なプレッシャーは与えないでもらいたい」


 恥ずかしがり屋という言葉には、例の肖像画を見た事のある者やその話を聞いていた者達はさもあらんと頷こうとして止め、こほんと咳をして誤魔化した。サニー嬢が不細工だなどと認めるような言動はディランから殺されかねない。加えて、余計なプレッシャーを与えるなと彼女に近寄るな宣言とも取れる台詞で釘を刺された。

 これは王太子はサニー嬢へ特別な思い入れがあると公言したも同じだった。戸惑いの空気が漂った。


「さあ皆の者、敵に矢を射られあわやという危険に身を置いてまで国を救ったこの勇敢な令嬢に盛大なる拍手を!」


 王太子の口から矢を射られとの新たな証言を耳にした観衆は一瞬息を呑んで静まったが、直後王宮広場は今し方の戸惑いなど吹き飛ばして興奮と熱狂に包まれた。

 暫くはミスティリア・サニーを称える言葉が飛び交った。

 バルコニーの上で「また盛った……」と呆然と突っ立つミサは足元に目を落とし低く呟く。


「こんなはずじゃなかったのに……」


 亡命計画など立てて国境の町になど行かなければ、この状況はなかったはずだ。


(ううん、でも後悔はない。私が知らせなかったらあの町の人達は酷い目に遭っていたかもしれないんだもの。むしろディラン殿下に会えて迅速に対処してもらえたからこそ、皆の笑顔があるんだわ)


 そうは言えども妃は嫌だという気持ちはなくなったわけではない。勢いよく横入りしてきたディランへの好意とが押し合い圧し合いしている状態だ。

 ミサが渋い気持ちで佇んでいると、ディランはすうと息を吸い込んだ。


「この場を借りて皆には知らせておきたい事もある。俺の妃選考についてだ。色々と俺なりに考えて答えを出した。王妃陛下の承諾も既に得てある」


 彼の意味深な語り出しには、今度こそ観衆は聞き耳を立てて静まり返った。胸を張るディランは声も張る。


「――王太子妃選考は、本日を以て取り止めとする!!」


 集合を掛けられていた貴族達はショックで顔面蒼白に。広場は様々な意見が飛び交って騒然となった。

 それでは以上だ、と会見終了宣言をしたディランはまたもやミサを抱いて跳んでサニー男爵の元に戻った。

 後にも先にも王太子がそんな優しい真似をしたのはミサ以外に知らない貴族達は愕然としてとある確信を胸にする。

 他方、ならばお妃選びはどうするのだと口にする観衆の中には察し良くもちらっとミサへと視線を向けてくる者がちらほら。


「うう、今すぐおうちに帰りたい」


 ミサは一人疲れた心地で呟いた。

 まだ気持ちが追い付かない男爵は、急に老けたように弱々しい笑みを浮かべていた。

 親子二人はその日は王宮で開かれたミサ達のための戦勝祝賀パーティーに出させられ大波小波と押し寄せる者達から賛辞を受け取り、翌日疲労困憊のためぐったりして領地に戻った。疲れているならもっと泊まっていくといいとディランから提案されたが、そこは強くお断りした。大した理由もなく何泊もしていたら冗談抜きに妃筆頭と見られかねないし、悪くすれば王宮に閉じ込められかねない。

 言うまでもなくディランはとても切なそうにしていた……が、何故か直々にサニー家の馬車を見送ってくれた彼は不気味にもにこやかに手を振っていた。


(な、何だろう、物凄く不安を感じるんだけど)


 ミサのその予感はややあって的中する事になる。






 ミスティリア・サニーの名は王太子と共にグラニスの奇襲作戦を阻止した功労者として世に広まった。

 さすがは軍務に長けたサニー男爵の娘だと称賛もされた。彼女としては父親の評価が上がるのは素直に喜べた。


 それともう一つ、彼女の名が有名になった理由がある。


 王太子妃選考はディランの言葉通り無かった事になったのだが、しかし何と彼の――婚約者が決まったのだ。


 奇襲阻止云々がなければ、世間もあっと驚くはずだった人選だ。


 ミスティリア・サニー男爵令嬢。


 ミサが婚約者になった。


 彼女は妃選考の舞踏会で一躍顔を知られた令嬢だとも言われている。何せあの印象深過ぎる肖像画だ。

 今や社交界では、未来の王太子妃は素敵な程に勇敢だが、あの肖像画の顔なのか……との残念感がどうしても拭えないまま、その話題で持ち切りだ。


「はあああ~~~~……」


 陽が燦々と射し込むサニー男爵家の寛ぎルームに大きな大きな溜息が落ちた。部屋の明るさが少し翳ったような陰気さだ。


「功労者はともかく、婚約者だなんて、こ・ん・や・くだなんて……っ、ホント頭の良い男ね、ディラン・ルクス! 何度考えても腹が立つ~っ」


 ミサの詰めが甘かったとしか言えない。

 妃にはならない、つまり結婚はしないとは表明していたが、婚約については言及していなかったのが心底悔やまれる。


 今回のグラニス国との件でサニー男爵にも王都への召集が掛かるとディランが言っていた通り、男爵はミサと領地に戻ってすぐにまた王都へと赴かなければならなかった。

 その主だった重鎮達の揃った王宮会議の場で、国情安定のための一つとしてディランの婚約者を決めておきたいと提案されたサニー男爵は、自分がまさにディランから嵌められたのだと悟るも時既に遅し。

 適任はミサだと誰もが口を揃えた。

 勿論ディランは快諾の意思を見せた。

 大っぴらに拒絶すれば国に反意あるとも見なされかねないので拒めず、婚約ならばと苦渋の決断として承諾したという経緯だった。

 煮え湯を飲まされたも同然のサニー男爵のディランへの婿ポイントは、言うまでもなくマイナス値新記録を更新だ。舅婿内紛が勃発する日も近いかもしれなかった。

 王太子の婚約は瞬く間にゼニス国内全土へと報じられた。絶対に大々的にそうしろと事前命令が出ていたに違いなかった。


「す、済まない。本当に済まないミサ……。私がもっと機転の利く父親だったなら、何か理由をつけて取り下げさせる道もあったに違いない」

「お父様は悪くないわよ。悪いのはあの男でしょ」


 王都から戻って数日、ミサの向かいで面目ないと小さく纏まる男爵はまるで覇気がない。戻ってきてからずっとそうだ。いつもなら張り切ってする男爵家の騎士達との鍛練にもここのところは参加していなかった。たぶんミサが指先で押しただけで椅子から転げ落ちるだろう。


「お父様、そう落ち込まないで下さい。普通は結婚しないと伝えたなら婚約だってしないと思うものです。あの男に常識を求めた私が馬鹿だったんです。それにまだ婚約者になってしまっただけです。単なる肩書きです。私はこれ以上を無条件に進めてやるつもりはありません」

「ミサ、何か婚約を取り止める妙案が?」

「現状では取り止められるかはわかりませんが、それでもただで私とこの子をくれてやる気は毛頭ありません」


 憐れにも少し窶れた男爵は心配そうに娘を見つめる。


「お父様、レッツ引き籠り、です」

「へ?」

「私はこれから屋敷に籠って王宮の誰とも会いません。ただ、もしも外でお父様の身に危険が迫ったら、容赦なく相手を叩きのめして今度こそこの国から出奔にはなりますけどね」

「それは構わないが、ミサの気がそれで済むのなら喜んで従おう」

「ふふっ、ありがとうお父様。ですから、もう安心して鍛練なさつて下さいね。もしもの有事の際には是非とも私を護ってくれなくては困りますし」

「ああ、ああ、そうだな! よし、早速この父は鍛練してくるぞおおおっ!」

「その意気です」


 男爵はすっくと椅子から立ち上がって寛ぎルームを駆け出して行く。ミサは笑顔で見送った。


「良かった元気になってくれて。もうね、本当にとんでもないんだからディラン殿下は。……でもまあ、人間何事も気持ちからなのかも」


 たとえそれが望まぬ婚約だろうとも。


「私に一言も相談しなかったのは激しく減点だわ。ふん、あの男ってば精々大慌てするといいのよ」


 その日以来、彼女は言葉通り屋敷から出なくなった。

 庭先に出て散歩はするがそれだけで、来訪者の誰にも会おうとしなかった。

 つまりは、婚約を公表したからと言って父親が承諾したからと言って何だと言うのだと王宮からの使者一切を追い返し続けた。

 ディランに頼まれてやって来た側近ライオネルでさえも退けられる始末だった。

 申し訳ないと謝罪するサニー男爵は最初から娘の味方なので頼みにはならない。

 このままでは婚約式も行えず、それどころか領地に断固引き籠ったミサの顔さえ見れない。


 彼女の目論見通り、大いに焦ったのはディランだ。


 最悪婚約破棄もあり得るからだ。

 ミサはたとえ婚約破棄しても処刑はされないとわかっているのだ。何しろ彼女のお腹にはディランの子供がいる。

 無理に連れ出そうとしても成功するかは正直微妙でもある。サニー家の軍事力は侮れないのだ。男爵は娘を全力で護るだろう。


 我慢できずにディランが一人お忍びでサニー家に会いに行っても、ミサに魔法能力で察知されてここぞとばかりに出てきた騎士や使用人、果ては男爵にまで追い返されてしまっている。少しの隙もない。


 ミサに一目だけでも会いたい、しかし叶わない。


 恋にチキンな彼はとうとう側近のライオネルに泣き付い……助言を求めた。ライオネルは既婚者だからだ。


 しかも側近の彼はディランがミサとゴタゴタしている期間にさっさと幼馴染みと結婚したという、公私は決して混同しない無神経いやいや真面目な男だったりする。


 そんなライオネルはディランへと、ミサの要望を聞いてはどうかと提案した。


 彼は一度サニー家を訪問した折に、男爵家の者達のディランの強引さに対する悪感情を感じ取っていた。確かに一方的な婚約など横暴以外の何物でもない。嫌われて当然だ。しかれども、我が身が大事なのでディランには今になるまでついぞそこを言わなかったライオネルだ。と言うか自分で気付けと言いたい。まあそれができないからこそ次期暴君などと言われているのだが。


 ともかくそうして、ついにディランとミサとの話し合いが行われた。


 その話し合いから一週間、サニー男爵領に暮らすミサの身の上にはとりあえずの平穏が過ぎていた。


 そうは言っても胸中は暴風警報発令中の彼女は、現在はディランからの魔法騎士任命の連絡待ちという状態でもある。


 そう、ミサは王宮魔法騎士になる予定なのだ。


 ライオネル助言による二人の話し合いで、それがディランとの婚約の交換条件とした。


 婚約するなら王宮魔法騎士任命書をくれ、と。


 しかも、ミスティリア・サニー男爵令嬢としてではなく、謎の女魔法騎士として王宮勤めをする手筈だ。


 色々と考えてみた結果、ミスティリア・サニーが半魔だとは公にはしない方が安心だろうとの結論を出した。

 別人であれば何ら影響はないに違いないと。

 婚約を受け入れた以上、婚約式もするし婚約者としてパーティーにも出る必要が出てくる。

 娘と王家の馬の骨のイチャイチャを見る羽目になるとサニー男爵は予想外な展開に絶望したが、これも娘本人の決めた事、と衝動的に内乱を起こすのだけは堪えたようだった。


「はああ、でもこれじゃ社交界の集まりに出る時はいちいち仮面付けないといけないし、すごく窮屈で面倒だわ。でも仮面なしなんてリスクは冒せないし、はああ~」


 ミサの真実の顔が明らかになれば、国を挙げての妃選考会で偽りを弄したと非難されるのは必至だと彼女は懸念している。そうなればディランが黙らせるので実は心配要らないのだが、そこまでは彼女も知らないし、思いもしないのだ。

 あと、国境警備の兵士達に顔を見られたのは、どうやらディランが手を回したらしくさらりと大丈夫だと言われた。あとこうも。


『一部の者は記憶を消させたし、俺の許可なく口外した場合には死ぬように魔法で誓約させた』


 物凄く背筋にきたミサだった。やはり怖い男だと再認識した。


 それはそれとして、今日も日の当たる寛ぎルームで紅茶に一口も口を付けず悔し涙を滲ませるミサは、心底憎たらしい男ディラン・ルクスの顔を思い浮かべる。

 艶やかな黒髪、煌めく鋭くも甘い金瞳、囁かれるとぞくぞくくる美声。ミサを求める熱い唇、その他顔以外も思い浮かべて……。


「――はあぁんっ、……って何でこうなのよ私ってばーっ!」


 破廉恥な自分に打ちのめされてテーブルに頭を抱えて突っ伏した。欲望に忠実に一夜の男を持ってしまったがために、こんな事になった。


「これからはもっと謙虚に、肉食女子を控えるべきよ。まあ当面はこの子がいるからイケメンにガッついたりはしないけど」


 ミスティリア・サニー男爵令嬢の気苦労はまだまだ続いていくのかもしれない。

 現にこの直後、屋敷の使用人が運んできたディランからの手紙をミサは握り潰しそうになった。


 婚約者として王宮暮らしをするようにと手紙には記されていたからだ。


 そこで王宮魔法騎士の正式任命も行うと。


 加えて、息子の固い意志を目の当たりにし、王妃は息子の恋路に乗り気でいてくれているので、嫁姑関係は安心しろとか何とかも記されていた。大きなお世話だった。


「嗚呼、包囲網……っ」


 一人寛ぎルームで全く寛げない内容の手紙を読むミサは、そっと目頭を押さえる。因みに男爵は自棄酒の代わりに鍛練尽くしの毎日を送っている。自棄鍛練とはある意味健全と言えば健全かもしれない。


「それにしても、任命されれば二重生活も同然になるわよね。他の人にバレずにやっていけるといいんだけど」


 王宮魔法騎士と王太子の婚約者。


 ミサは二つを演じ分けなければならない。


 どう言った形で魔法騎士として振る舞うべきなのか、または王太子の婚約者として振る舞うべきなのか、まだ不明だが、両者をこなすのは容易ではないだろう。

 辛くて逃げたくなるかもしれない。それでも自分で選んだ道。ミサは不思議とわくわくしていた。


「婚約者はともかく、魔法騎士になったらお母さん頑張るからね。あーでもなって程なく大事を取って産休に入っちゃうかもしれないわね。ふふっまあその時はその時よね。あなたのためにゆーっくり休んじゃおっと」


 他人からはまだわからないが少しぽこりと出てきたお腹を優しく撫でてやる。もう着ているドレスも腹回りがゆったりマタニティーだ。デザインは通常ドレスにも見劣りしない可愛さなので満足だ。

 ……これはディランからの贈り物で彼直々のチョイスというのが未だ信じられないが。あの横暴王太子に女性の服への審美眼があったのには驚かされたミサだった。


 ミサは王宮暮らしになる。


 その日のうちに話を聞いたサニー男爵は「結婚までは実家暮らしだと思っていたのにっ。王太子めええ~っ」と悲嘆とディランへの怨嗟を口にした。婿ポイントは当分稼げそうにないディランだった。

 因みに男爵は王都に仮住まいを設けた。これでいつでもすぐに王宮に駆け付けられる。


 そうして、領地の顔見知り達と当面の別れを惜しんだりして過ごしているうちに、ミサの感覚的にはあれよあれよという間に王宮への出発の日になっていた。

 ここでいいからと玄関ホールで屋敷の皆に挨拶を済ませ、一抹の寂しさを抱えつつも扉を開け玄関先に待機している王宮からの迎えの馬車の使者を見る……。


「――どうしてまたあなたなんですかっ! ディラン殿下っ!」


 突っ込まずにはいられなかった。

 今回も王都に同行するサニー男爵はミサよりも先に外に出ていたので王太子に挨拶を済ませていたようだった。随分と顔が引き攣っている。


「サプライズ、と思ってな」

「はあ、そうですか」


 サプライズなのに全然嬉しくないとミサは内心呆れた。国王代行もする王太子ともなれば暇人ではないだろうに、彼は一体全体何を思ってこんな真似をしているのか。


「俺直々に愛しの婚約者を迎えに来たかったんだ。馬車が大きく揺れても俺ならお前を抱き締めて護ってやれるだろ。あと馬車はゆっくり走らせる。そのために仕事は前倒して片付けてきたから時間も余裕だ。安心しろ」


 ストレートかつ無邪気に好意を示すディランには、ミサもさすがに邪見には接しにくい。彼の強引な婚約取り決めからこっち、話し合いなどで数回は顔を合わせたが、その度にトゲトゲした態度を取っていたミサはとうとうそれを軟化させた。


「殿下、私を気遣って下さりありがとうございます」

「当然だ。さあ行こう。手を」


 ミサは差し出される手をじっと見つめて、相手が怪訝になる前にそっと手を重ねた。


(あ……)


 いつも感じていたが、ディランの手は冷たそうなのに実はとても温かい。緊張で血流が悪くなる段階を通り越して燃えている感じだ。彼はミサの姿を見ると凝り固まって待っていたのが嘘のように急激に頬を赤くして体温を上げるようなのだ。

 ミサに会えたのが嬉しい嬉しいと全身で表しているみたいに。

 ミサはその温もりに安心する。自然と頬が緩む。


 と、ここで、馬車に乗り込もうとしていたミサはその足を地面に戻した。


 動きを止めた娘の様子に、サニー男爵は「もしやミサ、婚約破棄か!?」と心底嬉しそうにした。怪訝にしていたディランはその言葉に青くなる。


「ミ、ミスティリア、ど、どうしたんだ急に?」


 見送りに来ていたサニー男爵家の騎士達が目を疑うレベルで暴虐王太子はあたふたとした。

 眉尻を下げた彼から顔を覗き込まれたミサは静かな表情を崩さない。


「ディラン・ルクス殿下、あなたに願う事があります」

「な、何だ言ってみろ。別れる以外なら何でもいいぞ!」


 彼のいつにない焦りっぷりにどこか可笑しくなってミサは「なら遠慮なく」とふふふと小さく笑ってしまった。

 ディランの緊張が微かに震える掌から伝わってくる。震えは手を握るミサにしかわからないだろう。

 あのディラン・ルクスがこんな風になるなど、誰が想像できるだろう。

 ミサは自らの声音に願いを込めた。


「――いつも私の味方でいて下さい」

「へ……それだけか?」

「あ、ええともう一つ、私はこの子を危険に晒したくないので、然るべき時が来るまでは妊娠を公にはしないでほしいんです」


 ミサの意向で未だ王宮にミサの妊娠は伝えられてはいなかった。なのでそれは可能だ。

 ディランはミサの手を痛くない強さでぎゅっと握り締めた。


「わかった、約束する。秘密も、そしていつもミスティリアの味方でいる事も」


 彼の健気な程の真剣な眼差しに、ミサは我知らず手を握り返していた。

 ディランが気付いて喜びに目を細める。


(この男は……ホント、時々どうして可愛いんだから)


 ミサとしては、未だにどうして好かれているのかよくわからないというのが正直な心情だ。


 よくよくわかっているのは、ディラン・ルクスはミサに首ったけ。ゾッコンラブという事実。


(そうだわ、この際彼を自分にとことんたらし込んで、私の思うように生きる道を見出すのもありなんじゃないの?)


 なんて黒い思考が頭の片隅に湧く。

 子供のためにも自分がこの王国に代々根強く存在する非情な暗部を切り崩していけたなら、その未来は捨てたものではないだろう。

 そんな無謀で冒険的な選択肢を選んでみる価値はあるのだろうとミサは打算と好奇心を胸にする。


 幻想のように甘い記憶は切れ切れだが、あの夜のようにこの男をまた羞恥に染めてみたくもあった。


(はああ~私も大概だわ。でも、いつか、そのうち……?)


 乗り込んだ馬車がゆっくりと走り出す。

 繋いだ手はそのままだ。彼が放してくれなかったからそのままにしているのだと自分に言い訳をしながら。

 安堵する程に温かいと愛しく思いながら。

 トクリトクリと心地よく心音が鳴るのを感じる。

 向かいの席のサニー男爵の目が吊り上がっている。


(あはは、お父様も加えるとこんな変な家族団欒になるのにね)


「ディラン殿下、どうぞ宜しくお願いします」

「ああ、任せておけ」


 ミサはついついくすりとする。ついさっきは怯えた子犬のようにしていて自信満々に何が任せておけなのかは知らないが、ディランと歩んで果たして将来どうなろうと、不思議と後悔だけはしないような気がした。


「殿下のそういうところ、実は結構好きですよ?」


 ミサがそう言ったら、ディランは泣いた。ショックでサニー男爵も。

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