肉食な深窓令嬢とチキンな暴君~私、お妃選考からどうにか逃げます~3
「それじゃあお父様、後継者を決めたら早い所出立の準備に取り掛かりましょう。いつ私の見張り役として王太子の手の者がやってくるかもわかりませんから」
「そうだな。支度が整い次第出発しよう」
昼間の明るさに溢れ、休憩時に父娘ではすっかりそこに居るのが定番の寛ぎルーム。ここ数日、真面目腐った様子で密かな亡命の準備に忙しくしていた父親が、今はミサの目の前で逸る子供のように熱心にあみだくじの横棒を書き入れている。このあみだに当たればその者が養子になりミサ達が出立次第即座に男爵家を継ぐ。だがまあこちらはこちらで何と言うギャップ……。紅茶にも焼き菓子にも手を付けるのを忘れている向かいの席の父親を見据えてティーカップを置いたミサは、少し躊躇いがちに口を開く。
「ところで、訊きたかったのですが、お父様は本当に良いのですか? この家を捨てるような真似をして」
「どうして今更そんな事を訊くのだ。ま、まさかミサ……気が変わって王太子妃になりたいと!?」
「どちゃくそ違います。だってお父様はこの男爵家をたったの一代で築き上げたではないですか。大変な苦労をしたのでしょう? それを私のためにこんなにも簡単に手放すなんて、後悔しないのかと」
「ハハハそんなものすると思うのか? この先何度問われても、私は大事な家族と一緒に居られる道を選ぶつもりだ。……遅かれ早かれ必ずいつかはどうしたって避けられない別れの時が来るのだ。せめてその時までは出来る限りの時間を共に過ごしたいと思っているよ」
「お父様……。そうですね、私も同じ想いです」
ミサは安堵も感じつつ、予期せぬ事故で世を去った母アリエルを恋しくも恨めしくも思った。
父親は普段、外ではきびきびとしているようだが家庭内では優しくて明るく、ちょっと抜けている。ミサの前では笑みを絶やさず、いやここ最近はホラーな形相で卒倒したりと少々危ういが、それは抜きにしてもミサは無条件に安心して傍に居られた。
(だけど私の前では隠しているだけで、本当はずっと寂しい思いをしてきたに違いないんだわ)
その事に思い及ばずというよりも他の事に忙しくそこまで気にしてあげられなかったこれまでを顧みてミサは後悔の念が込み上げる。父親の方も決して寂しいなどという弱い言葉は口にしなかったし、他に愛する女性を見つけて再婚だって出来たはずなのにそれもしなかった。ミサが母親をとても慕っていたからだろう。
しかも、自分のための継母ならば欲しくないとミサ自身も彼に強く明言していたのも大きいかもしれない。
そこでもしも父親自身の幸せに繋がる女性に出会ったならば再婚してほしい、と一言添えておけば今とは違ったかもしれないと思うと、どこか彼の人生を犠牲にしたようで申し訳なくも思った。
ミサはミサの幸せのために結婚せずのシングルマザーの道を選ぼうとしているが、子供を男爵家ですくすく育てるという未来設計は瓦解した。
この先自分はこの国の貴族の身分を捨て生活していくのだ。父親には確実に苦労を掛けるとわかりきっているが故に、母親の分まで自分と腹の子は彼の傍に居ようと思っている。
「ミサ、私が腹の子に大事ないように、しっかりとした食事と馬車を手配してやるから安心するのだぞ」
「はい、ありがとうお父様」
あみだの横棒を満足のいくように書き入れ終えたのか、男爵がミサを優しい眼差しで見つめている。彼には子供の実の父親はデックという世界を巡る行商人の男だとは告げてあった。
物凄いイケメンだったのでつい関係を持ってしまったと欲望に正直な懺悔をすれば、何とも言えない面持ちで納得していた。娘の気質をよくよくわかってくれている。
ただ、今度は卒倒ですまないと困るので、その男が実は王太子殿下でしたーなどとは口が裂けても言えない。いつかもしもその機会が必要であれば告げるしかないが、男爵の体を気遣ってこのまま黙っている方が得策だとミサは思っている。
加えてデックとは二度と会えないだろうという見解も伝えたら「おおっそうか! でかしたぞミサ! 日々娘夫婦のイチャコラを見せ付けられて煮え湯を飲まされる心地を味わう心配はないのだな!」と酷く嬉しそうにしていたのを覚えている。ミサを大事に大事に思ってくれているのは有難いがちょっと愛が重かった。
そんなわけで男爵も孫の誕生を楽しみにしてくれている。
最愛の父親が最大の味方。それだけでもうミサは何だって乗り越えられると思うのだ。
「お父様、これからは家族三人、強く生きて行きましょうね!」
「ああ、もちろんだとも。どうせなら亡命先でも何か活躍して爵位でも手に入れてしまおうか」
「え、ええ、それは頼もしいです」
のほほんとした反面、父親はそれをさらりと実行しかねない天運の良さというか、器用さを持ち合わせている人間だ。勿論武人としての実力も申し分ない。多分父親の目論みは達せられるだろう。それはそれで亡命先たる隣国グラニスの人間から嫉妬され面倒が起きないか心配ではあったが。
(まあ、仮にそうなったとしても、このゼニス国に残るよりはたぶんマシでしょ)
ミサはそう思考を片付けて、ようやくと父親に紅茶を促すのだった。
何事も起きずに過ぎた十日後、ミサと父親は内々の引き継ぎを済ませてゆっくりと国内を横断し、隣国グラニスとの国境の町に来ていた。
あみだ当選者との養子縁組み云々や爵位継承と言った事務的な作業は屋敷出立当日までに間に合わなかったので、追々男爵家の作業チームがやってくれる手筈になっている。面倒な書類提出などを全て任せてきたが不安はない。男爵家の騎士達はしっかりしているのだ。
ただ、後々王宮から横槍が入る不安はあった。
ディランが腹いせに難癖を付けて爵位継承を認めないかもしれない。剥奪されるかもしれない。
領地さえ返還せよと命じられるかもしれない。
しかしたとえそうなったとしても、サニー男爵が築いてきたものは順調な地代収入だけではない。あみだくじ後継者を中心とした騎士の何人かにはそれとは別に男爵家の事業を任せてきたので、仮に領地自体が没収されても騎士達の当面の生活に大きな影響はないだろう。彼らが上手く回していってくれるのは揺るぎない。文武両道とは彼らのような者達を指すのだとミサは思っている。
そんな騎士達の一部にはこの道中雇われた護衛のフリをして来てもらってはいたが、それもこの国境の町でお別れだ。
「お父様、今日はこれまでの旅の疲れもありますから、しっかりゆっくり休みましょう」
「うむ、そうだな。必要ならここに二日三日泊まっても支障はないだろう。十分な休息は大事だ。ミサは体調には重々注意しなければならない身なので余計にな」
「ええ、その時はそうさせてもらいます。怪しまれずに国境審査を通れるといいですね」
国境の門で提示を求められる身分証には庶民の身分を記載してあった。
背に腹は代えられないとして身分証を偽造したのだ。
万一怪しまれた時を考慮して、男爵家本邸の近くの街にはこの短期間のうちに二人の偽の住居や偽の身分の親類縁者と名乗る人員を配置してある。これには配下の騎士達も協力してくれて根回しはバッチリだ。忠義に厚い彼らから揃いも揃って凄く寂しくなりますと男泣きされたのはまだ記憶に新しい。
男爵は眼鏡や付け髭や染め粉で髪の色を変えたりと、国境警備隊の中に万一顔見知りがいた場合を考慮して顔バレしないように慎重を期している。
二人はここまでもこの町でも、護衛まで雇っているちょっとリッチな商人親子と思われているだろう。そういう身の上は珍しくはない。これならばミサのための上等な馬車も不審には思われない。
念には念をというわけで、馬車を降りる時はよく旅人もそうするようにフードを頭から深く被ったし、それらが功を奏したかどうかは知らないが今日まで何とか誰にも怪しまれずに済んでいる。
この町でチェックインした宿は勿論上等ではあるが、そこはやはり目立たないようあくまでも庶民水準での良い宿だ。
国境警備を厳しくせざるを得ないこのきな臭い時期に隣国に行くなど怖い物知らずだと思われそうだが、それこそが商人魂、商機と見れば火の中水の中利益を貪りに赴く。そんなド根性商人だと思われて無難に国境審査を突破できるといい。
ゼニスとグラニス、関係が急速に悪化している二国間だが、まだ民間人の行き来は禁じられていないのだ。
しかしあと十日後はわからない、というのがミサ達の見解でもあった。
ただし、その根拠は曖昧なものでもあった。
「本当に、何事もなく入国できるといいですよね」
「うむ。無理そうならグラニスとはまた別の国に行くという手もあるから心配はするな。その際の動きも部下達と事前に取り決めてある」
「さすがはお父様。こういったある意味軍事作戦にも通じる事に関しては抜け目ないですね」
従業員に案内されて入った宿の一室で、余裕の笑みを浮かべる父親へとミサは少し疲労を滲ませた顔で微笑んだ。彼の付け髭の先が口元の動きと一緒に持ち上がったのがどこか可笑しかった。要所要所で宿には泊まってきたがそこはやはり旅路というものだ。ミサの体に少しずつ疲労が蓄積していたのは否めない。反対に、男爵の方は長旅も慣れているし体力的にも壮健な武人なので疲れは見えなかった。ミサは落ち着いたら自分も鍛えようとしかと決意した。
領地を出てもう十日が経つが、ミサが妃選考を逃げ出したとはまだバレてはいないようだ。
中央の方で通達があって大々的に捜索されていると言ったような動きも今のところないという。まだ王宮サイドにはミサ達は普通に領地で生活していると思われていると考えていいだろう。
もしもここまでの道中で危うい事態になれば領地から早馬を走らせてくれる約束にもなっているので、緊急時の対策はそこそこ万全だ。
親子二人で人心地つきながら、ミサはもう夕方に差しかかっている国境の空を窓から眺めやった。
「お父様、この町は少し空気が変じゃありませんでした?」
「ミサもそう思ったか? 私もどことなくだが、嵐の前の静けさのような感覚を覚えたな。これは全くの勘だが」
父親は過去に戦場で華々しい武勲を立てた人間だ。それにより男爵位を賜った。そういう者のその手の勘は時として決して馬鹿に出来ないとミサは知っている。
この町に入り、ミサは言い知れない張り詰めた空気と不気味さを確かに感じていた。父親も同じとなれば益々憂いのようなものが増大する。
しかし自分達の感覚とは裏腹に、町の人々は全くそんな心配はなさそうに活気に溢れていて、疲労のせいで神経がやや過敏になっているのかもしれないと、今は休息を優先しその感覚を一旦は脇に置く。
「ですが、隣国と一触即発という限界まで事態が悪化しているとも聞いていませんし、ここで数日様子を見てみましょうか?」
「うむ、その方がいいかもしれんな」
安全第一で最善の越境時期を見極める。窓辺からベッドへと腰を下ろしたミサはそのまま横になり、まず先に一眠りしようと瞼を閉じた。
夕食を済ませ湯浴みを済ませ身綺麗にしたミサはいつでも寝れる状態だった。
しかしベッドに入って目を閉じても全く眠れず、夜が更けていくにつれて何だかとても落ち着かなくなった。眠気が起きないのは夕方少し眠ったせいかもしれない。
(ううん、きっとそれだけじゃない)
まるで軍馬がそわそわとして耳を忙しなく動かすように、彼女もどうにも何かが本能的に気になって、とうとう眠れないまま至った深夜、眼鏡は外したが染めた髪の毛と付け髭はそのままの父親がぐーすか隣のベッドで寝息を立てて熟睡している時分、旅装用の外套を羽織り一人こっそりと宿の部屋を抜け出した。
まず目指すは国境向こうの音がよく拾えそうな場所だ。
どうして国境向こうが無性に気になるのか、それは全くの勘ではなく、出て来る直前に部屋で密かに聴覚魔法を使って見過ごせない音を拾ったせいだ。眠れない理由を探そうと試しにそうしたら意識に引っ掛かった音があったのだ。
半魔の能力を使わないと明確には聞こえないその音だが、実はミサには昼間からずっと届いていて意識に働きかけていたのかもしれないと思った。
外套のフードをすっぽり被ったその中は既にピンクの髪の色。
深紅の瞳が仄赤くフードの奥に光っている。
町中では音が多く雑音で頭痛をもらう難点もあるこの能力なので、一度聴覚感度を下げて雑音を拾わないようにして、この町の国境により近い丘の端へと出る。
この町は低い丘の上に造られているので、その端から続く平原のずっと向こうが隣国グラニスなのだ。
この闇ではろくろく景色など夜の中に埋没してしまって見えないが、平原の途中にこの町の外壁を兼ねたゼニス王国最端の国境の壁と、国境警備隊の護る門がある。そこで日々国境審査も行われているらしい。
平原の途中とは言ってもそこまで町の賑わいから離れているわけではない。昼間に遠目に見たので知っているが、おそらくは視界の中に小さく見えている光点が警備兵達の居る門なのだろう。
因みにサニー家などの貴族に仕える武人は直接その家から叙勲されていて騎士と呼ばれるが、王国軍の武人は大半が叙勲されてはいないので普通に兵士と呼ばれる。勿論騎士と呼ばれる者達もいるが各地の指揮官や責任者など、国から騎士の称号を認められた地位のある者に限られた。
また、半魔の血を持つ魔法使いは扱いが別格で、初めから騎士の称号を与えられているし、騎士は騎士でも魔法騎士と呼ばれている。
ディランが王宮の全ての魔法使いつまりは魔法騎士の顔を把握しているのも、やはりそれだけ重要な存在だからだ。
国境の門と町並みとの間、建物のほとんどないいわば町外れとも言える夜更けのこんな所には、ミサ以外に誰の姿もない。何があるとも知れない夜間はなるべく外出を控えているのだと、昼間町の人がそんな風な事を言っていた。とりわけ国境に近い側など冗談抜きに夜闇に乗じて何があるとも知れないのだ。
静か過ぎて我知らず呼吸も気配も潜ませたミサの周りには低めの茂みや木々がまばらに生えているだけだ。
その時、夜風が激しくフードをはためかせてミサから取り払った。
遮るもののない平原からの風だ。
薄紅色の長髪がやや強い風に遊ばれ広がった。
突然の自然の悪戯に驚いたように上を見上げたミサは、大きく目を輝かせた。
「わ、きれい……」
何かに急かされるようにここまで来た彼女は星天にまで気が回らなかったのだ。そうかと思えば今度は横薙ぎの風に変わる。ややもするとミサの背中、町方向からの風にも変わった。今夜は大気が定まらず風の方向もまちまちなようだ。
(ふふっ、忙しないのは私だけじゃないみたい)
ひとしきり感動と可笑しさを覚えた彼女は、ふと自問自答する。
(私、この国を離れて本当にいいの?)
こんな形は果たして正解なのだろうか。
母親の故郷を探すのも中途半端に放り出してしまった。
しかしもうここまで来てしまった。
屋敷の皆は涙ながらにも快く送り出してくれた。いつでもどうぞお帰り下さいとまで言ってくれた。
(それに……)
――ミスティリア。
後ろめたさからか、ディランの声が耳奥に甦った。
王家や半魔と言った互いのしがらみから素直に考えた事がなかったが、子の父親である彼はもしもミサの妊娠を知らせたら一体どんな顔をするだろうか。
ミサの良心を突き詰めれば、知らせないのはフェアではないと答えが出るが、しかし危険は冒せない。
それでも、もしも告げる機会があったなら、純粋に喜ぶのか、迷惑がるのか、或いは国利のために喜々として半魔の血を引くミサと子を王宮に縛り付けるのか。
ディラン自らがそうであるように。
(ああそうなんだわ。ルクス王家に生まれた彼も、半魔は国に属するのが当然って歴史の流れの中の不自由者なのよね)
その環境が当然と育ったディランに自覚は無いかもしれない。あっても苦痛には思っていないのかもしれない。それは彼の認識の仕方なのでミサに口出しするつもりはないが、少しだけ同情のようなものを抱いてしまった。
「ってあの男は悪い奴よ悪い奴。考えない考えない。頭を切り替えて気になる事を確かめないと」
ブンブンと横に首を振ったミサはすうと呼吸を整え耳を澄ませた。
半魔の血を徐々に徐々に強く本覚醒させていく。
聴覚に様々な音が入って来る。
人の話し声、息遣い、足音、近くも遠くも全ての音が、一切の取り零しなく。
(国境の向こうの音が欲しい)
両目を閉じて意識を遠くに集中させる。
(この不安が外れていればいい。ううん、どうか外れていて)
隣国が秘密裏に不穏な動きをしている可能性をミサは危惧していた。
沢山の馬の蹄の音、武器防具の擦れる音、話し声が聞こえてくる。
やけにくぐもって、そして国境向こうの遥か遠くではなく、予想以上に門に近しい場所から。
些か会話の詳細は途切れ途切れで定かではないが、戦いや奇襲、攻撃など物騒な単語が断片的に何度も何人もの声で聞こえてくる。
「そんな……うそ……。でも、何よこれ、妙に反響してて聞き取りにくいわ」
ずっと聞いていたらきっと気持ちが悪くなってしまうだろう。普通の音とはどうしてか異なるのだ。
「国境の門の向こうにはもしかして隣国の部隊が既に集まってるのかしら」
ここからでは壁に阻まれて何も見えないが、門で警備している者達にはその隊列が見えているのだろうか。それにしてはその手の会話も聞こえないし門の上を松明を持って兵達が駆け回っていたりはしない。概ね穏やかな夜を過ごしているようだった。
(きっと門からは何も見えていないんだわ)
しかし、絶対に何かがある。
軍馬をこうも多くこんな夜更けに移動させる時点で意図は明白だ。
隣国は侵攻してくるつもりなのだ。
奇襲を掛けてくる
「もっともっとよく聴かないと」
確証の確証を得てからでなければ迷惑な嘘をつくのと同じになる。
ミサはひたすら意識を集中する。
「もっともっと……もっと……っ」
無意識に呟いて、能力を最大限に強めて沢山の要らない音も含めて聴覚に取り入れる。
キィーンと強烈な耳鳴りがして頭の奥が酷く痛み始める。
「――っ」
これがこの能力の弊害だ。
音が多く鮮明に過ぎ、猛烈に気持ちが悪くなり吐き気も込み上げる。しかしミサは聴き取らなければならないという使命感と共に奥歯を強く噛みしめ踏ん張った。
次第に強まる耳鳴りのせいで足元がふらついたが、それでも無理をしてあたかも一点集中のように聴覚を研ぎ澄ませる。
不確かな情報では王国軍の誰も動かない。
それでは攻められてこの町は陥落してしまうかもしれない。
この町の人々とは親しいわけではないが、昼間の活気が消え焼け野原になるのは見たくない。
それにミサ自身も戦火に巻き込まれるだろう。ここには父親も共に居るのだ。今だ亡命していない自分達親子が隣国に捕まってその素性が知られればただでは済まない。それくらいはわかる。サニー男爵はゼニス王国の中でも軍事に長けている人間として知られているからだ。
拷問され、命の保証もないだろう。
(この子も、お父様も、町の人も、ひいてはこのゼニス王国の民も、誰も危険に晒したくない)
詳しい決行の時間や工程を知りたい。
そして国境警備の兵士達に伝えて隣国の思惑を阻止してもらわなければならない。
「う――……」
しかし、限界だった。
ズキズキズキと頭の奥から脳みそが揺さぶられるような不快感と共に平衡感覚がブレていく。
意識が遠のき膝から力が抜けていくのがわかった。
(あ、駄目……こんな所で倒れたら、皆が……)
気絶なんぞをしてしまって情報の伝達が遅れればその分危険度だって増す。
踏ん張りたいのに、不調で調整できない聴覚は最早沢山の雑音を拾ってしまいどうにもできなくなっていた。
無理をし過ぎて制御不能に陥ったのだ。
(ああ、足音が聞こえる……)
少し前、国境の門の方向からそれは聞こえてきていた。
誰かが強く大地を蹴る音が。
他の沢山の足音が耳には入っていたが、その音だけは雑音の中でやけに印象的で大きくさえなってくる。
ミサの魔法的聴覚越しでは、足音も一人一人異なり、一度訊けば個人を特定もできる。しかし聞いた事のない力強い足音だった。
軍馬よりも尚重く普通の人間の脚力では到底体現できない足音だ。
(一蹴りで屋根まで跳べそうなこんな凄い足音、一体誰が……ううん何者が?)
果たして人間なのだろうか。
しかも一直線にどんどんこちらに近付いてくる。自分の身辺に気を配るのをすっかり失念していたミサは、ようやくとその足音に不穏を感じ、だからこそ即座に茂みにでも隠れたかったが力が入らず無理だった。足が縺れた。
(駄目っ、ここで変な倒れ方したら、この子にも影響があるかもしれないのに……っ)
しかし倒れる、と確信した。
どうしようもなくて泣きたくなる。
(ごめんね、不甲斐無くて)
せめて体を固くして少しでも衝撃を和らげようとした。
ドッ、と一際近くから大きな足音が上がって意識だけではっとなる。
(いやーっ、肉食獣だったら食べられちゃうっ!)
ぎゅっと閉ざした瞼の奥にじわりと涙が滲んだ刹那、とすんと誰かの胸に抱きとめられた。
そして、後ろからその誰かの温かい大きな掌がミサの両耳を塞いでくれた。
ほとんど大半の音が遮断されて頭痛が治まっていく。
「ミスティリア、随分と無茶をしたな」
刺激しないようにとの配慮からか、抑えられた声が降る。
ミサは、ゆっくりと瞼を押し開いて、彼女の人生史上最も呆然とした声を出す。
「……ディラン、殿下?」
ミサを支えて心配そうに顔を覗き込んでくるのは、何と王太子ディランだった。
ミサが落ち着いたと見たのか耳から手を離したディランはその手で彼女の目尻を拭った。まだミサはあり得ない幻でも見たように呆けた顔のまま彼を凝視していたが、ディランの方は気を回したのかミサを正面から少し抱き寄せて転ばないように彼女の背に腕を回して支えるようにした。
驚き過ぎてそんな風に親密にされてもまだ明確な拒絶も感謝もできないミサは鈍い思考の中でよりにもよって幽霊でも見た顔になった。
(ど、ど、どうして彼がここに……!? っていうか、王宮に不在って話だったけど、まさかまさかのこの国境地帯にいたってわけ!?)
だとすれば何と言う巡り合わせの妙。
(ううあああ~最っ悪! 運悪過ぎじゃないのよーーーーッッ! しかもどう見たってこのピンポイント感は私のにおいを嗅ぎ付けてやってきたって感じよねええっ!)
彼は国境の門辺りにいたのだろう。そこから風向きでたまたまミサのにおいを嗅ぎ取った。故に急いでここまでやってきたと見て間違いない。もっと前の昼間や夕方のうちに知っていたのなら問答無用でズカズカ町中や宿に踏み込んできたはずだ。
因みに足音の疑問は残るが今はそこまで頭を回していられないミサだ。
(この町に来なければきっとバレなかった。逃亡先に他の国を選んでいれば何の邪魔立てもなく亡命出来ていたに違いないのにーっ。ハハハ……涙出そ)
「あ、ありがとうございます」
内心のディラン大恐慌はともかく、ミサは気分がまだ優れないのもあって彼を突っ撥ねる元気は出ない。魔法行使中で瞳を赤くするディランはディランでミサを支えるように回している腕を解かない。
「風に乗ってお前のにおいがしたから急いで来てみれば、一体ここで何を聴いてたんだ? しかも倒れるまで能力の限界を駆使するって……」
ミサはハッとした。具合云々とへばっている暇はなかったのだ。
身を捩って支える腕をするりと抜けるや改めてディランの真正面から向かい合う。
赤の視線が絡み合った。
「殿下っ、グラニスが今日にも明日にも攻めて来ます! 奇襲をかけるつもりだと聴いたのです!」
「何だって? ここから向こうまでは……グラニス軍の駐屯地まではかなりあるんだそ? 俺でも風に乗って流れてくるにおいくらいしかわからないのに、それを聴いたのか?」
「はい。最大出力で何とか」
(でも、察知した声とか馬蹄音はそこまで遠くなかったわ。ただ、奇妙なくらいに聞き取りにくいこもるような感じだったけど。何か壁でもあるみたいに)
「ギリギリまで力を使っていたのは見ててわかったが、凄いな。お前の魔法能力は俺が思っていたよりも抜群に優秀なのか。グラニスに潜ませている配下からも侵攻の兆候があるとの報せは受けていたが、しかしここ何日もずっと国境警備隊に紛れて見張っていたものの、明確な動きは見受けられず不審を覚えていた所だ」
そこに来てのミサの証言には無視できないものがある。王国軍の現最高指揮官でもあるディランは事の重大さを見逃したり見誤ったりはしない。事態は思った以上に深刻だったようだと彼は渋面を作って獣のように唸った。
「え、ところで身バレしなかったんですか?」
「全然。責任者には黙っているよう命じたし、中には似てはいるとは感じてもまさかって勝手に否定してくれたよ。普通王太子本人が辺境の下っ端兵になっているとは誰も思わないだろ」
(あーそうですかー。ほんっとこの男は身分を偽るのが大好きね)
さすがのミサも内心で呆れたが、状況が切迫していると理解しているだけに非難は堪えた。辺境の兵士達が王太子の評判はよく知るものの、本人の顔まで正確には把握していなかったからこそできた潜入だろう。
ふてぶてしいような面持ちでいたディランがすっと表情を真面目なものにする。
「ミスティリア、聴いた事を余さず全部教えてくれ」
「はい」
彼に釣られたように気持ちを引き締め、あたかも彼女自身も国境警備隊の一員になったように力強く頷くミサは、掻い摘んで話してやった。
「ただ、一つ不可解なのは聴こえてきた距離です」
「距離?」
「はい。遥か遠くの駐屯地の音も拾えましたが、そこよりもこちらの国境に近い位置で軍馬の蹄や兵士達の会話が聞こえてきたのです。グラニスはよりこちらの国境に近い位置に野営地を設けているのですか?」
ミサが国境の壁でたまたま相手国の夜陣が見えていないだけだったならまだ良い。しかしミサが聴いていた間、自国の警備兵達は誰も一言も言及していなかったのだ。攻撃に備えようともしていなかった。もしも布陣を知っていたならあり得ない怠慢だ。
しかし今夜この国境にはディランがいた。
怠慢はあり得ない。
そして彼は首を横に振ってキッパリ言った。
「向こうの国境駐屯地にいる部隊が我が国との最前線の部隊だ。よりこちらの国境に近い場所には地上部隊を動かしていないと見ている。現に昼間も見張り台からは視界に何も確認されていないし、今夜も俺の嗅覚にも怪しむべきにおいは引っ掛からなかった」
「そんな……、じゃあどうして近い場所から声が? くぐもっていたり反響が酷くて魔法の最大出力でもかなり聴き取り辛かったですし」
本格的に不可解だ。すぐにもその辺りの調査が必要だろう。
すると、ディランがぐっと顔を近付けてきた。
(な、なっ?)
「今何て言った? くぐもっていた? 反響が酷いだって?」
「え、ああ、はい」
眉間を寄せていた彼は一層厳しい面持ちになっている。暗闇の中でもギラギラと赤の瞳が輝いて星空に負けないくらいに目を惹かれる。
(くうぅっやっぱカッコイイ……ってあああ私もこんな時に何キュンとしてるのよ)
「とっとにかく、隣国が動いているのは否定できません。ですからどうか一刻も早く相応の対策をお願いします! 後手に回れば回るだけこの町の皆が危険なのです!」
気付けば身を乗り出して必死に訴えていた。
ディランはやや面食らったように微かに両眉を上げたが、全く以て自信家の笑みを浮かべる。
「わかった。任せておけ。お前の疑問を解明して対策を取ると誓おう」
しかと頷くディラン。
ミサは心強さを感じ、同時に安堵し、救われたような心地がした。
彼なら、この何事にも怯まず目的達成のためには手段を選ばず突き進む狂犬ディラン・ルクスなら、この危機を脱してくれるはずだと。
ただ癇癪を起こして残忍に臣下を葬ったり暴れたりするだけの男ではない。負傷し指揮を執れない国王の代わりに、この何年とこの彼こそがグラニスとの絶妙な駆け引きをしてきたのだ。
自らお忍びで現地に滞在するくらいに彼は常日頃からゼニス国の事を考えてもいる。
義務感も責任感も、そして野心さえも持ち合わせる優秀な王太子、それがこの男ディラン・ルクスなのだ。
ミサは自身の中で少しだけ彼への見方が変わった気がした。
「……これはまだ不確定だが、おそらくはミスティリアの疑問は俺の鼻が役に立つだろう」
ミサはぱちくりと瞬いた。
「殿下の嗅覚が、ですか?」
「そうだ。かつてゼニスとグラニスが一つの国だったのは知っているだろ」
「ええ、はい」
これは両国の国民ならほとんどが知っている歴史だ。古地図をみれば一目瞭然。しかし二つに分かれてからの日々は何百年と長い。
「古い史料によると、大昔はこの場所にも城が建っていたらしい」
「え、それは知りませんでした」
そこはミサも勉強不足というか初耳だった。何か城の名残がないかとついつい夜目の中で探してしまった。まあ何もあるわけもないのだが。キョロキョロしすぎたのかもしれない、ディランがくすりと笑ったような気がする。
「そして、その時代の地下通路がこの俺達の足元には幾つか通っているようなんだよ」
「地下通路……?」
くぐもった音。姿が見えないのに音だけが「居る」不可解。
あ、とミサもその可能性に気付いた。
「えっじゃあそこに敵が潜んで!? ああだからくぐもっていたり反響が酷かったりしたんだわ。地面の下の音じゃ聴くのに苦労するのも当然だし……」
思わずの納得の独り言にもディランは「そうだ」と気を悪くした風もなく相槌を打ってくれた。
「移動しているのなら、おそらくはまだ出口には到達していないだろうな。とは言え奇襲を掛けられるような出口がこの一帯のどこかにあるんだろう。一つか複数かはわからないが。その出口をこっちで早い所探し出せれば先手を打てる」
「なるほど、ですから殿下の能力が役に立つのですね。……というか、舞踏会でも思いましたが殿下は魔法が使えたのですね」
「まあな」
悪びれもせずにしれっとして認めたディランにミサは苦笑いする。
(言うまでもなく図太いわね。こういう性格の人だけど、彼は一切疑う様子もなく私を信じてくれたんだわ)
「殿下、あの、そんなにあっさり私の言葉を信じても宜しいのですか? ああいえ勿論嘘ではないのですけれど、人によったらガセの情報を掴ませる可能性だってありますのに」
ディランはハハハと快活に笑った。
「俺も俺の能力の限界を使う時はとても気分が悪くなるからな。そこまでしたくはないが、必要な時ってあるだろ。その時は腹を括ってる。だからミスティリアがそこまでしたからにはのっぴきならない理由があるんだと踏んだ」
「そうですか」
「それに何より、お前の言葉だからな」
「……」
ディランは無邪気な少年のように信頼を示している。
(これも私を懐柔するためのお芝居なの?)
ミサは彼女の半魔の力の有用さをよりにもよってディランに示してしまったのだ。最早どんな条件でも手放してくれるとは思えない。
有能な魔法使いを傍に置くためなら彼は何でもするだろう。
ディランが純粋な気持ちで言ったものか、どうしても疑ってしまうミサの胸に罪悪感が湧き上がる。当人に何も言わずにこうして逃げ出してきた自分の行いだって普通の交際お断りよりも余程質が悪い。
(この男がたとえどんな悪党でも、私は筋を通して正式に辞退を申し入れるべきだった)
今更ながらに後ろめたくなった。ただ、筋を通してそこまでしても無理強いしてくるようならこんな逃亡劇もありだったかもしれないとは思う。
だが今の自分は敵前逃亡をした単なる卑怯者かもしれないとミサは思った。
「ところで具合はどうだ?」
「あ、殿下のおかげでだいぶ。助けて頂いてありがとうございました」
「それはよかった……と言ってやりたい所だが、ミスティリアにはもう少し助力を頼みたい」
「私に?」
「ああ。俺の嗅覚は優秀だが、お前ほど広範囲を網羅できない。だからもう一度音を聴いてくれないか? 大体の潜伏位置さえわかれば、あとはこっちでどうとでもなる。そういうわけだから実地での場所の特定のために同行をお願いしてもいいか?」
「状況が状況ですし、構いません」
「……本当に大丈夫か?」
眉をハの字にして本気で心配したような顔をされて、ミサは自分でも思わずな感じで小さな笑みを零してしまった。
きっとこれは嘘じゃない。
「はい、平気です」
自分から笑いかけそうになってちょっと癪だったし恥ずかしくもあったので、しかと頷いた動きでどうにか誤魔化したミサだ。
舞踏会での別れ際があんなだったのに普通に会話ができている自分達が心底不思議だった。
「急ぎましょう殿下」
「ああ、心から感謝する」
時間が惜しい状況でもあるし、ミサも国を護りたい。
他国に亡命しようと思ってはいても実際に祖国が戦争に突入してほしいとは微塵も思ってはいないのだ。未然に防げるのなら一も二もなくそうしたい。ミサが早速と国境の方へと駆け出そうとした矢先、ディランから先を制するように腕を伸ばされた。怪訝にすれば彼はどこか得意気に口角を持ち上げる。
「少し揺れるが我慢しろよ」
「え?」
ディランの両目がより赤く光ったかと思えば、直後彼は両腕でミサを抱き上げた。
「あとな、舌を噛むなよ?」
「へ?」
その後は大変だった。
半魔の血を使ったディランは嗅覚強化のほか脚力強化もできたらしく、一蹴りで建物の屋根にまで跳べるだろう破格な脚力を披露してくれて夜の平原を駆けたのだ。重い足音の疑問はあっさり解けた。
彼の半魔の能力は、十分に攻撃魔法に値する。戦えば相手の脅威になるのは確かだ。
(ここまで凄いのに隠してるなんて、やっぱりこの人って性悪!)
一方でそれは彼が様々な交渉事で行使できる有効なカードでもあるのかもしれないと思えば仕方がないと不満を飲み込んだ。彼は安穏としてのんべんだらりと玉座にふんぞり返っていられるわけではない。実権を握っているとはいえ、未だ正式な彼の立場は国王代行なのだ。水面下での政敵も少なくないだろう。いついかなる時も自衛は念頭に置いておかなければならない。
(まあねえ、いつ寝首を掻かれるかわからない生活だとは思うわよ。……うん、やっぱりこの人の嫁は無理!)
一緒に仲良く寝首を掻かれては大変だ。自己保身が一番と決意を新たに強くするミサだ。彼女は聴覚魔法で敵の現在の潜伏位置を特定し、まだ敵が到達していない空の通路を反響してくる微かな音を頼りにおおよその通路の位置と出口を割り出し、更にそこでディランが嗅覚魔法を駆使して正確な地下通路の出入口を突き止めた。微量であれ地下の空気が地上に漏れ出ている場所がそれだったので近付きさえすればディランにも探せたのだ。
国境壁の下を潜り抜け国境の内側に達していた出口は幾つかあり、中には町の中まで通じているものもあるようだった。
古い時代の地下通路の配置図なんぞがどこに眠っていたのかは知らないが、それを手にした隣国は中々どうして侮れない相手だとミサにもよくわかった。
(うん、良かったわ、亡命する価値はあるわね! この男に簡単に攻め落とされちゃうような国じゃ困るものね。殺されそうになったら真っ先に向かおうっと)
ミサの胸中はともかく、秘密通路を発見してからのディランの行動は迅速だった。
ゼニス領側にあったものはその場で出口を崩壊させたし、既に地下から国境を越えていた敵部隊もいて、そういう相手へは地下通路を真上から崩落させていた。
(ええー……マジでー……)
ガラガラガラと轟音を立てて周辺地面を大きく陥没させたディランの魔法を目の当たりにしたミサは、ろくに言葉も出なかった。
ミサを姫抱っこしたまま高く遠くに跳んだ魔法の脚力の延長というよりは、ちょっと次元が違った一踏みといか悪魔の地団駄だ。まさかそのような技を目にするとは思わなかった。
(ちょっとー、天よー、よりにもよって暴君にこんな破壊力抜群の才能を与えちゃ駄目じゃないのー)
積み重なった瓦礫と屍を踏み付けてその頂点に君臨し、半魔の赤い目で不敵に残忍に哄笑しているディランの姿が脳裏に浮かぶ。ミサにとって元々ディランは容易くそういうイメージが浮かぶ相手だ。
題材はあれだが十分に絵になる。描いた暁にはその絵に破壊神という名を与えよう……とまで考えた所で我に返ったミサだった。
どうにか奇襲の先鋒だろう集団を叩いた後は、ミサは耳を澄ませて敵軍の他の隊の状況をチェックした。グラニス側では当然ながら地下道の先からの不意の轟音に混乱していたようで、地下通路は危険に違いないとして途中まで来ていた主力部隊のそれ以上の進行を断念したようだ。つまりは撤退した。
その焦りと苦々しさの滲んだグラニス国側の会話を聴いていたミサは大いに胸を撫で下ろした。
「殿下、主力部隊は戻るみたいです。グラニス国の奇襲は失敗に終わりました」
短時間に何度も重ねて精度の高い聴覚魔法を行使したせいで疲労困憊を禁じ得ないミサは、そう言うやディランの腕の中で彼の胸にへにゃんと力なく寄りかかった。これで終わったと思ったら安心して急に力が入らなくなったのだ。
「そうか。それは朗報だな。全てはミスティリアのおかげだ」
誇らしそうに言われてミサは嬉しくなる。
「いいえ、私だけでは駄目でした。ディラン殿下が居て下さったからこその勝利ですよ。あなたがこの国に居て下さって本当に良かったです」
「ミスティリア……」
ディランは感動でもしたように言葉を詰まらせが、彼が感動なんてするのか疑問なミサだ。とは言えこれはミサの心からの言葉だ。彼を誇りに思う。
(でも結婚はしないけど)
そう、国を救ったのはいいが、ミサにとって一番問題はまだ残っているのだ。気を抜くのは少しばかし早いかもしれなかった。
「リオン、疲労回復に効く薬と何か軽食を彼女に頼む。あと足湯のための湯もな」
その後、ディランはミサを国境の門まで連れて行き、兵士達の詰め所を人払いさせると休息と持て成しを命じた。いくら彼でも疲れ果てたままのミサをただ帰すのは王太子としての矜持が許さなかったのだろう。まあミサは正直宿に帰りたかったが。
因みに彼女の世話を命じられたのは選考舞踏会でも見かけた側近の青年だった。リオンではなく正式名はライオネルというのを知った。
側近の彼はミサを見ての開口一番「まさか思い詰め過ぎて攫ってきたんですか!?」と大いに驚いていたが、ディランからいつぞやのように脳天をはたかれていた。緊張の展開の中の唯一のゆる~いコントだった。
「サニー嬢、少々無作法な所で悪いが、我慢してくれ」
真剣な顔で門の責任者らしい中年男性と何か話していたディランは、それが済むと一旦椅子で休んでいたミサの所まで来るとそう言って優しく苦笑いのようなものを浮かべた。
直前の顔付きとのギャップをどこか不思議な心地で眺めたミサが疲れた顔でお気遣いなくと応じると、彼はゆっくりしていろと少し遠慮がちにミサの髪を撫でてから側近ライオネルに彼女の持て成しを念押しして急いでくるりと背を向ける。出入口へと向かう速い歩調にミサは慌てた。
「えっあのそんなに急いでどこに? まさかグラニス兵が何か? 撤退を撤回したとかですか!? でしたら私も行きます。何かのお役には立てるでしょうし!」
休憩にちょっとホッとしていたミサだが急いで椅子から腰を上げた。けれどまだ脱力感が抜けずふらついて前のめりになる。
(あっ転ぶ……! もうっわたしってホント学習しないっ)
彼女の声に振り返ったディランはギョッとすると華麗な俊足でミサの傍へと戻って見事に受け止めた。今夜町の外れで一度彼がそうしたように。
「っぶないな」
「ご、ごめんなさい。……とありがとうございます」
「無理しなくていいから、休んでいろ」
「でもっ」
「そうじゃないから安心しろ。配下を連れてもう一度現場まで行ってくる。今回のような事態が再発しないよう直接現場で兵士達に指示出しをするとか、捕虜の収容や手当ても含めた必要作業があるんだよ。だからもう心配しなくて大丈夫なんだ」
「へ、そうなのですか? 本当に?」
「ああ、本当だ」
ディランに促されて椅子に座り直したミサは気が抜けた。余程間抜けた顔にでもなっていたのか彼はふっと砕けた笑みを向けてくる。暴君確実だなんて言われているのがまるっきり嘘みたいだとミサは密かに思ってしまった。
「あとでちゃんと宿まで送るからそれまでここで楽にしていてくれ。それから……――悪かったな」
「はい?」
不意に謝られてミサがキョトンとすれば、ディランは跪いて彼女の両手を握り締めややしばらく俯いた。
(ええーと、何? ど、どうしちゃったのこの人?)
困惑していると、決死の覚悟のようにディランは顔を上げて必死そうな目でミサを見上げてくる。
(えっえっえっえっキタアアアーーーーッ、超絶イケメン上目遣いいいーーーーッ!)
カッコ可愛い視線のアッパーに疲労もぶっ飛びうっかり魂が飛び出しそうになった彼女だったが、幸運にも表情には出ていなかったのかディランは特に不審には思わなかったようで彼の言葉を続ける。
「俺はミスティリアを故意に騙そうとして偽名を使ったわけじゃない。勿論悪意なんてなかった。お忍びだったから身辺には気を配らないといけなかったからで、もしもお前があの翌朝も一緒にいたなら、きちんと正体を告げていた。だから……許してくれ」
ミサは予想外の言葉に目を丸くした。
ディラン・ルクスには驚かされてばかりだ。
ある意味お互い様でしょーと後ろめたく思っているミサが何も言わないでいると、ディランはゆっくりと手を放して立ち上がる。しかしその両肩は悄然として落ち、表情も何があったのかとミサが思わず訊ねたくなるくらいに物凄く暗かった。
「俺は……何度でも許してくれるまで許しを乞うからな。だが今はそう出来ない状況だから、さっさと済ませて戻る。その時には俺にできる贖罪があれば、何でも言え。だから、その…………俺を嫌わないでくれ」
苦しそうに眉間にしわを寄せ、ディランはこの場への未練を断ち切るように踵を返して今度こそ詰め所から出て行った。
「……えっ? もうホント誰あれ?」
呆気に取られっ放しなミサは側近もいるのについついそんな言葉を呟いてしまっていた。
上からただ偉そうに無理難題を吹っ掛けたり冷酷な命令をするだけのイメージはとうに崩れた。彼は自らで率先して動き危険な場所にも赴く人間だった。
(接してみると、暴君のイメージと中々結構違うのよね。むしろ……)
その後、側近ライオネルは何だかとても温かき目でミサがまるで王太子妃かのように恭しく丁寧に歓待してくれて、ディランが戻るまでは何の不自由もなかった。回復薬は胎児に影響があると困るので飲まなかったが、軽食は美味しかったし足湯がこの上なく気持ち良かったのでかなり気分は回復できた。
足湯の用意を命じたのはディランだ。その気遣いがもう彼のキャラとしては猛烈に別人レベルにミサの目には映っている。
(え、どうしよう、最初より彼への抵抗感が落ちてる……)
微細ながらほだされつつある自分をミサは感じていた。
まだ暗いが、闇が刻々とそのベールを一枚一枚と剥がしていく時分。地下通路を崩落させ敵軍を見事足止めした場所の一つで、整列した国境警備兵達の前に立つ黒髪の青年が声高に命令を放っている。
瞳は金色で現在赤くはない。
指揮官が着る目立つロングコートの裾を夜風に靡かせるそんな青年をひたと見据える目がある。
ややもして青年の指示の下兵士達が動き出すと、その目はいつしか消えていた。
しばらくして戻ってきたディランから話を聞けば、彼は国境警備隊の皆に本当の身分を明かしたという。
(ああ、だからだわきっと。服装がさっきと違う)
そうは言っても変わったのは羽織っている上着だけだが、誰が見ても彼が指揮官だろうとわかる目立つ立派なロングコートだった。
今夜のディランの英雄的な活躍は既に兵士達の間では周知になっているようで、随分と士気が高まったそうだ。国境門から見える場所にも地下通路の出口があったので、大音量を伴う陥没地団駄のような彼の超人的能力の目撃者は少なくなかったのだ。暫定的ではあるがこの先当面の防衛などの方針を決めてもきたらしい。
(何だかんだで、この人は腐っても王太子なんだわ。行商人のデックじゃないんだ……)
感心せずにはいられない。だけど複雑だ。デックという男だって初めからどこにもいなかったのだ。
「殿下、色々と用意して頂きありがとうございました。だいぶ良くなりましたし、そろそろ宿に帰ります」
「ああ、送る」
「いえ、殿下はお忙しいでしょうし、馬車を出して頂ければ」
「俺が送ると言っただろ。指示はしてきたからミスティリアを送るくらい余裕だ。気にするな」
「……」
(ふう、きっと断っても断れないわよね。断るとたぶん一時的に不機嫌になるけど、結局は俺様な顔で宿まで運ばれちゃうんだわ)
付き合いは短いながらもある意味深いミサはディランを少しはわかってきた。
「ええと、それではお言葉に甘えさせて頂きます。よろしくお願いします殿下」
「ああ、任せろ。少しまた揺れるがすぐに着く」
これはミサの予想通り、ディランは嬉しそうに破顔した。
夜が明ける前に全ての片がつき、町の住人達のパニックを引き起こさず済んだのは幸いだった。
帰る前に折角なので少し見張り台からの景色が見たいとミサはディランに頼んで連れて行ってもらった。ディランには単なる好奇心だと思われているだろうが、ミサはもう一度敵が潜んでいないかをチェックしたかったからだ。見張り台までの案内は途中から側近ライオネルがしてくれた。途中まで来た所でディランは配下の兵士に話し掛けられてその応対をしていたのだ。国境防衛に重要な事案を蔑ろには出来ない。
「良かった、特にこれと言って敵襲っぽいものは聴こえないから大丈夫ね」
側近に見守られつつ、一人石の手摺に手を置き真っ暗な草原を眺めてふうと一息吐き出したミサは、ディランの通常の足音が階段を駆け上がって来るのを聴き取った。
「ミスティリア! お前はどうしてそう無茶をするんだ!」
「へ?」
顔が見えた時点で彼は血相を変えていた。
詰め所に連れてきた時にはもう彼女の覚醒は治まっていて元の茶色に髪も目も戻っていた。なのでまた魔法を使用するとは思っていなかった彼は、下からミサの薄紅の髪の色が見えて慌てて見張り台に上がって来たのだ。
ミサはふらふらになるまで無理をしたので、今回もやけに心配したのだ。
怒ると言うよりは叱る声に彼女はカメのように首を竦める。
「それに夜風は体を冷やすからもっと着込め」
世話焼きのおばさんのような口調になるディランは、ミサの肩をすっぽりと覆うように彼の指揮官用の上着を被せてきた。
遠くても指揮官がどこかわかるように上等なだけではなく目立つ代物でもある。
「だ、大丈夫です。寒くないですから」
「ふん、痩せ我慢するな。お前はこんなに細っこいんだから」
「細っこい……」
微妙な形容に遠慮ではなかった言葉も引っ込んだ。
「それに、こんな綺麗な髪を他の者に見せるのも腹が立つ」
ディランは上着の前ボタンまで止めてくれながらブツクサ文句まで言っている。
「この赤い瞳だってだ」
目を見つめられて瞬くミサは何だか可笑しくなった。
彼への恐怖心など今はどこかに行っている。
「赤い瞳なら、殿下だって同じですよ」
「俺とミスティリアのとは違うだろ」
「そうですか?」
基準がよくわからない。ミサはくすりと笑った。
「私には殿下の瞳も綺麗に見えます。赤でも金でも」
まだ魔法を僅かに使っているのか瞳を赤くする彼は目を瞠ったものの何も言わずボタンを全て止め終えると、今度は上着の細かな乱れを整えてくれながらその流れでミサの薄紅の髪を一房手に掬った。
「ミスティリア、どうか俺の嘘を許してほしい」
毛先に口付ける。
伏せられていた睫がゆるりと持ち上がると、そこにはもう本来の金瞳が現れた。
何度見ても近距離だと美形効果は倍増。ディランの顔が好みど真ん中なミサは内心腰砕けで胸を押さえながら、心を落ち着けるように深呼吸する。
「そこは、私も殿下には破廉恥というか結構失礼で酷い扱いをしましたし、許す許さないとかを考えた事なんてありません。もしジャッジするならお相子という事に致しましょう。駄目ですか?」
「お相子」
「はい。お互い様というわけで恨みっこなしでどうでしょう」
これはミサにとっては死活問題でもあるのだ。よって彼女が保身のために真剣になるのは当然だった。
「お前は、それでいいのか?」
「はい」
ディランの顔にようやく安堵が浮かんだ。
(こうして見てると彼が暴虐王太子には見えないわよねー)
もう何度目か、しみじみと人間の多面性を感じたミサだ。
「そう言えば、殿下はもう魔法使いなのを隠さないのですね。側近さんはともかくここの兵士達にはなし崩しで知られてしまったからですか?」
捜索の間ずっとディランに抱き抱えられていたミサはフードを深く被っていたので半魔だとはバレていない。ただし不本意にも彼の恋人とは思われたようだった。
ミサの率直な問いにディランは苦い顔をするでもなく、どこか晴れやかに朗らかな声で笑う。
「むしろ好都合だった。これからは俺も実は魔法使いだと知られている方がグラニスへの牽制にもなる。向こうが行動を起こすのも俺が国王と同じように魔法使いとしては無能だと侮られていたせいってのもまあ、理由の一つには挙げられるんだろうしな」
彼も適当な時期に公表するつもりではいたようで、それが少し早まっただけだと気安い様子で片付けた。
「ところで殿下、まだ一つ疑問があるのですが宜しいですか?」
「何だ?」
「殿下はいつから私の聴覚能力をご存知だったのです? あの時は耳を塞いでもらって本当に助かりましたけれど、誰にも教えていないはずですが……」
果たしていつどうやって彼は知ったのか。舞踏会の日は半魔だとは知っていてもその力までは知らなかったはずだ。彼自身の台詞がそう断言していた。
「ああそれか」
ディランは何でもないような顔でしれっとしている。
「王宮の魔法使い達に調査させた。ターゲットさえ絞ればその相手の持つ能力をある程度は予想できるし、ミスティリアの髪色の変化からも魔法の系統を特定できたからな。まあただ、確信したのは今夜だよ。耳を使っているような仕種をしていただろ」
「……へぇ、そうですかぁ」
嗚呼、権力とは恐ろしい。
これでは個人情報筒抜けではないか。
(それに、うわ~、全く悪いと思ってない御様子だわ~)
その場で一緒に聞いていた側近が「あちゃー」と額を手で覆った。彼の方はまだ常識人なのかもしれないが、主人を止めない時点でミサは同類とみなした。
ディランが魔法に焦点を当てていたおかげか、幸い妊娠の事実までは突き止められてはいないようだが、それもいつまで秘密にしておけるかわからない。
ミサは密かに拳を握り自らに誓う。
(うん、この手の男からはすたこらさっさと逃げるに限る!)
三十六計逃げるに如かず。
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