肉食な深窓令嬢とチキンな暴君~私、お妃選考からどうにか逃げます~2
水を打ったような静けさの舞踏会会場に、誰かがごくりと唾を飲み込んだ音が微かに響く。それも一人二人ではなかった。
この会場に集った者達の間では、王太子の選んだファーストダンスの相手が王太子妃の最有力候補になるだろうとみなされている。
数人の娘が王宮に滞在する最終選考はあれ、実際は単なる形だけのものに過ぎず、王太子本人の意向がつまるところ最も大きいと目されているためだ。
その相手がよりにもよってミサなのか、と誰もが驚愕していた。
あの肖像画の絶妙に残念さしかない顔の令嬢なのか、と。
(は……?)
ミサも、仮面の下であんぐりと口を開けてしまっていた。
しかも王太子ディランはミサの返答も待たずに手を取ってダンスホールの中央へとズンズカと進んで行く始末。
娘の肩に手を置いていた父親はあんぐりと口を開けて腕を持ち上げたその形のまま固まってしまっていた。
(え……、えええええ~ッ!?)
こんな公の場では手を振り払う不敬もできずにミサは付いていく以外にない。大注目の中彼と向かい合うも、予期せぬ展開にどこか放心気味に佇んでしまった。
目配せ一つで演奏を開始させた彼は、前奏の間にさも当たり前のようにミサをダンスパートナーとしての位置に抱き寄せる。完全に彼のペースだ。
「いつまでぼけっとしている気だ? 始まるぞ」
「……っ」
声も上げられずにいるミサの仮面の奥を見透かすようにして、ディランは強気で華やかな笑みを浮かべる。
我に返りダンスホールの端まで娘達を追いかけて来たはいいもののなす術がなく青い棒のようになっている父親には悪いが動かないわけにもいかず、ミサは渋々音楽に合わせて足を動かし始めた。
(一体全体どういうつもりなの?)
「知っているか、このルクス王家には魔人の血が流れていると」
誰もが注目する中、しばし会話もせず踊りに集中していたミサの耳に唐突に王太子の声が入る。
「はい、存じています」
そう、王太子や彼の父親である国王はミサと同じように半魔なのだ。
これは公の情報でもある。
王国の貴族の中にも半魔だという血筋の家は幾つかあるのでそこは何ら不思議ではない。
更に王国指折りの魔法使い達はそれらの家の出が大半だ。
しかしそういう代々魔法使いを輩出している半魔の貴族達とは少し事情が違い、ディランの血統たるルクス王家の人間は魔人の血が極めて薄いのか、魔法を使えたりはしないのだという。
大多数の人間が魔法など使えないこの国で、魔法力がないのは決して弱点とは言えないが、ディランはその点を補うために鍛練に明け暮れ恐ろしく武芸に秀でていると言われる。
「俺には遠い先祖の、魔人の血が確かに流れているんだ。俺の偉大な先祖はきっと獣系の魔人だったんだろうな」
「獣系の……」
ミサは内心首を捻った。
どうして彼が今こんな無駄話にも近しい話をしてくるのか全くわからないからだ。
それも、獣系というのは彼の勝手な推測に過ぎない。
現在の半魔達の先祖達、つまりは古代の魔人達の家系図の詳細はそこまでハッキリしてはいないのだ。先祖がどんな魔人だったのか判明している血筋は極めて少ない。
ただし魔人は、姿が獣な魔人、魚な魔人、鳥な魔人、鳥と同じく翼を持つがその全容は天使のような魔人、悪魔のような魔人等々と大雑把に分けられ、更に例えば獣系の中でも分かれているようだとは知られている。しかしどんな獣かどんな生態かまでは不明だった。わかる可能性があるとすれば半魔当人が能力を使ってみて初めて予測がつく。
(ふうん、奇遇ね。私の先祖も獣系の魔人だったのかもしれないのよね)
ミサが能力を使う際、容姿は一部先祖返りのように変化する。
ピンクの髪になり瞳が赤くなるのだ。
そして、ミサの場合は兎のように異常に聴覚が鋭くなる。
それはたとえばかなり離れた山の向こうの会話や馬の蹄の音を拾えるくらいに優秀だ。
この高感度な聴力が彼女の魔法能力と言える。
だからこそ半魔とバレれば王国の鎖からは逃げられない。
遠くの会話を盗聴するのも可能な能力なので間諜としてなどいくらでも使い途はあるのだ。情報収集に有用な能力者を王宮が手放すわけもない。
「だからサニー嬢、――俺は狼のように大層鼻が利くんだよ」
「へ?」
気のせいだったろうか、ミサには一瞬ディランの瞳が赤く光ったように見えた。
彼も結局は半魔なのだし、魔法が使えないだけでふとした時に瞳が赤くなっても何らおかしくはない。……おかしくはないのだが、直前の言葉に引っ掛かった。
疑惑を胸にするミサを見下ろすディランはこの上ないように不敵に顔を綻ばせると、ダンスの動きにかこつけて鼻先をミサの髪に埋めた。くんとにおいを嗅がれるように息を吸われる。
(なになになになに!? もしかしてにおいフェチって言うか変態なの王太子ってデックって!?)
「――ああやっぱりだ。やっと見つけた。ずっと捜していたんだからな。俺がどれだけ会いたかったかわかるか?」
「はい?」
「今夜はその素顔も隠したままでいさせてやるが、この次はないからな。王宮に来た暁にはお前の愛らしい顔を毎日たっぷり眺め回してやる」
「な、何の話ですか?」
薄ら嫌な予感を漂わせていると、ディランは狼が獲物を狩る時のように金の目を細めた。
「薄紅色の髪も美しかったが、茶色の髪も中々結構似合うな、――ミスティリア」
「なっ……!?」
周囲に聞こえない声量で一般的なサニー嬢呼びから恋人相手にするように私的なミスティリア呼びになり、嫌な予感がぐんと強くなる。
「赤い瞳も熟れたサクランボみたいでそそられたぞ」
「どっどうしてそれを知ってるんですか!?」
(ままままさか、あの夜に半魔の血を覚醒させちゃってたの? 記憶がポッカリとないとこがあったけどその時に? そうとしか考えられない~ッ。私ってば何したのよおおっ!)
「ミスティリアはどうやらあの夜の記憶が飛んでいるみたいだな。これからは量に気を付けて酒を飲んだ方が良い」
ディランはふっと口元を笑ませる。
「まあ俺としては、無防備な姿を晒してもらっても全く構わないがな~?」
「――っ」
揶揄する口調で明らかに失態を犯したのだと暗示され、ミサは狼狽の余りうっかり足を縺れさせてしまい体勢を崩した。しかし難なくミサを支えたディランがそのまま腰を持って抱き上げる。
微塵もブレない逞しい両腕でミサをしかと持ち上げたまま、彼は軽やかにくるりとターンした。着地は彼が噂の横暴王太子などとは到底思えない程にとても優しくほとんど衝撃も音もなかった。
(し、紳士的……。本当にこの人って悪名高い王太子ディランなのよね……?)
うっかりこれじゃイケメン紳士だわっとときめいて見惚れてしまってから、慌てて頭を切り替える。仮面万歳。
しかし安心してなどいられなかった。
「あの日みたいに……朝露みたいに消えるのはもう許さない。俺の妃になる心の準備をしておくようにな、愛しのミスティリア」
これまでの会話と同じく周囲には聞こえない絶妙な音量で最後にそうミサの耳元に囁いて、ディランは彼女を解放する。音楽がちょうど終わったタイミングだった。
(な、な、な……!?)
「リオン、今夜はもう満足したから行くぞ」
困惑しひたすら絶句するミサを男爵の元までエスコートしてから、彼はダンスホール端に控えていた若い側近に声を掛けた。若いと言っても見た目からおそらくミサよりは歳上でディランと同じくらいだと思われた。顔付きからして堂々としているディランとは違って何だかとても好い人そうだ。そんなリオンと呼ばれた側近の男性を従えて、王太子ディランはくるりと踵を返して颯爽と遠ざかって行く。
ミサは一つぐっと息を呑みこんで足を踏み出した。
「ミ、ミサ!?」
男爵が戸惑ったように呼びとめたが彼女は床を目一杯蹴ってディランを追いかけた。
側近もイケメンだと思ってあわよくば唾を付けておこうと言うわけでは決してない。決して。
(これだけは言っておかないといけないものね)
「お待ち下さいディラン殿下」
ミサは美しい金のレリーフの施された両開きの白扉を押し開けて廊下に出たばかりのディランを呼びとめて、自分もするりと廊下に出た。
「何だ?」
意外そうな顔で振り返った彼は、わざわざ追いかけて来て何を言うつもりなのかとミサの言葉を上機嫌な様子で待ってくれている。
さっさと済ませてしまおうと、ミサは要らぬ前置きを省いて早速と本題を口にした。
「単刀直入に申し上げます。殿下、私をこの選考で落として下さい」
「何……だと? 急に何を言い出すんだ」
ディランは明らかに気分を害した顔でミサを睨む。しかしここで怯むミサではない。彼女にも引けない理由がある。
「私は王太子妃にはなれません。一人娘の私には男爵家を維持するという使命があるのです。もう跡取りもいますし」
きっぱりとしたミサの声にディランは明らかな動揺を見せた。そうかと思えばすぐ様激高したように歯を食い縛る。
「どこのどいつだ?」
「はい?」
「決まっているという跡取りだ」
「それはまだ言えません……」
ミサは言葉を濁した。次代はずばりミサだが、ミサの次の代は彼女の腹の中だ。ミサから見ての跡取りという発言だったが、妊娠を知らないディランは受け取り方が異なった。
妊娠を教えるわけにもいかないので何か場を凌げる言葉を探しているミサは、正直な所彼からの質問の意味がわからない。どうして怒ったように声が低められているのかも。
(どこのどいつって言い方が謎だわ)
しかしその疑問はすぐに解消された。
「サニー嬢は男爵位を結婚相手に託すつもりなんだろ? だからその相手は誰かと訊いているんだよ」
「結婚相手? ……ああ」
女性でも爵位を継承はできるが、この国の伝統ではその結婚相手の夫が家の顔として爵位を持つようになるのが普通なのだ。ディランが勘違いするのも仕方がなかった。
(でも、他に相手がいるって理由で妃候補を辞退できるかもしれないわ)
ミサは巧くハマったようなこの誤解を利用しない手はないと判断した。
「どこの誰かを知ってどうするのですか?」
「当然、殺す」
「えっ」
ディランはしばし押し黙って目抜きしてある仮面の奥のミサの目を見つめた後に、憤りを堪えるように眉間のしわを深くした。
「サニー嬢、正直に言え。さもなければ反乱分子として投獄する。それと偽りを述べても無駄だ。俺の嗅覚はその手の人体の微細な変化も嗅ぎ取れるからな」
「い、言いたくありません」
「……相手を庇うのか? お前自らが投獄されても? そこまでそいつを想っているのか?」
(どうしよう困るうう~! もし私が投獄なんてなったらお父様は必ず王家に反旗を翻すもの。グラニス国って外憂もあるのに内輪揉めなんてとんでもないわ! そうなればうちの領地の皆だって被害をこうむるでしょうし。牢獄の劣悪な環境じゃお腹の子にだってどんな悪影響があるか)
仮面の奥では顔色を青くするミサが指先を震わせる。そんなミサをどう思ったのかディランは嘆息した。
「はあ、投獄はしないから安心しろ。だが早く言え」
「……い、嫌です」
「頑迷だな」
二人の間に意地と意地の衝突の火花が散る。
他方、側近は二人の会話にハラハラとしていたがピンと来るものがあったらしく、ポンと一人呑気にも手槌を打った。
「ああそうでしたか、なるほど。殿下がお捜しの女性がこちらの仮面の…………って、え?」
いやでもあの肖像のぶちゃいくなサニー男爵令嬢ですよね、と側近は今度は葛藤する。
ミサの髪の色だって極々普通だ。というか、その点は他に置いておくにしても仕える王太子殿下の女性の好みは綺麗所ばかりを見過ぎていて一周回ったのかもしれないと勝手に納得した。直後に何かを察した王太子殿下にさりげに脳天をはたかれたが。
「うう、暴力反対……」
暴君相手に効果のない言葉を口に、ほんのり涙目の側近はしかし大人しく成り行きを見守った。
「そもそも何故だ? 他の男と結婚するつもりだなんて、どうしてだ? 俺達は愛し合った仲じゃないか」
「こんな廊下であっ愛し合ったとか言わないで下さい。側近さんの前で恥ずかしいじゃないですか。それにあれは何と言いますか正直に申しますと、愛とか恋とかそんなつもりはありませんでした。ですからまずはそこの所を誤解されないようお願い致します。責任とか義務とかそういうのは結構です」
「……俺は好みではなかったと?」
「すっっっごくタイプです!」
廊下に力強い声が響いた。
ディランが「ふ、ふうんそうか」と咳払いする。
側近だけはこれはデレだとハッと天啓のように悟ったがミサにわかるわけもない。
「ですからあの夜はついに見つけた最高級に理想のイケメン~ッと興奮して積極的にがっついて…………ととと、はしたなかったですわね、申し訳ございません」
「理想の男か、ふん、まあ悪くはない評価だな。だったら妃を辞退する必要はないだろ。男爵家の問題は他に解決方法を考えれば良い。例えば爵位はお前自身が持つとかそこに気が進まないんなら、お前が産んだ子の誰かに継がせるまで王家預かりとしておくのも可能だ。だから安心して恋人とすぐに別れろ。……俺は子供は三人四人は欲しい」
「え、ええとまだご理解頂けていないのですか?」
何を、と一人で理想の家族を想像して浸っていたディランは怪訝に眉をひそめる。反対に彼の側近は大きな衝撃を受けたように「最近のご令嬢って怖い」と小さく小さく口にした。
「私はあなたの体が目当てだっただけです。ただそれだけです」
「からだ……目当て……」
「はい、ですのでこんなふしだらな娘など妃には相応しくありません。どうか落として下さい。お願いします。それでは父が待っているのでこれで失礼致します。もうこれで二度とお目にかかる事もないでしょう。選ばれたお妃様とお幸せに」
こうもハッキリと面と向かっては言われた事のなかった台詞にディランはしばし石になったように固まったが、会場に戻ろうと背を向けたミサの茶色い髪がふわりと揺れて、それを無意識に視線で追った。
その毛先があの夜のように薄紅色に見えた気がして気持ちを立て直す。
自分と一夜の過ちを犯そうとも何だかんだと下手な言い訳を用意して頑なに恋人を慕っているようだが、まだ切り崩す部分はあると踏んだのだ。
「――サニー嬢も半魔だろ。そこはどうするつもりなんだ?」
ピタリと、ミサの歩みが止まる。
そうして彼女はゆっくりと振り返った。
「……脅しですか?」
「違う。俺ならその秘密を守ってやれる。だから俺の傍に居ろ」
ミサは仮面の奥からじっとディランを睨む。
「私が半魔として有用かもしれないとお考えだから、傍に引き止めようとなさるのでしょう?」
「有用? 言っておくが俺はお前にどんな能力があるのかまではまだ知らない。知りたくないとは言わないが、ただ、どんな能力だろうとお前が秘密にしたいなら俺の力でそうできる」
ミサは尚もディランを凝視して、口を開く前に一度ぎゅっと唇を結んだ。
「本当に秘密を守って下さる気があるのでしたら、誠意を見せてこの選考では落として下さい。そうでなければ信じられません」
「なっ」
「話はそれからです。落ちてから改めて必要であればその話し合いをしましょう。では本当にもうこれで失礼致します」
ミサは不敬罪とも断罪されかねない強気発言を浴びせてさっさと背を向ける。
「ミスティリア待て!」
(ええーっ、まだ食い下がってくるのー!? どうしよう何か有効な言葉はーっ)
「――あなたはデックじゃなかった!」
ミサはそう叫んで掴まれた腕を振り払う。
ディランが息を呑む。
「嘘つきの言葉なんて信じられません!」
思い付いた極め付けの拒絶理由を口にするミサは手に汗を握った。これは賭けでもあった。ここでディランが俺を嘘つき呼ばわりするのかと激怒するか、ミサの言葉を真摯に受け止め考慮するかは読めない。
しかしこうでもしなければこの場でこれ以上話しても益がないどころか、折角のミサの決意表明を強引に握り潰されてしまいそうだったのだ。とにかく早くこの場を去りたかった。
(また呼び止められる前に早く会場に戻ってお父様と合流しないと。その足でホテルに帰るのよ)
後ろを見もせず再び一歩を踏み出し、心なしいや明らかに早足になったものの、結果を言えばディランが追いかけてきて何かを言ってくるような展開にはならなかったのでそこは大いにホッとしたミサだった。
「殿下、どうするおつもりです? サニー嬢を追いかけなくていいんですか?」
ミサが姿を消してしばらくしても動かないディランを不審に思った側近ライオネルが彼の顔を覗き込み目を瞠る。
「で、殿下?」
ディランは何とも言えない顔色の悪さで、呆然としていた。
側近も見た事のない表情だった。
国王が隣国との戦いで重い怪我を負って帰還した時も、彼はこのような絶望の表情は見せなかったというのに、一体全体どういう事態なのか。
側近は我知らず緊張の面持ちになる。
と、ここでディランが極々小さくこう呟いた。
「なあリオン、俺、嘘つきって言われた……」
ん、と側近は何やら薄らと言い知れない予感を胸に確認のためにも聞き耳を立てる。
「だが、あれは、お忍びだったから仕方がなかったんだ…………しかし俺は嘘つき、だと思われているらしい」
呆然とした表情も姿勢も動かしてはいないのに、悄然としたか細い声だけが妙な重みを持って側近の鼓膜に語りかけてくる。人の寄りつかない深夜の井戸の底から幽かに聞こえてきそうな声だった。
側近はぶるりと震えたが、これまでの成り行きから王太子の心境をほぼ推測できた。
「で、殿下、サニー嬢を追いかけてもう一度落ち着いて話し合いをされた方が宜しいのでは……? おそらくはまだ追いかければギリギリ会場にいるかと思いますし」
そうしなければ十中八九彼女は逃げ帰ってしまうだろうと側近は確信していた。
何しろ王太子にこのような拒絶と侮辱を投げ付けたのだ。生きて王宮から帰れる保証はないと思っても何ら不思議ではない。実際そのような事例は過去にある。
サニー男爵の方も娘から今の展開を聞けば、即刻舞踏会からの辞去を決めるだろう。
いや、下手をすれば王宮からも去るかもしれない。
何しろ彼女はサニー男爵の一人娘だ。娘の命を最優先にしてもおかしくはない。その場合、この国の軍事力には痛手だろう。
「殿下、時間が経てば経つ程気まずくなりますし、会うのも難しくなるかもしれませんよ」
そこで無理を通して彼女を召し出させた結果内乱に発展してはかなわないと側近が難しい顔で危ぶんでいると、ディランが側近の問いへの返答だろう言葉を発した。
「……できない」
「はい?」
ディランはやや大仰にも心から訴えるように指を大きく広げた片手を自身の胸に当てる。
「できないと言ったんだ。そんな真似をしてしつこい男と余計に嫌われたらどうする!?」
「え……」
「嘘への怒りも冷めないうちに下手を打って、今度は折角タイプという俺の見た目すら嫌悪されたら!? プラス評価が一つもなくなるだろうがっ」
「あの……」
「知らなかった……本気の恋がこんなにも苦しいなんて。この俺が恐れを抱くなんて……っ!」
「あー……」
側近は何だかとても生温い気持ちになって遠い目をした。
重々わかってしまったからだ。
王太子ディランは恋にチキンだった、と。
しかしチキン野郎だなどと小馬鹿にすれば、如何に長年の付き合いたる側近でも不興を買って処刑場行きだろうなとわかっているので何も言わない。
どうしたもんか、ここは自分が恋のキューピットとして陰で一肌脱ぐしかないのかとちょっと真面目に面倒事を考えていると、彼らも使った廊下と会場を隔てる扉が開いて三人の令嬢達が姿を現した。
「え、あら! 王太子殿下よ。まだいらしていたんだわ」
うち一人が最初に気付いて他を促し、令嬢達は揃ってディランへと目を向ける。
「で、殿下、ご機嫌麗しく。ところでお顔の色が少々……」
「あの、どうされたのです、どこか具合でも悪いのですか?」
「大事な御身ですもの、王宮医を呼んだ方がよろしいのでは?」
令嬢達が気遣いを口に傍まで寄ってくる。王太子に好意的な家の令嬢達だろう。ディランがとっくに去ったと思っていただけに嬉しそうだ。
「ディラン殿――」
「――失せろ。煩わせるな」
しかしディランは顔付きを一変させて氷のような目で冷たく一瞥して低い声を放つと、もう彼女らを見もせずにズカズカと廊下を王宮の奥へと歩き出す。
その後を同情を胸にはするも、ディラン同様に表情を冷めたものにしたライオネルが付き従った。側近とは言えここで彼が柔軟な態度を見せれば、ディランにとって付け入る隙と思われかねないので不用意な厄介を避けるためだ。
気の毒にも、取り残された令嬢達は顔面蒼白になってしばらくその場で震えていた。
その後の舞踏会は王太子不在のまま進行し、少し経ってから一度戻ってきた側近の口から合格者は追って通知するので今夜はもう各自自由にしていいとの伝達もあって、拍子抜けした貴族達は形だけの談笑を交わしていたという。
ライオネルの予想通りサニー男爵家の父と娘は早々に退場していた。
廊下から会場に戻るや、ミサが有無を言わさずに男爵を引っ掴んで風のように去ったのだ。男爵主導だろうとのライオネルの予想とは結構違っていたが、二人が帰ったという一点だけは全くの予想通りだった。
そしてそんな父娘二人は現在馬車の中で向かい合って座っている。
「どうしようどうしようどうしよう、何で? どうしてなの?」
ディランの言動を的確にまとめれば、彼は本当は半魔の血の力つまりは魔法を使えて、しかもその魔法能力は優れた嗅覚。
故にその能力によってミサがあの夜の娘だと嗅ぎ取った……というわけだ。
幾ら容姿を隠そうと、人それぞれのにおいは誤魔化せない。
香水を使った所で普通の狼や犬の嗅覚以上に半魔の嗅覚は凄いのだ。魔法能力の一つなのだから数多の強い香りが混ざっていても嗅ぎ分けるのは朝飯前だったろう。
嗅覚と聴覚の違いはあるが、その手の詳細な識別や区別はミサの聴覚でも可能だからだ。
ミサは人それぞれの声の識別が可能だ。単なる敏感な嗅覚聴覚ではなく、そこには厳然とした魔法能力と言う概念が当てはまる。
(きっと私の聴覚同様、嗅覚にも距離の限界があって、だから今日まで距離のあった私のにおいを見つけられなかったんだわ。国内は広いし王太子だっていつもどこかをお忍びで歩けるようには暇じゃないでしょうしね)
ミサだってそうそう遠出はできない。
あの初めて会った日はたまたま父親も屋敷に長期不在だったので、ここぞとばかりに男爵家の領地から離れた所に出向いていたのだ。二人の奇跡的な偶然が幾つも重なった結果の縁だったのだが、こうなってしまってはミサにとっては嬉しくない縁とも言えた。
(っていうか、王太子殿下サマサマってば実は魔法を使える癖に自分は使えないですーって周囲に内緒にしてたってわけ? ああそれとも一部は知ってるのかしら。王宮の秘密ってわけで。だから不用意に彼に盾突いたりできない、とか?)
ミサの指摘はあり得る事だった。
貴族の中にも当然魔法を使える者がいる。
ディランが全く魔法を使えないのなら、横暴な王太子を排除せんと彼の警備を出し抜いて暗殺するのも不可能ではないのだ。
しかし本当は魔法を使えるとすれば暗殺も容易ではなくなる。
(まあそこの真相はともかく、王太子は私を最終選考に……って言うかもう妃として王宮に残したいと考えているのよね)
ミサは時間を掛けて綺麗に整えた頭を両手でぐしゃぐしゃと乱した。
「ああああ~ッ遠路遥々王都になんて来たばっかりにっ。将来絶対に殺されるか幽閉されるかして苦痛と苦労を味わうだろう怖い男の嫁なんて真っ平だわーッ!」
選考を辞退したいとの意思表示はしてきたものの、一方的だったのとディラン本人がそもそもミサで乗り気のようだったので、ハッキリ言って全く期待はしていない。
(まあ今夜一番の衝撃は、デックはデックじゃなかったって事だけども!)
デックの正体を知り大いに驚愕はしたのだ。とっさに変声を使って身バレしないようにするなんて安直な案しか思い浮かばなかったくらいには。そうは言っても仮に他の行動を取ろうと、結局は彼の嗅覚の前では無意味だっただろうが。
「うう、ショックの連続で頭が痛い……」
走行の規則的な揺れの中で不規則に嘆くミサは、向かいの席で頭を馬車の壁に押し当てて屍のようにどんよりとしている父親を気遣ってやる余裕もない。今の父親では五歳児にも剣で負けるだろう。しかしこちらの思考を整理するまで勝手にどうぞ落ち込んでいてくれと放置状態だ。
(でもあの人、嘘じゃなく私を脅してなんてなかったわね)
脅しかと詰問し彼が違うと答えた際、ミサは仮面の奥の瞳を微かに赤くしていた。
彼女の能力でディランの心拍や呼吸を聴いても嘘をついている時の乱れは聴こえなかった。
(悪逆非道な奴なら私みたいな小娘一人を恐怖で従わせるなんて朝飯前でしょうに、不可解だわ)
これなら脅された方が反発もしやすかった。
困惑はするが、しかしまあ実際に無理強いや脅迫をされるよりはマシかもしれないと思い直す。
「それにしてもどうにもこうにもどうにかこうにか理由を付けて舞踏会を辞退してれば良かったあああ~」
しかしもう遅い。思い切り身バレしてしまった。
欲しい物は実力でその手にしてきた男、暴虐王太子ディランは決して見逃してくれないだろう。
(かくなる上は……)
ミサはすうと息を吸い込む。
「――お父様、領地に帰ったら早々に私は死んだ事にして下さい!」
「――よし、夜逃げだ! 隣国に亡命しよう!」
くっ付いていた壁から急遽がばちょと身を起こし叫んだ父親と思い切り声が被ったが台詞は聞き取れた。
さすがは親子という互いの物騒な発想に、二人はぱちくりと目を合わせてしばらく沈黙したのだった。
とりあえずその日は夜も遅く、王都を出て馬車を走らせるのには些か視界の不確かさに事故の危険があったのもあって、どうか王宮から兵士が来ないよう願いながら宿泊先のホテルに戻って休息した。翌日は当初の計画通り早々に領地へと出立したが、やはりディランの手の者が追いかけて来ないかと気が気ではなかった。
結局はこれも杞憂で二人は無事に男爵領に戻れたが、ミサはもう二度と王都には行かないと固く心に誓ったのだった。
幸いミサは、王太子ディランから不敬罪での捕縛命令が出されるような不運には見舞われなかった。
舞踏会から数日して、何の変哲もない王宮仕様の封書が届いたのみだ。
それは王太子妃二次選考の結果に関する手紙で、合否は封を開けなくともわかっていた。
王太子はミサ以外とは踊らなかったらしい。
しかも一夜の相手のミサを捜していた。
本気か冗談か愛しのなどと言う言葉も掛けられた。
舞踏会の廊下でのやりとりでもわかったが、本命候補はどう考えてもミサだ。
きっと王宮には形だけ他の令嬢達も滞在させるつもりだろうが、最終的な選考結果はこの時点で既に出ているに違いない。
ミサにとっては頗る冗談ではなかった。
この通知書を暖炉の炎にくべてしまいたかったが、万一後でリサイクルしますなどと言われても大変なので忍耐を総動員して、更にはぐしゃりと握り潰すのさえも辛うじてやめておいた。
念のための確認も兼ねて、気は全く進まなかったが中身を読めば案の定の内容で、その他にも最終選考に際してのあれこれが記されており、現在王宮には王太子が不在なので、彼が帰還次第本格的なその最終選考を開始するとの事だった。その頃にまた追って日程などの細かい指示を寄越すらしい。
(ふん、やっぱり彼に誠意なんてなかったわね。私の弱みをどう利用しようか考え中って所かしら)
王宮不在の王太子がどこに行っているのか気にならないでもなかったが、ここにはいないだろう。
ミサは一日数回半魔の聴力を使って周辺に異常がないか、とりわけディランの関係者が潜んでいないかをチェックしているのでそこは確実だ。
加えて、最終選考はすぐ始まるわけではなく時間的な余裕ができたのは僥倖でもあった。
封書の中身をチェックし終えたミサは、それをテーブルに置いて疲れた溜息を落とす。
現在彼女は父親と屋敷の寛ぎルームでいつものようにティータイム中だった。
気分を少しでも変えようと紅茶を一口飲んで焼き菓子をつまんだ。
多くの光の射し込む窓辺に静かに腰かけていると、目下の不安など一切がどこかへ消えていくような充足感に満ちてくる。
しかしいつまでも心地の良さを味わっているわけにもいかない。
今後の対策を練らなければ未来は暗い。
「お父様、グラニスとはきな臭いですし、亡命先はやはりグラニスがいいですね。そこに逃げれば王太子殿下もそうそう私達を追っては来れないと思いますし…………ってお父様、聞いてます?」
「あ? いや悪い。後継を誰にしようか今あみだくじを作っていてだな」
当面の逃亡資金を抜いた分の財産、つまり爵位や領地などは優秀な部下にそっくり託そうと男爵は考えているのだ。ミサに異論はない。それにしても何と言うざっくりして運任せな選考方法だとミサは呆れたが、父親を責めはしなかった。父親の部下たる男爵家の騎士達は逸材揃いなので誰が新トップになっても不安はないからだ。
それに、こうなった全ての原因はミサだ。
(姑息に肖像画を偽装しなきゃ何事もなく落とされてたかもしれなかったのよね……)
ミサはここ数日の間に一次選考で落選した令嬢達の証言を集めていた。
とある美人な令嬢は張り切って大きなサイズを送って落とされたし、無駄に目立つように凝った額に嵌めて送ったという美人令嬢もあっさり落とされたし、想いの丈を綴ったベタベタなラブレターを添付した美人令嬢も落とされていた。
どこの家もサニー男爵家に引けを取らない利用価値のある家柄だったので、知った時はびっくりしたものだ。
(あーあ、私は完全に方向違いの失策をしちゃってたのよねーハハハ……)
有り得ないような不細工肖像画がかえって興味を引いてしまったのだ。人類の究極を表現などせずに、何ならメイドの誰かにウィンクでもさせた絵を描いておけば良かったと後悔している。確実に落とされただろう。
(もしも過去に戻れるなら一次選考からやり直したい~)
いや、デックとしてのディランと出会ったあの夜からやり直せれば……とまで考えてそれはやっぱりやり直さないとブンブンと頭を振った。決してディランの魅力を味わいたいと邪な思惑が過ぎったからではない。
(……一割くらいはちょっとそうだけど、この子と会えないなんて嫌だもの)
ミサは不思議と子供の父親が恐怖の王太子ディランでも嫌ではなかった。
そこは何か自分自身でもよくわからないような曖昧な感情がある。
心のどこかでディランは結局は好感を抱いたデックでもあると思っているからかもしれない。
(でも絶対子供の存在は知られないようにしないと。妃確定の理由にはもってこいだもの。それに王太子は単に私の魔法能力に目を付けただけよね。非情って言われてるような人がまさか私を好きになんてなるわけないだろうし)
落ち着いて改めて考えてみればそうとしか思えない。
大体、あの一夜の切れ切れの記憶を手繰り寄せてみても、男が恋に落ちるような自分の良い所など全く微塵も思い付かない。ぐだぐだと管を巻いた挙句欲望に任せて自分を襲った女のどこに惹かれるというのだ。
舞踏会で彼の口から出た言葉の数々は、だからこそ一見睦言のようできっと違う。
魔法使いを一人でも多く王家に従わせるために、その美貌で小娘一人籠絡するくらいは容易と思っているのかもしれない。
確かに声も容姿も、ついでに言えば酔う前はどこか隙のない感じだったのが酔うとやや子供っぽくなる性格的なギャップの部分も好みドンピシャだったが、端から何も期待してなどいない。
唯一、子を授けてくれたという一点においてのみ感謝はしていた。
(まあ将来生まれた子には、ディラン殿下の子供とだけは恋愛しちゃ駄目よって教えておかないといけないでしょうけど)
うっかり異母きょうだいと結婚でもされたら大変だ。この国でも周辺国でも近過ぎる血の婚姻は忌避されるのが普通なのだ。
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