目覚めたら妊婦だったの私のお相手が……番外編 アドリアンは無自覚台風

 母親と共に修道院に居候している小さな少年アドリアンは猛烈に手汗を掻いていた。


 握り締めた掌が石膏で固められたように開けない。それくらいに力を込めてしまっていたのだ。


 何故なら、目の前にかつてない類いの強敵が出現したからだ。


 初めて目にした時はまさかそれが敵になるなんてほんの少しも思わなかった、むしろモフモフふわふわで夜眠る時に抱いて眠りたいとすら渇望した程だ。

 なのに、だのに、それが今はすっかり嫌いになった。


「にゃんこーっ、いい加減にアデライド様から離れてよーっ」


 この日は何とアドリアンが待ちに待っていたアデライドの来訪だった。以前約束してくれた通りに彼女は意外に早くアドリアンに会いに来てくれたのだ。とても嬉しくてスキップしながら彼女の待つ客人を応対する用の部屋に入った彼は、会いたかった相手の姿を一目見るなり、母親から「くれぐれも礼儀正しく挨拶するのよ」と言い含められていたのもすっかりどこかに飛んで「アデライド様~」と笑顔満面で走り寄ったのだ。


 しかし、期待していた嬉しい抱擁は叶わなかった。


 しゅたっと、まるで夜闇から飛び出てくる暗殺者の如き動きでそれはアドリアンの前に立ちはだかったのだ。


 銀の長い毛をした猫だった。赤い眼の。


 その猫はまるでアデライドに近寄るなと言わんばかりの形相と姿勢で毛を逆立て威嚇してきたではないか。


「わあっ、びっくりしたあ。あれ、この猫ってアデライド様が一緒に連れ帰ったあの猫?」


 足を止めた少年が目をパチパチさせて問うと、向こうも猫の行動に驚いた顔をしていたアデライドが次にはどこか呆れたような顔になって「そうよ」と頷いた。

 彼女の声が聞けてアドリアンはもっと嬉しくなった。シスター達の話ではアデライドは皇帝というとても偉い人の家に住んでいて、お腹には彼の子供がいるのだと言う。確かにここを去った数ヵ月前と比べるとお腹が出ている。ふんわりとしたドレスを着ているので余り気にならない程度だが。そのお腹は実はもっと大きくなるのだと後で知ってびっくりする事になるアドリアンだ。


 詳しい知識がまだなくても、アデライドのお腹がとっても大事なのだとはわかる。だから抱きつくにしても強くするつもりはなかった。


 けれども猫はそうは思っていないみたいに敵意満々だった。いやそもそも指一本でも触るな彼女は自分のものだと叫んでいるようにアドリアンには思えてしまった。猫なのに。

 自分でもおかしな考えだなとは思ったものの、まずは猫を宥めてアデライドに近付こうと自らを落ち着けた。

 しかし結果は芳しくなく、どう動こうと終始睨まれシャーッと凄まれて今に至る。

 ただ、彼は諦めはしなかった。小さな体に大きな闘志を燃やす。

 にゃんこという苦難を乗り越えて大好きなアデライドと遊ぶという崇高なる目的のために。


 猫よ覚悟と踏み出した矢先、あっさりとそれはアデライドから「大人げないわね」と窘められながらも彼女の膝の上を占領した。


 アドリアンは母親にそう甘えるように膝枕をしてほしいとリクエストするつもりだっただけに先を越された、計画丸潰れ、と絶望すら感じた。


 幸い、アデライドが猫を押さえていてくれたのですぐ傍までとてててと近付けて、彼女から元気にしていたかと頭を撫で撫でしてもらった。

 されど、前の時のように銀のにゃんこに撫で撫でしたいとは全く思わなかった。

 それどころか、バチバチと視線と視線で火花を散らした。

 そんな一人と一匹を前に、アデライドは一人額を押さえた。

 ややあって彼女から「仲良く」と厳命されて渋々猫は威嚇をやめ彼女の膝で丸くなった。

 アドリアンも長椅子だったので彼女の隣にちょこんと腰掛けた。

 さて何を話そうかとドキドキしながら思案していると、ノックの音が聞こえ、この部屋まで連れてきてくれた若いシスターとは別のシスターが入ってきた。


「お嬢様、ここに着替えを置いておきますので、もし必要になった時にはどうぞお使い下さいね。それから、そうなってしまった折には帰る際にも遠慮なくお声掛け下さい」

「ありがとう。何て心強い」


 アデライドとシスターは何か通じるものがあるようで、しかとアイコンタクトしていた。

 この時はまだ女子修道院に籍を置いていたおばちゃんなシスターが退室し、アドリアンはシスターが運んできた着替えを眺めて首を傾げた。

 綺麗に畳まれて置かれているのはどう見ても男物の修道服。

 果たして必要だろうか、と。


「その服、大きいけど、アデライド様のお腹が大きくなったから、ゆったりした服にしたの?」

「え? あ、ああそうよ、そうなの。ふふっ、アドリアン、お腹撫でてみる? まだまだ小さいけどね」

「いいの?」


 膝の上で丸まっていた猫がすっくと立ち上がって反対でーすとばかりにお腹に擦り寄り物理的にアドリアンの手の邪魔をする。


「もー、こらヴィクト……ううんヴィー、邪魔するなら今すぐ放り出すわよ? 大体ね、大人しくしててくれないと毛が飛ぶじゃないの」


 そう言ったアデライドは小さくくしゃみをした。

 猫は魔法みたいに急に大人しくなった。乱暴猫に言う事を聞かせた彼女をアドリアンは純粋に尊敬した。


「本当に撫でていいの?」

「うん、どうぞ。アドリアンに撫で撫でしてもらったら赤ちゃんは元気に生まれるぞーって張り切ってくれちゃうもの」

「そうなの!? へへっ、ぼくが撫でたらモリモリなんだ!」

「そうよ~」


 二人で笑みを近付け合った。この中には自分よりも猫よりも小さな赤ちゃんがいるのだと、ゆっくり優しく表面を触る。服の上からではあったけれど。


「へへっ、手がぬくぬく~」


 もうお終いと言われないのをいい事に、撫でたり耳を当ててみたりとアデライドにくっ付いていた彼は、彼の方もまだ小さな手を添えたまま、うとうととしてきて目を閉じた。

 膝の上の半分をいつの間にか猫から横取りしていた小さな少年は、寄りかかる形で念願の膝枕を手に入れていた。

 猫は変顔になっている。かなり不満そうだ。それでもアデライドから撫でられると機嫌を直したようにした。

 アドリアンにとっては至福の時間がゆったりと過ぎていた。





 しばらく寝かせたままにしていると、銀の猫がむくりと起き上がってアデライドへとしきりにスリスリし始めた。


「え、何? お腹空いたとか?」


 違ったようで、猫はしきりに修道服を見てアデライドを見てとを繰り返す。

 アデライドはピンときた。


「あー。もしかしなくても人に戻りたいのね。え、でも戻っちゃって大丈夫? シスターは便宜を図ってくれるだろうけどまだこの子いるのよ」


 猫は問題ないと言うように堂々と「なあーお」と太めの声で鳴いた。


「うーん、何か不安。だって戻った時は全裸でしょ」

「にゃお~にゃお~にゃお~、にゃお~?」

「…………はいはいはーいわかったわよ。くっ、猫可愛さに負けた。だけどこれヴィクトルがやってるんだって思うと複雑っ。あ、口は駄目だからね。あと、私が目をつぶってる間にちゃんと着替えてよ?」

「にゃー」


 猫はどこの部分が不満なのか面白くなさそうに鳴いた。

 アデライドは少年を起こさないようにそっと身を屈め、猫の頭頂部に息を止めてちゅっとする。

 彼女は即座に素早く身を起こし顔を背けるようにして目をつぶった。猫になる魔法の解けた男の気配が遠ざかりゴソゴソと衣服を被る音だけが室内に聞こえている。

 少し経ったのでアデライドは声を落として問い掛けた。


「ねえ、もういい……?」


 返事がない。


「ねえってば、ヴィクトル? ヴィクトルさーん?」


 返事がない。

 不審に思ってアデライドはそろりと服の置かれていた方へと顔を向ける。

 そこには人間に戻ったヴィクトルが立っていて、まだ半裸だった。


「きゃーっちょっと何でまだ不完全なのよーっ。一人で着替えられないとか言わないわよね!? ねえっ!」


 真っ赤になったアデライドはしかし、ふと気付いた。

 手を止めた彼が何故か変に引き攣った顔をしている。


「ヴィクトル……?」


 一先ず気を取り直した彼女は彼の視線を追いかける。


「あ」


 そこにはいつの間にやらパッチリ目を覚ましているアドリアンが頭を起こしていた。目を真ん丸にした驚きの表情だ。


「猫が、猫が、男の人になったよ……!? アデライド様がちゅってしたら!」

「あー……それな! っていやええと今のはねー、今のはー」


 バッチリ見られていたのに全く気付かなかった二人は少し自戒を含んで視線を取り交わす。皇帝陛下がここにいるとバレるのは宜しくない。しかも猫になってゴロゴロしていたなどと広まれば皇帝ヴィクトル・ダルシアクの沽券に関わる。


 そんな皇帝陛下の目に不穏な光が過ぎった気がして、アデライドは本気で慌てた。


 真剣な顔で少年に向き直り真正面から見つめる。


「アドリアン、あのね、これから言う事をよーく聞いて頂戴?」

「うん?」

「あの人はね、実は猫になる悪い魔法を掛けられていたの。だから私がちゅってして魔法を解いてあげたんだけどね、まだ悪い人に追われていて、見つかっちゃいけないのね」

「ええっそうなの!? 大変だ!」

「うんそう、大変だなの。だから、彼がこの部屋にいた事は誰にも、お母さんにもシスターにも内緒にしてくれる? これはね、私からアドリアンへの秘密のミッションよ」


 少年アドリアンはきゅっと眉を寄せるとこくりと首を頷かせる。秘密とかミッションという言葉にやる気を出したのだ。


「わかったよアデライド様!」


 アデライドとヴィクトルがホッとしたのも束の間だった。


「ねえ、ねえ、アデライド様」


 少年から何か内緒話でもしたそうに話し掛けられて、アデライドは文字通り耳を傾けた。上半身を少し斜めに屈める。

 刹那、ちゅっ、と少年の唇が頬に触れた。


「え? アドリアン?」


 彼の可愛い行動にアデライドは何だか和んで微笑んだ。

 一方、ヴィクトルは絶句中。愕然と目を見開いているのがやや怖い。ホラーな半裸修道士の爆誕か。彼を見てビクッとなったアデライドはあのヴィクトルには暗い廊下とかでは絶対追い掛けられたくないなと密かに思った。ホラー過ぎてチビる。

 ジェラシーという言葉もきっとまだ知らないだろう無垢なアドリアン君は、ドヤ顔で次のようにのたまった。


「これで、アデライド様に掛けられた悪い魔法も解けたね!」

「私の悪い魔法って……?」

「その猫の人と無理やり一緒にいないといけないって魔法だよ。もう自由に好きな人といられるよ!」

「は、いぃ~?」

「何……だと……?」

「だって今も赤くなって嫌~って顔したでしょ!」

「え、それは単に照れて……ううん何でも」


 アドリアンは身を乗り出すと意を決したような目になった。


「だからね、だから、アデライド様……――ぼくがいるよ! ぼくはアデライド様が大好き! ぼくと結婚式して!」


 間。

 にこにこするアドリアン以外、そこに動くものはなかった。


「――ぷふふっ、結婚じゃなく結婚式って言っちゃうのが可愛……って、あーっ、えーーーーっと!」


 部屋の片隅の殺気が膨れ上がってアデライドは口をつぐんだ。


「あっあのね、その思いやりの気持ちを忘れないでね、アドリアン! 私のためを思ってくれてどうもありがとね。でもこの人といるの嫌な訳じゃないから安心して!」


 これ以上残酷皇帝を刺激しないようにアデライドは感謝を込めてアドリアンを抱き締めた。

 次に、場の空気を変えようとおばちゃんシスターを呼んでお茶とお茶菓子などを頼んだ。


「りんご……」

「どうしたのアデライド様?」

「あ、ううん何でもないよー」


 籠に盛られたフルーツの一つにりんごがあった時はついつい深刻な気分でごくりと咽を鳴らしてしまったアデライドだったりする。

 因みにこの日、あのトラウマりんごだったエドゥアール・ギュイは普通に帝都で仕事だ。ここには来ていない……はずだ。


 おやつを食べて満腹になったアドリアンがまた眠気を起こした辺りでそろそろかと、彼に会いにくるという目的は果たしたからと、二人は帰る意思を伝えた。

 また会いに来るからと約束をした。勿論アデライドが。ヴィクトルはしなかった。だけどたぶんその時も付いてくる。人か猫かは別にして。

 悪徳シスターに頼んでヴィクトルだけこっそり抜け道から出してもらった帰りの馬車の中。


「子供の思考回路はホント思いもよらないわよね」

「…………ああ」

「ところで、また風邪引いたりしてないわよね? 具合どう?」

「…………普通だ」


 怒ったようにずっと仏頂面を変えない皇帝様に辟易とするアデライドは、このストレスはお腹の子に良くないと判断した。


「ヴィクトル、いい加減に機嫌直してよ。アドリアンはまだ子供なんだし、多少の失言は大目に見てあげて」

「失言ばかりじゃないだろうに。あれはお前にキスをしたんだぞ」

「え? あれ駄目だった? 子供の無邪気さが可愛くていいじゃない」

「…………」


 ヴィクトルの機嫌は更に下がった。

 アデライドは内心はあと溜め息をつくと気合いを入れた。何とかしよう、と。このまま帰ってはエド辺りにとばっちりが行きそうで不憫だからだ。


「ヴィクトル」


 アデライドは向かいの席へと移動した。彼の隣へと。


「動いている馬車で立つな。危ないだろうに」


 少しだけ窘めと驚きを浮かべた婚約者へとアデライドはポンポンと自らの膝を叩いて示す。


「何だ?」

「埋め合わせ」

「……?」

「膝枕」


 ヴィクトルははっとして一瞬で機嫌を直した。


「なら遠慮なく」


 素直に彼は横になる。

 さらりとしと銀髪を撫でてアデライドはくすりとした。気持ち良さそうに彼は目を細めている。

 これくらいのスキンシップなら構わないと、この時のアデライド――ノアは言い訳のように自分に言い聞かせた。


「男か女かわからないけど、この子、あなたに似てるといいわよね」


 ヴィクトルはふっと柔らかに笑う吐息で答えるだけでどちら似がとは言及しなかった。

 彼女の方も実はどちらでもいいと思っていた。どちらでも愛する。その時にそこに自分の居場所があれば、ともこの時の彼女はどこか自嘲的に考えた。

 と、ここではたと我に返り辛気臭い気分になったらいけないと頭を振る。


「そういえば、あの子に触れられてる間お腹がとてもじんわーってポカポカしたのよ。危険とかそんな感じは一切なかったけど、何だったのかな」

「そうなのか? 本当に平気なんだな?」

「うん。ただ何だかね、変な事を言うけど、お腹の子が照れて赤くなったみたいだなーってそんな感じがしたわ。あははもしかして生まれる前からアドリアンを好きになったとか?」

「へえ、それは……断じて許せんな。やはり教会との衝突覚悟であの修道院ごと灰にするべきか。馬車を引き返せ!」

「えっ!? ちょーっと待った! 今戻ったら、そうしたら、――婚約破棄だからっ!」


 効果覿面だった皇帝とドッと疲れたその婚約者を乗せた馬車は進んでいく。

 その先の未来へと。

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