拗らせ令嬢と令息の輪舞2

「……ミラ、だよな?」


 ケントの困惑した問い掛けにミラはハッとなった。


「ししし失礼ね! 普通にあたしよ!」

「え、あ、そうだよな」


 彼から急いで離れたものの、バクバクと心臓がうるさい。

 しかもまだ立ち止まったままなので周囲からは横目に邪魔そうに見られている。


「とっとりあえず進みましょ」

「そっそうだな」


 妙にこそばゆい気持ちを蹴散らすように頭を振ってミラはケントと二人で歩き出した。

 しかし、ここは混雑している温室内。中々思うように進めずケントの隣にずっとくっ付いていないといけないではないか。しかもルースが薄情にもさっさとどこかに行ってしまって二人きり。すぐ横の存在を意識すれば自然と頬が熱くなっていく。

 そんな愚かな動揺を悟られたくなくて、ミラはいつものように怒ったような口調と表情を作った。


「ケントはこの盛況ぶりを知ってたんでしょ? 嫌がらせなの?」


 するとどことなくうきうきしているように見えていた横顔が、心外も甚だしいと言った面持ちになった。


「嫌がらせはそっちだろ」


 思い切り断言されて、心当たりのないミラも半ギレになる。


「はッ? 何それ。いつあたしが嫌がらせしたって言うのよ。そんな風に思うなら他の子誘って来たら良かったじゃない」

「お前ってどうしていつもそう心にもない事ない事言うんだよ」

「はーっ? 何その言いよう。あたしの口から出たんだから心にもないわけないでしょ。勝手に決めつけないで」

「昔っからホント素直じゃないな」

「はあああーッ? あのねえ言わせてもらうけど、あんたのそのわかった風な上から目線がムカつく!」

「――ってえ!」


 ミラは逆撫でされる感情に任せて思い切り踵で足を踏んづけてやり、その痛みに悶える幼馴染みへとイーッと歯を剥き出すと無理無理一人人混みを押し退けて前へ前へと急いだ。後方から「ミラ!」とやや焦った声が聞こえたが、無視して先に進むのに躊躇はなかった。


 周囲の来場者たちの賑わいに耳を傾けながら感じるのは虚しさ。


 自分とケントは実質恋人同士でも家族でもない。


 婚約者なんて肩書きはあるが曖昧な関係だ。


 友人と言うにはミラの方がそう思えないのでその括りも違う。


 何だかわからない苦しい繋がりに最近ちょっと嫌気が差しているのは否定しない。


 目に入る光景をろくに楽しめないままひたすら人の波と順路に従って歩き、気付けばの出口だ。


(そういえば途中にルースはいなかったけど、どこに行ったんだろう。もう先に出たのかしら。それとも気付かないうちに追い越しちゃってたとか?)


 温室を出た他の客たちは植物園の敷地内の様々な所で休んだり休もうと向かっている。当然土産物店や休憩スペースは屋内外問わず設けられているのだ。

 世界の食用の花や果実を味わえる喫茶店もあるので、ミラは前情報として知っていたそこへ温室見物後に入るつもりでいた。それも楽しみの一つだったのだ。

 しかし、一人で入る気分にはなれなかった。周囲の家族連れや友人知人の組、そしてカップル。彼らの笑顔を見ていたら何だか気持ちが凋んでいく。

 世の中の人々の心はこんなにも愛情で溢れているように見えるのに、自分はどうだろう。


 ケントは自身の恋心をミラには告げて来ない。


 知られないように隠そうとしているケントは、ミラを虐げたりするつもりはないのだろう。きっと心情はどうあれ表向きはミラをきちんと妻として扱ってくれる。その悲しい確信はある。


 ミラはケントが好きだ。


 だけどケントはミラじゃない。


 一緒に居られるだけでも良しとすべきなのかもしれないと、ふとそう思う時もある。


 しかし一方では自分を好きでもない男と添い遂げる屈辱に耐える必要なんてないと、報復してやると強く思うのだ。


(ははっ、人間こんな善も悪も綯い交ぜな、整然としないぐちゃぐちゃな気持ちにもなれるんだ……)


 貴重な人生経験だと、心でケントへ皮肉気な感謝を述べた。


「まだ明るいし、園内の他の場所を見て回ろうかな」


 少し考え、ミラは遊歩道の整備された屋外花壇を見て回る事にした。そちらの方面はパッと見他よりも人が少なかったからだ。

 一旦人の群れから脱したかった。





 沢山の季節の花々が並ぶ花壇群は明るい陽光も相まってか、醜い感情を中和してくれた。

 広い園内はじっくり観ようと思ったら、きっと一日やそこらでは見終えられないだろう。そんな場所の長い遊歩道を道なりに歩いて、目に付いた無人のベンチでしばらく一休みする事にした。

 正直な所、割と歩いたし気を張っていたので疲れていた。やや火照った体を冷ましてくれる微風に白い咽を晒して目を閉じると心地良かった。


(二人共あたしがもう帰ったって思ったかな)


 辻馬車でも乗合馬車でも、馬車を拾えば一人で帰れるので心配はいらない。


(今は一人で居たいし、そう思ってくれてると良いんだけど……)


 傍を通り掛かる人は極々少なく、人目を気にせずにいられた。

 喧騒から離れ自然の中で半ば一人きりになって深呼吸すれば、思考も安定するというものだ。

 前向きに、建設的に、物を考えようという意欲も湧く。

 誰を責めるでもなく、優しい気持ちで状況を打開しようと思った。


「家同士の仕事に支障が出ない方法がきっとあるはずよね。それを探して、もしも結婚しても後後は穏便にケントと離婚できるように、考える事を止めちゃいけないんだわ」


 花々に囲まれ、日が夕刻へと下がって来つつある青空に見守られ、何か透明な心でそう決心した。


「さてと、いつまでもここに長居してたら日が暮れちゃうわよね。帰ろうかな」


 自然に癒されて澄んだ気分で腕を伸ばし緩慢に背伸びをすると、ベンチから腰を上げた。

 父親譲りで姉ともお揃いの栗色の髪をふわりと風が揺らしていく。やや離れた木々の葉が強すぎず弱すぎず揺れた。


「ミラ? 何だよーこんな所にいたのかよ」

「ルース……」


 意外な人物の登場にミラは不思議そうにした。

 彼は遊歩道の向こうから傍まで歩いてきて足を止めた。


「あなたもまだいたのね。てっきりもう帰ってるかと思ったわ」


 彼女の率直な物言いに、ルースは微苦笑を浮かべた。


「おいおい、俺がミラを捜してるとか待ってるって発想はないんかい!」

「えー、だってルースだし? あたし年上じゃないからそこまで優しくされないでしょ」

「いやいやいや何で年上限定?」

「え? だって年上好きでしかも熟女好きでしょ?」

「はあ? 無論美魔女さんたちは大好きだがね。でも必ずしも年上限定なわけじゃねえよ。単におっいいなって思う相手が年上だっただけだ」


 苦笑を深めるルースにミラはパチパチと瞬いた。


「あらそうだったの? じゃあ結構勘違いしていた子たち多かったから残念だったわね」

「残念? くははっ別に残念じゃねえよ。その程度だった相手から好かれなくて良かった」

「……案外あなたって毒を吐くわよね」

「自分に良いように~? しかも気持ちに正直に生きてるだけだって」

「なるほど」


 一つ頷き妙な納得を覚えたミラへと、ルースは草花の香りが濃厚な景色に視線を巡らせて満足そうに頬を緩める。


「そっちは自分に正直になってるか?」

「え?」

「正直な気持ちをぶつけたのか?」


 何を問われているのかすぐにピンときた。

 ケントとの事だ。


「もしかしなくても、あたしの気持ちわかってるみたいね」

「ハハハ伊達に年上の綺麗どころたちと宜しくやってねえよ」


 こうもバレバレでは少々格好が付かないが、どこか解放的な園内で今のミラは卑屈にはならなかった。素直に自らの感情を認める。


「ぶつけてない。だけど、結果はわかり切ってるから伝えて困らせるつもりはないわ。ちょっと複雑な事情があってケントの気持ちを応援は出来ないけど、彼が少しでも救われる結果になるように尽力してみようって思ってる」


 ルースはちょっと意外そうに目を瞠ると、些かの疑問を両目に浮かべる。


「あいつってマジで他に誰か好きな相手がいるのか?」

「うん」

「それは……まあ、難儀だな」


 そうは言いつつ、彼は何だか腑に落ちないという面持ちで暫し無言でミラを見つめた。

 そして何を思ったか、一歩で距離を詰めてきた。

 友人と言うには近過ぎて、しかし恋人と言うにはまだ遠い絶妙な距離だ。


「ルース、何か?」

「失恋の傷は次の恋でってよく言うだろ。それが俺とか、どうよ?」

「ふう、冗談言わないでよね」

「即冗談扱いってな……まあいっけど~? けど俺は今フリーだしミラに少しでもその気があるんなら傷を癒す手伝いをすんぜ?」

「手伝いって、軽っ……それで今度はあなたに振られたら元も子もないじゃない」

「じゃあ何だ、だったら――マジに俺と添い遂げるか?」

「え」


 どこか冗談だとスルーできない響きを感じ取ったミラが何かを問う前に、ルースから有無を言わさず腰を抱かれて顔を覗き込まれた。


「なっ、ちょっ!?」


 そこにはいつもの軽薄の色は見当たらず、真剣な男の顔がある。

 びっくりして当惑していると、ルースが尚も頬を近くしたまま囁いてくる。


「そっちにその気があるならいいぜ。本当にどうする?」

「……ッ」

「答えは態度で示せよ」

「え、……え? 態度?」


 強引な声音に腰が引けてしまったミラは、彼が何を言わんとしているのかいまいちわからない。


(態度って一体どんな態度?)


 心の内も外も疑問符で一杯になっていると、ルースは吐息が掛かるくらいまで唇を近付けてきた。


(へっ!? ままままさか態度ってそういう事!?)


「応じるなら、俺はミラの物だ」


 どこか愉快そうな声音が鼓膜を震わせる。


 最初はビックリしてドキリとしていた心臓が、思わぬアプローチに動揺を来す。


 このままキスをしてしまえば、ケントと別れた後にルースが恋人になる。


 不毛な恋など捨ててしまえばいいと半分の自分が思って、もう半分ではそれは出来ないと純粋に叫ぶ。


 今のケントへの自分の気持ちを裏切れない、と。


 これまでの自分を形成したのは誇張でも何でもなくケントへの恋心が大部分を占めている。

 それをわざと壊して手放してしまえば、自分はこれまでの自分でいられるだろうか。どんな自己を以ってしてどこに向かうのか、想像も付かない。


「気持ちの整理が必要ならそれまで待つぜ。とりあえず今は俺をキープするんでもいい」

「な、何でそんな自分の身を切って売るような言い方をするのよ」


 けれどこれは悪魔の囁きでもあるのだろう。


「感心しないか?」

「感心しない。ルースが勿体ないでしょ」


 きっぱり言えば、彼はこの時だけは狩りの本能のような鋭さを薄れさせ、柔らかに微笑んだ。

 その雰囲気の変化にミラがホッとしたのも束の間。


「俺の手を取るか、ミラ?」


 そしてこれが最終の問い掛けだ、とルースはやっぱりしたたかに笑んで告げた。





 結果を言えば、ルースのキスには応じなかった。


 同じ状況に置かれて彼の提案に揺れる女の子はきっと多いだろう。


 態度で示せと彼が言ったように、最終の問い掛けへの言葉なんて要らず、双方無言で後は触れるだけ……と言う寸前。


「……何かごめん」

「……ふごふごいや


 ミラは顔を背け、掌でルースの口を覆っていた。


 一つ瞬いてからゆっくりとミラの腰に回していた腕を解いたルースが、こちらもゆっくりと手を離したミラの前に真っ直ぐ立ってどこかホッとした面持ちを見せる。


「マジにキスしたらどうしようかと思ったぜ」

「そうよね。頭が回ってなくて危なかったわ。ごめん」

「いんや。もしそうなったらなったで男に二言はない。ミラと付き合った」

「ああそう……」

「ハハハ全っ然その気はねえって顔してるな」

「ルースはやっぱりどこまで行っても友人なのよね」

「何だ、そこんとこは俺たち以心伝心で相性ピッタリじゃん。サンキュ~俺もミラは良き友人だぜ」

「ありがと」


 彼に迫られても、ミラの胸は全くときめかなかった。

 どころか、冷静な思考で彼には申し訳ないなと思っている自分がいる。

 向こうは煮え切らないミラを見兼ねたのだろう。

 彼は最初からミラの出す答えなんてわかり切っていたのだ。

 ミラの背を押すためにちょっと雰囲気を付けて演出してみただけ、と言った所だろう。


(ホント、善き友達を持ったわ)


 大部分の純粋な友情からの感謝と僅かの皮肉を以って、彼女は口元を緩めた。


「思うに、ミラは回りくどく複雑に考え過ぎなんだよ」

「あー、それはご尤もで……」


 窘められてそれが痛い所を突かれる形のミラは、面目ないとがくりと項垂れる。


「実はさっきまでここで一人で考えてたら、あなたが促してくれようとした方向に結論が出てたのよね」

「何だよ俺無駄骨?」

「そんな事はないわよ」


 結局の所、浮気だ離婚だ何だのと悲劇のヒロインを演じ、例えそれが成ろうとも、ミラは少しも満たされないだろう。

 どうしても、どうしようもなく、他の誰かでは駄目なのだ。


「あたし、ケントに振られたら、一生もう誰とも結婚は無理って思うわ」

「まあ、それはそれでいいんじゃねえ?」


 ルースは笑わなかった。

 少し冗談交じりに本音を吐露したミラだったので、正直彼が苦笑なり笑い飛ばすなりすると思っていた。

 しかし笑わなかった。

 ミラがそうあるのならそのままで受け入れてくれる寛容さが垣間見えた気がした。

 ただし、それは悪く取れば無頓着にも通じるとミラは感じもした。


「何だかあなたと本気で恋愛する人は大変そうね」

「ハハハそうか? 恋は困難が多い程萌えるだろ。モエモエ~」

「……萌え? 燃えるじゃなくて?」

「そう、萌え」


 大いに呆れ目を送ればルースはカカカと変な声で笑った。


(私はケントには無頓着ではいられないわ。それが良いのか悪いのかは人生が終わる時にならないとわからないだろうけど)


「んじゃ俺は先帰るぜ。ああそうそうフォグフォードの奴もまだミラを捜してるはずだ」

「そうなの?」

「あいつが婚約者を置いて先に帰ると思うか?」

「……さあ、それはどうかしら」


 ケントの話になるとまだ突っかかるような気分になってしまうミラの意固地さを察したのか、ルースは困った奴だとでも言いたげに苦笑したが、何も言いはしなかった。


「ねえルース、何となくだけど、ありがと」

「どういたしまして……って、感謝には言葉じゃなく行動で見せてほしいんだがな~?」


 頬をトントンと指で示す軽薄男がここに居た。


「あなたねえ……」


 友情への感動を返せと、こめかみに若干の青筋を立てたミラは、わざと強く踵で足を踏んづけてやる。


「――っづああ!」


 蹲って涙目になる自業自得な友人を見下ろして、腕組みしたミラはフンと鼻で息を吐いてやった。

 しばしして立ち上がったルースがやや薄くなった空の色を見上げた。


「そんじゃそろそろ……って、そうだまた後日改めて編入の件訊きに行かせてもらうからな」

「ああうん、検討しとくわ」


 常の飄然とした様子で、ルースはよろしくとでも言うようにミラの肩をポンと軽く叩いた。

 そうして上機嫌に長い脚で悠然と遊歩道を去っていく。

 その背を少し見送ってミラはベンチに戻ると、しばらくまた一人で時間を潰した。

 見回りの職員たちが早々と各施設や区画を回って来園者に閉門が近付きつつある事を告げて回っている。

 連なる花壇の向こうにぼんやりとその光景を眺めながら、ミラはまるで背凭れが頼れる相棒かのように体重を預けていた。

 既に先程ミラの所にも職員が回ってきたので折を見て帰るつもりだ。


 ――と、そんな時、花壇に囲まれた遊歩道の向こうにケントが現れた。


 ルースの言っていた通り、彼もまだ帰っていなかったらしい。

 向こうもミラの姿を見つけると、真っ直ぐに駆け寄って来た。


「ミラ! やっと見つけた、こんな所にいたのか」

「ケント……」


 気持ちに素直になろうと思えたからか、何だか彼がキラキラして見える。


「――って濡れてるだけじゃないの! どうしたのよそれ」

「あー、水撒いてる所に気付かないで入った」

「はあ、全く何やってるのよあんたは。馬鹿なの? このままじゃ風邪引くでしょ」


 プンスカ怒りながら貴重品を入れた小さなバッグの中からハンカチを取り出すと、せめてもと髪の毛に付いた水滴を拭いてやる。

 世話を焼かれて、ケントは何だか嬉しそうに目を細めた。

 そんな表情にドキリとする。


(平常心平常心平常心平常心)


 頑張って自分を落ち着けていると、ケントがやや声を低くした。


「なあ、もしかして今までずっとあいつと居たのか? ここに来る間にすれ違ったんだよ」

「ルース? 確かに彼もさっきここに来たけどずっとじゃないわよ。それまでは一人でここで自然に癒されてたわ」

「……お前もストレス溜まってるんだな」


 どこか同情した目で機嫌をよくしたケントへと、ミラは内心ちょっとイラ付いた。


(誰のせいだと思ってるのよ)


 落ち着けと再度自分に言い聞かせる。


「あたしてっきり、ケントはもうとっとと帰ったと思ってたわ」


 ミラの言いように、彼は怒るでもなく吐息と共に苦笑を零した。


「お前がまだ居るのに先に帰るかよ」

「あたし? ……もしかしたら先に帰ってたかもしれないじゃない」

「ミラは連れを置いて勝手に帰ったりしないだろ。いくら怒ってても帰るなら帰る旨の文句でも主張でも何かしら言ってから帰るだろ」

「し、知った風な口利かないでよね」

「だって昔からよく知ってるからな、ミラの事は」


 思わぬ形で向けられた信頼に、ミラの心臓はドキドキがいや増した。


 照れ隠しに頬を膨らますようにしてしまったけれど、これじゃあいけないと彼へと視線を戻して……何なのだろうと思った。


 間抜けにも濡れて髪をしっとりさせたケントはとても自然な笑みを浮かべて立っている。


 優しげに細めた眼差しでミラを見つめている。


(そ、その表情かおは何よ)


 その目は、その視線は、ミラが横顔からしか見た事のない種類の熱を孕んでいる。


 それを何故まっすぐ自分へ向けてくるのだろう。


(見ないでよ……。そんな目で見るな馬鹿。変に期待しちゃうじゃない)


 瞳を揺らすミラの内心の罵りが通じたのか、ハッとしたケントは不自然に顔を背けた。

 バツが悪そうに頬を歪める様に、ミラの心はズキリと痛む。


(素直になろうって決めたのに……)


「……んで、あたしだと逸らすのよ。お姉ちゃん相手だと違うくせに」


 込み上げた嫉妬心に目頭がじんと熱くなる。見るなとか見てほしいとか我ながら矛盾しているとは思う。でも感情が制御できない。


「似ていても、あたしはお姉ちゃんじゃない」

「何でリン姉? 確かに姉妹だけあってよく似てるとは思うけどな。まあ見た目だけは~?」


 最後の部分は敢えてだろう茶化すようにして言われた。


(最悪。このタイミングで)


 髪の色や瞳の色、流れる血が近しくても、ミラとアイリーンは別人なのだ。こんな相似だけで姉を重ねられても惨めなだけだった。


「……髪なんて伸ばさなきゃよかった」


 ミラはずっと姉を真似て伸ばしていたのだ。少しでも彼の好きに近付きたくてそうしたけれど、それは結果的に自分の首を絞めただけだった。

 自身の髪を握り締めるミラの様子を、ケントは困惑したように見つめる。

 その目がハッと大きくなった。


「ミラ……? 何で泣くんだよ?」

「知らないッ。こっち見ないでよッ」


 聞いていると向こうの方が切ないような声音に、ミラは慌てて目元を袖で擦った。けれどじわりじわりと溢れる涙はまるで切りがなくて、ミラはとうとう持て余した感情をどうにもできず身を翻した。


「おいちょっとミラ!?」

「付いて来ないで!」

「そんなわけに行くか!」

「一人で帰るから放っておいて!」

「んなべそ掻きな奴を一人にできるかッ!」

「べそ掻き言うなあっ、ケントの無神経最低男!」


 ミラは外出用のドレスの裾を捌いて、とにかく現在出来る限りの全力疾走をした。

 遊歩道をひた走り、ついにはそこを抜けて開けた芝の広場を突っ切るように駆けて行く。


「待てってミラ! ミラ!」


 案外足が早く持久力もあるミラを追い掛けるケントは、実はそれまで彼女を探し回っていたせいでくたくただった。

 普段ならとっくに追い付いているはずが、中々捕まえられないのはそのせいだ。

 芝の上を疾走する男女に周囲は何事かと目を向けるものの、それが真っ赤な怒り顔でべそを掻く少女と焦ったように追いかける困り顔の少年だと知ると、小さな子供は不思議そうな目を、大人は苦笑いと生温かい眼差しを送るのだった。





『残念ながらミラには振られたよ』


 開けた広い芝の上、周囲の好奇の目を引きつつ婚約者の少女を追い掛けるケントは、彼女を捜す途中遊歩道ですれ違ったルースとの会話を思い出していた。

 彼は何の意図があってした事か、わざわざ失恋の旨を報告してきたのだ。


『へえ、そうか』


 嘘か本当かはわからない。ルースが口から出まかせを言っている可能性だってある。

 けれど思わず喜色を浮かべそうになったのを何とか堪え、ぶっきら棒な一言で済ませた。

 こんな奴と関わるのは精神衛生上よろしくないと、止めていた足を動かそうとした。


『けどな、無理やりちゅーしてやったぜ?』

『は!?』


 瞬間的に頭に血が昇って掴みかかりそうになった。

 喫茶店の時といい今といい、本当にこの男はこちらの神経を逆撫でしかしないな、とケントは忌々しい気分になる。

 おそらくはケントが直前で思い直さなくとも華麗なステップで上手く躱しただろうルースは、おどけるように肩を竦めた。


『おっとお~、くれぐれもミラには怒るなよ? ショック受けてたから』

『お前……ッ』

『もっとちゃんと気持ち伝えて優しくしてやんねえと、彼女はマジでお前から離れてくぜ?』

『失せろ……!』

『はいはいよ~』


「――いい加減待てってミラ!」


 回想を散らすように声を張ったが、聞こえているだろう彼女は丸無視だ。

 息を切らし腕を振って足を動かしながら、近付けそうで中々距離の変わらない背中を見つめるケントは、自らの不明に苛立ちにも似たものを感じていた。


(気持ちって、何のだよ。ミラへの想いならとっくに…………って、あれ? 俺は俺の気持ちを言ったか? 求婚した日は確か邪魔されて、何だかんだで今まで一度も落ち着いて話をして……ない!?)


 そうだきちんと伝えていない、と彼は重大な失態に気付いて頭におもりいやいかりが落ちて来たような気さえした。そのままぶくぶくと愚か者の海に沈んで行く。


「ああクソッ、何やってたんだ」


 吐息に紛れた悪態をつき、それを叱咤に変えて瞳に活を入れた。


「大事な話があるんだよ! ミラ!!」

「あっ」


 その時、つまずいたのか、前方で彼女の体がふわりと浮いた。


「きゃあっ!」

「ミラ!」


 咄嗟に全力を振り絞るように、足の裏に今まで以上の力を入れて地面を蹴り付けていた。





 その数分前。


「馬鹿馬鹿変態付いて来ないでよ! 大っ嫌い!」

「大きら……っ!? ああもうこのっ、待てって言ってるだろ!」


 通過経路でことごとく目立ちまくってケントと追いかけっこを繰り広げていたミラは、依然として腹を立てていた。

 最早逃げるというよりも、意地でも応じてやるもんかという決意の表れとも言えた。


「お前が泣いてるのに一人で帰すなんて危険な真似出来るわけないだろ」

「何が危険なのよまだ明るいでしょ! それとも子供扱いってやつ? 同い年のくせに! あたしはここから家まで迷子になる程世間知らずじゃないわよ!」


 終始無視でもすればいいものを、ミラは後ろからの声にいちいち律儀に肩越しに振り返って叫び返してやっていた。


「別に子供扱いしてるわけじゃない。いい加減自分が他の男の目にどう映るか自覚してくれよ!」

「何よそれ! わけわかんない! だったらあんたはどう思ってるのよ!」


 中々返事が聞こえないのでミラが一瞥すれば、ケントは視線をミラから少し逸らして唇を引き結び物凄く言いたくなさそうな顔をしているように見えた。


「ちょっと答えなさいよ!」

「そっそれは後でいいんだよ。だから止まれって!」


(何よその態度。仮にも婚約者に対してさすがに酷過ぎない?)


「あんたなんか、ホントやな奴に認定するわ!」

「なっ!?」


 ぷいっと前を向き、もう何を言われても振り返りもせずミラは芝の上を走った。


(きっと今のあたしはすっごく不細工な顔してる。絶対近くで顔見られたくない)


 付かず離れずを保ってはいるけれど、ミラの体力だって無限ではない。

 ケントも疲れているようだが彼女もそろそろ限界だった。

 息なんてもう切れ切れで苦しくて仕方がない。


(もうケントってばいつまでしつこく追い掛けてくるのよ。いい加減諦めてくれればいいのに。さっきから注目浴びてるし叫ばれて恥ずかしいし、もうこれって逃げた全部が裏目じゃない!)


 体力も尽きそうで、尚且つ気もそぞろになっていたのは否めない。


「あっ……きゃあっ!」


 少しの凹凸に躓いて、爪先が芝を離れた。


(やば……!)


 これは派手に転ぶと確信した。

 自分の不注意が招くだろう転倒に対し、咄嗟に手が前には出た。


「ミラ!」


 しかし、刹那の間にまるで飛び込むように近付いたケントの声と同時に、しっかり両腕で頭と腰を抱き込まれ、二人で芝の上に落ちてごろごろごろと勢いよく転がった。


 思いもしない力強さで護られて、ケントが緩衝材になってくれたおかげで痛さはほとんどない。


 ……という事は、ミラが受けるはずだった衝撃の大半を彼がその身に受けたのだ。


「ケント大丈夫……ッ、う、目が回る……っ」


 ケントに乗っかる形でガバリと頭を上げれば、ぐわんぐわんと視界が勝手に回る。

 勢いよく転がったせいで三半規管がやや不調を来していた。


「ててて……俺なら平気だ。ミラこそどこも何ともないか?」


 平気だと言いつつも、ケントも些か目が回っているようで起き上がらない。


「へ、平気よっ」


 鼻の奥がツンとした。

 走っているうちに最初の涙なんてほとんど乾いていたのに、涙腺が緩んでいるのか新たな涙が込み上げる。


「何よ、馬鹿なの? 自分よりも先に他人を気にかけてるんじゃないわよ。しかも自分を顧みずに突っ込んで来て……そんなお人好しやってたらいつか酷い怪我しちゃうわよ!」


 きっと髪や服に小さな芝生の切れ端がくっ付いてしまっているのは容易に想像できた。

 しかし、そんな汚れは今はどうでもいい。


 先までの憤りも霧散してしまっている。


 彼の身を心から案じている。


「いや、さすがに俺だって普段はそんな火事場の何とやらみたいな力出ないって。ミラじゃなかったら動けなかったよ。どうだ俺も中々やるだろ?」


 得意満面と言った面持ちで歯を見せるケントに、近い距離への動揺も照れも忘れミラは少し困ったような顔をした。

 彼が何を言わんとしているのか掴めない。


「何よそれ……目の前で怪我でもされちゃ、うちの家族の心証とかそういう理由で立場的にまずいから? でも今のはケントには責任はないんだし気にしなくてもいいのに」


 自分の台詞に自分で落ち込みながらとりあえず上から動こうとすれば、ケントが両腕を腰へと回して拘束を強めた。


「お前、何言ってるんだよ。さっきだってそうだし」


 至近距離で見つめ合ってはいるが、険しさを滲ませるケントの表情を見れば、甘いドキドキに浸っている気分には一切なれなかった。


「俺たち以外の誰かがどうとか、どうして出てくるのか理解不能なんだけど、何で?」

「何でって、あたしたちの関係を思えば、考えざるを得ないじゃない!」


 本当は庇ってもらった事についての感謝を告げたかったのに、いつもこう喧嘩腰になってしまうのが悲しかった。

 一度頭を冷やすためにも、もうどうせならビシッと黙らせて颯爽と帰りたいと思うが、二人でぐだぐだなこんな状況では、何を言おうとカッコなんて付かないだろう。


(まあ、カッコを付けたいわけじゃないけど)


「ミラ、俺たちの間にはやっぱり何か誤解が…」

「ああもう、ありがとう!」


 つっけんどんでもやっぱりお礼はちゃんと言いたくて、彼の台詞を遮るように感謝を放っていた。


「はい?」

「今助けてもらったから。だからのありがとよ。……で、本当に大丈夫なの? あたしを庇ってどこか痛めたりは?」

「ああいや、それは心配ない。俺これでも鍛えてますから」

「……」


 口角を上げる様に何を詰まらない冗談を、と呆れる事も出来た。

 けれど実際庇われて、男の腕なのだと妙な実感を持ったし、嫌じゃない恥ずかしさを感じていた。

 そういえばまだその腕に抱きしめられているのだと思い出せば、急な恐慌を来すような心地で頬が熱くなる。


「と、とにかくいつまでもこのままじゃ恥ずかしいから起きましょ! それとあたし一人で帰れるから無駄に心配しないでいいわよ」

「ミラの事に無駄なんてない」

「え?」


 ドキリとする台詞だった。即答という形だったのも動揺に一役買っていて、だから離れるのも忘れてケントをまじまじと見つめる。


「こっちから誘っておいてんな事したら、俺お前のとこのおじさんに確実にシバかれるだろ。……お前が俺を無下に扱うのは知らんふりするのにな」

「ああそう」


 後半部分はもごもごとしてよく聞き取れなかったが、今の言いようだとやはり家族や周囲の目を気にして嫌々送ると言われたようで正直面白くなかった。


(そうよね、もうあたしってば何度愚かな期待をすれば気が済むのよ)


 自分の気持ちにやりきれなくて、ケントを睨んだ。


 ずっと苦しいままは嫌だった。


 今ここでハッキリさせてしまった方がこの先割り切り易くなる。

 決して苦しくなくなるとは思わないが、いつまでも変化を起こさないで腹に溜め込んでいるだけでは解決も進歩もない。

 解放してもらえないままだったけれど、ミラは両手をケントの顔の両脇に突いて体を浮かせ、真っ向から見つめ下ろす。


「ケント、正直に答えて」


 ここで決定的な言葉を聞かされて傷付いてもいいと覚悟した。

 まさに床ドンされた状態かつ、婚約者のいつにない真剣で慎重な様子を察してか、ケントはいつものように目を逸らしたりはせず、表情を引き締めた。

 ただ目を合わせてもらえているだけなのに、ミラの胸は高鳴る以外を知らないようだった。

 それを苦々しく思う。

 今はドキドキするなと感情を押し込めた。


「もしもよ、家同士の取引を抜きにして考えた場合、あんたはこの結婚に満足できるの?」

「できるに決まってるだろ。じゃなきゃミラと婚約なんてしない」

「それはやっぱり、好きな人の近くに居ても良い理由が欲しかったから?」

「そうだよ」


(わかってはいたけど、ハッキリ言ってくれる……)


 淀みのない返答にミラは唇を噛みしめた。


「腕が疲れたから起きたいんだけど」


 腹立たしげに吐き捨てると、ケントは眉を少しひそめてちょっと気を悪くしつつも応じてくれた。

 まだ若干平衡感覚が不快さを残していて、立ち上がりはせず二人で芝の上に座る。

 密着状態から解放されれば、少し気持ちにも余裕が出た。

 そよりと芝の上を渡った微風にケントの髪の毛先が遊ばれ、そんな光景についつい和んでしまう。


 そんな彼女の耳に大きく息を吸う音が聞こえた。


 ケントは呼吸を整えると、じっとミラの方を見つめてくる。


「俺、今からすっごいカッコ悪い事を言うぞ」

「へ? ええ、うん?」


 いきなりの宣言に戸惑いつつも、今度もまた目が逸らされたりはしなかった。





「今だから言うけどな、自分の狡さとか情けなさを痛感してもなお、俺から親父たちに頼み込んでこの縁談を進めてもらったんだ。事前にそっちの意思を確認しなかったのは悪かったけど」


 しかし例え意思を確認された所で、避けられない縁談なら結局はミラの気持ちを無視しているのと同じだ。

 そうは思ったが、ケントの弱ったような顔を見ていたら責める気にはなれなかった。


「わかったわ。事情は理解した。これであたしも踏ん切りが付けられそうよ。やっぱり浮気はするけど、あんたや両家に迷惑を掛けないようにこっそりするわ」


 薄ら自嘲の笑みを浮かべれば、ケントが顔色を変えた。


「待て待て待てわかったって、全然何一つわかってないだろ! むしろ俺の方がわけわからないって。どうしてここでまた浮気云々になる。俺は浮気なんて許さないし、そんな必要もないだろ」

「はああ!? 何って自己中なの! あんたにとっては好きな人のための結婚なんでしょ。だったらあたしだって別の人を好きになったっていいじゃない」

「いやよくないだろ。俺が何のためにこの結婚話に漕ぎつけたと思ってるんだよ」

「そっちの事情なんて知らないわよ。他の男に取られて手遅れになる前にそのあんたの想い人に告白したら良かったじゃない」

「お、俺にだって勇気と都合があるんだよ」

「意気地なし。あんたがそんなだからあたし……。もうやだ人生どうしてくれるのよ!」


 俯いて両手をぎゅっと握った。

 この期に及んで自分の気持ち一つ言えていないミラ自身も、意気地なしには違いないけれど。


「何でそこで怒るんだよ。人生? 俺が責任は取るって。――だから安心して俺を好きでいればいいだろ」

「なっ……」


 聞き捨てならない信じられない台詞に顔を撥ね上げたミラは、しばらく言葉が出て来なかった。


(好きでいればいい? 何よそれ……ッ)


「……あたしの気持ち知ってたの? なのに、その台詞なの?」


 ケントはミラから滲む非難に怪訝に眉を動かした。

 どうやら本気でわかっていないらしい。

 残酷な無理解だと思った。


「無神経!」


 ミラが勢いよく立ち上がると、ケントも慌てて倣った。


「俺の何が無神経なんだよ?」

「全部!」


 ミラが敵意も露わにハッと鋭く息を吐き捨てると、ケントはやや臆したようにした。


「あたしがあんたの気持ちを知らないと思ってるみたいだけど、お生憎様こっちだって知ってるのよ。その上であたしにあんたを好きでいろなんて図々しいにも程があるわ。確かにあたしはあんたを好きだけど、惚れた弱みで何でも言う事聞くと思ったら大間違いよ。嫁が欲しいだけなら他当たって!」


 踵を返そうとすれば、手首を掴まれた。


「何よ放してよ」

「……お前、俺の好きな人を誰だと思ってる?」

「は? 何よ今更」

「答えてくれ」


 声を荒らげたりしないケントの眼差しに何故か切実さが見えて、ミラは逆に怯んだ。


「ホント何よ……。こんな髪でこんな色の目でしょ」

「ああ」


 ミラが自身の一部を指させば、ケントはしかと頷いた。


「美人で、今でも事情を知らずに会いたいってうちに来る人までいる程モテて」

「何だって!? 家に!?」

「何を驚いてるの? あんたも全部じゃないけど知ってるでしょ。あたしたち二人にまでどうか紹介してくれ~って頼み込んで来られて辟易とした頃あったでしょ」


 思い出話を語れば、ケントは変な顔をした。


「……今話してるのは俺の好きな相手の事だろ」

「そうよ、あんたの好きな人の話でしょ」

「いやだからそれって誰だよ。俺の好きな奴は怒りっぽくて時々ツンデレで憎たらしくなる時もあるけど、素直で無邪気な面もあって、目が離せないくらいにすごく可愛い奴なんだよ」

「はあ!? 何言ってるの、そんな変な性格してないわよ! いつも優しくて素敵であたしの自慢なの」

「やっぱりお前勘違いしてるよ」

「そっちこそ何を見てそんな風に言うわけ」

「はあ? 一体誰の事だと思ってるんだよ?」

「あんたこそ短気とか貶しておいて誰を好きだって言うのよ?」


 二人は息を吸い込んで、そして息ピッタリに言う。


「ミラだよ!」

「お姉ちゃんよ!」


 瞬く間にミラの世界が眩く色を変える。


「……………………あ…たし?」


 ミラは放心も放心と言った顔でポカーンとした。

 ケントはケントで会話が噛み合わない理由がようやく腑に落ちた様子で嘆息した。


「俺が好きなのは昔っからお前だよお前、ミラだよ!」


 そして怒ったような赤い顔で断言する。いや、畳みかける。


「うそ……」


 百八十度転換した認識は、ミラから刺々しさを削ぎ取っていく。


「でも、だって、ケントはあたしと目が合うのを嫌ってたじゃない。お姉ちゃんの方ばっか見て赤くなってたし」

「そそそれは……お前こっちよく見てくるし、それを意識したら余計照れ臭くて見れない時とかしょっちゅうで、代わりにリン姉を見て喋るしかなかったんだよ」

「はああ~!?」

「純情少年なんだよ俺は! ま、まあそれで誤解させたのは、ごめんな。紛らわしい態度取って悪かったよ」


 ケントへの文句は出てこなかった。

 彼だって彼の感情で手一杯だったのだ。

 しかもそれが自分に起因しているのなら気分は悪くない。


(それに、直接確かめもせず勝手に思い込んだのは、あたし自身だし)


 彼が手首から手を離しても、ミラはもう逃げたりはしなかった。

 それ所ではないのだ。

 これはもう彼女にとっての究極の一大事。

 詰んだと思っていた盤面が一気に引っくり返ったも同然で、奇跡が舞い降りたような心地だった。


「ちゃんと好きだからな。独占したいって思うくらい」


 ケントが突っ立ったまま体をちょっと捩るようにして頬を掻き、唇を尖らせて少しだけ早口になって言う。それだけで彼の真実がわかるというものだ。

 脳みそに麻酔でも打たれたみたいに痺れていく思考の中で、ミラは素直にその言葉を受け入れていた。


 しかしこの上ない喜びに、かえって切なさが込み上げる。


「おいおい、何で泣くんだよ」


 仕方がないな、みたいな微苦笑を浮かべたケントの声がとても柔らかい。


「嬉し涙って言葉を知らないの?」


 ミラも照れ臭くて、手を後ろで組んで少し拗ね気味にプイッと顔を逸らした。


「――隙あり!」


(!?)


 直後、ケントから頬にキスをされた。

 触れられた所を手で押さえ、見る間に耳までも真っ赤にしたミラは、抗議の声を上げようとして、はたと周囲の様子に意識が向いた。

 周囲を忘れて白熱していた二人は、興味津々で集まってきて目と耳を傾けていた観衆たちの存在にようやく気が付いたのだ。


(こ、これじゃあもう街の中を歩けないーっっ!)


 ミラは羞恥にもう一度芝の上に突っ伏したかったけれど、同様に固まっていたケントが我に返って手を差し出してくる。


「これ以上見世物になる前に、帰るか」


 やっぱり照れながらも優しく笑うから、ミラは頷くより先に導かれるように動いてその手を取っていた。

 ずっとずっと待ち望んでいた自分だけに向けられる優しい微笑みに、初めて感じるような心地よい安堵感が広がっていく。


「うん、帰ろ」


 彼女も目を細めて輝くような笑みを返した。

 どちらともなく指を絡め、歩き出す。


「今までその、可愛くない態度取ってごめん」

「いいよ、俺も言葉足らずだったし、あんな可愛くない態度でも可愛かったからな」

「……」


 今までそうとは知らなかったが、ケントはどうやら頗る口の甘い男のようだった。


 ――フォグフォードが好きでもない奴と婚約なんてすっかよ。

 ――他は眼中にないっつーか、無駄に使う優しさはないっつーか。


 喫茶店でのルースの言葉が脳裏を過ぎる。

 ミラは微かな戦慄と共に最愛の幼馴染みの横顔を盗み見た。

 これからはこれからで大変かもしれないと、甘い期待と甘過ぎた際の危機感を思ってその狭間で惑うミラだった。





 帰りは行きと同じくケントが彼の家の馬車を手配していたらしく、それで送ってもらう方向になった。


「ところでどうして公然とキスなんてしたのよ。頬とは言えすっごく恥ずかしかったんだけど」


 馬車に揺られ車窓の景色を眺めていたミラがふと思い出してちょっとだけ恨めし気に問えば、ミラが顔を向けた時から自身の婚約者を見ていたらしいケントは、向かいの席で彼女がたった今まで眺めていた車窓の景色を一瞥し、これと言って興味もなさそうな顔で視線を戻した。


「あいつが……チェンバースがミラに無理ちゅーしたって言ってたから」

「え? 無理ちゅー? 喫茶店での話?」

「いや植物園での話」

「彼とキスなんてしてないわよ」

「え……何だそうなのか。あいつよくもぬけぬけと嘘を……」

「されそうになったけど、手で口を押さえてやったもの」


 一瞬、馬車内の空気がピリ付いた。


「……されそうになった? どうしてそんな状況に?」


 彼は前の座席から胡乱な目でミラを見据えてくる。


「単に試されたのよ。あんたへの気持ちを捨てられるか」

「それで?」

「それでって……だから、キスしなかったって言ったでしょ」

「でもキス出来るくらいは接近したんだな?」

「え? それはそうだけど……」

「……全部が嘘でもなかったって事かよ」


 何を思ったかケントがわざわざ隣に席を移ってきた。

 しかも腰を引き寄せられて寄り掛からされた。


「ちょっ、ちょっと!? 急にどうしたのよ?」

「……ムカつく」

「え」


 すぐそこに悔しげに歪められたケントの顔があった。


「……ミラは未来永劫俺のなのに」


 独占欲丸出しな率直過ぎる言葉に息を呑んでしまった。


 反面で、ズキリと胸の奥が痛くなる。


 ケントにこんな顔をさせているのが嫌で、どうにかしたかった。


 自分を見て嬉しそうにしてほしかった。


 願望が衝動になり、考えるまでもなくミラの体は動いていた。


 ふっと、彼の唇に自身のそれを寄せたのだ。


「……ッ!?」


 顔を離せば、呆然と目を丸くして赤面したケントが瞬きも忘れたようにしていた。

 そんなちょっと間の抜けた可愛らしい顔に、ミラはぷっと小さく噴き出した。


「あのね、あたしがキスしたいと思うのも、抱きしめたいって思うのも、勿論結婚して奥さんになりたいって思うのも、ケントだけなんだからね?」


 念押しする眼差しで訴えると、ケントは何故か目を瞠ったまま微かに息を呑んだようだった。咽仏が上下する。

 ミラは意図したわけではなかったけれど、位置的にケントからすればグッとくる小悪魔的な上目遣いがそこにはあったのだ。

 そして彼の大きな動揺には気付かずに、ミラは頬を染めてのツンとデレを発動。


「か、感謝しなさいよ? これでもあたしの……初キスあげたんだから」


 極め付けとでも言わんばかりの台詞に、ケントは一瞬真顔になった。


(あああ~恥ずかしい台詞って自覚はあるからどうかこれについては何かを突っ込んできませんように!)


 どうやら耐えた彼は正直どんな顔をしたらいいのかわからないと言うように、自身の口元をうがいでもするようにもごもごさせると、やや目を伏せる。

 その姿は単に照れているだけにしては、もじもじとして何かが後ろめたそうにも見えた。


「……ケント?」

「悪い、今のがミラの初キスじゃない、二度目だよ」

「え……?」


 ケントとキスをした記憶なんて一度もないので一体全体どういう意味かを訊こうとしたけれど、ケントがミラの柔らかな腰をより引き寄せて覆い被さるように身を乗り出した。


「それに、もう数える暇もなくなるから」


 今まで聞いた事のないような甘い声で囁かれ、ふわりと唇を塞がれた。


 最初は綿あめのように優しく甘く、次第に深く濃く、のめり込むようなキスだった。





「それじゃあな。もう結構日も暮れてきたし見送りは良いから早く家入れよ?」


 サザーランド家のタウンハウスの門前に停まった馬車の傍で、ミラはケントから優しく低い声で「ん?」と返事を促すように顔を覗き込まれ、内心かなりあたふたとして頷いた。

 帰りの馬車の中では、付き合って初日も同然からの猛攻を何とか凌ぎ切った。

 自分たちはまだ婚約段階というのもあってきっとケントはある程度自制を掛けていたのだろうとミラは思う。


(でもっ、けどっ、ハードだった……っ、はわああああ~っ)


 などと言う蕩けた心の声はおくびにも出さない。

 きっと欠片でも見せたらケントは調子に乗るに決まっている。


「今日はありがと、気を付けてね」

「ああ、うん」


 努めて平静を装うミラへと、共に馬車を降りたままのケントは何か言いたそうにした。


「乗らないの?」

「あ? あー乗る乗る……けどさ。ミラ、ちょっと」

「何?」


 小さく手招くので何事かと思って傍に寄った。

 ちゅっと、頬にキスをされた。

 本日二度目だ。


「――ッ」


 往来にはそこまで多くはないがそこそこ人の目があると言うのに、これだった。


「な、な、何するのよ!?」

「またなって挨拶?」


 しれっとしてケントはうそぶく。

 馬車の中では思い出すだにこれより余程羞恥に染まるような口付けをしたけれど、それとこれとは別だ。


「もうっケントってば節操はないわけ!」

「ミラ限定で、そんなものとっくに川に流したよ」

「なっ!」


 怒りと照れで赤くした顔で、ぐっと拳を握った所でケントが逃げるように馬車に乗り込んだ。


「今度こそ、ホントにまたなミラ!」


 結局はしてやられたような気分で馬車を見送って、その車影が道の先を曲がって消えた所でミラはがくりと四肢を地についた。


 結局の所「初キスじゃない」と言われた真相だって聞けなかった。


 車中キスの激甘さにふやけているうちにあやふやにされてしまったのだ。


 一体全体いつ彼とキスをしたのかとんとわからない。


「うう、もうホントこの先どうしろってのよ……ケントがまさかあんなだとは思わなかったわ……」


 想像するだけで、もう色々と駄目だと思うミラなのだった。

 その割とすぐ後に、父ジェームズが門から出てきてミラの肩にそっと手を置いた。


「立ちなさいミラ。家の前で石像にでもなるつもりかい?」

「パパ……」


 支え立たせてくれるその顔は、しかし、何とも言いようのない生温かい面持ちだ。


(え、パパのこのにやにや顔ってまさか……?)


「ん? 服が些か湿っているようだけれど?」


 びしょ濡れではなかったが服が濡れていたケントのせいで、園内や馬車内でくっ付いていたミラの服も少し湿ってしまったのだ。


「ああこれ、ちょっと植物園で水撒かれちゃったみたいで……」


 ケントが、とは口にしなかった。彼が濡れてどうしてミラまで……と問われても説明に困るからだ。


「何と。寒くはないかい? 早く家に入ろう」


 こくりと首肯しミラは素直に応じた。

 父親と連れ立って歩き出す。


「はっはっはっ、それにしてもほっぺとは、ケント君も中々に可愛い所があるじゃないか」


(きゃーっやっぱり見られてた!)


 朗らかに笑い声を上げている父親に、よりにもよって身内に、路上でのケントとの一部始終を目撃されたと確信すれば、心が折れそうになった。


「――まあけれど、ほっぺで当然だ。口へのキスはまだまだ早いからね。ミラもそこはケント君を煽らないようによくよく気を付けるのだよ」


 この時の父親の顔には有無を言わせぬ紳士然とした爽やかな笑みが貼り付いていたが、どことなく薄ら寒かった。わしの目が黒いうちは……とか言い出しそうだ。


「…………ええ、はい」


 父ジェームズは寛容なようでいて実は違っていたらしい。


 ケントの命のためにも、もう口も濃厚に済ませましたとは絶対に言えないミラだった。


 玄関へ向かいながら父親の頼れる背中を眺めていたミラは、ふと、振り返る。

 ちょっとした公園とも言える広い庭を持つケントの家とは違い広くはない庭先なので、門から歩いてきた道のりはそう長くない。往来の人々の姿が見えている。

 通りすぎていく彼らにも沢山の人生があるのだろう。


 これまでのつまずいて苦しかった道のり…日々は決して無駄じゃないなと思った。


 その分、様々に煌めくケントとのこれからがとても楽しみに思えるからだ。


(そうだ、早速ルースのとこの学校案内でも読もうかな。新たな場所も人生のスパイスってね)


「ミラ?」


 不思議そうな声でジェームズから呼ばれて前を向く。


「どうかしたかい?」

「ふふっ、少々哲学を」

「ええ?」


 スキップをしてジェームズに追い付いた。


 未来はきっと鮮やかな彩りに満ちている。






「あいつって結構な腹黒だよなー。ミラと面白え組み合わせだし、マジで編入して来てくんねえかな~」


 他方、やや時を遡って植物園からの帰り道、石畳の歩道を一人上機嫌に歩いていたルースはくつくつと忍び笑った。


 無理やりキスをしてやった……と彼がケントに言ったその言葉は真実だ。


 無理やりミラの手にルースの唇が触れるように仕向けてやった、という意味でなら。


 キスはキスでも手に。


 単に口を押さえられただけの接触をキスではないと言えばそうかもしれないが、キスであると言えばキスになる。

 要は見方の問題だ。

 ルースは部位を明確にせず大雑把に告げたが、ミラがきちんと詳細を話したかもしれない。

 そうであってもそうでなくても、ケントがどう捉えるかは彼次第だ。

 彼としては暇潰しに掻き回しただけだった。最低と言える。

 元来ルース・チェンバースとはそう言う男なのだ。

 彼の恋愛面をミラに心配されるのもこれでは致し方がないだろう。


 それはさておき、ルースは自分がここまで二人にこだわるとは思いもしなかった。


 最初はミラだけで良かった。彼女はルースにとっては退屈しない相手の一人だったのだ。


 だからケントは、当初はミラのついでだった。


 しかし彼は今日、予想通りで予想以上だったケント・フォグフォードの実態を目の当たりにしていた。


 植物園で姿の見えないミラを捜し当て、その結果一人で帰ろうと決め、ぶらぶら適当に見て回っていた時の事だ。

 遠くに今日の連れのもう片方を見つけた。

 ケントはやや焦りの色を浮かべて、周囲へと索敵にも似た視線を飛ばしながら駆け足でルースの方へと近付いてくる。


 一目ケントを見て、ミラを捜しているのだとわかった。


 向こうはまだこちらには気付いていない。


 このまま方向転換し、ケントをやり過ごす事も可能だった。


 彼女の居場所を教える義理もないのだ。


『なあおい、フォグフォード。こっちだよこっち』


 ただ、教えない意地の悪さもなかった。


 ルースの声掛けに気付いてケントが訝しげな顔で近寄ってくる。


『ミラならあそこの花壇が連なる区画の方にいたぜ』


 ケントが何かを問う前にルースは珍しくも親切心で口にした。

 ミラの複雑かつ純粋な気持ちに感化されて善人ぶりたかったのかもしれない。

 見るからに両想いなのに、こいつらは不器用にも何をやっているのかと、多少のもどかしさを感じていたからかもしれない。


 傍まで来て足を止めたケントは、何かを思い起こすように暫しジッとルースへと眼差しを固定した。


『チェンバース……父親が学校法人の理事長で母親が名門貴族出身で、兄弟は放浪中の兄と四つと六つ下の弟と妹の四人兄弟で、学校での成績は上の中で好物はガチョウの肝臓、嫌いな食べ物は…』

『待て待て待て待て怖いって。何でんな細かくしかも正確に俺の身の上知ってんの!?』

『ミラに近付く男の情報を把握しておいて損はないだろ』

『……。……なあ、一ついいか?』

『何だ?』

『中等学校時代、ミラに告白しようとしたダチが何人もいたんだが、全員告白もせずに何故かすっぱり諦めた。どうしてだと思う?』

『当時のお前のダチって……ああ、それたぶん俺が頼んだからじゃないか? ミラを煩わせるなって。見返りあるって言ったらすんなり頼まれてくれたっけな』

『見返り……。ああ、道理であいつら一時期妙に金回り良かったはずだぜ。ミラに告白しようとした全員をことごとく買収か……怖えよ』

『金かミラかで、金を選ぶ程度の奴があいつに告白するのを未然に防いだだけだろ、……あと、少しの弱味を揺さぶられた程度で引き下がるとか、な』


 さも当然と言ったケントの声には罪悪の欠片は見当たらない。


『へ、へえ~弱味まで……。その発想が既に恐ろしいんだがね……』

『そうか? 普通だろ』

『いやいやいや』

『ミラのためなら手段なんて選んでられないからな。先手必勝って言うだろ』


 素で引くルースを気にもせず、ケントはむしろ更に真剣な目になった。


『ルース・チェンバース、もうカフェの時みたいにミラに変なちょっかい掛けるなよ?』


 殺気立たれ、凄まれる。

 友人たちの二の舞になりたくなければ、と牽制されているのだろう。

 ここは普通なら慄くべきかもしれない。


 けれどかえってルースは落ち着いてしまった。


 何だか破格に面白そうな盤面が前途に広がっているような、そんな気になったのだ。


 ケントを怒らせれば楽しくなる、と完全利己的な思考をした。


 だからふっと笑ってやる。勿論わざと挑発するように嘲りを浮かべて。


『ぶっちゃけ俺退屈凌ぎが大好きなんだよな~。だからカフェの時はただそちらさんの反応を見たかった、それだけだ』

『最悪だな』


 吐き捨てるようにされて、ルースは意地悪く嗤った。


『全くだ』


 皮肉をさらりと肯定され、ケントは怪訝さを眉に乗せる。

 ルースは悪役でも演じるように、ケントへと顔を近付けて口元を歪めた。


『最悪ついでにもう一つ。さっき俺な~、残念ながら――……』


 キスをしたと言ったくだりのケントの顔は見物だった。


 殴られるかもと覚悟もした。


 しかしケントは明らかに腹を立てていたようだったのに、ルースに構うより一秒でも早くミラの姿を見たいとでも言うように駆け出していったのだ。


 その一途さにはどこか羨望のようなものを感じた。


「――ふう、俺も誰かに本気になったら、退屈しなくなるかね……?」


 回想を終えたルースはどこか年寄り染みた口調で言って暮れなずむ空を見上げる。

 不思議と気持ちは穏やかだ。

 馬車ではなく徒歩で帰るのは、思考の整理の意味合いもあった。


 起伏の乏しかった日常が変化する予感がする。


 その後あの二人の間でどんなやり取りがなされたのかは知らない。


 けれど、少し素直になったミラがケントと共に編入してきて、ルースの退屈を見事にぶち壊してくれるのは、もう少しだけ先の話。





 ――起きて、起きないで、僕の眠り姫。


 まだ初等学校だったミラとアイリーンが彼の元に遊びに来たとある日、都会の中にあっても広いフォグフォード家のタウンハウスの庭先に出て、三人でかくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ。

 天気も良かったので簡単な昼食を作らせて、庭先でピクニック気分を味わったりもした。今は食後の腹休めの時間。

 お菓子作りに興味のあるらしいアイリーンは、紅茶の時間に一緒に出す焼き菓子作りを見学しにキッチンに行っている。きっと今頃は率先して手伝いながらノウハウを学んでいるだろう。


 ミラは、食後で眠くなったのか幼馴染みの彼の膝を枕に眠っている。


 そんな彼は庭の大きな木の一つに寄り掛かっていた。


 半ズボンを穿いているから、ミラの愛らしい顔を縁取るふわふわした髪の毛がちょっと擽ったかったけれど、彼女がここに居るという実感にほっこりと心が満たされる。

 頭をそっと撫でてやれば、まだ眠りの世界の可愛い姫は気持ち良さそうに身じろぎした。


 天使みたいだと、彼はそう思って、午後の木漏れ日が貼り付いて揺れる柔らかな頬に、一つ、優しい祝福のキスを落とした。


 降り注ぐ木漏れ日のような温かな心地で。


 だけどこれは絶対に秘密。


 勝手にしてしまった彼自身でもすごくすごく恥ずかしいから、された彼女が知ったらきっともっと恥ずかしくて泣いてしまうかもしれない。


 だから、内緒の内緒のキス。


 でも、だけど、閉じられた瞼の奥の綺麗な翡翠の瞳で自分を見てほしくて起こしたくもなってしまう。


 でも、だけど、膝に頭を乗っけて気持ち良さそうな顔でくうくうと寝息を立てているのを見ていると、このままでもいいかななんて思ってしまう。


 両足にかかる彼女の重みがこそばゆくて心がむずむずするような幸福感が込み上げる。

 ふわりと草の匂いを散らして彼と彼女の前髪が揺れた。


 そよ風と木漏れ日の時間の中の、少年だけの眠り姫。


 ――どうかどうか神様、この子が幸せを感じる相手が僕でありますように。


 ――僕だけのお姫様でありますように。


 こいねがい、彼女の瞼が閉じているのに今だけは喜んで、彼はまた一つ、今度はちょっと悪い秘密の秘密のキスをした。


 これは少年の中での確固たる始まりの意思。


 ざあざあと、叱るように風が木々を鳴らし、後にも先にも悪さはこれっきりにしようと決めた折、


「ん……」


 小さく唸った彼女がまだ夢現なのを良い事に、少年はそっと耳元で囁いた。

 いつもならこんな事、照れてしまって出来ない。


「起きて、俺のミラ」


「…………ん~……ケント?」


 何も知らない眠り姫は魔法が解けたようにゆっくりと目を覚ました。

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