拗らせ令嬢と令息の輪舞1

「けけっ結婚したらサクッと跡取りでも産んで俺の家で一緒に暮らしてくれればいいっ」


 彼は肺の空気を使い果たすかのように一息にそう言った。


 ただその顔は不本意な台詞のためか赤く、苦虫を一万匹は噛み潰しているように見えた。


 ここは経済発展著しいR王国。


 王侯貴族は毎晩どこかで夜会を開き、庶民たちは彼らを真似て紳士淑女の装いをする。商人や学者、弁護士などの中産階級層の中には、成功し貴族に劣らない豪華な生活を送る者もあった。


 その一例を満たす豪商サザーランド家の娘ミラは現在非常に困惑中だ。


 何故なら、約束もなく突然家を訪れた幼馴染みの様子が明らかにおかしかったのだ。


 来て早々からそわそわと落ち着きがなく、メイドに給仕された紅茶を何故か一気に飲み干そうとして火傷をしていたり、時折りミラを一瞥しては「あーその」とか「うーいや」だのと唸っていた。

 変なキノコでも食べたのか、ミラの家よりも裕福な金持ちボンボンのくせに金の無心か、はたまた女友達を紹介しろとでも言うのか、ミラは自分に何か用があるらしい彼が何かを言うまで根気強く待った。


 ケント・フォグフォード。十七歳。


 正面の長椅子に腰かけている幼馴染みの名と年齢だ。


 因みにミラとは同い年。


 所は貴族にも引けを取らないサザーランド家のタウンハウスの応接室。

 豪華な調度の揃ったこの部屋で、たった今とんでも発言をかまされたミラの向かいに陣取る少年は、プイと視線を逸らすと腕を組んで黙り込んでしまった。

 いつもの如く目も合わせない。態度が悪いったらない。


「……」

「…………」

「……………………」


(くっ…何なの。沈黙は金なんて誰が言ったわけ。こんな苦痛生まれて初めてよ)


 空気が鉛にでもなったような重く暗い雰囲気の中、ローテーブルを挟んで向かい合っている自分とケントの家は両方とも商家だ。

 商売の領域は多少異なるが、親同士親しく家族ぐるみの付き合いでもあったので、幼い頃は男女の隔てなく良く一緒に遊んでいた。

 三つ離れた姉のアイリーンも一緒に郊外の森や原っぱに出掛けたりもした。決まって姉アイリーンが纏め役。姉はいつも自分とケントが楽しめるようにと気を配ってくれていた。


 優しくて聡明で美人で、自分と同じ柔らかな栗色の髪と翡翠色の瞳の姉。


 そんな姉へ街の男たちはこぞって熱を上げ、街の男たちの例に漏れずケントも彼女を慕った。


 二月前に王立大学の若い学者と結婚した姉だけれど、諦め切れずに未だに嘆く男たちの何と多い事か。

 ケントもここ最近は特に何かを思い悩んでいるようで、顔を合わせれば出ていた憎まれ口にも覇気がなかった。

 彼だって失恋したのだから当然かと、同情していた今日この頃だったりする。


 ミラにはぞんざいなくせに姉には聞き分けがよく、素直に笑ったりする一途な面を見せる幼馴染みは、しかし何がどうなってこうなったのか、とにかく現在目の前で求婚してきたのだ。


 どこか構えつつも双方だんまりのまま、メイドが二杯目を淹れた紅茶が冷めるくらいは時間が過ぎたそんな時、顔を背けていた幼馴染みが物凄く不機嫌そうな声を出した。


「おいミラ、何でずっと何も言わないんだよ。お前が答えないと先に進まないだろ」

「はっ? 何なの? あたしのせいなの?」


 そっぽを向いたまま茶色い瞳を舌うちしたそうに眇める幼馴染みへと、ミラはキレた。


「大体ようやっと口を開いて何を言うかと思えば、サクッと跡取りとかって、あたしは出産マシンじゃないわ。道具扱いしないで。暇潰しか何か知らないけどこう言う悪い冗談って気分悪い」

「そういう言い方はないだろ。俺はミラを道具だなんて思ってない」

「ああはいそうですかー」


 ミラは真面目に取り合わず、椅子に背を預けつんと顎を反らして腕を組む。我ながらケントに劣らず態度が悪いとは思うミラだが、仕方がないのだ。

 目の前の少年に失恋して以来、もう何年ミラは彼に対しては気を張ってしまうのだから。

 こんなふざけたとしか思えない話をされたら尚更だ。


「……人の気も知らないで。暇人はいいわよね」


 ミラがぼそりと小さく唇を尖らせると、彼は眉間にしわを刻んだ。


「俺だって家の手伝いがあるし暇じゃない。わざわざミラに冗談言うためだけに来るか」

「だったら何の用よ。そもそもお姉ちゃんだってもう嫁いでいないのに」


 ケントは頭を切り替えるように軽く咳いすると、姿勢を正した。

 視線はローテーブル上のティーカップに注がれているが、そのいつにない深刻さと強張ったような面持ちに、ミラも釣られて緊張し僅かに顎を引く。


「もしかしなくとも、おじさんから何も聞いてないのか?」

「何を?」

「だから、今の話についてだよ」

「……結婚がどうとかってやつ?」

「そ、そうだよ」

「聞いてたら知ってるわよ。即お断りね」

「なっ……!?」

「どうして驚くの? 今日は何でこんな事言って来たのか知らないけど、立場が逆ならあんただってそうでしょ。人の気持ちってそう簡単じゃないもの」


 半眼でべっと舌を出してやると、ケントは片頬をヒク付かせた。


「……可愛くない」

「ふんだ。お姉ちゃんとは違うもの」

「何でリン姉が出てくるんだよ?」

「何でですって? お姉ちゃんが可愛くないとでも言うわけ?」

「んな事言ってないだろ。それにリン姉みたいなのは可愛いって言うより綺麗って言うんだよ。だけどまーリン姉ってすごく美人だよな」

「当然。お姉ちゃん大好き。だからあんたは大嫌い」

「だからって文脈がおかしいだろ!」

「脈絡なく大嫌いって事ですー」

「ぐっ」


 手加減なしに憎まれ口を返して黙らせてはみたものの、自分以外の女性を手放しで褒める想い人に複雑だったりもする。

 ミラは一旦気分を変えようとすっかり冷めた紅茶を口に運んだ。


「不味そうに飲むなよ」

「うるさいわね。あたしがどう味わおうと勝手でしょ。そっちも折角二杯目も淹れてあげたんだからきちんと飲んでいってよね」

「わかってるよ。いただきます」


 冷めた紅茶は当然まずかったが、ケントは文句も言わずに飲み干した。

 一杯目の時もそうだったが、カップを呷った際に剥き出した咽元が嚥下に合わせて上下する。不可抗力でまともに見てしまったミラは何だか落ち着かなくなって視線を外した。


 悔しいが、ケントは容姿が良い。


 見た目はミラの好みど真ん中だった。


(ああもう、こんな口悪い奴にドキッとするなんて不覚!)


 年頃になってより一層男らしくなっていくケントの変化に、ミラは悔しい思いを呑み込んだ。傍に居るとどうしたって惹かれてしまう。そんな自分を忌々しくさえ思う。


「それでさっきの話ってパパも関係してるの?」

「当然だろ。あとうちの親父も」

「それって要するに家同士で決めたって事?」

「まあ、そうなるな」

「じゃああんたと政略結婚?」


 ミラは信じられないと言う顔でケントを見やる。

 絶対無理だと思っていた未来が見えて喜びがじわりと滲んでくる。しかし淡い期待を秘めた大きな翡翠色の瞳に映された少年は、何とも言えない顔付きで黒髪を掻いた。

 不満不服と言わんばかりの態度に、ミラは苦い現実を突き付けられて急激に夢から覚めたような心地で、俯いて膝の上の両手をきつく握り締めた。


「嫌なら断ればいいじゃない。あたしは……――断るわ」

「ミラ、それは無理だ」

「どうしてよ。まだ正式に婚約を交わした仲でもないんだから、今なら醜聞になる事もなく綺麗に立ち消える話じゃない」

「そうでもない」


 顔を上げどういう意味かと苛立ち訝しむと、彼は言いにくそうに一度口元を歪めた。

何かを告げようと決意した瞳はまっすぐミラへと向けられていて、久しぶりに合った視線にたじろいでしまった。最近では目が合う事自体稀なのだ。


「な、何よ……?」

「悪い、ミラ」


 唐突にケントが頭を下げた。

 彼のつむじなんて久しぶりに見るなぁなんてしみじみ懐かしく思ってしまった自分を、ミラは心の中で激しく罵倒してやった。


「……何で謝るの?」

「俺が卑怯で最低野郎だから」

「そんなのはとっくにわかってるわよ」

「ひでぇ……」

「だから、何で謝るのよ。ちゃんと理由があるんでしょ?」


 彼はしばし項垂れた。口と目をぎゅっと閉じて拳を握る。


「それは……俺がこういう形ででも確約が欲しくて頼んだからだ。軽蔑されるとしても、どうしても傍に居たかったんだ」


 そう告げて来たケントは思い切ったように顔を上げてミラを見つめた。

 情熱を秘めたような強い目に、ミラはハッと目を瞠る。


「これで気付いたかもしれないけど、俺はミラの――」

「――この結婚は双方の家業に直接関わっているからね。ミラが何を言ってももう決定は覆らない。だから謝ろうとした。そうだね、ケント君?」


 ケントが何か決死の言葉を放とうとしたのを遮る形、要するに全く以って空気を読まないというかぶち壊す勢いでこの応接室の扉を開け放って登場したのは、


「パパ!」

「やあ御機嫌ようミラ」


 彼女の実父、ジェームズ・サザーランドその人だった。





 娘のミラやアイリーンと同様にサザーランド家特有の柔らかな栗色の髪に翡翠色の瞳を持つ彼は、ステッキにフロックコートという紳士の装いのくせに盗み聞きという紳士らしからぬ行動を恥じる様子もなく、ズカズカと二人の傍までやってきた。

 彼の後ろに付き従う年配の白髪男性はこの家の執事のマクローリンだ。

 手にはジェームズの帽子を持っている。


「話しておくのを忘れていてすまないねミラ。けれどどうか聞き分けておくれ。お前とケント君の繋がりを以ってして我がサザーランド家とフォグフォード家の事業提携が実現するのだよ。逆を言えば事業提携のためには二人の婚姻が不可欠というわけだ」


 ミラは愕然とした面持ちで父親を見つめた。


(それって、家業のためには娘の気持ちなんてお構いなしって事?)


「互いによく見知った間柄であるし、ケント君は中々悪くない相手だろう?」


 同意を求められ、ミラは父親の得意顔を見、次にゆっくりと幼馴染みの姿を捉えた。

 何故か脱力したように座ったままの彼は、どこか投げやりな半笑いを貼り付けている。


「はは……概ねそういう事だから」


 元々現金な父親はともかく、ケントまでお金のために人の気持ちを顧みない人間だったとは思わなかった。

 家の利益のためなら好きでもない相手と結婚できるのかこの男は……と思えば、ミラの中でぶちりと何かが切れた。

 それは堪忍袋の緒を引きちぎった音か、はたまた自身の心をぶつ切りにした音か。


「さっきごめんって言ってたけど、謝って済む問題じゃないでしょ。……最低……さいてい……サイテー……」


 項垂れて不気味にぶつぶつと同じ言葉を繰り返し、すうぅっと大きく息を吸う。


「最っっ低!!」


 理不尽さとか悔しさとか憤りとかが綯い交ぜの心で、ケント・フォグフォードなる男を睨み付けた。


「わかった。結婚ならしてやるわ!」


 ケントとジェームズの双眸が安堵を宿したのも束の間。


「絶対に浮気してやるけどねっ!」


 鼻息も荒くそう言い放ち勢いよく立ち上がると、ミラは肩を怒らせて応接室をさっさと出てやった。


「…………は? はあああっ!?」


 一方、ケントは彼女を追い掛けるという発想も出ないまま一瞬唖然とした後、目一杯不納得の声を張り上げた。

 そんな少年の横では、


「はっはっはっ、若いうちは大いに弾けなさい。はっはっはっはっ!」

「旦那様……」


 破天荒な気質のミラパパが常識人執事からの白い目を歯牙にも掛けず、高らかに笑っていた。





 ミラのやけっぱちな宣言もあったものの、言質は取った、待ってましたとばかりに二人の正式な婚約が取り交わされた。

 婚約期間は約半年。半年後には盛大な挙式が待っている。

 結婚式場やそれに必要な諸々の業者は既に手配済み。

 婚約後まもなくその話を聞かされたミラは呆気としたものだった。


「全く何なのあの人たちは。段取り良過ぎでしょ。反体制派の謀略にまんまとハメられた王様の気分だわ」


 夕刻、この日の家庭教師の講義も終わり、サザーランド家の自分の部屋で憂欝そうにテーブルに頬杖を突くミラは、こうして思考に暇が出来れば結婚云々を考えるようになっていた。

 これならまだ顔も知らない相手に嫁いだ方が気持ちも楽だったかもしれない。

 よく喧嘩をしていたとは言え、昔から知っていて信はおける男だと思っていた自分が馬鹿だったと、ミラは苦々しさと共に嘆息した。

 因みに、今は家庭教師の指導に勉学は任せ学校に通っていないミラだが、街の大半の子供たちと同様に学区内の中等学校に通っていた。それなりに楽しかったと言える。なので仮に再びどこかの学校に通えと言われれば、それもやぶさかではないミラなのだった。


「ホントのホント、絶対に浮気してやるんだから」


 そのためにはまず相手探しだ。


 そういうわけでミラは早速翌日、一人街中へと出掛けた。


 一昔前までなら侍女も連れていないと眉をひそめられただろうが、現在ではもう女性の一人歩きは珍しくもない。昼日中なら尚の事だった。

 この街はR国の中で一番大きな都市でもあって人口も多く、この日も街中は常の如く混雑していた。

 一人ぶらつきながらミラはすれ違う人々を眺める。街には多彩な人々がいるが、どうやって知り合えばいいのか悩む所だ。


(路上でナンパする? でも沢山人の目もあるしちょっとハードル高いわよね。うーんどこがいいかしら。……声を掛けるにしても落ち着いて話せそうなカフェとか?)


 とは言え、自分の性格上初っ端からまさか「浮気相手になりませんか」などとは言えないだろう。

 中等学校時代告白の一つもされた事はなかったから、自分がモテないのは承知している。上手く交渉事を運べるかを想像すれば、浮気相手探し一日目にして既にミラの心は挫けそうだ。


(はあ、どうしよう。見つけられる気がしない)


 強気に宣言してしまった手前、この先意地でも誰か一人は見つけねばとは思う。しかし当てもない。

 こう言うやり方は自分には向かないのだと自分でもわかっていた。

 早々に途方に暮れ溜息をつく情けない自分が、どこかの店先のガラスに映り込んでいる。

 これでも美人姉妹だと言われて育った。

 手前味噌だが決して見た目が悪くなくても性格がキツイとやっぱりモテないものなのだろうか。


(自分でも短気で可愛くない性格だってわかってるけど……)


 前途多難だとはあ~と溜息をついていると、後ろからポンと肩を叩かれた。


「ミラ? ああやっぱりそうだ。久しぶり」

「へ? あーッ! ルースじゃない久しぶり!」


 振り返ったミラは思わぬ再会に喜色を浮かべた。

 そこに居たのは、金髪に赤いメッシュの入ったやや軽薄そうな印象の少年だ。

 どこかの私立学校の制服を着ていて、開いた襟元のノーネクタイという気ままさが彼の気質を表しているようだった。


 彼――ルースは中等学校時代仲の良かった男友達だ。


「買い物中?」

「いや、ええと……違うけどまあ似たようなものかも」

「ははっ何だそりゃ?」


 まさか男を物色中だと馬鹿正直に告げるわけにもいかない。


「卒業以来だよな。今は家業の見習いでもしてんの?」

「うん。家庭教師に他の科目共々教えてもらいながら、色々と学んでる最中」

「カテキョか~」


 ルースは感心しつつ、何かを閃いたようだった。


「なあ、それも良いが寄宿学校も楽しいぜ? うちに今から編入して来ねえ?」

「編入……そういえばルースのお父さんって寄宿学校の理事長だっけ。それ、着てるのってそこの制服? スッとして何かカッコイイデザインよね」

「へへっそうだろそうだろ、さすがはルース様で似合うだろ?」


 得意気に胸を張るお調子者の友人にミラはくすりとした。

 ルースの実家は男女共学の寄宿学校を営んでいる。

 しかし彼は中等学校までは普通に王立の学校に通っていた。それはひとえに家の方針だったようだが、高等学校からは寄宿学校に籍を置いているらしかった。


「ミラの頭なら編入試験も楽勝だろうし、ミラが居ればもっと学校が楽しくなると思うんだよな。実は割と中等学校出身組もいるんだぜ? うちに来ねえって誘ったんだ」

「へえ」

「ミラが来たらあいつらもきっと喜ぶよ」


 友人が愉快な学園生活を送っているようでミラは安心した。

 学生身分に戻るのに興味が湧いたミラは、ここでふと思い付いた。


「ねえ、ルースの所は男女共学なのよね。男子ってどれくらい居るの?」

「割合で言うと六四で男子の方が少し多いな」

「学校に入れば、出会いがあるかしら……」

「お、ちょっと乗り気になってる? ミラが入れば目の保養にもなるし、男子的には大歓迎だ」

「あははルースってホント変わらないよね。昔から口が上手いんだから」

「いやいや真面目だって。ミラは可愛いから今も言い寄ってくる男は多いだろ」


 手放しに褒められて嬉しくないわけではなかったが、それが余計に溜息をつかせた。


「……そんな相手一人もいないわよ。あたし告白された事なんてないもの。した事もないけどね」

「まったまた~ご冗談を」

「冗談じゃないのよこれが。お姉ちゃんと違ってモテた事なんてないわ」


 偽りのない眼差しではっきりと言い切ると、ルースは困惑したようだった。


「……ええと、マジ?」

「マジよ。どうしてそんなに驚くの?」

「え、いやだってミラは中等学校の時モテて……あれ? どういう事だ?」

「どういうって……それはこっちが訊きたいわ」


 些かの苦笑を滲ませてルースを見やれば尚も訝しげな様子で首を捻っている。


「ええ? いや俺の周りの三人に一人は一度はミラを好きだったはずなんだが……?」

「あのねえ、世の中そんなに甘くないわよ」


 達観した様子でミラが呆れると、彼は腑に落ちない顔付きのまましばし考え込んだ。


「だけどそうよね。学校って見つけられる可能性は高そうよね」


 今度はミラの方が考え出すと、その呟きにルースは直前までの彼の思考をとりあえずは保留にして勧誘に乗り出した。


「俺さ今日はたまたま暇してたし、ミラが興味あんなら学校に関する大まかな説明もしてやれる。善は急げって言うし、そっちの今日これからの予定は?」

「特に決まってないわ。そうね、あたしも話を聞きたいし、お願いしようかな」

「よし決まり。じゃあどっか適当なカフェにでも入るか」


 ミラは同意に頷いてルースと二人で近くの店に入り、軽食を頼んで話を聞いた。





 彼が校則をそらで覚えていたのには驚いた。

 さすがは経営者一族でもある。

 見た目は不真面目そうに見えるが根は真面目なのだろう。そうでなければ彼の勧誘で入学しようなんて者たちはいなかったはずだ。


「そういえば今更だけど、どうしてこんな昼間にこんな所にいるわけ? 学校の授業は?」

「ああ、バックレてきた」

「……ああそう」


 やっぱり不真面目なのかもしれない。

 とは言え、ミラはその点にはこれ以上触れずに話を進める事にする。


「ねえ、ところでこれだけは確認しておきたいんだけど、在学中に結婚しても問題はないわよね?」


 一瞬間があった。

 しかしルースは気を持ち直したように耳に片手をやって「もう一度言って」のポーズ。


「ええと何だって?」

「結婚してもいいんでしょって言ったのよ」

「うおー、聞き間違いじゃなかった……」


 ルースは、ミラの知る限りいつも飄々としていた彼にしては珍しく、面食らった顔をしている。


「えーと何? ミラには結婚したい相手でもいんのか?」

「したい…じゃなく、しなきゃいけない…だけどね。家同士が決めた相手なの。ルース実を言うとあたし少し前に婚約したの」

「婚約……まあ良家の子女の間じゃその手の話も珍しくはねえか。うちにもそういう生徒はいるしな。でもミラが婚約してたとはなあ。……で、差し支えなければ教えてくれ。誰と?」

「覚えてる? 同じ中等学校だったケント・フォグフォード」

「ああそれはまあ……――って、え? そいつと?」


 こくりと肯定に首を振ればルースは何故だか遠い目をした。


「あー……そうか、なるほどな。フォグフォードってミラの事すげえ好きだったもんな。マジに婚約まで漕ぎつけたとか……執念だな」

「はあ?」

「……もしかしたら中等学校の時も裏で? いやでもまさかそこまではなー」


 向かいの席でよく聞き取れない小声で呟く友人へと、ミラは眉を寄せた。


「ルースあなた勘違いしてるわよ。ケントの好きな人はあたしじゃないわ」

「くははフォグフォードが好きでもない奴と婚約なんてすっかよ。あいつって無難に人当たりは良かったけどそういう面ではハッキリ線引きしてただろうが。他は眼中にないっつーか、無駄に使う優しさはないっつーか」


 ミラがいまいち納得できずに首を傾げると、頼んだコーヒーに口を付けながら外の景色に目をやったルースが、僅かに両目を細めふっと苦笑して言った。


「学校案内の書類とか今度家の方に持って行ってもいいか?」

「あらあたしから取りに行くわよ」

「いいいい持ってくから。そん時は是非ともフォグフォードの奴も呼んでおいて」

「ケント? 何で?」

「だって、ほら」


 ルースに促されるまま彼の視線を追ったミラは、往来に突っ立って呆然としたような顔でこっちを見つめるケントの姿に行き着いた。


「……ハの字眉って、何て情けない顔してるのよ」

「ははっやっぱ一途じゃん」

「だっから違うってば」

「俺としては、ミラとフォグフォードが一緒に編入してくれたら面白いと思うんだよな」

「面白いって……何が……」


 友人からの失礼な評価にミラは憤りよりも嘆息しか出なかった。ルースには怒った所で暖簾に腕押し、糠に釘だろうからというのもある。


「ちょうどいいし、フォグフォードもこっちに呼ぼうぜ?」

「……放っておいていいわよ。あたしあいつに浮気宣言してるから」

「ブッ」


 コーヒーを噴き出し掛けたルースは軽く噎せるとミラを見て窓の外を見て、微苦笑のようなものを浮かべると、カップを置いてやれやれとテーブルに両肘を突いてミラを眺めた。


「……俺まだ馬に蹴られて死にたくはねえんだが」

「はい?」


 ケントはまだ外で店の中に入るかどうか迷っているらしく、しきりに店内を気にしているばかりだ。彼はミラに顔を背けられたのが原因で足を鈍らせていたのだが、婚約までしておいて損な性分だ。


「ふうむ……。なあちょっといいかミラ」


 それを的確に察していたルースは短く思案すると、ちょっとテーブルの上に身を乗り出し、立てた人差指をちょいちょいと曲げ内緒話でもあるのかミラにも顔を寄せるように促した。


 一瞬キョトンとしたものの素直に応じて耳を寄せるようにすれば、ちゅっとルースから頬に口付けられた。


「へ……? ――えッ!?」


 目をまん丸くして凝視してしまえば「じゃあまたな」とにやりとして、彼は止める間もなくさっさと二人分の会計を済ませて店を出て行った。

 店の外でケントとすれ違いざまに何か話していったようだが、店内からでは聞こえない。店に入れとでも言ったのだろうか、程なくしてケントが入ってきた。

 座るべきか迷っているのかしばしテーブル脇に突っ立っている。


「目立つから座れば?」


 何となく気まずくて素っ気なく促すと、彼はつい今し方までルースが座っていた椅子に腰を下ろした。飲み物も注文せず不服気にミラを見据えてくる。


「睨まないでよ。何か用なの? 折角友達とお茶してたのに」

「お前もう少し警戒心持てよ。隙あり過ぎるからキスされたりするんだ」

「あのねえ今のはこっちだって不意打ちで……ってそんなのあんたに関係ないでしょ」


 頬とは言え、公然とキスをされた事実に顔を赤くしたミラは、羞恥を振り払うかのように声を荒くした。


「関係ある。婚約者が他の男に気を取られてたら面白くないし傷付くだろ」

「気を取られてなんてないし、あんたが傷付く必要がどこにあるのよ。昔からずっと好きな人がいるくせに」

「なっ……気付いてたのか!?」


 ケントはわざとらしいくらいの大仰さで驚いている。店内の客たちの視線が意図せずも集まって、ミラは嫌そうにした。


「ふん、あたしの浮気は駄目でそっちのは見逃せなんて、そんな都合のいい道理はないわよ」

「何でそこで俺まで浮気する話になるんだよ。わけわかんないって」

「わからない? 全くいい度胸よね。あたしにだって恋愛の自由はあるわ。体面を気にしてるんでしょうけど自分だけ好き勝手できるなんて思わないで。気分悪い。帰るっ!」

「あっおいちょっとミラ!?」


 彼女は憤然と席を立つと、もうケントに一瞥もくれないで店を後にした。





「ケントの馬ぁ鹿! 馬鹿ケントー! あんの身勝手男ーーーーっ!」


 実家の自分のベッドで毛布に包まって、ミラは今日も日課のように相手に届きもしない罵詈雑言を並べ立てていた。

 喫茶店でのそらとぼけるような態度を思い出せば悔しさもひとしおで、じたばたと手足を動かして暴れたら埃が立ってくしゃみが出た。一人鼻を啜りながら等身大のケント人形でも作ってサンドバッグにしてくれようか……なんて考えが脳裏を掠めたそんな時、侍女が部屋の扉を控えめに叩いて嬉しくない報告をくれた。


「フォグフォード様がいらっしゃいました」


 喫茶店での一件以来、彼はより頻繁に婚約者たるミラの元に顔を出すようになっていた。

 これでは浮気相手を探しにも行けない。

 今日だけはミラから呼び付けたが、いつもなら折角訪ねてくれたのだから会いなさいと母親に諭されて、本気で仮病を考えつつ結局は渋々支度を整えるのだ。

 両親は共にケントの味方なのだ。母親に至ってはカッコイイ義理の息子万歳と日頃から口にする。

 美形な彼はモテる。中等学校時代も女子人気は高かった。アイリーンを好きな彼は勿論初心を貫き通し誰に靡く事もなかったが。


(その点だけは評価してあげても良いけど、そもそもあんなのがモテるだなんて世も末、ホント業腹だわ。大体ママは面食いが過ぎるのよ。いくら旧知の仲だからって可愛い娘を売るなんて酷いわよね)


 約束の時間よりも随分と早く来られて正直辟易したが、いつもの如く応接室へと廊下を向かいながら、ミラは今や憎たらしい存在筆頭になっている婚約者の姿を頭に浮かべた。


(……顔が好みなのがいい加減嫌んなっちゃう)


 姿を見る度に胸が高鳴る自分に心底うんざりだが、どうしよもなく止められないのだから仕方がないのだ。


(あいつってば結局は告白すらしないまま終わった挙句、失恋の傷も癒えないうちに妹のあたしと結婚しようって一体全体どういう了見なのよね。辛くないのかしら)


 親戚になれば何かの折に顔を合わせるのは避けられないだろうに。


(……っていうか、そんなにも顔を見たいの?)


 これでも一応は令嬢としての教育を受けて育ってはいたが、今は全く令嬢らしからぬ大股でズンズカ歩いていたミラは、唐突に思い至った結論に、思わず足を止めていた。


(そう…よ。そうなのよ。きっとそう)


 親族ならば今は離れた街に住む姉夫婦を訪ねても不審がられない。


 急に足元が覚束なくなってよろめいて、ミラは廊下の壁に手を突いて体を支えた。頭がぐらぐらする。


(考えてみればそうよ。家のためなら別にあたしとじゃなくたって他にもっと良い条件の相手がいるじゃない。うちより手広くて大きな商会なんて実際幾つもあるんだし)


 何故に自分とだったのか。


 それはケントがアイリーンとの繋がりを僅かでも望んだからではないのか。


 姉を見つめて仄かに頬を染める彼の横顔ばかりを、幼い頃からミラは気付けば見つめていた。

 どうして横顔ばかりなのか。

 それは偶然にも彼はミラが見つめている間は決してこっちを見なかったからだ。





 彼の想いを悟ったのは街の初等学校時代のとある夕暮れ時。

 当時は学校の最上級生だった姉アイリーンとケントと三人での帰り道。

 今ではミラの背は彼の肩くらいまでしかないけれど、まだ自分たちの身長差が余りなかった頃の事だ。


『ミラは向う見ずな所があるから、ケントがミラの歯止めになってあげてね』


 姉は何気ない思い付きで言い出したのだろうと思う。

 それとも、その日も生来の負けん気を発揮して、派手に喧嘩をして手足を擦り剥いたミラを案じる気持ちが引き金になっていたのかもしれない。

 長い影が石畳に伸びてオレンジ色が街を満たしていた。

 そんな中、ケントが何かを答える前に姉は少し眉を寄せて可愛らしく悩んだ。


『うーんやっぱりちょっと待って。歯止めって言い方じゃちょっとしっくりこないかなあ。歯止めじゃなくて護ってほしいから護衛?……じゃあ堅苦しいしなあ……――あ、そうだわこれだわ!』


 いい言葉が浮かんだのかパッと翡翠色の瞳を輝かせた姉は両手を合わせ、ケントを、次にミラを見ると教え諭すように言った。


『ケントはミラの騎士ナイトになってあげてね。何者からも護り抜くの』


 この国で騎士は強い守護者のイメージを持っている。

 小さい子供なら騎士ごっこをして遊ぶ事もよくあったし、大人なら鍛え抜かれた体躯と護国という大義を掲げる精悍な姿に称賛を叫ぶ。

 今でこそ主君ただ一人のために常に傍らに付き従うと言った風潮は廃れたが、騎士の称号を与えられるのは王国軍人の中でも実力を認められた一握りの者だけで、それ故に尊敬を集める存在なのだ。


『騎士かあ、いいなあそれ。さすがはリン姉!』

『でしょう。大きくなったらミラの騎士になってくれる?』

『ああ、なる。今からなるよ!』

『ふふっ頼もしいわね。約束よ?』

『ああ、約束!』


 にっこり笑う姉へ頬を紅潮させて威勢よく、それでいて子供特有の無邪気さで頷いたケントの横顔は、恋する顔だった。


 その時、ミラは漠然と悟ったのだ。


 ケントの想いの行方を。


 人に言わせればマセているなんて言われるかもしれない。


 けれど初恋の深さに年齢なんて関係ない。


 ケントも、そしてミラ自身も。


 思わぬ苦しさに泣きそうになっていたミラだったが、唐突にケントが自分を向いた。


『き、聞いてたよなミラ。俺……俺っお前の騎士になるからっ』


 いきなりだったので、酷い顔を見られたくなくてミラは反射的に顔を背けていた。だから彼が一体どんな顔でその台詞を言ってくれたのか彼女はついぞ見る事はなかった。


『い、いらない。そんな約束知らない。勝手にあたしの事決めないでよ馬鹿!』


 自分でも整理できない気持ちを持て余したまま、ミラは乱暴に叫んで一度もケントの顔を見ずに駆け出した。


『あっおいミラ!』

『ミラ!?』


 二人に追い付かれたくなくて全力で逃げた。

 結局追い付かれはしなかった……というか二人は困惑のためか追い掛けては来なかったので、半分の安堵と半分の惨めさを抱えたまま帰宅した。

 その後帰宅したアイリーンには「自分はケントより弱くない」と機嫌を悪くして先に帰った理由をそれっぽく説明して納得はしてもらえたと思う。彼女は少し予想外だったように目を丸くしたけれど、ミラが自覚なく拗ねた顔でそう言ったのを見て余計な言葉は口にしなかった。

 しかしケントの方はそうもいかず、次の日から今まで以上に気付けば近くに居て、男子と喧嘩するミラを庇ったり止めたりするようになった。


『ケントのお節介!』


 その姿勢は中等学校に上がっても変わらなくて、ミラはその律儀さとか優しさにいつも胸が高鳴る反面、やり切れない想いを抱えて突っ撥ねてしまうようになっていた。


『何とでも言え。つーかお前はもうちょっとお淑やかにしろ。女が顔に傷でも残ったらどうするんだよ、全く』


 その日も、放課後ミラは彼女のクラスメイトからカツアゲしようとした上級生男子相手に真っ向からやり合って押されて転んでしまったのだが、そこにケントが駆け付けて逆にその上級生をやっつけてしまったのだ。

 助力は有難かったが、いつまでもアイリーンとの約束を順守して騎士気取りな彼が恨めしいとも思った。

 大体にしてそこまで徹底するケントはそんなにも姉の歓心を買いたいのかと思えば、やはりこの恋は終わっているといじけるような心地に陥ったものだった。


『じゃああんたはもっと女心を学んだら? 知ってるんだからこの前だって隣のクラスの子に告白されたんでしょ。なのにあっさり一言で振ったんだってね。興味ないって言って。しかも突き放して泣いちゃった相手に面倒臭いなとか呟いたって聞いたわ。ホント無神経で酷い奴ね』

『ななな何で知ってるんだよ!?』

『……へえ、本当だったんだ、噂』

『だっカマかけ!?』

『あくまでも噂だったし、そこまでキツイ言葉を女子に掛けるなんて信じてなかったのよ』

『……別にいいだろ。好きでもない女にいちいち優しくしたってしょーもないし』

『しょーもないって……あっそう、もういい、帰る。じゃあね』

『あっおい待てって! まだ俺の鞄教室なんだよ』

『じゃ・あ・ね』

『おいってミラ』


 その日はケントを置いてさっさと帰ってやった……なんて記憶まで甦って、実家の廊下を侍女と共に歩きながらミラは深い溜息を落とした。


(好きな気持ちは消えないし心からは嫌えないし、あたしってホント救いようないかも……)


 気を張っていないと気持ちが見透かされそうだった。気持ちを知られたらきっと「興味ない」の一言で片付けられてしまうのだろうと思えば、結婚生活を耐える気力すら失われそうでバレるわけにはいかなかった。

 ケントを待たせている応接室に入ると、振り返った彼は立っていた窓辺からすぐさま近付いてきた。最早条件反射でミラは高圧的に腕を組む。


「今日はわざわざ来てもらってどうもありがとう」

「……ありがとうの態度じゃないよなそれ。で、何の用なんだ? お前が俺を呼び出すなんて夏に雪が降るのかってくらいにビックリなんだけど」

「それは驚かせて悪うござんした」

「……」


 皮肉を口にすればケントは押し黙った。

 ただ、立ったままなのもあれなのでミラは長椅子を促した。待っていれば侍女が紅茶とクッキーでも運んで来るだろう。ミラはまだお昼を食べたばかりだったのでそんなにはお腹に入る気はしなかったが。


「で? 何の用だよ?」

「せっかちね。詳細はこれからルースが来るから、その時に一緒に彼の話を聞いてほしいの」

「ルース? この前カフェに居た?」

「そうよ」


 肯定すればケントはあからさまに不機嫌になった。


「そいつが何の用だよ」

「学校編入に際しての資料を持って来てくれるの。もう一度学校に籍を置くのも楽しそうでしょ」


 ミラがそう言うと、ケントは「学校…」と何だか奇妙な言葉でも聞いたように瞬いた。


「悪いけどその必要性を感じない。ミラも俺も専属で家庭教師がいるし、王立大学にだって望めば入れるのに何で今更?」


 ミラだけではなく、ケントも今はどこの学校にも通っていない。しかも学問の進捗はそこらの学生よりも余程進んでいるのだ。


「あたしのためよ。あんたの事はルースから呼んでくれって頼まれたから呼んだだけだから、嫌なら帰ってもらって構わないわ。興味なしだったって伝えておくし」


 ミラの挑発的な口ぶりにケントはムッとしたようだったが、帰りはしなかった。

 ようやく侍女が飲み物などを運んできたが、ミラの方はお腹が一杯だったのでそれらには手を付けず、来客が退屈しないようにと室内の書棚に置かれている本の中から金融関係の一冊を手に取ってパラパラとめくった。

 ケントが早く来たせいでルースの到着まで結構時間があるので暇潰しに読もうと思ったのだ。


「そっちも何か読んだら? 何なら書斎に案内するし」


 壁際の書棚前に佇むミラへと彼はゆるゆると首を振ってみせた。


「それより今俺に時間をくれ。ミラと一度落ち着いて話さないとって思ってたから」


 既に紙面に視線を落としていたミラは少しだけ意外に思って顔を上げた。


「話? 結婚後は女主人として家の諸々はするから安心して。これ以上あたしたちに何の話が必要なの?」

「……色々、必要だろ。お前がへそを曲げたままじゃ結婚しても楽しくないだろうし」

「もう怒ってなんてないわよ。ただ、この結婚に楽しさなんて求めてないだけ」

「そんな言い方……」


 開いていた書物を両手でパタンと閉じると書棚に戻した。

 無理強いを怒る段階をとうに過ぎて、今では諦めの境地だ。事務的に人生が流れて行くだけで、夢に描いたような温かな家庭はこの上なく遠い。


(ホントもう人生詰んでるわよね……何か疲れた)


「ミラ、俺はっ」


 ケントが何かを言い募ろうとした矢先、給仕して一旦下がっていた侍女がルースの来訪を告げに来た。

 彼も予定時刻より随分早めにやってきたようだ。


「俺って間が悪いのかも……」


 会話の腰を折られてがっくりと項垂れたケントがぶつくさ呟いていたけれど、ミラは侍女への指示に忙しくそんな呟きは聞こえていなかった。





 三人揃うと、向かいの長椅子に腰掛けたルースは、ローテーブルに早速持ってきた書類を広げ、喜々として実家の寄宿学校を売り込んだ。

 その熱心な姿勢からはやはり彼も学校を運営する側の人間なのだと実感させられた。将来的には理事長である父親の後を継ぐのだろう。

 勧誘と言う一仕事を終えたルースは、一口紅茶を飲んでからこう言う時だけは掛けるらしい眼鏡を外して首を回した。


 初めて見る彼の眼鏡男子姿には、ミラは意外さに珍獣でも見るようにまじまじと凝視してしまったものだった。


 やんちゃ系インテリ男子も悪くない。


 ルースもケントとはタイプが異なるが女性モテする男だ。


 中等学校ではよく先輩など年上の女性と一緒にいるのを見かけた。


「――じゃあこれ手元に持ってていいから検討してみてくれよ。良い返事待ってんぜ~お二人さん」


 上機嫌にミラとケントにそれぞれ大きな封筒に入った資料を手渡し、ルースは用事は済んだとばかりに席を立つ。

 因みに説明を聞くに当たりケントはミラの隣へと座り直している。


「あ、待って。この後急ぎの用事がなければ何か軽食でも用意させるから、それまでケントの相手でもしてやって」

「俺は三歳児かよ……」


 学校案内の封筒を胸に抱え腰を浮かせたミラの横でケントがぼやいた。彼は不承不承だろうに何だかんだでしっかりと話を聞いていた。この辺は大人なのかもしれない。


「いいいい、そこまで気ぃ遣わなくて。ここ来る前にちゃんと食ってきたしな」

「あらそうなのね」


 他方、ルースはミラへと苦笑いを向ける。ケントからの殺気立った視線を意識もしていたようで「面倒は御免だ」と顔に書いてあった。

 勿論ミラはそんな機微には疎く気付かないが。


「ミラ」


 と、それまでほとんど黙っていたケントが徐に口を開いた。

 ミラが怪訝に振り返ると長椅子の彼は何かを言い出そうとして何度か口を開けたり閉じたりした。


「え、何? 何かあるなら早く言ってよ」

「いやその、この後植物園に行かないか? 最近出来た国内最大級の全面ガラス張りの温室に、珍しい植物が沢山植えてあるらしいんだ」


 その温室ならミラも話には聞いている。何でも、見た事もない色や形の異国の植物が多く見られるのだとか。


「そのうち一度は行ってみたいとは思ってたけど……ケントと二人でなんて御免よ」


 最後の方はわざとツンとして言ってやると、ケントは一度不貞腐れたようにしたが毅然と顔を上げた。


「だ、だけど俺は可愛い婚約者と歩きたいんだよ!」

「ハアー……あんたってば全くホントにどこでそんな歯の浮いて飛んで行くようなご機嫌取りを覚えて来たわけ? ルースならともかく」

「俺ってそういうキャラに見られてんのか。まあ外れてもねえが。ハハハハ!」

「は? 何でご機嫌取り?」


 何が可笑しいのか笑うルースとは反対に、ケントが全くの素でキョトンとした。

 ミラは些か次の言葉に窮する。


(ケントってたまに理解できない時があるのよね。心臓に悪いったらない)


 ちょっと嬉しくてドキリとしたのを顔に出さないよう苦心するミラには気付かず、ケントはどこか気まずそうに頭を掻いた。


「実は、券もう買っちゃったんだよ」

「はっ? 了承もしてないのに先走り過ぎでしょ!」

「おおー用意周到だな。さすがフォグフォード」

「ちょっとルース何がさすがなのよ。他人事だと思って」


 ふざけた物言いをするルースを横目で睨むと、彼は降参の意味合いで両手を顔の横に上げた。


(うーんあたしの性格的に入場券を無駄にするのは勿体ないって思って、こうなったら行くしかないって思うじゃないの。何が目的か知らないけど、まさかそこを見越してたのかしら。だとしたらケントって案外食えないわね)


 しかし、と心は構えてしまう。

 ケントと二人きりだなんて冗談じゃないと思う。

 自分のハリポテの心が易々と傾倒してしまいそうで怖い。

 きっと一旦恋情に流されて現状を受け入れてしまえば、もう元の場所に戻って来られないだろう。

 遠方で優しそうな学者の義兄と幸せな結婚生活を送っている姉にだって、迷惑を掛ける可能性があった。

 どうしたもんかと彼女は小さく唸りながら思案して、そして、内心にやりと悪徳商人のような笑みを浮かべた。


(ここに居たのも何かの縁。他人事にはさせないわよ、ルース)


 ミラは、隙を突いたつもりだったのかそろりそろりと退散しようとしていたルースの後ろ襟をむんずと捕まえると、温度のない満面の笑みを浮かべる。


「ちょ~っとルースってば、どこに行く気なのかしらあ~?」

「い、いやー俺は要らねえだろ、お邪魔しました~。後は婚約してるご両人でどうぞ楽しんでくれよな~」

「うふふそんな気を利かさなくていいわよ。植物園、ルースも一緒に行きたいわよね?」

「お、俺が?」

「うんそう」


 変な汗を滲ませて自分自身を指差すルースの前で、ミラは笑みを微動だにさせない。

 夢に出そうなアルカイックスマイル全開だ。


「…………ハハハハ、すごーく行きたいような気がしてきたような気がするだけかもな~」

「でしょでしょ~。ルースも行くんだったら行っても良いわよ? 現地でも券買えるんでしょ?」

「あ、もしかして売ってねえなら俺はもう帰るし!」

「買える」

「ああそうかい……」


 ルースはどこか哀愁を滲ませた。ケントは不本意そうに鼻の頭にしわを寄せている。ルースとしては日を改めてまた彼女を誘ってくれと一縷の望みのように念じていたが、ケントはそれでも今日の植物園行きは撤回しない方針らしい。


「決まりね。じゃあ出掛ける支度してくるから二人共ここで待ってて」


 ひらりと踵を返してミラが応接室を出て行けば、室内は殺伐とした空気に包まれた。


「理不尽……っ」


 ケントから離れた部屋の窓辺により、燦々と降り注ぐ陽光を見上げたルースが涙を堪え小さく嘆いた。

 乗り気じゃない友人を引っ張って、ミラの意向そのままに到着した植物園。


「ちょっと何これ……!」


 そこの中にある広く大きなガラスの温室は人人人で自由に先に行けない程ものすごく混んでいた。

 身分によらずの色取り取りのドレスの花畑に、暗色系コートの紳士たちがアブラムシのようにくっ付いている。


(うーんじゃあ、あたしは傍から見たら二匹もアブラムシがくっ付いてるように見えるのかも……)


 両隣には言うまでもなく同様の服装のケントとルースだ。

 ケントは不服そうな面持ちで、反対にルースは頗る楽しげにしている。

 馬車に乗ってサザーランド邸を出る時は萎れたようになっていたくせに、コロコロと感情変化に忙しい男だとミラは思った。


(辛気臭い顔をされてるよりはマシだからいいけど)


 それにしても凄い人出だ。植物園の敷地内自体はそうでもないのだが、温室だけがとにかく集中して凄いと言うか、酷い。


「はあ、これじゃあ見て回るの大変じゃない。うう~歩きづらい!」

「ま~ま~そう膨れるなって。すげーじゃん。こうも人が多いと美女も多くて退屈しねえな!」

「ああそう」


 呵々と笑うルースの上機嫌の理由がわかって納得したミラだった。


「やっぱりルースはどこまで行ってもルースよねー」

「ハハハそれ褒めてんの?」

「二人共喋ってないでちゃんと貴重な植物たちを見ろよな」


 親しげに会話するミラたちへと、ケントが恨めしげな視線を突き刺した。


(ホントは見た事もない植物に驚きや喜びの歓声を上げたい所だけど、素直にはしゃいだら思うツボな気がするのよね)


 三人で並んで歩いているうちに、ケントとの間に他の見物客たちが割り込んだのにかこつけて、ミラはルースの腕を引っ張って敢えてよりケントとの距離を取った。

 ケントもこれには気付いたが、人が邪魔で追い掛けては来られないようだった。

 まあミラとしてはそこを見越したわけだが。


「ミラ? 良いのかよあいつ無視して?」

「少しくらい平気でしょ。ちょっとあなたに謝りたくて。今更だけど強引に連れて来ちゃってごめんね」


 本当はミラだってわかっているのだ。

 ケントと二人きりが嫌だからと、無理やりその場に居た無関係な友人を巻き込むのはやはりどうだろうかと反省はしていた。


「あー、何だそんな事。マジで今更じゃね?」

「う……ホント悪かったわ」

「いいっていいって。俺も一度はこの温室見てみたかったし」

「そうならいいんだけど」

「――おい、人の婚約者を勝手に連れ回すなよ!」


 人混みの向こうからケントが叫んで、人々を掻き分けて追い付いて来ようかという所で、ルースは「おお怖~」とミラから離れた。

 人影に阻まれて見えていなかったのかケントはルースが仕掛けたと誤解して怒っているようだ。


「ルースどこに行くの!?」

「悪いがミラ、俺もじっくり観たいんで後は自分で頑張れよー」

「えっ! ちょっと!?」


 そのまま後ろ手を振ってマイペースに人混みに消えて行くのを慌てて追いかけようとすれば、手を掴まれた。


「ふう、捕まえた」

「ケント……」


 仏頂面で文句の一つも言ってやろうとしたが、その前にミラは誰かに背を押された。立ち止まっていた二人は完全に邪魔な障害物も然りだったのだ。


「っぶね。大丈夫か?」


 気付けばケントに抱き留められている。

 不慮の事態とかつてない密着に、


「う、うん。あり…がと」


 ミラは頭が真っ白になったがために、純粋に好意だけだった頃のように素直さを見せていた。

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