見かける女(ホラー)約7000字

 小さい頃から僕は時々同じ女の人を見かける。


 サダコみたいな長い黒髪で、肌は血の気のないほどに白く、地味さなのかストイックなファッションの一環なのかはわからないけれど、喪服みたいな真っ黒い服を着ている人だ。


 服装の奇妙さは抜きにしても、それは普通に考えれば別におかしな事じゃない。

 近所のお姉さんとだって、おばさんとだって道端や近所のスーパーやなんかで何度も顔を合わせているし、何度も見かけている。

 家は知らないけれど、もしかしたらその女の人も割と近所に住んでいるのかもしれない。


 ただ、近所のおばさんとかと違うのは、僕はその女の人をいつも誰かの車の中で見かける点だ。


 加えて言えば、車の外で見た事は一度としてなかった。

 勿論自分ちの車の中で見かけた事はない。たったの一度も。

 まあうちの車はお父さんの所有物だし、もしも乗っていれば知人という線が出てくるけれど、正直僕としてはあまり知り合いであって欲しくなかった。


 何でかって?


 それは……どんなに車の傍を通っても向こうは一切こっちに気付かない。いや気付いているのかもしれないけれど無視されている。全く知らない人だし別にそれはいい。

 その人は何故か決まって助手席に座っていて、少し俯くように顔を伏せている。視線はいつも目の前に固定され微動だにしない。僕の見ている間も瞬き一つしないのだ。ドライアイは辛いって言うのにその人はそもそも乾いた眼球の痛みになんて頓着しない……感じないかのようにじっと一点を見つめているのだ。


 失礼だけど、ちょっと気味の悪い人だった。


 見かける頻度はご近所のおばさんたちほど高くはなくて一、二カ月に一度あれば多い方。

 この前は学校帰り、歩いているとすぐ前のT字路を横切る車の窓向こうにその人の青白い横顔が見えた。相変わらず俯くようにしていた。

 また、友達とチャリで少し遠出した際、どこかの路上に停車している車の中に見かけた。やっぱり俯いていて、その時は友達との会話の方に夢中だったからよく観察はしなかった。

 そんな他人でしかない距離感の繰り返しだったし、僕はもちろん危機感を抱いたりはしなかった。


 あの日までは。


 ある雨の日、その人は通学路の前から走って来る車の助手席に乗っていた。

 あっと思ったけれどその時は何となく正面からまじまじと見るのは気が引けて、僕は傘でその人と僕との間に横たわる空間を遮断した。

 車が真横を通りかかる。


 その時、傘の色付きの防水布越しに、その先からの奇妙な圧を感じた。


 透明傘じゃないから向こうは何も見えない。だからこそ余計に不安が増大したのかもしれない。

 ぶわっと全身の毛が怒った猫みたいに逆立った。

 怖気にも似た……いや怖気そのものを肌で感じ思わず足を止め振り返りたい衝動に駆られたけれど、危険察知の防衛本能以上に一度全身を凍り付かせた恐怖は、僕から傘と言う盾を取り払う勇気を奪っていた。


 遠のくエンジン音。


 早く、早く早く早くどこかに行ってしまえ!


 そう念じつつ、後方から自分が見えないようにしっかり傘を傾け姿を隠し、濡れるのも構わず足早に家までの道のりを辿った。

 たまたまパートが休みだったお母さんが家にいてくれて、僕は今までで一番心からの安堵を感じた。

 春なかの雨でだけじゃなく冷え切った体を温めるためにココアを飲んだ。

 落ち着いてから思い返せば、すれ違いざま視線を向けられていたのかもしれないと、そんな可能性に思い至る。

 今まで外の風景はおろか隣の運転手にさえ目を向けていないように感じたのに、僕に目を向けて来るかは甚だ疑問だったけれど、以来ずっとどうしてもそんな考えが抜けなかった。


 ――目を付けられた。


 思い込みかもしれないけれどそう思った。

 その日はとことんガクブルしていた僕だったものの、恐怖の持続時間は予想外にも長くなかった。

 一晩寝て目が覚めてしまえば興味はゲームだったり漫画だったりに向いてしまってだいぶ気にならなくなり、三日と経たず雨の日の出来事を思い返さなくなっていた。

 それからしばらくは、それこそ三カ月くらいはその女の人を見かける事もなく日々が過ぎて行ったので、僕の方も彼女の存在自体を忘却の彼方へと飛ばしてしまっていた。


 日常がいつまでも同じ日常を刻むとは限らないのに。





「今日は皆で海にドライブに行こう」


 夏の休日、お父さんが張り切ってそう言って、お母さんも、ちょうど塾だったり友達と遊ぶ予定のなかった僕も異論はなかった。

 僕は後部座席に乗ってうきうきと窓外の風景を眺めた。

 流れる景色は新鮮で、晴れ渡った夏空を見るのも視界に入った遠くの建物の正体を推測するのも楽しかった。

 時折りすれ違う車の中を、自分の動体視力を試すような挑戦的な気持ちで以って見つめ、助手席にお行儀よくわんこが乗っている姿が見えた時にはにやりとしたりした。


 そして何台目だったろう。


 口の中にぶどう味のグミを放り込みつつ上機嫌で車窓から外を観察していた僕は、対向車内のその人を見つけた。


「あ……」


 僕が見つめる先、猛スピードですれ違う一瞬の車内に、あのサダコヘアーの女の人が乗っていた。

 やっぱり助手席で。

 手にしていたグミの袋がするりと指の間を抜け落ちる。

 幸い口は閉じてあったので中身は飛び出さなかったけれど、僕はしばらくそんな事にも気づかないまま呆然としていた。


 今、あの人が――笑っていた。


 依然として首は傾けた状態だったのに、目は前方一点を見つめていたのに、白い肌の中で妙に赤く見えた薄い唇だけが、無表情だった今までと一線を画していた。

 決して車内の会話で零れた笑いじゃない。


 だってあれは、ほくそ笑むみたいな、嫌な笑みだった。


 何かが思惑通りで嬉しい、けれどそれは僕からしたら絶対に賛同できない、そんなわらい。

 何に対して嗤っていたんだろう?

 交錯してからやや経って、僕は疑問を感じて後ろを見た。


「……え!?」


 だいぶ小さくなっていた対向車は、僕たちのかなり距離の離れた後続車に突っ込んで行った。


 それは大型トラックで、その女の人が乗っていた車は軽自動車。

 バーン!と、正面衝突した大きくて乾いた音がここまで聞こえて来た。


 気分的にほとんど楽しめなかった出先から帰宅し、夕方その日の県内ニュースを見ると、一人の男性の死亡事故が短く報道されていた。


 あの女の人は?


 トラック運転手は幸い軽傷だったとニュースキャスターが伝えていたのに、彼女については重傷とも軽傷とも一言も触れられていなかった。

 奇跡的に無傷だったとか?

 大破した軽乗用車がチラリとテレビ画面に映っていたけれど、助手席側まで潰れていて無傷で済むとは思えない。


「ねえお父さん、あの車、助手席にも……」

「ん?」

「ううん、お父さんも運転中は気を付けなよね」


 ビールを美味しそうに飲んでいたお父さんは「ああこれ今日の」とは呟いたものの別段興味もなさそうで、おつまみを口にしつつビールの缶をちびちびやっている。


 今日見かけたあの女の人に関して、僕は口を噤んだ。

 何となく、存在を伝えてはいけないと思ったからだ。

 奇妙な気持ち悪さが僕の心のうちに生まれていた。





 噂をしているとその本人が通り掛かったりするように、見たくないと思っている時に限ってよくその相手を見かけた。


 郊外の廃車置き場の横を家族と車で通りかかった際にいた時は、正直かなりびっくりした。

 誰もいない砂利の敷地に放置され、一部積み重ねられたものもある廃車の一つに乗り込んで一人じっとしている様は、何とも異様だった。


 その時も彼女は嗤っていた。

 とても満足そうに。


 その他、車の新旧を問わず見かけた。

 いつもにこりともせず下を向いている。


 そして僕はいつしか漠然と、彼女はきっと生きている人間ではないのだと認識していた。


 でもどうして車の中にしかいないのだろう。

 無表情だし。

 唯一表情を変えていたのは事故を起こした車に同乗していた時と、そうなった経緯はわからないけれど廃車になった車の中に目撃した時だけだ。


 不穏な考えが浮かんだ。


「まさか……嗤うのって……」


 首を振って嫌な思考を追い出す。

 全く以って薄ら寒い思いがした。


 ――死神なのかもしれない、なんて。


 仮にどこの車にでも現れるのなら、もしもお父さんの車に現れたらその時はどうすればいいだろう……。


 考えまいとすれば尚更に、僕の脳みそは車を見る度にそんなマイナス思考を繰り返した。


 過ぎる不安は厄を呼ぶのかもしれない。


 ある朝、とうとう、その不安は的中した。





 学校があるので朝玄関を出た僕は、玄関横のガレージ内の自家用車の中でその人を見た。

 見慣れた家のガレージが急にいわく付きの廃屋や墓場みたいにどこか淀んだ場所に思えてくる。


「なんで……」


 声が掠れた。

 乗っている理由を問いただす事も出来ず、戦慄してただ立ち尽くしている。

 今すぐ家に飛び込んで不審者の存在を両親に声高に告げたい。

 なのに足がすくんでしまっていた。


 と、僕の視線を感じたのか、俯いていたその人がゆっくりとこっちを向き始めたではないか。


 駄目だ。

 目を合わせてはいけない。


 ドクドクと体の中心で伸縮する心臓さえも萎縮して止まってしまいそうな、そんな言い知れない凝固が全身を包み込んだ。

 今は明るい朝なのにそんなはずはない、有り得ないと、必死で言い聞かせる自身の思考とは裏腹の肉体。そんな状態に心の片隅で笑えない滑稽こっけいさすら感じた。


 朝日を遮り影を作るガレージの屋根が、今はとても恨めしい。

 日光を浴びて煙や灰になる吸血鬼じゃないけれど、昼日中から何度も見かけていたってのに直接光が当たっていれば彼女も消えてくれるかもしれない、とか見当違いにも思ったりした。

 とにかく、内心では酷く混乱していた。


 その間にも確実に時間は流れていて、彼女の項垂れた顔は完全にこっちを向いた。


 まるで胴体と首が分離でもしているようなちぐはぐで不自然な曲がり具合。

 そこだけでも恐怖五割増しだ。


 そして次には視線が上がってくる。


「……っ」


 嫌だと思うのに目が逸らせなくて、悲鳴すら出ない。

 あと三十度、二十度、十五度……とすれ違っていた視線の角度が狭まっていく。

 あと、十度、五度……――――


「タクト?」

「ひっ……!?」

「え、どうした? 朝から車なんてじっと見て。学校まで五分も掛からないのに送ってってほしいのか?」


 肩を叩かれ反射的にその肩を撥ね上げてしまった。

 呆然と見上げる先にある顔は、お父さんだった。

 出勤のために今玄関から出て来た所だったらしい。今日は日直だったから僕の方が先に家を出ていたのだ。


「おいタクト?」

「お父…さん……」


 膝から力が抜けてへたり込みそうだった。

 とは言え心強い味方を得た僕は、少し落ち着いて車へと顔を向ける。


「ひっ!」


 見ていた。


 あの人が。


 車の中から。

 ――お父さんを。


「タクト?」


 おののく僕とは打って変わってお父さんは怪訝けげんな顔で僕と車を交互に見ている。


「学校に遅れるぞ」

「う、うん」


 苦笑して僕の頭を撫でたお父さんは背広のポケットから車のキーを取り出してロックを解除。

 乗り込もうとした。


「――っ、お、お父さん待って、車に乗らないで」

「ハハハ何だ今度は急に寂しくなったのか?」

「ち、違うよ、だって助手席に……」

「助手席? 何か置いたままだったのか? ……何もないぞ?」


 そんな馬鹿な……。


 薄々感じてはいたけれど、お父さんには見えていない?


 気付けば女の人は運転席側を見ていた。

 僕からは顔が死角になっていて笑っているのか無表情なのかはわからない。

 何も言えないでいる僕を心配性とでも思ったのか、お父さんは「大丈夫、運転はいつも気を付けてるから。そうだ、今夜帰ったら一緒にゲームするぞ」と笑って結局は乗り込んでエンジンを掛けた。


「じゃあなタクト、行ってくるよ。近いからって油断せずお前も気をつけて行くんだぞ」


 自動で助手席側の窓を開け、僕を見るお父さん。

 でも僕にはお父さんの表情は障害物のせいで全然見えない。

 重なる真っ黒な髪の毛が、あたかもお父さんの顔を塗りつぶすかのような錯覚を起こした。


 どうすればいいのかとおろおろしているうちに車は発進する。

 いつのまに進行方向を向いたのか、女の人の横顔が僕の前からゆっくりとスライドしていく。


 その口元が微かに持ち上がって行くのがわかった。


 ぞっとした。


「まさか……」


 確信する。このまま行かせてはいけないと。

 咄嗟とっさに咽から声が飛び出した。


「お父さん待ってお父さん! お父さん!」


 懸命に叫んでいるのに、まるで聞こえていないかのようにガレージを出て行こうとする車。


「何で! 何で気付かないんだよ!?」


 このままでは行ってしまう――逝ってしまう。


「待ってよお父さん!!」


 僕は短い距離を駆け抜け、ガレージを曲がって本格的にアクセルを踏み込もうとした車の前に飛び出すと、なりふり構わずボンネットに乗り上がる勢いで両手を付いた。

 勢いのまま助手席を睨みつける。

 今度は、お父さんも僕の暴挙に驚いて慌ててブレーキを踏んだ。


「あっぶないだろタクト! 何やってるんだ!」


 フロントガラス越しに怒声が聞こえたけれど、僕はそれどころじゃなかった。

 護るべき対象がある事で明確な敵意が湧き、怖気付いていた心を奮い立たせ攻撃的になったんだと思う。

 誰だって大切な身内が害されるとなれば歯を剥くだろう。


「降りろ降りろ降りろ降りろ降りろ! 消えろよッ!!」

「タクト……?」

「お前の好きにはさせない。お前なんかに渡さない!! 降りろ消えろどっか行けよっ!!」


 聞き分けのない子供のように進路に居座る僕へと更なる怒声を張り上げようとしていたお父さんは、僕の尋常でない様子に口を閉じた。

 車の前に飛び出して運転の邪魔をしている息子が、自分の方を全く見ていないという不審、不可解もあったんだと思う。

 昂りの涙さえ滲ませ助手席の敵を睨み据えて、僕は気が狂ったように降りろ消えろを繰り返した。


 依然、彼女は俯いたままだった。

 お父さんは固唾を呑んで僕を見ている。

 無意味な行動なのだろうかと焦燥と忌々しさが込み上げてきた頃、怒りとこんな目立つ行動への羞恥がないまぜで顔を赤くした僕へと、彼女がすいと視線を動かした。


 彼女を見かけてから初めて目が合った瞬間だった。

 まるで魂を呑み込む底闇のような禍々しく真っ黒い瞳。

 仄暗い眼差しは僕を呪うかのように吊り上がっていて、かつ陰気で陰湿そうだ。

 声は聞こえないのに、笑んでいる唇が「邪魔をするな」と動いているとわかった。


 ヒュッと気管に異物が詰まったような不快な息苦しさと怖気を感じて呼気が乱れる。

 でも目を逸らさなかった。

 ここで退いたら終わりだ。


 僕は常々、心のどこかで生きてる人間の思いが一番強いと思っている。


 死んだ人よりも。得体の知れない何かよりも。


 だから負けじと睨み続けた。


 一体どれくらい時間が経ったのかはわからない。

 三十分と長くも、十秒と短くも感じた。

 と、唇を笑みに緩めていた女の人は、急に逆向きに唇を歪めた。


 直後、ガチャと車の助手席側のドアが開いた。


 音もなく、雲が滑るかのような動きで女の人が車を降りる。

 結局、もう僕と目すら合わせず、彼女は俯いたまま口を不機嫌そうにへの字にし、路地向こうのどこかへと去って行った。

 潮が引くように、やっぱり人の動きではない動きで流れて行った。


 出て…行った……。


 緊迫が解け気が抜ける。

 案外、強固な意思で抵抗する者には弱いのだろうか。

 よくわからないけれど、僕が勝った。

 それだけは明白だった。。


「え? 何でドアが勝手に? ロック掛かってたはずだけどな……」


 お父さんは仰天したように隣に視線釘付けだ。直前の僕の狐に憑かれでもしたような奇行に加えてこの現象だ。気味が悪くなったのか心なし顔が青くなっている。


「やっぱりお父さんには見えてなかったんだ」


 そしてきっと、今まで見かけていた車の運転手たちも。

 或いは、犠牲者も。


「な、何だタクト? み、見えてないって何がだ?」

「不幸を運ぶ女の人」


 僕の言葉にギョッとし、目に見えて硬直するお父さん。そう言えばオカルト系てんで駄目だったっけ。

 飛び出した一連も含めて「ごめんなさい、ちょっとふざけただけ」と言うと、お父さんは大袈裟なくらいホッとして次に車から出て家の前で僕に説教を始めた。


「お父さん渋滞に巻き込まれるよ?」


 それが嫌でいつも早く出ているんじゃなかったっけ?


「今日はいい。それよりもタクト、やっていい冗談と悪い冗談が――……」


 説教は声に気付いたお母さんが玄関から顔を覗かせるまで続いた。





 それからも時々その女の姿をしているモノを見かけたけれど、絶対に僕は近寄らなかったし、向こうも僕の方を見てくる素振りはなかった。

 彼女が何なのか僕が知る事はなかったし、知りたいとも思わなかった。


 願い通り、僕の人生でそれと直接関わりを持ったのは、後にも先にもあの一度きりだ。

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