洗面器くんの恋(恋愛)1300文字台

 俺は今日もあの子にキスできない。


 何故ならいつも、キスの直前であの子を奪われるからだ。

 いつもいつも本当にうんざりするくらいに、毎日。

 無防備に顔を近付けては俺の顔を覗き込んでくるあの子は、心を許してくれてる証拠にほとんど素ッピンだ。可愛くメイクして俺を誘惑してくる事だってある。

 間にあいつさえいなければあの子は俺と口付けだってできるのに、それもかなわない。


 俺は生涯大好きな子にキスもできないのか?

 しかも他の奴とのキスを見せつけられても耐え抜けと?


 なんて無様でみじめで、報われない恋。


「ああ神様、どうか俺とあの子を隔てる透明な膜あいつを取り払って下さい」

「――そんなのってないわよ」


 そう呟いた所であいつの声が聞こえた。

 いつも俺からあの子の唇を掻っ攫うあいつの。


「そこまで嫌われてたのね私。知らなかった……ホント最悪」


 透明感ある綺麗な目をしたあいつはいつだって俺を踏みにじるような事しかしなくて……。


「んっ……!」


 唐突に強引にキスをされた。

 あいつから。

 ふらりとどこかから来ては、今まで背中を向けて来るだけで、ろくろくこっちを向いた事なんてなかったのに……。

 向こうから襲って来たくせに至近距離で睨むように俺を見てくるあいつは、自身から出たような透き通った滴を目に浮かべていた。

 ハリウッドの女優みたいに鼻筋の通った端正な横顔と、どこかしら余裕そうな眼差ししか知らなかった俺の胸は、不意のギャップに驚き不覚にも高鳴った。


「私があなたとの間に入ってあの子の唇を奪うのは、決まってるじゃない。あなたとさせないためよ」

「なにを言って……」

「だってあなたはずっと私だけの物だもの。私を受け入れてくれるのはあなたしかいないんだもの。もういい加減気付いてよ!」

「俺に散々見せつけておいて、何馬鹿なことを……」

「そうよ、わかってなかった私が馬鹿だったのよ。毎回あの子に口付けるのは、あなたへのちょっとした独占欲と嫉妬の裏返しだった。だって全然こっちの存在は素通りであの子しか見てないから!」


 まくし立てるそいつは、普段の怜悧な印象からまるで人が変わったように幼稚さすら俺に感じさせた。

 何も言い返せないでいると、そいつは打って変わって微苦笑を浮かべ柔らかく瞳を細めた。関係はないけれど、どこでも柔軟に対応できるそいつらしい変化だなと思った。


「これからは少しくらいこっちを見てよ」


 自ら俺の胸に飛び込んで、両腕で抱きしめてくれと言わんばかりに身を預けてくる。


「いつもあなたが大好きよ。私にはあなたが必要なの」


 両の瞼を下ろし、心にじわじわと浸透するような声音で俺の懐を譲らないそいつ。

 ああそうだった。

 言われてみればそうなんだ。

 こいつの存在が近過ぎて見落としていた。灯台下暗しとはよく言ったものだよな。

 俺の存在意義はこいつがいないと始まらない。

 こいつが、すぐ傍にいないと。

 ようやく大事なものを手にしているのに気付いた。

 腕を回すと俺はそっと身を屈め、今度は俺からしてやった。


「――ふあ~あ、眠い~。もっと寝てたい学校行きたくない~」


 とたとたと眠気のせいか覚束ない足取りで姿を見せたあの子が、眠い目を擦って俺たちを覗き込む。


「とりあえず冷たい水で目を覚まそー」


 そして今日も俺はあの子にキスできない。


 でももうそれでいい。

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