シキワさんはごりっぷく

 やぬしさまが本日お出かけになった場所は、どうやら随分と華やかなところだったようです。

 お帰りになったやぬしさまの服は、戦いの痕や獣の臭いなどもなく綺麗なものでした。毎度毎回、殺伐とした戦いに巻き込まれるばかりの生活ではやぬしさまのお心も殺伐としてくるでしょうから、たまには良いのですが。

 シキワはやぬしさまのお帰りから洗濯を始める今までの間、ずっとずーっと不機嫌でした。

 細く愛らしい眉は、その間に川の字が走り、口元もへの字に結ばれたままで動きません。

 ラーシュはそんなシキワに構わず、早々に仕事場へと降りて行ってしまいました。こういう時に下手に声をかけると八つ当たりされると分かっているからでしょう。

 薄情なものだと嘆きつつ、シキワはやぬしさまの服を床に広げました。

 漂う芳しい香りに、シキワは声にならない咆哮を上げました。


「……他の女の匂いがするわっ」


 お前は古女房か何かか、と言いたくなるような発言ですが、シキワの表情は不機嫌を通り越して鬼女のごとくです。

 シキワが一角馬ユニコーンのブラシを取り出せば、不思議とブラシまでもが赤黒い妖気を放っているようでした。


「汚れ、殲滅っ!」


 シキワの動きは、顔の恐ろしさとは裏腹にきわめて繊細なものでした。感情と仕事をしっかりと切り離した、匠の技と言えるでしょう。

 しかし、いつも以上に念入りです。普段の得体のしれない獣や邪妖精、邪悪な亜人を斬り捨てた後の汚れほどではないというのに。


「やぬしさまの、浮気者っ」


 独身、彼女なしのやぬしさまにとっては不名誉かつ濡れ衣の発言が飛び出しました。

 やぬしさまが浴びた返り血を、この世界の警察が技術の粋をもって調べても痕跡すら見つけられないほどに綺麗に取り去ってしまうシキワの技術ですが、今は目の前の衣服から漂う女性の香りを取り去ることに全力で行使されているのです。


「ふーっ、ふーっ」


 シキワの頭に浮かんでいるのは、デレデレしたやぬしさまと、その首に腕を回し、こちらに挑発的な視線を向けてくる謎の金髪美女でした。

 むかむかむかむか。

 いよいよシキワの顔が人目に触れさせてはいけない様子になってきました。やぬしさまの服から香りが出ていくということは、シキワの周囲にその香りが立ち上るということでもあるからです。


「ぜえぜえ……これで、おしまい!」


 一際気合を入れたひと擦りをもって、やぬしさまの服からピンク色の光の粒がきらきらと巻き上がりました。

 光はぱちんぱちんと弾けるように消えていきます。シキワの顔には、やり遂げた安堵感が浮かんでいました。

 そう、彼女はやり遂げたのです。

 やぬしさまに不埒な色目を使う悪女――あくまでシキワにとって――の企みは、事前に阻止されたのですから!

 やぬしさまは一度世界に渡りますと、大体一週間は同じ世界と行き来します。シキワはブラシを仕舞いながら、悪女との闘いが始まることを予感していたのでした。






 翌朝。

 やぬしさまはいつもと同じ時間に起きると、いつも通りシャワーを浴びに風呂場に向かいました。

 脱ぎ散らかした昨日の服を――シキワが怒りのままに放置していったため、いつも以上にぐちゃぐちゃでしたが、やぬしさまの知る由もありません――拾い上げ、ぽつりと一言。


「あれ、全然香りがしなくなったな。……安物掴まされちゃったかなあ」


 ぼやきながら洗濯機に服を放り込み、洗剤を入れてスタート。

 頭を掻きながらバスルームに消えるやぬしさまを、こっそりと観察しているシキワがいたことに、やぬしさまは気づかないままでした。

 なにやらシキワは、今日はやぬしさまが出かけるまでストーキ……もとい、見守り続けるつもりのようです。






 やぬしさまは着替えを済ませると、自在に形を変えるブレスレット――じゅうとうほう、とやらのあるこの世界では、由緒正しい聖剣であろうと持っているだけでアウト! なのだそうです――を腕に嵌め、トレードマークの鞄を持ってリビングに降りました。

 いつもならそのまま靴を履いてお出かけになるのですが、今日はその前にテーブルのところに向かい、何かを置いていかれました。


「いつもの御礼だよ」


 誰にともなくそう呟くと、やぬしさまは今度こそお出かけになりました。

 耳を済ませれば、十歩も行かないうちにキュウンと変わった音が響きます。やぬしさまが違う世界に向かわれた証拠です。

 シキワはその音を聞きながら、視線をテーブルの上に向けました。

 隣にはラーシュ。

 ここからでは何が置いてあるのか見えません。


「……やぬしさまが何かを置いて行ったね、姉さん」

「そうね」


 二人はいそいそと椅子に駆け寄ります。

 テーブルの柱は、二人がよじ登るにはちょっと大変な高さなうえ、板のところが返しになっていて危ないのです。

 椅子によじ登った二人は、まずラーシュがシキワを肩車して、シキワが先にテーブルの上に上がります。

 テーブルの上には、小さな瓶がありました。


「姉さん、ちょっと」

「あら」


 瓶に目を奪われていたシキワに、ラーシュが下から声をかけてきました。

 慌てて腰に巻いていたロープを下に垂らすと、ラーシュもテーブルの上に上がってきました。


「瓶、だね」

「そうね」


 お礼と言っていました。もしかするとやぬしさまから自分たちへのお礼、なのでしょうか。

 しかし、そんなことはないとシキワは首を傾げます。やぬしさまの世界では、家妖精はもう伝説上の存在だそうです。自分たちが住まわせていただいていることに、やぬしさまはお気づきなのでしょうか。

 と、そんなことを考えている間に、ラーシュが小瓶に近づきます。

 止める間もなく、ラーシュは小瓶の蓋を軽く緩めてしまいました。


「わ、いい香り」

「!」


 シキワの鼻も反応します。この香りは、昨日やぬしさまの服から漂っていたものと同じではありませんか。

 悪女からもらってきた香水でしょうか。……いや、それであれば置いていくのはおかしいです。

 もしかして。

 お礼とは。

 シキワは顔から火が出る程真っ赤になりながら、ラーシュの頭を小突くのでした。


「何するのさ姉さん!」

「本当に私たちにやぬしさまが下さったかどうかなんてわからないでしょう!」


 それが彼女の照れ隠しだったことに、きっとラーシュは気づいているのです。

 本当に、小憎らしい。

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