家守りぶらうにぃ
榮織タスク
我らの城はもくぞうけんちく。
暗い闇の中に、その世界はありました。
寒く、冷たく、恐ろしい。
常闇の世となってしまったこの世界を、救ったのは一人の異邦人でした。
ここではないどこかから来て、何事もないように原因だけを斬り捨てて、また何ごともなかったようにどこかへと帰っていきました。
世界は名も知れぬ英雄を伝説として語り継ぎました。
黒髪黒目、見たこともない装束を身にまとい、片刃の剣を携えて常闇の主を討ち果たした若い英雄。
ですが、語り継いだ者たちも、当の異邦人も知らなかったことがあります。
闇に染まった土地でたったふたり。身を寄せ合って生きていた善なる姉弟。
自らと世界を救ってくれた英雄への恩返しとして、こっそりとその帰り道に同行していたなんてことは――
築十五年、木造、三階建て。
東京から電車で四十分程度の街中に、何の変哲もないその家はあります。
住んでいるのは一人の青年。
四年前に父親を、先年に母親を喪った彼は、遺産として残されたその家を大事に暮らしているのです。
だが、完全な一人暮らしかというと、実はそうではなくて。
「……よし、やぬしさまは今日もよくお眠りね」
夜も更けて、彼が眠りについたところに、同居人たちがひそかに動き出しました。
すやすやと眠る青年の顔を覗き込んで、シキワはくすりと笑みを浮かべます。
「ほら、姉さん。あまり近寄ると起きてしまわれるよ」
「分かっているわよラーシュ。本当にもう、乙女心が分からないんだから」
ベッドの下からかけられた声に、シキワはぷくりと頬を膨らませながら枕のそばから離れます。
軽い足取りでベッドからダイブすれば、床には見慣れた弟のラーシュが待っていました。
「さ、お仕事の時間ね!」
「ほら姉さん、あまり大きな声を出すとやぬしさまの安眠を損ねてしまうよ」
「分かっているわよラーシュ。本当にもう、いちいち口うるさいんだから」
ふわりと床に降り立ったシキワはひとしきりラーシュの小言に文句をつけると、静かにやぬしさまの寝室を後にします。
「それでは姉さん。僕はいつも通りに」
「ええ、分かっているわラーシュ。私もいつもどおりに」
ちょっとだけ背の低い二人にとって、この家の階段はなかなか難儀なものでした。
しかし、シキワは手すりを上手に滑り台にしますし、ラーシュなどは毎日の鍛錬と称して階段を飛び降りて足腰を鍛えています。
ラーシュはそのまま二階を通り過ぎて、一階へと降りていきました。
シキワはそれを見送ることもなく、二階の風呂場へと足を運びます。
「さて、今日はお洗濯だったわね」
やぬしさまは若いとはいえ男性です。そして、困った体質がありまして、時々悪さをするその体質が、やぬしさまの悩みの種でありました。
「わぁ、随分と今日はまた」
やぬしさまのお気に入りの上着は、赤黒い染みとすえた臭いで散々なことになっています。
一緒に脱ぎ散らかされたズボンも、汚れの具合は同じです。
シキワはそれを見て、何とも嬉しそうに頷きました。これはやぬしさまが頑張った証拠だからです。汚れや臭いがなんですか、このお陰でシキワやラーシュはとても満ち足りた生活を送れているのです。きっと同じように、やぬしさまに救われた人々がたくさんいるのだろうと、シキワの心は温かくなるのです。
「では……洗浄開始!」
シキワは懐から、ふたつのブラシを取り出しました。
彼女たちのおばあさんが子供のころ、里に住んでいた
これでこすると、汚ればかりがみるみる取れて、それでいて布地は一切傷まないという、シキワの切り札でありました。
「ふ、ふふふーん♪ ふんふんふふーん♪ ふふふふーん、ふんふんふふーん♪」
シキワの今の趣味は、やぬしさまの身に着けているものを磨くことです。特に、素敵な音楽を奏でてくれる『けいたいおーでぃおぷれいやー』はお気に入りで、最近の鼻歌はやぬしさまが普段から聞く曲ばかりです。
さて、シキワのちょっとだけ小さい体では、たとえブラシを二本使っても、大きな大きなやぬしさまの服の汚れを落とすのは一苦労でした。
「今日は、この二着が、限度かしらね……!」
額に汗しながらブラシをうごかすシキワの鼻がふと、すっきりとした香りを感じました。
一階に降りたラーシュでしょう。相変わらずそつなく良い仕事をする、自慢の弟です。口うるさく可愛げがないのがたまにきずですが、シキワは休むことなく手を動かすのでした。
ラーシュは玄関先に向かうと、灯りのない玄関のまわりをじぃっと見回します。
病魔や害虫は、扉の隙間を狙います。ともすれば不遜にも、やぬしさまの服にへばりついて家に乗り込んでこようとさえするのです。
「やぬしさまの留守と、この家の平穏を護る者として、悪しき者は決して通しませんっ!」
毎度毎晩のことですが、ラーシュは気合を入れて、誰にともなく宣言しました。
本当は鎧兜でも身に着けていれば恰好がつくのですが、あいにくやぬしさまの鞄に潜んでこちらの世界に来るために、重い荷物は全部置いてきてしまいました。
それでも、やぬしさまが要らなくなってゴミに出そうとしていた趣味の良い布と、木の棒、折れてしまった金属のさじを加工して、胸当てとショートソードだけはなんとかあつらえたラーシュです。
ふわふわの金色の髪の毛をいからせ、ショートソードを構えるその姿は、中々様になっていました。
「では、今日も頼みますよドリミント」
背負っていた道具袋から、茶色の小さな鉢を取り出します。
これこそ、彼が唯一持ち出してきた向こうの世界のアイテム、『妖精の鉢植え』です。鎧兜は捨ててしまっても、この鉢植えだけはラーシュにとっての唯一最大のプライドでした。特にやぬしさまへの恩返しを考えれば、手放すことなどできません。
鉢植えには、緑色の草が一本生えています。
ラーシュはぷちぷちと、その葉っぱを何枚か摘み取りました。
ショートソードの先で葉っぱの中央を貫き、意識を集中すると。
「悪しきものよ、去りなさい! ミントシールド!」
瞬間、葉っぱが砕け散りました。粉々のかけらとなって葉っぱが逆巻くように玄関に舞い散り、独特のすっきりした香りを辺りに漂わせます。
「よし。これで今日も一日、この場所の平穏は守られるでしょう」
ラーシュは満足げに頷くと、今度は顔をリビングの方に向けました。
「さて、あとは床下の巡回ですね。僕が居る限り、この家に害虫や害獣、病魔の立ち入る隙など与えませんよ!」
ふと、上の階で仕事をしているだろう姉のことを思い出します。
シキワは何とも気まぐれな姉ですが、大好きなやぬしさまに関する仕事についてだけは、妥協を許さないと分かっています。
ラーシュはさらにその上、幸せな眠りの中にあるやぬしさまのことを想います。
「我々はザシ家のブラウニーとして、大恩あるやぬしさまの平穏を護ります。たとえそれがやぬしさまの知るところではなくとも――」
家妖精ブラウニー。
家人の家事を手伝い、幸せを運ぶという小人たち。
小さな姉弟シキワとラーシュは、今宵も朝日の昇る直前まで、その仕事を全うしたのでした。
翌朝。
青年は目を覚ますと、疲れ切って脱ぎ散らかしたままになっていた服を洗濯するために洗面所に向かいました。
「やれやれ、シミになったところ、洗剤で何とかなるかな……あれ」
取り上げた服を広げてみて、首を傾げます。
「……思ったよりシミが小さいな。これなら何とかなりそうだ」
全自動洗濯機を起動して、そこにぽいぽいと服を投げ込み、洗剤を雑に投入。
後は帰宅した後に干すだけです。
とにかく、服のことが片付いたなら次は出かける準備です。
シャワーを浴びて、寝室に掛けてあった――乾かしてあったとも言いますが――デニム地の上下を身に着け、髪を手ぐしである程度整えて。
玄関先で靴を履こうとして、ほのかに漂うミントの香りに目を細めます。
「この芳香剤、長持ちするもんだなぁ」
靴箱の隣に置いてある芳香剤にちらりと目を向けて、青年は玄関を開けて外へと出て行くのでした。
どきどきしながら彼を見守る、小さな二人の同居人の視線に気づかないふりをしながら。
「毎日ありがとな」
ぽそりと呟いたその声が、二人の耳に届いたか、届かなかったか――
それはきっと、知らないほうが良いのです。
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