些細な嘘と初恋迷路
あやぺん
些細な嘘と初恋迷路
パラパラ、パラパラ。
風が本のページを捲る向こう、先輩の白い澄ました横顔から目が離せない。
窓から注ぐ僅かな夕暮れの橙色が、先輩を浮かばせる。
きっちりと詰襟を止めて着ている学ラン。ピンと伸ばした背筋。どちらかというと色白で、真っ黒な短い髪に涼しげな目元。
勉強をしにきたはずなのに私は図書室で何をしているのか。右手でページを押さえて視線を落とした。並ぶ英単語を無理くり頭に叩き込む振りをする。
けれどもまた視線をあげて先輩を見てしまう。友人佐藤仁菜ちゃんのお兄さんのクラスメート。挨拶しかしたことが無い顔見知り。
先輩の名前は大抵の学生が知っている。
松井 涼。
学年一優秀な特待生。整った容姿にすらりと高い背丈。模範的な服装で教師からの頼まれ事は断らず、生徒会では会計を勤める。それがかえって慇懃無礼だと揶揄され陰口を叩かれている。男子生徒の嫉妬の相手。
憧れと羨望を抱いた女子生徒が意を決して話しかけても返事は一言だけでおまけに無表情。
「折角だから松井君一緒に帰らない?」
「無理。」
「松井君の連絡先も教えてよ。」
「無理。」
取りつく島もない冷酷無慈悲な返答は噂になって一学年下の私の耳にも届いた。ちょっと顔が良くて頭が良いからと人を見下す女の敵だと非難轟々。
松井先輩はそういう評判。
昼休み、クラスの窓から見える中庭で仁菜ちゃんのお兄さん達の輪の中、昼食が牛乳と食パンだけの人。
仁菜ちゃんのお兄さんが各学年の各教室に配った「捨て犬飼い主募集」の可愛らしいチラシを作成した本人。
一月前の突然の雨が降った日に、昇降口で私と仁菜ちゃんに無言で黒い大きな傘を差し出してくれた先輩。
私は先輩という人物を掴みかねている。
***
私の隣で里緒がぼんやりとしている。視線の先には松井先輩。図書室にいるととても絵になる男子。
今年の4月、弁当を忘れた竜ちゃんの元へ弁当を届けに行った。仁菜ちゃんに付き合ってもらい向かった中庭。竜ちゃんのお気に入りの場所。
「おい佐藤。誰だよこの子。」
「竜おまえ彼女居たのかよ。」
「めっちゃ可愛いんだけど。」
いつも通りの男子達の反応を私は無視する。そして竜ちゃんがお決まりの台詞を放った。
「俺の妹。可愛いだろ。手を出したらどうなるかなあ。」
空手部最強の竜ちゃんに不敵な笑みを向けられて、はははっと乾いた笑いを零す男子諸君。
「シスコンの兄で困ってます。」
愛想笑いを浮かべた私に見向きもせずに、無表情で食パンを齧っていたのが、図書室で里緒が眺める松井先輩。
竜ちゃんが「こいつ面白いしいい奴。」と私と里緒に紹介してきたお友達。紹介された時、相手の顔を見て私はギョッとした。噂で知ってた氷の特待生その人だった。
面白い。
いい奴。
竜ちゃんが言うなら間違いないだろうが、一体全体松井先輩のどこにそんな要素があるというのだろうか。噂との乖離に初めは首を傾げた。
捨て犬を拾えばポスターを作って飼い主を探し、傘がなくて困る女子生徒に自らの傘を差し出して濡れる男。好きだからという理由で昼食は商店街の「うさぎベーカリー」のもちもち食パンに永森の牛乳。竜ちゃんが野菜不足を指摘すると野菜ジュースが増えたらしい。
面白さは分からないが、いい奴なのは間違いない。それに多分一途。1年以上昼食を変えない中々の強者だ。
英語の参考書に視線を戻した里緒に対して、私はいいこと思いついたと心の中でほくそ笑んだ。
***
「松井先輩って思ってる事と反対の台詞がつい口から出ちゃうんだって。」
仁菜ちゃんがふいに私に耳打ちした。私は目をパチクリさせて仁菜ちゃんを見た。仁菜ちゃんの大きく綺麗な二重瞼の目が悪戯っぽく三日月形になっている。
「どういう事?」
私の問いかけに仁菜ちゃんが椅子ごと体を近づけた。
「話しかけられた事に驚いてつい思ってもない返事をしてしまうらしいの。竜ちゃんが言ってた。」
へーっと漏らすと仁菜ちゃんがにっこり笑った。美少女に似合う可憐な笑顔はやはり別の何かを含んでいる気がしてならない。それが何かは分からなかった。
与えられた情報を胸の中で反芻してみる。反対の返事。
「佐藤妹。もうすぐ暗くなる。」
私達に伸びた影と声の主に、私は顔を上げた。能面みたいに感情の見えない松井先輩が姿勢良く立っていた。
「もうすぐ部活終わって竜ちゃんが迎えに来るので大丈夫です。」
仁菜が立ち上がって満面の笑みを松井先輩に投げた。普通の男の子ならイチコロかもしれない愛くるしい乙女の破壊力抜群の笑顔。でも松井先輩は顔色ひとつ変えない。
「竜助と。」
「そう竜ちゃんと2人。」
仁菜ちゃんがちらっと私に目配せした。松井先輩に送ってもらえと言わんばかりに。自分が恋する乙女だからと私にもそれを押し付けないで欲しい。
確かに私は松井先輩が気にはなる。それは不思議な人だからだ。心が読めない風変わりな先輩。ちょっとした顔見知り。
困ったなと私はつい顔をしかめた。
***
困惑した里緒の表情から、私は露骨すぎたと反省した。
「理緒を送って帰りますけど先輩も一緒に帰ります?」
「無理。」
口元を緩める事もなく松井先輩が一刀両断。しかしこれで問題ない。
「いいって事だよ。4人で帰ろう。」
私は里緒の耳元でそう告げて、広げていた参考書や筆記用具を鞄にしまい始めた。
「可愛い後輩の言うことは聞くものですよ先輩。竜ちゃんそろそろ来るからさっさと支度してください。」
私は松井先輩の近くに行って、理緒に見えない机の影で先輩の脛を蹴った。僅かにぴくりと眉が動いた。私を見る真っ黒な瞳に浮かんだのは怒りではなく、縋るような救いの光。
自分から頑張って来たようだし偉い偉い。そして私はきっかけを作っておいたぞ先輩。
いい事したなと思っていたけれど、私の些細な嘘は迷路を作り出して友達を大混乱させただけだった。
***
朝夕の通学路や廊下、校庭なんかで遭遇すると、松井先輩が仁菜ちゃんに話しかけるようになった。
今までは軽く会釈してすれ違っていただけだったけど、いつの間にやら2人は仲が良い様子。
「佐藤妹。おはよう。」
「松井先輩おはようございます。一緒に学校行きますか?」
「無理。」
YESだねと仁菜ちゃんがほくそ笑む。私達は3人であまり会話もせずに登校した。
「松井先輩。」
体育授業の前、廊下で松井先輩を見かけて仁菜ちゃんが声をかけた。
「体育か佐藤妹。これ2人に。」
松井先輩のポケットから出てきた話題の新作映画のチケット。2枚。松井先輩は貰い物と短く告げた。
「前売り券買っちゃったから竜ちゃん誘って4人で行きましょう。」
「無理。」
はいって事だね、とあれよあれよと仁菜ちゃんに乗せられて、その週の日曜日に4人で映画を観に行った。
映画の座席は私、竜助先輩、仁菜ちゃん、松井先輩。王道ラブストーリーに退屈して前屈みになって眠る竜助先輩。うっとりして両手を組んで前のめりの仁菜ちゃん。いつも通りに背筋を伸ばして名前の通り涼しい顔をしている松井先輩。
酷くシュールな画だった。
そして映画の後に入ったカフェで竜助先輩と私は映画の感想の話で会話が弾んだ。その隣で松井先輩と仁菜ちゃんは時折ぼそぼそと聞こえないくらいの声で話をしていた。
それを私と竜助先輩は怪しんだ。特に竜助先輩はひどく戸惑った様子だった。
どうやら仁菜ちゃんの好きな人は松井先輩のようだ。
圧倒的美少女と心の読めない氷王子。
学校に噂が駆け巡るのに時間は掛からなかった。
***
予想外の展開に私は作戦の失敗を反省するしかなかった。
「佐藤妹。おはよう。」
「松井先輩おはようございます。一緒に学校行きますか?」
「無理。」
「仁菜ちゃん私は先にいくね。」
私が松井先輩を好きだと勘違いした理緒が気を遣う。
「それは駄目だ。」
台詞が違うぞ先輩。それでは是非先に行ってくれになってしまう。私は理緒の腕を掴んでどうにか3人で登校した。
「松井先輩。」
体育授業の前、松井先輩が待っている廊下へ向かい、その姿を見つけて声を掛けた。
「体育か佐藤妹。これ2人に。」
松井先輩のポケットから出てきた話題の新作映画のチケット。前売り券2枚。本当は4枚買った。
「前売り券買っちゃったから誰か誘って4人で行きましょう。」
「無理。」
「仁菜ちゃん私は妹と行ってくるよ。」
私と松井先輩が両思いじゃないかと勘違いしている理緒が気を遣う。
「あり得ない。」
台詞が違うぞ先輩。それでは是非そうしてくれになってしまう。私は2人は無理とかなんとか理由をつけて強引に4人で出掛ける約束を取り付けた。
竜ちゃんと里緒がチラッと話をしているのを小耳に挟んだ。私と松井先輩は両思い。自分は松井先輩に邪魔者扱いされている。竜助先輩も2人の邪魔をしないようにしましょう。
松井先輩の口癖を利用するはずが裏目に出ていた。
映画を観に行った日に、私は松井先輩に里緒についた些細な嘘を告げて、何で無理と言わないのか問い詰めた。
竜ちゃんから聞いた松井先輩の緊張した時の口癖。
「勇気を出せ。応援する。佐藤妹が言ったんだろう。」
ふむ、その通り。10年以上の片思いを続ける私が認めた松井先輩の一途さを知って、確かに応援すると宣言した。竜ちゃんのお友達なら間違いないし、口数少なく表情が乏しくても優しい人だ。
どうやら私は挨拶も碌に出来なかった松井先輩に、やる気を出させてしまったらしい。
勝手に計画を練るんじゃなかった。
しかし私に予定外の幸運が舞い降りたので私は松井先輩と私の急接近の噂をそのままにしてしまった。
だってずっと好きだった私の好きな人が、ついにヤキモチのカケラを見せ始めたからだ。千載一遇のチャンス!
噂は利用するとしよう。松井先輩は自力で頑張れそうだし、問題ない。
私はこうして些細な嘘への、松井先輩へのフォローを忘れてしまった。大事な友達がそのせいで迷路に放り出されたなんて知りもせず。
***
いつかのように突然の土砂降りが眼前に横たわる。駅まで15分の道のりを濡れて帰るか、止むか勢いがおさまるまで待つか。私は分厚い雨雲を見つめながら悩んだ。
「相川。」
声を掛けられて私は振り返った。松井先輩が私の隣に立って、いつものように無表情で雨を眺めた。
「今日は傘がない。」
「すみません。私も持ってなくて。以前は傘を貸してもらって助かりました。ありがとうございます。」
「別に。」
私は小さく頭を下げた。仁菜ちゃんと松井先輩のクラスに傘を返しに行った時の事を思い出す。捨て犬の飼い主を探す為のポスターを握った竜助先輩が、ポスターを頭上に掲げて眺めているところだった。
だからポスターがよく見えた。几帳面な綺麗な字、子犬の写真を飾る可愛らしい花のイラスト。
「竜助先輩絵が上手なんですね。優しさが滲んでいて素敵なポスター。すぐ飼い主見つかりますね。」
「俺じゃないよこいつ。」
ニッと大きな口から歯を見せて笑った竜助先輩が親指で示したのは松井先輩だった。
「犬を拾ったのもこいつ。」
仏頂面で食パンを頬張る松井先輩が私から顔を背けた。
私の隣で仁菜ちゃんが興味深そうに松井先輩を見つめていた。あの日からかなと私は仁菜ちゃんが隠す恋について考える。もうすぐ1年半くらい。なんだか息が苦しい。
「止みそうにないな。」
「そうですね。」
2人きりで話をするのは初めてだった。なんだか松井先輩を見れなくて、私はひたすら降り注ぐ雨の線に目線を向けた。
「行くか。」
その言葉に私は ん?と顔を横にずらした。松井先輩が学ランのボタンを外している。
「先輩?」
「コンビニまで5分くらいだ。」
黒い学ランを脱いだ松井先輩が学ランを頭上に広げた。ぼんやりしていると学ランが私の頭の上まできた。
ほんの僅かに唇の端を持ち上げた松井先輩。破壊力抜群だった。
全身が一気に熱くなったのを隠したくて私は俯いた。
見つけた瞬間に失ってしまった。
どうやって諦めればいいのだろう?と私はこうして迷路に放り出されてしまった。
***
映画の時と同じ作戦で4人で遊園地へやってきた。
里緒の気持ちを知らない、おまけに浮かれバカヤローな私はこれ見よがしに松井先輩と親しげに並んで歩いていた。
ジェットコースターもお化け屋敷もティーカップも松井先輩と楽しんだ。
どこからどう見てもお似合いのカップル。どんどんヤキモチを焼くが良い。なんて、里緒を傷つけているとも知らずにいた大馬鹿な私は、馬に蹴られて死んでも文句は言えない。
「真っ赤で可愛かった。」
「キザですね先輩。」
学ランで雨をしのぐ2人。想像してみてロマンチックな光景に羨ましさが沸き起こる。いいなあ里緒は。恋に落ちたらもう両思いとか幸せ者だ。
「告白しないんですか?」
「無理。」
「取られちゃったらどうするんですか?こう守ってあげたい小動物系だし私といると男子の目に触れるから密かに人気者ですよ。」
松井先輩が怖い顔をしてぶすくれた。珍しく表情を崩したので、よっぽど嫌なのだと察し私は松井先輩の脇を肘で小突いた。
「男は度胸ですよ。先輩。次こそ2人で出掛けるように!」
無表情に戻って松井先輩は両腕を組んだ。姿勢良く歩きながら松井先輩は動物園とか水族館とか疑問符まじりに呟いていく。私はそれが愉快でくすくすと笑みをこぼした。
***
楽しいはずの遊園地で私は憂鬱だった。その隣でいつも明るくて元気な竜助先輩も始終不機嫌だった。
原因は前方を歩く両片想いにか感じられない仁菜ちゃんと松井先輩。シスコンと名高い竜助先輩は妹のはしゃぎようが面白くないのだろう。でも妹の為に邪魔はしない。映画の時と同じだった。
ティーカップの中で竜助先輩が「涼はいい奴だしな」とか「仁菜のバカヤロウ。」とか「俺の仁菜に手を出そうとか許さねえ。」などと中々穏やかではない心境をダダ漏れさせた。
「竜助先輩って本当に仁菜ちゃんの事大切なんですね。」
「小さい頃から一緒に育ったからな。」
先程までのイライラした顔付きが屈託のない笑顔に変化した。竜助先輩が語る数々の思い出話は面白い。
意外にティーポットは激しく回っていたのだろう。回り終わったティーポットから降りると、ぐるぐるぐるぐる目眩がした。
友達の好きな人を諦められない恋心、抑えられない嫉妬心、落ちた瞬間に決定した失恋を手離せない苦しさ。
今の私の気持ちみたいに、ふわふわぐるぐる目が回って上手に歩けない。
「張り切ってハンドル回し過ぎた。ごめんな。」
竜助先輩が私の腰に手を回して腕を掴んだ。
「ありがとうございます。」
支えられてやってきたアトラクション出口で、眉間に皺を寄せた松井先輩が竜助先輩を見る。眉毛をハの字にした仁菜ちゃんが私を睨んだ。
今にも泣きそうな仁菜ちゃん。
何で?
今日泣きたかったのは私の方だ。
***
壊れ物を扱うように優しく手を引かれる里緒に対して、私は噴火しそうな程嫉妬心を燃やした。
竜ちゃんが私以外の女の子にそんな事をしたのを見たことがない。
まるで宝物を慈しむような扱いに、ロマンチックな光景。
「竜ちゃん!」
私は叫んだ。
「どうしたんだ?仁菜?」
「さっさとその手を離しなさいよ!そんな風に女の子の体に触るなんて最低!」
まずい。爆発するな。
「ちょっと支えただけだろう?妹の友達に変なことするかよ!俺を何だと思ってるんだ!」
言い返してきた竜ちゃんの売り言葉に買い言葉。私の気持ちは勢いよく溢れ出た。
「何って幼馴染でしょ!私は妹なんかじゃないもん!私の大好きな幼馴染よ!」
あ、言ってしまった。
竜ちゃんがキョトンとしている。
竜ちゃんの手が離れた里緒もきょとんとしている。
そう言えば里緒に私の思い人が誰だか話すのをついつい忘れていた。
初対面の日に、竜ちゃんがいつもの通り話をややこしくしたから。それが私を守る竜ちゃんの方法だと知っているから、嬉しくて否定してこなかった些細な嘘。
「俺の妹。」
私を庇護する魔法の言葉。
私の恋心を打ち砕いてきた破滅の呪文。
***
顔を真っ赤にして、ほろほろ涙を流してから仁菜ちゃんが走りだした。
暫く放心していた竜助先輩が全速力で仁菜ちゃんの後を追う。
「えっと。」
「あの2人は他人なのか。」
戸惑う私の隣で松井先輩は真顔で1人納得するように頷いた。相変わらず名前の通り涼しい顔をしている。
「苗字。2人とも同じですよね。」
「佐藤なんてありふれてるだろ。」
「仁菜ちゃんの好きな人って竜助先輩だったんだ。」
「知らなかったのか?」
その問いかけに私はまた驚く。松井先輩は知っていたという事だ。
「頼まれた。煽り役。」
私が質問する前に松井先輩がしれっと口にした。煽り役?更に疑問に襲われる私の右手を松井先輩が握った。何度目かの衝撃に、その中でも1番強い衝撃に私は固まった。
「まだ顔色悪い。2人からは後で話を聞けばいい。」
脳内大混乱の私の手を優しく引いて、松井先輩がベンチの方へと歩き出す。
「本当は2人で来たかった。」
歩きながら突然放たれたぶっきらぼうな声色に私は気絶しそうだった。松井先輩の澄ました横顔に白い肌。なのに耳だけ真っ赤。
多分私も全身恋の色。
***
運動神経抜群の俺が運動音痴の仁菜に追いつくのは簡単だった。大人しく仁菜は俺に腕を掴まれた。でも振り返らない。
「あのさ俺。ずっと。」
「聞きたくない。竜ちゃんには些細な嘘でも仁菜にはそうじゃない。もう二度と聞きたくない。」
俺は掴んだ腕を離した。それから仁菜の両肩に手を置いて、仁菜の体をこちらに向けさせた。
「あの俺さ。」
亜麻色の目を赤く充血させて俺を睨むその拒絶にたじろぐ。戸惑っているとふわりと石鹸の香りが鼻を掠めた。
それから頬に柔らかな感触。
ん?
「ずーーーーーっと好きだったんだから!もう妹なんて言わせない。絶対落としてみせる!竜ちゃんのバーカ!」
おそらく間抜けな顔で放心している俺に、仁菜はまだ涙の浮かぶ赤い目の顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべて舌を出した。
それから俺の手を握ると「観覧車に行こう!」と歩きだした。
押されてばっかりではいられない。観覧車の頂上で俺がついた嘘の本当の理由を仁菜に話した。
モテる幼馴染に群がる男子を牽制する為の俺の嘘。成長しても仁菜から離れないための俺の知恵。
どうやら俺達は、俺のその嘘のせいで同じ気持ちを抱えたままずっと迷路を彷徨っていたらしい。
頂上で何があったのかは俺と仁菜の秘密。
***
友人の佐藤竜の幼馴染、佐藤仁菜はなかなか観察眼が優れていてアグレッシブだ。
どうやら他人に対してだけだったようだが。
初めて見た感想は、確かに皆が騒ぐ可憐な美少女。彼女は時折竜に弁当を届けにきた。その度に男子が色めき立った。
佐藤仁菜はいつも友人の松井里緒と一緒。俺の作ったポスターに「優しさが滲んでいて素敵」と感想をくれた小動物みたいな後輩。
「里緒のこと好きですよね先輩。いつも見てる。」
バレンタインデーの放課後。昇降口で鉢合わせた佐藤仁菜の満面の笑顔は俺には小悪魔に感じられた。黒い羽に黒い尻尾が見えるような謀略の含み笑い。俺が黙っていると佐藤仁菜は続けた。
「今見たことは秘密ですよ。じゃないとどうなるでしょう?」
竜の下駄箱からチョコレートであろう愛らしい紙包みでラッピングされた箱や袋を引っ張って、持っている紙袋に詰め込んでいた佐藤仁菜。それを目撃した俺。立場が逆な気がするのだが、気圧されて俺は瞬きしか出来なかった。
「それどうするんだ?」
「話を逸らさない!」
シスコンの竜に、ブラコンの妹かと呆れ果てて俺は黙り込んだ。実際はそれよりタチが悪かったようだが。
「どうなるんだ?」
獲物を狙う猫のような大きな目に俺はゾゾゾっと逆毛だった。
「私が2人をとり持つチャンスを失いまーす。それから先輩の有る事無い事が里緒に伝わるかも?」
「無理。」
つい口癖が出た。丁寧に断りたくてもついでてしまう悪い口癖。いつも誤解を生む言葉。しかしこの日はその悪癖が功を奏した。
「そりゃあ無理ですね。好きな人に誤解されるなんて。では作戦を練りましょう。」
勝手に話を進めて、佐藤仁菜が考え出しもとい思いついて勝手に実行された作戦。些細な嘘は、俺と松井里緒の恋路を迷路にした。
妙な誤解を生んで松井が俺の告白をなかなか信じなくて口下手な俺は非常に苦労した。
でも仕方ないから許してやろう。
アグレッシブなのに恋に臆病な俺の協力者に感謝を込めて。
些細な嘘と初恋迷路 あやぺん @crowdear32
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