第三章 もうひとりの吹奏楽部員 4 浩子と直 5

「まあ、座りなさい」

老人と凛はテーブルを挟み向かい合って座った。そこへ路子がお茶を運んで来た。

「今日はどうしたの?急に来てびっくりしたよ」

「あ、あの、私、両親から音大の進学をゆるしてもらったんです」

「おう!そうか、そりゃあ良かった」

老人は目を見開いて驚いた。そして笑顔になった。

「ほんとうにありがとうございました。おじさまのお陰です」

「うん?」老人は首を傾げ、困ったような顔をした。そしてしばらく考えて言った。

「凛ちゃん、わしはね、君のお父さんにまだ何も進言してないんだよ」

「ええっ?本当ですか?じゃあ両親の気持ちが変わったのは何故なんですか?」

「それはね、凛ちゃんの情熱だよ」

「情熱、ですか…」

「そう、凛ちゃんの音大への熱い想いが伝わったんだよ。そうに違いないさ。あの時、話しただろう、覚えているかい?君のおじいさんが息子を医大に行かせたいためにわしに借金をし、それを見事に返した話を」

「はい、覚えています」

「医学の道に進みたかったのは凛ちゃんのお父さんなんだ。その情熱をおじいさんが感じ、応援したのさ」

「はい」

「凛ちゃんは自分では気がつかないだろうが、熱い想いがお父さんに伝わったんだよ、わしはそう思う」

凛の眼に再び涙がたまり、ハンカチで押さえながら老人の話を聞いた。

「年を取るとね、情熱は冷めてくるんだよ、それは家庭を持てばわかるけど、家族を守るのにエネルギーがいるからね、好きなことに情熱なんか傾けられないんだ。だから自分の子供のそんな思いを汲み取って大事にしてあげるのだよ。まあ、そんな親も最近は少なくなって来たように思うがね、仕方ないのかな」

「そうですか、わたし、きっとおじさまがお父さんを説得してくれたと思ってました。すいません、なんだか恥ずかしいです」

「恥ずかしいことなんて若い時はいっぱいしなさい。それが将来の肥やしになるんだよ。わしなんて恥ずかしいことなんて山ほど経験してるさ」

「はい、ありがとうございます」

「凛ちゃんに聞くが、もし音大失敗したら浪人するのかい?」

「いえ、その時は次の年に医大を受験します。これは両親との約束なんです」

「そうか、約束だからな、頑張りなさい。医者で頑張りながら音楽やってる人なんてたくさんいるよ。どんな道に進んでも凛ちゃんは凛ちゃんだ、凛ちゃんらしく輝くといい」

「はい」

「ところで、孫の直なんだが、どうだい?しっかりやってるのかい」

「直さんは、最初は吹奏楽のこと、フルートのこと、何にも知らなくて来たんですけど、とてもよく頑張って、コンクールが終わって今は学園祭の練習なんですが、もう私が教えなくてもいいかな、なんてところまで上達して来ています」

「そうかい、なんだか忙しいらしくて、わしが息子のところ行っても、寝てばっかりでちっとも相手してくれんのだよ」

「そうなんですか」凛は笑顔になっていた。

梢老人と凛は直の話をしばらくして、凛は梢不動産を出た。

玄関を出る時、凛は1階にいた社員と路子に深々とお辞儀をした。

「凛ちゃん、何か悩んだらいつでもいらっしゃい、わしはもうヒマな老人だからいつもここにいるから。直なんて冷たいもんだよ」


凛は清々しい気持ちで梢不動産を後にした。

「さ、買い物して帰らなくちゃ」

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