第三章 もうひとりの吹奏楽部員 4 浩子と直 4
凛は音大への受験準備と学園祭の練習で忙しい日々を送っていた。
その中で、梢老人にお礼を言いたいと思っていた。
凛はあの時もらった名刺を大切に持っていた。お金のために愚かな行動に出てしまった自分が恥ずかしかった。そして、偶然とは言えそんな自分を戒めてくれたあの老人の厳しい眼差しが忘れられなかった。
凛は夕方、名刺の住所を頼りに梢老人の会社に向かった。
駅前商店街の中に「梢不動産」はあった。5階建てのビルの1階が受付になっていた。
もちろん電話も入れていないから老人がいるかどうかも分からない。
〈どうしよう〉凛は両親の勤める病院には慣れているが、こういう会社には全く入ったことがなかった。普段、直には言いたいことをいっている凛だが、本当はナイーブな女の子なのだ。
玄関前の道路を挟んで凛はもじもじしていた。よしっと心を決めて足を前に出そうとすると身体が動かない。身体を前に出そうとすると足が動かなかった。
その頃、受付の半田路子が凛に気づいていた。
「あの子、何か用があるのかな?」
路子はしばらく見ていたが、道路を挟んでこちらを見たりうろうろしたりもじもじしたり不審な動きをしていたので、さすがに放って置けなくなった。
「すいません、ちょっと行ってきます」
路子は奥に座っていた営業部員に声をかけて席を立った。玄関を出て凛のところへ走って行き、
「あなた、うちに何か用があるの?」と声をかけた。
「え?あ、あの、あの」凛は突然声をかけられ目線をキョロキョロさせ動揺した。
路子は凛が手に持っていた老人の名刺に気がついた。
「あら、どうして会長の名刺を持ってるの?」
「あ、あ、すいません。あのどうしてもお会いしたくて」
「とりあえずお入りなさい」路子は凛の手を引っ張って会社に戻った。
自動ドアが開いた。冷やっとした空調の風に混じってタバコの匂いがした。
「いらっしゃいませ!」中にいた社員が一斉に立ち上がって路子と凛を見た。
「部屋借りるお客さんじゃないわよ、会長にお客さん」
「こんにちは」凛は頭を下げた。
「さ、こっちいらっしゃい」路子は凛を奥の応接室に通した。
「失礼します」
凛は応接室に通された時のマナーは授業の中で教わっていたから入り口に近い方に座った。
「あなた高校生なのにちゃんとわかってるわね」
「ありがとうございます」凛の緊張が少しほぐれた。
「ここで少し待っててね、会長も忙しいからね、聞いてみるわ。あ、会長って呼んでるけどうちにそんな役職はないの。でも社長がいるし、ほんとは相談役だけどみんな会長って呼んでるわ」
「はい」
「そうだ、あなた名前は?」
「あ、すいません。朝倉凛と言います」
「あさくらりんさんね」
路子は部屋の隅にある電話をとってかけた。
〈あの方に電話してるんだわ、どうしよう、怒られるかな?〉
凛はドキドキしていた。
「あ、お忙しいところ申し訳ありません、半田です。今、朝倉凛様という方がお見えです。はい、はい、いえ、高校生のお嬢さんですが、あ、そうですか、かしこまりました」
路子は電話を切ると凛のほうを向き
「すぐに降りてきますから、少しお待ちくださいね」と言って応接室のドアを閉めた。
凛がひとりになった。心臓がさらにドキドキしていた。
しばらくして応接室のドアが開いた。あの時と同じスーツを着た梢老人がいた。
「おおっ、君か!元気だったかい?」
凛は立ち上がった。涙がポロポロこぼれた。
「あの時は、あの時は、ありがとうございました!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます