第三章 もうひとりの吹奏楽部員 3 進路 4

 その時、凛の腕を後ろからがっしりした手が掴んだ。

「お嬢さん、ダメだよ」

 凛がハッと振り返ると、スーツを着た老人が険しい顔をして立っていた。



 駅前の喫茶店で老人と凛が向かい合って座っていた。

 凛は下を向いていた。紺のスカートの上で両手に握ったハンカチにポロポロ涙をこぼしていた。

 老人は黙って凛を見ていた。凛はぐすんぐすんと嗚咽をしながら泣いていた。

 コーヒーとミルクティーが運ばれてきた。

「さ、あたたかいうちにいただきなさい」

 凛はハンカチで涙を拭いながら「はい」と小さな声で返事をした。

 ミルクティーを口にすると気持ちが少し落ち着いた。

 老人はコーヒーをひとくち啜るとカップをカチンと皿に置いて話出した。

「あなたのようなお嬢さんがどうしたんだい?あんなところ」

「お金かな?」

 凛はこくんとうなずいた。

「よかったらわしに話してくれないか?」

 凛はそれまで胸に溜まったものを吐き出すように老人に話し出した。老人は優しく頷きながらうんうんと聞いていた。

 話したことで凛の心は軽くなっていた。

「そうかあ、ずいぶん悩んでいたんだね。それまでして音大を受けたかったんだ」

「でもね、だからと言って安易にああいうことをしちゃいけないよ。もっと自分を大事にしなくちゃ、折角ここまで育ててくれた両親に申し訳ないと思わないかい?」

「両親は君のことを誰よりも愛しているに違いないよ」

 凛の目から涙が再び溢れてきた。

 老人はそこまで話すと気がついたかのように、

「ああ、わしは決して怪しい者じゃないから、安心しなさい」

 そう言うと上着の内ポケットから名刺を出し凛の前に置いた。


「株式会社梢不動産 相談役 梢 作」


 それを見た凛は驚いた。

「あ、あの、すいません。もしかしてお孫さんの名前は『直』っていいませんか?」

「え?直?そうだよ、直はわたしの可愛い孫だよ!もしかして君は?」

「直さんと同じ高校で吹奏楽部で活動をしています。直さんは私の可愛い後輩です」

「あ、私は朝倉凛といいます。名前言うの遅くなってすみません」

「そうか!そりゃあ驚いた。まさか直の先輩を悪の道から救うことになるとはなあ」

「ところで君は朝倉といったね、朝倉、朝倉」

 老人は記憶の糸を探るかのようにしばらく考えていた。

「そうだ思い出した!君のご両親はお医者さんじゃないかい?」

「はい!父は県立病院の内科医、母は小児科医です」

「そうかあ、朝倉くんのお孫さんなんだ」

 老人は嬉しそうに言った。

「え?祖父をご存知なんですか?」

「ああ、君はおそらく知らないだろう。君のお父さんのお父さん、つまりおじいさんはわしと一緒に今の会社を作ったんだよ」

「はい」

 凛の涙はいつしか止まっていた。

 凛が生まれた時、すでに祖父は他界していたから知らなかった。そして父も母も祖父のことはほとんど話さなかった。

「わしが社長で彼は営業部長だった。とても真面目でよく働く男だったし、部下の信頼も厚かった。そして決して嘘をつかなかった」

「その彼の息子、君のお父さんが医者になりたいと彼は私に相談をしてきた。医大に進学するのはものすごくお金が要るんだよ。不動産屋の営業部長とはいえサラリーマンだからね、そんなにお金があるわけではない」

 凛は初めて聞く祖父のヒストリーを興味深く聞いていた。

「わしは彼を信用して費用全額を貸してあげたよ。そんなのいらないと言うのに彼は自分の家と土地を担保にした借用書を書いてくれた」

「はい」凛は担保とかよくわからなかった。

「君のお父さんは医大に現役で合格し、優秀な成績で卒業し、県立病院の医師になった」

「そしてね、彼に返済は何年かかってもいいと言ったが約束した期間できっちり返してくれた」

「もちろん数年やそこらではないがね、ボーナスも全部返済に充てていたし、君のお父さんも医者になってから君のお母さんになる人と結ばれ、一緒に頑張って返したはずだよ」

「そして、君が生まれる前の年にガンで亡くなったんだよ。あのときは戦友をなくしたようでさみしかったなあ」

 凛はお金にとらわれてつまらない行動に出た自分が恥ずかしくなった。

「だからね、そんな両親を悲しませることをしてはいけないよ」

「はい」凛の目からまた涙が溢れてきた。

 そして老人はしばらく考えて

「お父さんにはわしから話をしてあげよう。もちろん、きょうのことは内緒にするから安心しなさい。うまいこと話すから」

「え!ほんとうですか?」

「君の目を見ていたら音楽が好きなのは本気だと感じたよ。ただ、やるからには命がけでやりなさい、芸の道なんてそんな生易しいことじゃないよ」

「わかりました!ありがとうございます!」

「ただ、それでもお父さんの気持ちが変わらなかったらその時はしっかり相談して決めなさい」

「はい!」

 凛の涙は嬉し涙に変わっていた。

 いつしか外は暗くなっていた。

「じゃあ、もう遅いから送ってあげよう。ご両親に連絡しなさい」

「いえ、両親は仕事で深夜になりますから大丈夫です」

「そうか、大変だね」

 老人と凛は喫茶店を出た。店の前にはBMWが停まっていて老人は運転席に乗った。

 凛を助手席に乗せて走り出した。

 車内は驚くほど静かできれいな空気が流れていた。カーコンポから小さな音でジャズが流れていた。

「直がいつもお世話になっているんだね」老人がハンドルを握りながら言った。

「いえ、そんな。彼女はとても頑張り屋です」

「そうかあ、直は誰に似たのかなあ?息子はおおざっぱだしなあ」

「お母さんじゃないですか?」凛はもう笑顔になっていた。

「いやいや真奈美さんは自分にも娘にも厳しいからね、もちろん旦那にもな」

「案外わしの性格引き継いでいるのかもな」

 話しているうちに凛の道案内で家の前に着いた。老人が言った。

「じゃ、今日のことは忘れなさい。わしに会ったのも何かの縁じゃ、困ったことがあったらいつでも相談に乗るからね。それと直に今は内緒にしといたほうがいいな」

「はい、ありがとうございました」


 凛は車を降りた。走り出した車のテールランプが角を曲がって見えなくなるまで手を振った。

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