第二章 吹奏楽コンクール 6 直 熱中症で倒れる

 夏休みに入り、いよいよコンクールに向けての仕上げ段階になってきた。コンクール予選が8月入っての2週目なのであまり時間も残されていなかった。

 毎日午前9時集合、午前中はパート練習、午後から合奏という毎日だった。

 凛の指導も時折言葉がきつくなっていた。

「ほら!そこはミストーンしたら目立つよ!も一回!」

「一体今まで何やってたの?1年生だからってこれくらいできて当たり前よ!」

「また間違えたあ、気合い入れなさい!」直は泣きそうになって練習していた。


 7月末は運動部が合同合宿だったので校内は吹奏楽部と演劇部ぐらいしか活動していなかった。

 パート練習もこの時だけは広い体育館で散り散りになって練習していた。だが、冷房がなかったので汗が止まらなかった。直はTシャツに首からタオルをかけて練習。凛は長い髪を後ろにくくっていた。フルートは金属なのでたまには氷につけて冷やしたい気持ちだった。


 お昼休みは食堂がやっていないので弁当を持ってくるか近所のラーメン屋とかお好み焼き屋で済ませていた。喫茶店は校則で出入り禁止なので利用できなかった。


 直は真奈美が毎日お弁当を作ってそれを持参していた。夏なので傷まないように揚げ物や卵焼きなど火を通したものが中心で毎日あまり変わらなかったが、それでも母の愛情を直は感じていた。ただ、梅干しを必ず入れていたが、概ね好き嫌いのない直は梅干しだけは苦手だった。いちど食べずに残していたら叱られた。「梅干しは疲れも取れるし体にいいのよ!きちんと食べなさい!」それ以来ご飯と一緒に鼻をつまんで食べるようにしていた。


 毎日練習に明け暮れていた直は家に帰るとそのまま2階に上がりベッドに倒れこむようになっていた。夕食も真奈美が呼びに部屋まで入るまで爆睡している。

 それでも食欲は旺盛で毎晩ペロリと平らげ、朝も起床すると「お腹空いたよう!お母さん」とダダダッと降りてくる毎日。総司も真奈美も「よくこれだけ食べて太らないな」と半ば呆れ気味で直に夏バテは無縁に思われた。


 そんな直が8月に入ったある日、熱中症で倒れた。


 その日は最高気温が36度超えの予報が出た危険な日で、運動部は屋外での練習も時間を短縮するか中止。吹奏楽部も中庭ですら禁止、全て屋内での練習が指示された。


 合奏練習の時、凛は直の顔色が冴えないのに気づいた。

「直、なんだかおかしいよ。調子悪けりゃ休みなさいよ」

「ううん、先輩、大丈夫。昨夜クーラーきつかったかなあ、ああ、喉が乾くよお」と、スポーツドリンクを飲んだが喉に汗が滴ってTシャツの襟を濡らしていた。


 小林が入って来た。全員が起立した。


 直も起立した。目の前が真っ暗になった。


「直!」直は凛に寄りかかるように崩れ落ちた。すぐに周りの部員たちが集まった。

 小林が指揮台から降りて直の元に駆け寄った。

「梢!大丈夫か!武田!救急車!」

「はいっ!」美津が教室の緊急電話に走り、電話をかけた。

 常駐の事務員から救急車の手配がされ、同時に医務室にも連絡が入った。夏休みでも不測の事態に備えて医務室に校医が常駐していた。


「男子!奥から長椅子を持ってこい!武田!エアコンを全開だ!タオルを持っているものは全員濡らして絞って集まれ!」小林は凛の腕の中で倒れている直の首筋に手を当てた。直は顔を真っ赤にしてハアハア息が荒かった。意識はあるのかないのかわからなかったが目は虚ろだった。

「脈が速いな、梢!大丈夫だからな!」


 直は長椅子に寝かされ、部員たちの持って来た濡れたタオルで額や脇の下が冷やされた。

 凛は直の手を握りしめ「直、直、大丈夫よ」と声をかけた。


「男子はあっちいって!」美津は男子を追いやると、直のTシャツに手を入れてブラとスカートをゆるめた。靴下も脱がされ足先を濡れタオルでくるんだ。


 医務室から校医が走って来た。服を緩められてタオルで全身を冷やされている直を見て、

「小林先生!おおっ応急処置が早い!流石ですな。すぐに救急車も来ますから」

「先生、よろしくお願いします」


「武田!梢の家に連絡してくれ」

「わかりました!」美津はカバンから部員名簿を出し、携帯で連絡を入れた。


 サイレンを鳴らしながら救急車が校内に入って来た。校庭にいた運動部員たちは何事かと注視した。事務員の誘導で救急隊員がストレッチャーとともに入って来た。

 救急隊員が直の脈や血圧を測り、ストレッチャーに寝かせてエレベーターで降り救急車に乗せた。


 校医が救急隊員から説明を聞いて小林の元に来た。

「生徒さんは県立病院に搬送します。危険な状態ではないようですが大事を取りましょう。私が同乗しますから小林先生は車で来てください。保護者の方には?」

「連絡済みです。お母さんがもうすぐ来ますから一緒に行きます」

「わかりました。では、私は病院の方に」

「よろしくおねがいします」


「武田、今日の練習は中止だ。全員解散させてくれ、それとお前と朝倉は来るか?」

「はい、行きます!」


 直と校医を乗せた救急車は学校を出ていった。入れ替わりに真奈美が自ら軽自動車を運転して入って来た。玄関の前で小林と美津と凛が立っていた。


 真奈美が青い顔をして車から降りてきた。

「先生、直がご迷惑かけてすいません!」頭をさげる真奈美に小林が頭を下げた。

「いえいえ、私どもも監督が行き届かずで申し訳ありません。直さんはさっき県立病院に搬送されて行きました。我々もこれから行くところですがお母さんもお願いします」

「わかりました」


 小林が学校の車を運転して県立病院に向かった。

 車中で真奈美の隣に座った凛が泣き出した。

「直のお母さん、ごめんなさい!私がちゃんと見ていたらこんなことには」

「朝倉さん、気にしないで、直は大丈夫よ。きっとすぐにケロッとするわ」


 病院に着くと4人は回復室に向かった。直が点滴を受けて寝ていた。顔色は元に戻っていたが意識はまだ戻ってないようだった。


 校医から真奈美に説明がされた。

「お母さん、娘さんは軽い熱中症ですな、幸い応急処置が早かったので大事には至りません。しばらくここで休めば今夜には帰れますよ。今日は暑かったからですなあ、まあ、今後は気をつけてあげてください」

 真奈美は意識のない直を見て

「でも先生、意識がないみたいですが?」

「いやいや、寝てるんですよ。そのうち目が覚めますよ」それを聞いてホッとした。


 真奈美と小林と美津と凛は回復室で寝ている直の横で目の覚めるのを待った。

 凛がハンカチを目に当ててシクシク泣いていた。


 しばらくして直が目を覚ました。

「あ、あれ?私、何してるの?あれ、お母さん、部長、朝倉先輩、小林先生もどうして?」

 起き上がろうとする直を真奈美が抑えた。

「直ちゃん、あなたは練習中に熱中症で倒れたのよ。でもね、部のみんながすぐに対応してくれたから大事にならなかったの」

「え?そうなんだ。私、先生が入って来てそこまでは覚えてるんだけど」

「直お、ごめんね。私がもっと早く気づいてあげればこんなことにはならなかったのに」凛が泣きながら直の手を握った。

「朝倉先輩、ううん、私が無理しちゃったから。部長、練習は?」

「今日は中止にしたわ、気にしないで明日も休んでいいよ」

 直は目を見開いて「ええっ?私のせいでごめんなさい。明日は行きます!」

「ばか!また倒れたらどうすんのよ。明日は私の命令です、休みなさい!」美津はきつく言った。


 夜になり総司も病院に駆けつけた。美津と凛は小林が帰宅させ、ひとり残っていた。

 小林が総司に頭を下げた。

「お父さん、私がいながらこんなことになって、誠に申し訳ありません!」

「詳しいことは家内に聞きました。それより部員みなさんの対応の早さに感心しました。おかげで娘も大したことないようだし。それよりもコンクールも近いのに逆に迷惑かけて、こちらこそ申し訳有りません」総司も頭を下げた。


 8時過ぎ、歩けるようになった直は総司と真奈美とともに病院を出て帰宅した。

 10時過ぎた頃、校長と教頭、担任が家にお詫びに来た。

 直は自分の部屋で休んでいたがなんだか大袈裟になって恥ずかしくなった。


 あくる日はすっかり元気になった直だが、美津の命令で休んだ。


 コンクール直前で倒れてしまったことでしょげていたが、真奈美が「仕方ないじゃない、この時期ならある事よ。休んだ分は明日取り返すことね」と励ましたので部屋着のままおとなしくすることにした。

 それにしてもヒマなので課題曲と自由曲の譜面を見ながら時折吹く真似事をして指使いを確認した。


 窓から物干し場を見ると真奈美が大量のタオルを干しているのが見えた。

「あれえ、お母さん、どうしたの?そんなにたくさんのタオル」

 真奈美は言った。

「直ちゃんが倒れた時ね、部員さんみんなが自分のタオルを濡らしてあなたの身体を冷やしてくれたのよ、いわば命の恩人のタオルね」


 真奈美は病院で直の回復を待っている時、美津が紙袋に大量の濡れたタオルを入れて持っているのに気づいた。訳を聞くと、部員全員から直の身体を冷やすのに集めたから、自分と凛で洗濯して返そうって聞いて、じゃあ、私に洗わせてと持って帰ったのだった。

「そ、そうなんだ」直は理由を聞いて涙がホロホロこぼれた。

「だから明日皆さんにお礼を言いながら返しなさいね」

「うん、わかった!」


 夕方、美津と凛が訪ねて来た。

 二人はお見舞いにケーキを持って来たのだった。

 真奈美と部屋着の直が玄関に出迎えた。

「直、元気そうでよかった。明日はバッチリね」凛がニコニコして言った。

「先輩、ありがとう。昨日はみんなに迷惑かけて本当にごめんなさい」

「ううん、気にしないでいいよ。今日からパートリーダーは全員のコンディションをチェックして合奏に入ることになったの。熱中症対策もバッチリよ、技術室のエアコン、ガンガン効いてるよ」

「二人とも上がってお茶でも飲んで行って、そのためのケーキ4つでしょ?」

 真奈美が言うと美津が「ばれたかあ、はい、そのつもりでした。でも夕方の忙しい時ですから」

「いいのよ、お父さんも遅いし」

「すいません、お邪魔しまあす」


 リビングでアイスティーとケーキで遅めのティータイムになった。


 壁に掛けられている家族の写真を見て凛が「直のとこ、仲良しでいいね」と言った。

「お父さんカメラが趣味だから、旅行でたくさん撮ってこうして飾ってるんです」

 凛の一言で直は〈先輩のとこ、あまり仲良くないのかな?〉と感じたが、聞かずにいた。


 美津が「でもさあ、直、昨日は外での練習も無かったし、どうして熱中症になったのかな?」

「うーん、それは私にもわかんないです。ただ、もしかしたら」

「もしかしたら?」

「合奏の時、トイレに行くの嫌だから、パー練の時はほとんど水飲まなかったからかなあ?」

「そう、でも暑い時は水分補給は大事よ。倒れちゃったら何にもならないし」

「ごめんなさい」直は顔を赤くして下を向いた。


 美津と凛が直の家から帰る時、美津が直の耳元でささやいた。

「直、あなた結構巨乳なのね」

「ええっ!部長、いつ見たの?」

「昨日直が倒れて、服をゆるめた時よ。大丈夫、男子は追っ払ったから」

「ごめん、ちょっとさわっちゃった」

「えー!やだあ、恥ずかしいよお」

 直はさらに真っ赤になった。

 真奈美が「どうしたの?」と聞いても

「ううん、なんでもない!」と言うしか無かった。

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