第二章 吹奏楽コンクール 3 課題曲練習

 直は毎日基礎練も頑張っていたが、凛から借りた教則本を順番にやっていくのが日課だった。ただフルートで1年生がひとりなので自分の上達度合いがわからなかった。毎日の練習で凛は決して直をほめなかった。悪い点は指摘してできるまで練習だった。出来ても「はい、次これね」と事務的だった。もっと凛のクールな性格からすれば「うまーい!出来た出来た!」とほめられる方が気持ち悪そうだった。クラリネットにも1年生がふたりいるので直はある日ミーティングの後で聞いてみた。

「練習はどう?先輩は厳しい?」まわりに聞こえないように小さな声で聞いた。

「そんなことないよ、先輩は優しいし、課題ができたら『すっごーい!』ってちょっと大げさだけどね」ふたりはそうそうみたいにうなずきながら答えた。

「そう、ありがとう。それで、もうコンクールの練習してるの?」

「来週からぼちぼちやろうかって言ってたよ」

「あ、そうなの。いいなあ」直はちょっとショックだった。自分だけが遅れてるみたいに感じた。


 凛はその夜、自分の部屋で勉強しながら直のことを考えていた。

〈直はとても練習熱心だしそれなりに上達してきた。でも、まだ何か足りない。もちろん1年生だから無理ないのだけれど、直には来年からフルートパートを背負ってもらなければいけない。だから私より成長してもらわなくちゃだめ。せっかく入部してくれた1年生だから他のパートはちやほやするけど、直にそれは余計なことだわ。〉

 凛はノートを閉じて明日からのことを心に決めた。


 直はその頃、自分の部屋のベッドで天井を見上げていた。

〈凛先輩に憧れて吹奏楽部に入ったけど、毎日基礎練ばかり。他のパートの子たちはもう課題曲するのに、私って…〉そんなことを考えていると天井がぼやけてきて涙が溢れてきた。

〈私ってお荷物?〉直はマイナス思考に陥っていた。


 あくる日、直は部活に行く足が重かった。

 思い切ってサボろうかとも思ったが、結局部室のドアを開けていた。

「おはようございます」そこには和田音が立っていた。

「あらら和田くん、おはようございます」

「おはよう、なんだか元気なさそうだね」

「そんなこと…そんなこと…あるよ」

「どうしたんだい?」

 凛はまだ来ていなかった。

「和田くんってコンクールの練習はしてるの?」

「打楽器だからね、僕はスネア担当みたいだから今は譜読みしてるよ」

「みたい?そんなもんなの」

「今回はウッドブロックだのトライアングルだのたくさん打楽器が出てくるからね、全員で持ち回りながらやらなきゃね」

「そうなんだ」

「ところで梢さんは何かあったの?」

「うん、私なんだか遅れてるようで先輩に迷惑かけてるかなあって」

「遅れてる?入部して1ヶ月やそこらだぜ、できなくて当たり前だろ」

「でも他のパートはもう課題曲やるって言ってたのに私は…」

「そんなの比べたって仕方ないさ、パートによって色々違うんだぜ。それにまだ3ヶ月もあるんだ。自分なりに頑張るしかないんじゃない?」

「そうかなあ」

「そうだよ」

「そうだね、わかった。頑張ってみる」

「課題曲、フルート結構細かいパッセージがあるから大変そうだけど頑張ってよ」

「え?どうして和田くんが知ってるの?」

「スコア持ってるからだよ。小林先生の代わりに振る時もあるからね」

 直にはショックだった。同じ1年生の彼が指揮するなんて、どれだけ優秀なんだって思った。

「じゃあな、頑張れよ」そう言うと和田は譜面を持って部室を出て行った。

 やがて凛が部室に入って来た。

「直、あんた何やってるの?さっさと準備して!」

「はい!すいません!」

 今日も凛のスパルタ練習が始まった。


 5月も半ばになり、直はいつものように練習を始めようと中庭の大きなにれの木の下で準備をしていた。凛が直に言った。

「直、今日から課題曲練習してみようか」

 直は驚いた。ずっと基礎練ばかりでナーバスになっていたからぱあっと眼の前が広がったようだった。

「ホ、ホントですか?」

「でも練習時間の後半だよ、それまではロングトーンと教則本みっちりやるよ」

「わ、わかりましたあ!頑張ります!」

「それと直は譜面まだまだ読めないから譜読みもやるからね」

「はい!」

 それまでグレー一色だった直の心の中がいきなりフルカラーになったようだった。そして重たいものが無くなりいつもは苦痛のロングトーンも全く気にならなかった。

 4時前に凛が言った。

「ちょっと休憩しようか」いつもはとらない休憩に直は少し戸惑った。

「直、そこの自販機で何か買ってきて。私はミルクティーがいいな」と、直に百円玉2枚を渡した。

「あ、はい。ごちそうさまです」

 大きなにれの木のそばに購買部があり、そこに紙コップの自販機がある。直はミルクティーをふたつ買って両手に持ち、凛の元へ戻った。

 梅雨でもなく初夏でもないちょうどよい心地よい風の中、ふたりは黙ってミルクティーを飲んでいた。

「直、1ヶ月すぎたけどどう?」

「どおって、うーん、練習は大変だけど毎日楽しいです」

「そうっかあ、楽しいかあ」凛はふふっと笑った。

「今のは私に気を使ったんじゃないよね、直は素直の直だね」

「そうですかあ?素直の直なんて親にも言われたことないですよ」

「直に兄弟はいるの?」

「いえ、一人っ子です」

「そうなの、私には兄がいてね、親によく言われたなあ『お前はお兄ちゃんに比べてダメだダメだ』って」

「そうなんですか」直は初めて凛の家族のことを聞いた。

「だからなのかな、負けず嫌いになったの」

「お兄さんと比べられたのは勉強のことですか?」

「そうよ、親は音楽なんて興味ないから」

「ふーん、そのお兄さんって今は何をやられているのですか?」

「医大でお医者さんの勉強してるわ。うちは医者の一家なのよ」

「そうなんですか!じゃあお金持ちなんだ!」

「医者だからって必ずしもそうではないよ。祖父は開業医だったけど父は勤務医よ。母は小児科の先生なの、でもね医者ってケチが多いからね。まあ忙しすぎてお金使う暇なんかないけどね」

「この楽器だって親に買ってもらってないよ」

「どうしたんですか?」

「親と学校に内緒で1年間ファミレスでバイトしたわ。お年玉も全部貯金してやっと買ったの」凛が自分のフルートをさすりながら言った。手入れが行き届いて輝いていた。

「私は医者になるつもりはないし、だからかな。応援してくれないのも」

「そうなんですかあ」直は凛の話を聞いてますます慕う気持ちになっていた。


 直は課題曲の写譜をしてもそこから曲のイメージなど読めるはずが無かった。単に記号として音符を書き写したに過ぎなかった。ただ教則本をまめにやっていたのでまるっきり吹けないわけでは無かったがそれは音符通りに音を出すことが出来るというレベルだった。

 練習が終わって凛が言った。「今日は初めてだから、まだまだだけどそんなものかも知れないわね、でもこのままでいいや、自然に上手くなるだろうなんて思っちゃダメよ。テクニックって向上心がなければ絶対上達しないわよ。」

「今日は昨日より、明日は今日より上手くなろうと思って練習しなさいね、その積み重ねよ」

 直には凛の言葉がズシンと響いた。

「昨日より今日、今日より明日かあ…」直に凛が言ったその言葉がいつまでも頭の中でリフレインしていた。


 5月末は中間試験で部活動はテスト前1週間から休みになった。1年生の直には初めての試験だったので成績を落とすわけには行かない。当然部活より勉強なのでこの10日間は試験勉強に力を入れた。

「フルート吹きたいなあ」毎日そう思っていたが凛からも「勉強は勉強よ、試験終わったら多分腕は落ちてると思うけど練習で取り返すのよ、大丈夫。体が覚えてるからすぐに戻るわ」そして「赤点なんか取ったら許さないわよ!」と釘を刺されていた。直は武田美津にこそっと聞いたら凛はクラスでもトップの成績らしい。「文武両道とはまさに彼女のことよ」と言った。

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