第一章 吹奏楽部入部 2 直、吹奏楽部に入部する
直はその日の授業が終わると急いで教科書を鞄にしまい、吹奏楽部の部室に駆け足で向かった。
さすがに眠くて授業も半分以上船を漕いでいたがなんとかこなした。
ガラガラとドアを開けると部員全員が直を見た。練習前の準備中だった。皆、キョトンとした。
「こ、こんにちは!1年生のこ、こずえなおと言います!」
入るなり大きな声で挨拶する直に皆あっけにとられたが、すぐに笑い声が上がった。
「すっげー!入部希望者だぜ!おい!武田!」
奥から武田美津がトランペット片手に直に向かって歩いてきた。どうやら部長?
「こんにちは!こずえさんっていうのね、私、今年の部長の武田です。入部希望なのね、ありがとう」
「よ、よろしくお願いします!」直はぺこりと頭を下げた。
「手続きは書類書くだけだから後にしましょう。早速パート決めなくちゃいけないけど、あなたの口の形なら…」
〈え?口の形で決めるの?〉
直の唇はややポッテリしている。
「ユーフォか、トロンボーンかな?」
〈え?ユーフォ?あのヘンテコなやつ?やだ!フルートでなくちゃ!〉
「あ、あのお、私、フルートやりたいんです!」
「フルート?フルートねえ、うーん、まあいいか」
そばで聞いていたパーカッションの男子がステイックで机をカタカタ叩きながら言った。
「おい、聞いたか?フルートだってよ、朝倉んとこだぜ」
「やめといた方がいいのになあ」
「また三ヶ月かあ…」
武田美津はちょっと困った顔をしたが周りをキョロキョロし
「りーん!りん!あ、ちょっときて」
昨日会った朝倉凛が歩いてきた。
「この子、入部希望の梢直さん」
朝倉凛は直を見るなり目を丸くした。
「あら、昨日の子じゃない。あなた、なんか目が赤いよ」
「なんだ、初対面じゃないんだ」
「うん、私が練習してる時に来たから」
「それなら紹介することもないか、じゃあ凛、あとは任せた!」
「わかったわ。じゃあ梢さん、来て」
直は凛の後をついて行った。
部室の倉庫に入り、凛が楽器を探した。
2つある予備のフルートを持って倉庫を出て部室の隅で組み立てた。
凛がカチャカチャキーの具合を試したり吹いてコンディションを比較した。
「よし!両方とも悪くないけどこっちにしましょう。今日からこれがあなたの楽器よ。自分で買ってもいいけど結構するからね、音出るまではこれでしっかり練習しなさいね!」
凛が直にシルバーのフルートを渡した。ずつしりと重かった。直は感激した。
「じゃあ中庭に出て早速基礎からやりましょう。練習は16時半まで、あとは片付けとミーティングだからそこで紹介するわ。顧問にも紹介しなきゃね」
二人は中庭の大きなにれの木の下に楽器、譜面台、丸椅子を持って降りた。
練習の準備が終わるとそれまでニコニコしていた凛の顔つきが変わった。
「梢さん、昨日も言ったけど私はキツイよ。ついてこれる?周りはどうせ1ヶ月やそこらで音をあげるだろうときっと思ってるわ。」
「でもあなたならついてこれると私は思ってる。だから頑張って!」
凛は直の手をぎゅっと握りしめた。細い指だが力があった。
初日の練習は凛に楽器について教わった。フルートの構造、どうやって音がでるのか、構え方、手入れの仕方や注意するところなどを一通り教わり、次に楽譜の読み方だった。凛は優しかった。〈なんだ、言うほど厳しくないじゃん〉そう気が緩むと昨夜の寝不足もあってあくびが出た。
途端に凛がピシッと直の手を叩いた。
「こらっ!人の話聞いてんの!なんなら帰ったっていいんだよ」
直はハッとした。生ぬるい気持ちだった自分を反省した。
「す、すいません!」
「昨夜寝てないんだろ、赤い目をしてんだもん、わかるよ。何かしてたの?」
「はい、自分なりに吹奏楽のことを下調べしていて…」
「そうなの、へー珍しい子だね。」
凛はそれまでの厳しい顔から穏やかな顔に変わった。
「でもね、直」凛は自然と名前で呼ぶようになった。
「はい」
「高校生活なんてたった3年間だよ。しかも3年になったら進路決めなきゃなんないからコンクールが終わって学園祭が終わったらもう引退だから、本当に短いんだ」
「わたしは毎日が大切だと思ってるの、だから一生懸命にやるの」
「後輩も色々来たけどみんな甘いからね、すぐに辞めちゃう」
「わたしは厳しいけどそれは毎日、今のこの時間を大事にしたいからなの」
「直ならわかるんじゃないかなあって、まだほとんど初対面だけどそんな気がして」
直は真顔の凛の目をじっと見ていた。
「どうしてですか?」
「あなたの目はわたしと同じ目だからよ」
直は昨日の出会い、そして入部してこの先輩について良かったなあと思い始めた。
「さ、楽譜の読み方続けましょう、さっきみたいにあくびしたら今度は許さないわよ」と言いながらも「でもあと30分だし、頑張りましょ」凛はニコッとした。厳しい目をした凛だが笑うとなんて素敵なんだろうと直は思った。
寝不足もあり初めてのことばかりで直にはわからないことだらけだった。ドレミは知っていてもCで始まる音名を使うので混乱した。しかもドイツ読みだから「ツェー」「デー」「エー」になり音階も12もあったりでさらに記号類は初めて見るものばかりだった。
「記号とかは練習しながら覚えましょ、じゃあ早いけど今日は終わり。各パート回って紹介するわ」
凛と直は楽器を片付け、まだ練習しているパートを回り、直を紹介した。とはいっても10分程度しかなかったから部長の武田美津のいるトランペットが精一杯だった。
トランペットが練習している教室に二人は入った。
「よ!頑張ってる?」朝倉凛と武田美津は同期で親友。共に吹奏楽部を盛り上げてきた中核的な存在だ。
美津と1年生の女子二人が机の上に置いたメトロノームを前に基礎練をしていたが、凛と直が入ってきたので美津が音を出すのを止めるよう手で合図した。
「こらこら!凛、練習の邪魔すんじゃないよ!」美津が言った。
「ごめんごめん、ちょっとうちの新人さん紹介しようと思って」
「それならミーティングでするじゃん、でも、まあいいか!もう時間だしね」
「とか言って凛も早く終わりたかったんじゃないの?」
「バカ!練習の鬼と言われたわたしだよ、そんなことするかい!」
漫才のようなふたりの会話を聞いていた直だが、メトロノームを見つめていた。
それに気づいた美津が直に聞いた。
「梢さん、あなたこれ初めて見たの?」
「先輩、なんですか?このカッチカッチしてるの?」
「直!マジ?メトロノーム知らないの?」凛も目を丸くした。
「はあ、はい…」直が不思議そうに眺めていた。
メトロノームを知らないなんて良くそれでフルートやりたいなんて入部してきたな、こりゃ全くの初心者だなと凛はこれからの事を思うと頭が痛くなりそうだった。
「梢さん、ト音記号くらい知ってるよね?」美津が聞くと、
「知ってます知ってます!あのグルグルしたやつでしょう!」
「はあ、グルグル…ねえ…」美津と凛が顔を見合わせて呆れたという表情だった。
直は小さい頃からピアノとか習わず、というか両親は直が6歳の時に何か習わせようと一度は真奈美がピアノ教室に連れて行ったが見学の段階で脱走した過去がある。大きくなった直はその事を忘れているのだ。さらに致命的なことに音痴なのである。だが楽器演奏者にはプロでも音痴がいるから影響はないとは言えるが。
その日のミーティングではその日ただ一人入部の直が部長の美津から紹介された。
「梢さん、あいさつしてください。」
直は40数名の部員の前に立った。
「こ、こんにちは。こ、こずえなおと言います。苗字も名前も一文字の変な名前ですがおじいちゃんがつけたこの名前、とても気に入ってます。音楽のこと、全然わかりませんが、朝倉先輩について頑張りますので…」
「辞めんなよ!」パーカッションの男子部員がからかった。
「どうかよろしくお願いします!」
拍手の中、直はお辞儀をした。凛が優しく見ていた。
ミーティングの最後に顧問の小林涼介が教壇に立った。
「今日からみんなの仲間の梢直さんだ、仲良くしてやってくれ。朝倉!頼むぞ」
「はい」凛は背筋を伸ばして返事をした。
「ところでコンクールの課題曲と自由曲だが、各パートリーダーと相談して決めたいと思う。明日、練習のあと少し残ってくれるか。」
「はい、わかりました」美津が代表で立ち上がって返事をした。
「じゃあ以上だ」涼介が教壇を降りると同時に美津が立ち上がり
「では、今日の練習は終わります、明日も頑張りましょう」
ガタガタと椅子を引く音が教室中に響く。
美津が直の元へ来た。
「梢さん、これ入部関係の書類です。保護者の方の捺印もいるからね、できるだけ早く持って来てね」と、クリアファイルに入った書類を渡した。
「わかりました、明日もよろしくお願いします」
凛も直の元へ来て
「今夜はよく寝て明日はすっきりした顔で会おうね」と、肩をぽんと叩いた。
「はい!よろしくお願いします!」
直は校門の前で美沙と待ち合わせていた。美沙が校門の脇で立っていた。
「お疲れ!待たせてごめんね」
「ううん、で、直、どうだったの?」
「いっやあ、知らないことだらけでさあ、これから大変だよ」
「そうだねえ、わかるわかる」
直と美沙は並んで帰り道を歩いた。夕陽が二人を赤く染めている。家路を急ぐサラリーマン、買い物帰りの主婦などで賑やかなこの時間、直はこの夕方の時間と空気が大好きだ。
直は帰宅すると「ただいま!」と言うなり階段を駆け上がり、自分の部屋に直行した。しばらくして夕食なのに降りてこない直を真奈美が心配して覗きに来た。そこには直が制服のままベッドにうつ伏せで爆睡していた。
「直、よっぽど疲れていたのかしら、制服のまま寝ているわ」
様子を見て来た真奈美が心配そうに言った。
「初日だからなあ、昨夜寝てないみたいだし。そのうちお腹すかせて降りてくるよ」
総司は笑いながらビールを飲んでいた。
9時過ぎたころ直が制服のまま階段を降りて来た。靴下も履いたままでスカートもシャツもしわくちゃになっていた。リビングでは総司がテレビを見ていた。テーブルには夕食が直の分だけラップをかけられて置かれていた。
「お、やっと起きて来たか!どうだったクラブは?」総司が聞いた。
「は?ええと、うん、いろいろ難しいことだらけ」
まだ頭が覚めていないのか半分答えになっていなかった。
「直、先にお風呂入りなさい。スカートはアイロンかけるわ」真奈美がやっと起きて来た娘にホッとした顔で言った。
「はあい、でもお腹すいたよう」
「お風呂の間に温め直しておくわ、でももう遅いから軽くにしなさいね」
「うん」
直は湯船に浸かりながら今日のことを思い返した。
〈朝倉先輩って明日からもっと厳しくなるのかな?音楽も勉強しないとついていけないなあ〉
不安と希望が混じり合う気持ちだった。
風呂から上がると総司はリビングに居なかった。直は遅い夕食をとっていた。真奈美が向かいに座った。
「お母さん、お母さんは音楽何かやってたの?」
「うーん、小さい時ピアノを習ってたわ」
「え!ほんとなの?直もやりたかったよー」
「バカ、忘れたの?あなた小学校上がる前に習わせようと教室につれてったらその場で逃走したの」
「え?そうだっけ、おぼえてないわ。あーあ、やっときゃあ苦労しなくて良かったのになあ」
直は今頃悔やんでいた。
夕食を終えたのが10時半ごろでそれから自分の部屋に戻った。真奈美が軽くにしなさいと言うのにしっかり食べてしまい、苦しかった。
「明日の練習のために予習しておくか」と机に座ったが、はて?何からしたらいいんだろう?と全く音楽の知識が無いのでそれすら分からなかった。
そのうち、満腹のせいで眠くなり、ベッドに倒れこんだ。
あくる日の放課後、直は吹奏楽部の部室に向かった。
ドアをガラガラと開けるとそこに凛が立っていた。
「直、これからそうして欲しいんだけど、部室に入るときは先輩がいるんだから『おはようございます』と元気よく挨拶してね」
「え?昼間なのに『おはようございます』ですか?」
「部活の始まりは『こんにちは』じゃ締まらないのよ、だから昼間でも『おはようございます』なの」
「はい!わかりました。おはようございます!」
すると凛の後ろから全員が「おはようございます」と返して来た。
直はその規律と礼儀正しさに背筋がシャンとする気持ちだった。
〈吹奏楽部って文化部だけど運動部みたいだなあ〉そう思った。
「直、早く準備して。中庭行くわよ」
直は楽器倉庫から自分の楽器と譜面台2本を抱えて来た。
凛に昨日教わったように楽器を組み立てたが固くてはまりにくかった。
フルートは頭部管、主管、足部管の3つの管から出来ている。接合部分はデリケートに出来ていて力まかせにはめると壊れてしまう。
「朝倉先輩、なんだか固いです」
「そう、気温のせいかな?つなぎ目のところをクロスで丁寧にぬぐってからゆっくりやってみて」
「はい」ケースに入っている布で力をあまり入れずに拭うと汚れがみるみる落ちていく。
「直、キィの部分は握っちゃダメよ」
「は、はい」
なんてデリケートな楽器を選んだんだろう、直は少し後悔していた。
綺麗になったところでやってみると嘘のようにスッとはまった。
「金管みたいにグリスなんて使っちゃダメよ。ゆるくなっちゃうからね」
「はい!」
準備が出来たところでふたりは中庭の大きなにれの木の下に向かった。
楽器はふたり分凛が持って直は譜面台と椅子を持った。
「さ、今日は音を出す練習をするわよ」
凛の穏やかな顔がキリッとした。直は緊張していた。
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