第4話 リバース ゼロ

トンネルを抜けると確かにその先には4面8線の高架駅があるのだが人影が無い。

そして高架の高さまで水があり街が水没してしまっている。

風も無く水面は鏡のようで雲ひとつ無く抜けるような青空を映し込んでいて。まるで世紀末が訪れたような。

何よりも異様なのはモノトーンに見える建造物が砂のようになり崩れ落ちて朽ち果てていくのが見て取れる。

脳裏に姉ちゃんの事が浮かび振り返るとトンネル内は真っ暗で地獄への入り口のようにぽっかりと口を開いている。

これが首都直下型の大地震だとしたら連絡を取るのも困難だろうしトンネル内に戻るのは危険極まりない行為だろう。

仕方なく職場がある方へと歩くしかなさそうだ。

歩きながら怪我をしていないかと体中を見ても黒いギョサンを履いている足の甲が少し切れて血が滲んでいるだけだったが体を動かすたびに強打した身体のあちらこちらに痛みが走る。

まぁ、動くのだから骨には異常は無いのだろう。職場まではここから3駅ほどだけど風景が一変してしまっている。

目の前には鏡のような湖面が広がりその中に線路があるようにしか見えない。

子どもの頃にこんな風景をアニメで見たような気がする。

線路を歩きながら違和感に気がついた。風が吹いていないと言えば無風状態を言うがそうじゃない。

大気が動いていないと言ったほうがしっくりくる。

そして自分自身の足音と呼吸音しか聞こえず、この世には俺しか居ないような錯覚に陥りまるで夢の中に飛び込んでしまったようだ。

1時間ほど歩くと見慣れた風景が見えてきたがやはり人影はない。

歩き易くはないが線路の上だから1時間ほどで着けたのだろう。

この世界が3月なのかは実際には分からないが喉が乾いてしょういがなく。

至る所が水没しているからといってその水を飲む根性や勇気なんて持ち合わせてないしすべきじゃないだろう。

いつも利用しているターミナル駅のホームに上がりモノトーンに見えない自販機を何とか探すと。

稼働はしているようだが疑って掛かる必要はあるだろうと思い恐る恐る左手で触れた瞬間にモノトーンになり砂のように朽ちてしまった。

そのうちに首都圏が砂漠になってしまいそうだ。

飲めないと思うと人間はなんとしてでも飲みたくなる生き物で片っ端から砂の山を築いていく。

「クソ! なんなんだ」

やけを起こし右手を自販機に叩きつけると砂のように崩れた中に一本のペットボトルが突き刺さっている。

慎重にペットボトルを砂から引き抜くと中身はお茶の様で触ると確かに冷たい。

キャップを開けて口をつけ少しだけ喉を潤す。確か一日に2リットルの水を必要とすると災害マニュアルに書いてあった気がするので少しでも残しておくべきだろう。

そしてもう一つ気になるのは俺が履いているサンダルだ。

誰も助けてくれなさそうな世界で怪我でもすれば死を意味することになりかねない。

早急に対処しておくべきだろうと思い行動に移す。東口の方に行けばなんとかなるかも知れない。


どうにか東口に出ると水没はしていないようだ。

人影のない繁華街はゴーストタウンの様で恐怖を覚えるが数えきれないほど来ているので勝手に足が動き出す。

ここには雑貨屋や衣料の量販店に電化製品からヲタク御用達の品々まで取り揃えている店がたくさんあり。

その中でもウニクロやアメリカンホークの衣服を取り扱っている店を見て回る。見て回ると言うより物色して回ると言ったほうが正しいだろう。

そしてどうにか砂になってしまわない靴下やシャツを購入と言うか良心からレジの所にお金を置いてきた。

そしてABSマーケットでキャメルカラーのブーツをチョイスしてみた。

「取り敢えずこれで足を怪我することもないだろう」

普段なら大勢の人で賑わっているはずの店先で靴下を履いてブーツに履き替え独り言を言った瞬間に何かに弾き飛ばされた。

マットレスの様なクッション性があるものに物凄い勢いで体当たりされたと言えばいいだろうか。

が、その直後に脱線で受けた衝撃以上のショックが全身を襲う。

アスファルトに叩き付けられ円錐形の金属でできた車止めに背中を打ち付けると空が見えた。

そして視界にはあり得ないものが、黒い長毛種の猫が俺の顔を覗き込んでいる。

まるで俺の体がネズミにのように小さくなってしまったかの様な錯覚に陥りそうになり視線を動かすと周りの景色からそうではないらしい。

夢の様な世界なのだろうか?

しかし、全身が痺れる様な痛みは本物で指すら動かすことが出来ず今度は女が俺を覗き込んでいる。

「何故、人の子がこんな世界に?」

答えることも出来ずかろうじて首を横に振る。

「このままでは死ぬぞ。我の眷属になれ」

眷属ってこの人は何を言っているのだろう? やっぱり俺は死んでしまう程の怪我をしているのか。

死ぬ? あいつも死ぬ時はこんな感じだったのか? 

やりたい事も行ってみたい場所も沢山あっただろう。俺との約束も……頬に温かいものが伝っていく。

死にたくないそう思った瞬間にあいつと指切りをした小指が痛む。

すると、赤っぽい髪をして吸い込まれそうな紅の瞳が間近に見えると動かせなかった右手が持ち上がり彼女の後頭部を引き寄せ柔らかいものを感じ意識が途切れた。


心地よい風が頬を撫でていく。

俺が迷い込んだ世界は大気が止まったように無風の世界だったはずだ。

俺は死んだのか?

ここは天国か地獄か?

「天国でも地獄でもないぞ。汝の生きたいという気持ちが世界を動かしたんだ」

俺の気持ちが世界を動かしたなんてあり得ないだろうと言うか俺は生きているのか。ゆっくり目を開けると青空が何かに遮られていて退かそうと手を動かしたら腕を掴まれてしまう。

「汝に触れられるのは吝かではないが触れる前には一言掛けてくれると有難いのだが」

触れられるってもしかして。確かに意識が覚醒してくると後頭部に柔らかいものを感じる。

この状況は彼女に膝枕されているのかも。それじゃ俺が退かそうとしたのは……

慌てて動こうとすると彼女が覆い被さるように動き柔らかいモノが俺の顔に押し当てられた。

「ぷはぁ~ 死ぬかと思った」

「女の中で死ねるなんて本望ではないか」

「まだ、死にたくないから」

「残念じゃのう」

何が残念なのか理解不能だ。

体を起こして彼女を見ると長袖でワインレッドのワンピースと言うかドレスを身に纏っている。

そして彼女の後ろには見てはいけないものが。

「何を怯えている? ああ、こやつか。私の連れだ。こいつが君を見つけてじゃれついてしまい今に至るんじゃが。どうか許してくれ。この通りだ」

「この通りと頭を下げられても困る。現に俺は死にそうになったんだし」

「それじゃ、この身を差し出そう」

「ああ、もう良い。許すからそんな目で見るな」

瞳が揺れている彼女の後ろには黒い長毛種の猫が座って俺を凝視していた。何が問題かと言うとその大きさだ。

陸上最大の動物であるアフリカゾウを2頭繋げたような大きさでこんな猫に猫パンチされたら一溜まりもないだろう事を体が覚えている。

「こやつの名はラオウだ。宜しくな」

「ラオウね。それじゃ君はもしかしてユリア? それとも……リンとか?」

「そんな名ではない。我に名は無く。始まりと言うか原初と言えば良いだろうか。善でも悪でもない存在らしい」

「その、何だ。俺の名は頼だ」

名前が無いと言う女に何と言えばいいのろうと戸惑ってしまう。

今はそんな事ではなく周りを確認したかった。

立ち上がり辺りを見渡すと人影はないが確かに風が吹いていて大気の動きを感じることが出来る。それはまるで止まっていた時が動き出したかのように。

「どうした。何か気になることがあるのか?」

「少し高い場所からこの世界を見てみたい」

「そんな事か。お安いご用だ」

俺が辺りを気にしていると彼女が不思議そうな顔をして立ち上がるとラオウと言う名の黒猫の背中に飛び乗った。

「うわぁ~ な、何をする気だ!」

「動くなよ。落ちるぞ」

体が宙に浮いたと思ったら今まで生きていて一度も体感したことがないようなスピードで動き出し。

首都高に飛び乗ったかと思うと近くのビルを踏み台にして目の前の超高層ビルを駆け上がっていく。

黒猫が子猫を咥えて移動するようになんて生易しいものじゃなく頭がぐらんぐらんする。

「よろけると危ないぞ」

「危ないのはどっち……綺麗だ」

超高層ビルの屋上に降ろされた俺の目には光り輝く世界が飛び込んできて思わず息を呑んでしまう。

綺麗だなんて語弊があるかも知れない。

何故なら俺の眼下には水没してしまった首都だった大都市が広がっているのだから。

そんな水没した首都が夕日に照らされオレンジ色に光り輝いていた。

「頼の未来のようだな」

「今はそんな言葉でも信じられそうな気がするが問題は山積みだ。寝床を探さないとならないしその前に食料の調達が先決だ。時期に暗くなる」

「そんな事か。頼は心配症だな」

俺の気がかりを彼女は一瞬で解決してしまった。

俺達が立っている超高層ビルの端から腕を突き出しドアでも開けるように宙を掴んで腕を引くと夕焼けがドアのかたちに切り取られたように開いて中には家のような空間が見える。

「粗末な場所だが。我が屋敷だ。遠慮をせずに中へ」

「屋敷と言われても」

現実的に考えれば超高層ビルの端から足を踏み出せば真っ逆さまだろう。でも俺の知っている世界とはここは何もかもが違う。

流石に躊躇ってしまい動けないで居ると背中に軽い衝撃を受けて振り返ると黒猫のラオウが頭を突き出していた。


「うわぁ~ 落ちる?」

「頼は案外騒々しいやつだな」

「へぇ?」

高い所から落ちる浮遊感はなく背中に堅い床のようなものを感じ視線の先には天井が見えランプのような明かりが灯されている。

「まぁ、粗末な場所だが寛いでくれ」

「ここが屋敷なのか?」

「そうだな。頼は人の子だったな。おいおい説明しよう」

起き上がり軽く頷くことしか出来ない。彼女は自分の事を原初の様な善でも悪でもない存在だと言っていた。

信頼に値するかは分からないが俺にとってこの世界では彼女だけが頼りだと言っても過言ではないだろう。

寝首さえ掻かれなければ安全な寝床が確保できたと言うことになる。

「食事の準備をするからそこに座っていてくれ」

「ここでいいのか?」

「そうだ、適当にな。気を使われるとこちらが疲れてしまう」

彼女が部屋の奥のドアを開け出て行ってしまった。多分、キッチンに向かったのだろう。

右手の壁には暖炉が有り薪が焼べられていて傍にソファーが置かれていて、その向こうには木製のダイニングテーブルと椅子がある。

どの家具も北欧テイストのような感じで使い込まれよく手入れがされていようだ。

今日起きたことを整理しようと取り敢えずソファーに身体を沈めたが理解の範疇を超越していることばかりなので考えるのを止めた。

しばらくすると鼻をくすぐる良い匂いが漂ってくる。


「待たせたな。こんなものしか出来ないが」

そう言いながら彼女が料理を運んできてくれた。ダイニングテーブルの上には鍋が置かれパンと皿も用意されている。

すると彼女自身が鍋からシチューの様な料理を取り分けてくれた。

「遠慮無く頂きます」

「うん、そうして欲しい」

「う、美味い」

五臓六腑に染みわたるとはこの事を言うのだろう。口に運び味わうほど血行が良くなり体中が温まっていき疲れが解れていく。

「そう言って貰えるのは嬉しいものなのだな」

「俺以外の人間とは出会わなかったのか?」

「出会ったことはあるが色々あってな」

歯切れが悪そうに彼女が口を濁した。初対面であんな自己紹介をされれば色々あるのだろう。

まずは胃袋を満たすのが先決で話はそれからだ。


「この世界は死後の世界なのか?」

脱線事故に巻き込まれてこの世界に来たという俺が辿り着いた疑問を暖炉の前で彼女にぶつけてみた。

「実のところ私自身もこの世界が何処なのか分からないのだ。気がついた時にはこの屋敷に居てドアを開けると知らない世界が広がっていたと言うのが本当だ」

「それじゃ何で自分の事をあんな風に」

「私がこの世界で初めて出会った者に教えられたのだ。この世界は私から始まったと、だから自分が何者かも分からないので名乗りようがないし頼に教えられることは限られているとしか言い様がない」

彼女にそう言い切られてしまえば質問を変えるしか無いが俺自信が知りたいことは何も分からないことになってしまった。

「でも、少しだけ分かることもあるのだが。信じて貰えるだろうか」

「聞いてから判断したい」

「そうか。実は念じると言うか望むと実現することが出来る世界なのだ」

彼女が言っている事が理解できずに考えこむように見るといきなり立ち上がり俺の腕を掴んで歩き出しキッチンに入っていく。

俺がキッチンだと思っていた場所は台所と言ったほうがしっくり来る場所だった。

レンガを積み上げて作られた竈の様な物がありその下に石窯の様な鉄の扉も見える。

その横には今風に言えばシンクと調理台らしき物がありその上の戸棚の中には食器やグラスが。戸棚の下には籠に入ったパンが置かれていた。

そして作業台らしき使い込まれた木製のテーブルがぽつんとあるだけで食材を保存してありそうな場所が見当たらない。

「今は腹も満たされていると思うが頼は何が食べたいと思う?」

「そうだな。酒とつまみでもあれば良いかな」

聞かれたことに対して素直に答えて彼女の視線が移った先にある作業台の上を見ると俺が頭の中に描いた白ワインのボトルとチーズが数種類あった。

「今さっきまで何もなかったのにどうして」

「私にも分からないがこれが事実なんだよ。まぁ、料理を頭に描いても材料しか現れないから手間は掛るんだが」

彼女が言った言葉の意味が理解できた。

「それじゃ、元の世界に」

「頼が思っているような事は私が散々試したよ。どれも実現しなかった。もしかしたら自分に出来る事しか叶わないのかもしれない」

彼女の表情が一気に暗くなり口を真一文字にしているのを見てどれほど苦しんできたのかが良く分かり。

これ以上は彼女を苦しめるだけだろうと思いワインとチーズを手に取った。

「ワインでも飲もう。グラスとオープナーがあれば良いんだけど」

「分かった、用意しよう」


俺が白ワインとチーズを部屋に運ぶと彼女がグラスとオープナーにカッティングボードとナイフを持ってきてくれた。

白ワインを抜栓してグラスに注ぐと彼女がチーズを切り分けてくれている。手際が良いので料理も得意なのだろう。

「それじゃ、乾杯でもしようか」

「えっと、何に乾杯なんだ?」

「そうだな。出会ったことにかな」

「そ、そうだな」

彼女の表情が少し曇ったがグラスを交わすとグラスに軽く口をつけた。

「お酒は駄目なのか?」

「あまり好きではないがこれは少し甘いし軽いから飲める」

「そうか、良かった」

出会ったばかりからか会話が続かない。それでも嫌な感じはなく心地良い静寂だと思える。

「あのさ、何て言えば良いのかな。今日初めて会った俺が言うことじゃないかもしれないけれどなんて呼べば良いんだ?」

「わ、私のことか? そうだな、頼が呼びやすいように呼んだらいい」

「呼びやすいようにって犬や猫じゃないんだぞ」

「そんな事を私に言われても困るが」

再び静けさが訪れるが今度は間が悪いというか彼女が少し拗ねたように口を噤んでしまった。

俺といえば腕組みをして思案に暮れることになった。

始まり・原初・善でも悪でもない。ゼロと言うことか? 流石にゼロとは呼びづらいしレイでは男みたいだ。

「ロゼじゃ駄目かな」

「ロゼか…… 理由は」

「来ている服も髪も赤系だし、何よりもその瞳の色かな」

「頼が呼びやすいのならロゼで構わない」

安直だと言われても他に思いつかなかったのだから仕方がない。名無しよりはマシで女の子にお前とかは失礼だろう。

風呂に入れと言われたので指差されたバスルームに向かうとシステムバスとまではいかないが日本式のお風呂で良かったと思う。

西洋風と言うか猫足のバスタブがあってシャワーだけなんてどうやって入れば良いのか皆目見当もつかない。

ここに居ることが出来れば日常生活には事欠かないだろうがドアから一歩踏み出せばそこは非日常の世界だ。

細かいことを考えても答えなんて出て来ないので考えるのを止めよう。


風呂から出てソファーで寛いでいるとロゼが風呂から出てきたらしい。

ゆったりとした薄手のワンピースの様なものを着ていて寝間着のようなものなのだろう。

「それじゃ、身体を休めよう」

「そうだな、おやすみ」

「おやすみって頼はそこで寝るつもりなのか?」

ロゼに言われても他に選択肢が浮かばない俺は質問の意味が分からずキョトンとしてしまう。

部屋の間取りを考えれば俺が寝る場所はソファー以外に考えられないのだが。

「取り敢えずこっちに来ないか?」

「まぁ、構わないけれど」

もしかしたら奥に部屋があるのかもしれないと思いロゼに付いて行くと彼女がドアを開けた。

視界の先には大きめのベッドとクローゼットのようなものしか見当たらずドアの形すら無く。

「頼は我の眷属なのだから常に主の傍に居るものだ」

「へぇ?」

「へぇ? じゃない。寂しいじゃないか」

これ以上の反論は無意味で早急に身体を休めるのが先決だと判断しベッドの脇に敷いてあるペルシャ絨毯の様なラグの上に胡座をかいた。

「俺はここで寝るから」

「そうだな、眷属なのだから仕方がない。毛布を与えよう」

「悪いな」

つまらなさそうにロゼが口を尖らせているので恐らく一緒に寝るつもりだったのだろう。

そんな状況になればロゼはぐっすり眠れるかもしれないが俺の身体が休まらない。

取り敢えずこれで安眠が出来るはずだ。

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