6、古参の使用人



 一度寝たら少しは気持ちも落ち着くだろう、と考え、私はあれから夕方ごろまで仮眠をとった。

 目を覚ました私はベッドに腰掛けたまま、ぼーっとした頭で部屋を見渡す…。


「………………。」


 寝ている間にどんな夢を見ていたのかは覚えていないが、脳裏に浮かぶのは相変わらずミシェルの顔だった。

 …今の自分は落ち着いていて、目から涙が溢れる気配はない。…しかし、私の心には後悔や罪悪感、自己嫌悪感といった暗い感情だけが尾を引いており、あの出来事が夢であったならどれだけいいだろうというくだらない妄想を抱かせた。

 …今、家族や使用人たちは何をしているだろう。

 帰宅した時に両親の姿は見かけなかったが、使用人たちには気を使わせてしまった。…あとで謝らなくては…。

 私は立ち上がり、壁際の鏡で軽く身なりを整えてから自室のドアを開けた。


「お嬢様! 起きられたのですね。」


 部屋を出た私を迎えたのは、使用人のアデリナの声だった。

 振り向くと、掃除をしていたのであろう箒を持ったアデリナの姿が廊下の向こうに見え、アデリナは会釈をしてぱたぱたとこちらへ近づいてきた。


「あ……、…えっと、…先ほどは気を使わせて悪かったですわね。」


「いいえ、そんなこと。随分と落ち込んでらっしゃいましたけど、大丈夫ですか?」


 申し訳なく言葉をかける私に、アデリナはにこりと包容力のある笑顔を見せてくれた。


「ええ。…ちょっと嫌なことがあったので落ち込んでましたが、もう大丈夫ですわ。」


「それは良かったです。お嬢様が落ち込んでいると、私たちも元気がなくなってしまいますから。」


 ベルンシュタイン家に仕える使用人たちの中でも、アデリナ・アルマーレは古参の使用人だった。教会附属の孤児院出身である彼女が当家に来てからもう8年になる。

 年齢はまだ24歳なのだが、物腰豊かで包容力のあるその立ち振る舞いは、年齢以上の貫禄と母性を感じさせる。

 私にとって彼女は使用人たちの中で一番好きな人物であり、心を開ける数少ない友人でもあった。

 彼女のその笑顔を見た私は、心の緊張が解きほぐされるような感覚を覚えた。


「………………。」


 私は少しうつむき、…無言でアデリナの胸に抱き付いた。


「あっ。…………ふふ、どうされたんですか? 抱きしめてほしいんですか?」


 私の不意打ちにアデリナは少し驚いた顔を見せたあと、手に持っていた箒を壁に立てかけて私のことを抱きしめてくれた。

 左手を私の背中に回し、胸に顔を埋める私の頭を右手で撫でてくれる。


「よしよし。……辛いことがあったのですね。」


 小さく、優しい声で私を包んでくれるアデリナ。その温もりに、私の心はまるで氷が溶けるかのようにその緊張を解いていく…。

 …アデリナはこれまでも、お母様がいない時にはこうやって落ち込んだ私のことを抱きしめてくれた。

 嫌なことがある度に、私はいつもこうしてアデリナに甘えていたのだ。

 13歳である自分はもう一人前の大人である…という自覚を持って毎日を過ごしていても、彼女の腕の中で得られる安心感からはなかなか離れられそうにない…。


「……アデリナ、…貴女がここに来て、もう8年になりますわね…。」


 私はアデリナの胸に顔を埋めたまま呟く。


「そうですね…。おかげさまで、毎日楽しく仕えさせていただいています。…これも、お嬢様が良くしてくださったからです。」


 アデリナはずっと孤児院で育ってきたが、16歳になって働き口を探している時に我が家の使用人の求人を見つけて応募してきた。

 当時私はまだ5歳だったが、初めて「使用人」という人が家にやってきたために、その関係に戸惑っていたことをおぼろげながら覚えている。

 あれから8年。次々に使用人が入れ替わっていく中でもアデリナだけはずっと献身的に奉公してきてくれた。泣きじゃくる私をあやしてくれ、夜には絵本も読んでくれた。

 私にとってアデリナは確かに使用人だが、家族に等しいほどの親愛を抱いていたのだ。


「…………私の方こそ、アデリナには感謝していますわ。…私は一人娘ですけど、…もし、お姉様がいたらこんな感じなのでしょうか…。」


「くす、甘えん坊さんな妹ですね。…私でよければ、いつでも甘えてきてくださいね。」


「………………うん…。」


 私は少しの間、そのままアデリナの温もりに包まれているのだった。…その間、アデリナはずっと私の頭を撫でてくれていた。








「お父様とお母様はどこにいるんですの?」


 食堂でアデリナに淹れてもらった紅茶を飲みながら、私は尋ねる。


「お二人とも大教会に行かれているそうですよ。お父様は少しお帰りが遅くなるそうで、お母様はもうすぐお戻りになられるとか。」


「…そうですか…。」


 アデリナは私の隣で椅子に座り、甲斐甲斐しく私の話し相手になってくれていた。

 通常であれば、使用人と家人が同じ席に座って対等に話すなどあり得ないことだ。さらに使用人たちの中でもアデリナだけは、普段から私の両親のことを娘である私と同様に「お父様」「お母様」と呼んでいる。これも使用人としては特異なことだったのだが、8年という月日をベルンシュタイン家に捧げてきたアデリナは特に両親から信頼されており、特別に許容されているのだ。

 孤児であったアデリナ自身も私の両親に対して肉親に近い愛情を持っているため、アデリナが私のお姉様だったら…という妄想も、より現実的なものとして感じられるのだった。

 …もっとも、普段は他の使用人たちの目もあるため、アデリナだけを露骨に特別扱いするわけにはいかない。

 しかし今日はご神託の日ということで午後からはアデリナ以外の使用人に暇を与えており、こうしてアデリナと一緒にお茶を飲むということも可能なのだ。

 毎年ご神託の日には使用人に対して特別なシフトが組まれるが、アデリナ以外の使用人が不在になるというのは初めてのことだった。

 私は心のモヤモヤをうやむやにするように、…ミシェルとの出来事を忘れようとするかのように、アデリナとの会話に花を咲かせるのだった。

 …それを汲み取ってか、私が落ち込んでいた原因をあえて聞かずにいてくれたアデリナには、ただ感謝するしかない。




 しばらくすると、大教会に行っていたらしい母が帰ってきた。

 私とアデリナはその物音に気付かず、母が食堂のドアを開けて部屋を覗いたことでそのことを知る。アデリナは驚いて椅子から立ち上がり、「お、お帰りなさいませ」と焦ったように頭を下げた。

 本来なら帰宅した家人を出迎えるのが使用人の務めであり、それに気付かずお茶をしていたとなれば恥ずべき失態である。私はアデリナに申し訳なく思ったが、母は私たちの様子を見るなり、微笑ましくにこりと笑ったのだった。


「ただいま。二人でお話してたのね。」


「お、お出迎えができず申し訳ありませんお母様。もうすぐお帰りになるということを失念しておりました…。」


 謝罪の言葉を述べるアデリナ。

 ……当然、真面目なアデリナがそのことを忘れていたなんてことはない。

 私と話していたためにお出迎えができなかったとなれば私が責任を感じてしまうのではないかと判断したため、私に気を使わせないよう、あくまで自分の落ち度であるということを強調したのだ。

 だが、それを聞いた母は特に咎めることもなく、笑顔を崩さなかった。


「ふふ、いいのよアデリナ。今日くらいはそんなに肩肘張らなくても。」


 まるで余計な力を抜けさせるかのように、母はアデリナの肩をぽんと優しく叩く。


「お母様、お帰りなさい。お父様はどうしたんですの?」


「お父さんは遅くなるわ。お腹空いたでしょ、すぐにご飯作るわね。」


「あ、お手伝いします…!」


 まるで失敗を取り返そうと躍起になるかのように、アデリナは母に付き添って厨房に向かおうとする。


「アデリナはセシリアとゆっくりしてて。…今日は他の子もいないし、今日くらいはセシリアのお姉さんになってあげて?」


「え、あっ…。…い、いいんでしょうか?」


「ええ。たまには家族水入らずもいいでしょう?」


 母はにこりと笑顔を残し、部屋を出て厨房へと向かった。

 アデリナは母の言葉を受けて、自らの使用人としての役目を放棄してしまうことへの後ろめたさやら、使用人である自分が「家族」と言われたことのくすぐったさやらがごちゃ混ぜになって、よく分からない変な表情をしていた。

 家族……。私はその言葉を聞いて胸が温かくなる。

 …家族水入らず。その言葉の中にアデリナが含まれているのは、私にとってとても嬉しいことだった。

 一時的とはいえ、……私に、お姉様ができたのだ。


「ふふ、アデリナ。……ううん、お姉様。座ってくださいな。」


「え、あ……あはは…。はい、セシリア…様……。…………ふふ。」


 私が着座を促すと、アデリナはくぐもった笑みを浮かべながら大人しく椅子に座った。…そわそわとした落ち着かない様子が見て取れる。

 まるで借りてきた猫のようなその様子がおかしくて、私はくすくすと笑ってしまう。

 私とアデリナは目が合うも、どこか照れ臭さを感じてすぐに視線をそらす。

 キョロキョロと視線が一点に定まらないお互いの様子が滑稽に思えて、私たちはしばらく理由もなく笑っているのだった。






 母の作った愛情たっぷりの料理たちが食卓に並ぶ。

 鶏肉のトマト煮込みに野菜のスープ、そしてパン。ほかほかと立ち上る美味しそうなその香りに食欲が刺激され、胃袋が活動を活発にした。


「あ…あの、お母様。本当に、…私なんかがいただいてもいいんでしょうか…?」


 機嫌を伺うように恐る恐る尋ねるのは、使用人のアデリナだ。

 使用人が食事をとるときは基本的に使用人室でと決まっているし、そもそも家人が食事の際に給仕をするのが使用人というものなので、家人と同じ食卓について同じものを食べるなどということは通常なら考えられない。

 いち使用人であるアデリナが家人と同じテーブルにつき、しかも主人である母が手ずから食事を作って振る舞うなど、これまでで初めてのことだった。


「もちろん。そのために作ったのよ。いっぱい食べてね。」


「………………!」


 母アンナの笑顔に、アデリナは感激する。

 …お母様に「家族」と言ってもらったこと、セシリアお嬢様が「お姉様」と呼んでくれたこと、こんな温かい食事を作ってくれて、食卓を共にさせていただけているということ。

 …その余りある光栄に、アデリナの目頭が熱くなった。


 アデリナは生まれてすぐに両親を亡くし、孤児院に預けられた。

 同じような境遇の子供たちと共に、不自由しない程度の食事や教育を与えられて育ったが、唯一得られなかったのが「親の愛」だった。

 16歳になって、働き口を探す際に「使用人」という職を紹介された。

 …一つの家庭に密着し、その生活のお手伝いをするという仕事。 

 この仕事ならば、「家族」というものを知ることができるのではないか。その仕事を通して、本当の家族にはなれないまでも、親という存在とその愛情に少しでも触れることができるのではないかと考えた。

 そうして訪問したベルンシュタイン家では、とても温かい家族が自分を迎え入れてくれた。ベルンシュタイン家の当主であるランベルト様、奥方のアンナ様。そしてご令嬢のセシリア様。その家庭を間近で見ていて、本当の家族というものの温かさを知ったのだ。

 ……それが今日、一時的とはいえその輪の中に自分を入れてくださると、お母様は言ってくださった…!


 食卓に着くのは、母アンナと娘のセシリア、そしてもう一人の家族であるアデリナ。

 ベルンシュタイン家の食卓は新しい家族を迎え、「いただきます」の挨拶と共に晩餐が始まるのだった。

 自分が望んでやまなかった家族という存在。団欒の食事。そして母の愛はこれ以上ない最高の調味料となって、アデリナの心を満たしていった。




 …感激のあまり涙を零しながら食事をするアデリナと、照れ臭さを誤魔化すようにそれを揶揄する私。

 母いわく、今日こうしてアデリナと食事を共にするということは父の提案であり、そのために使用人のシフトを調整したとのことだった。

 ……父本人は残念ながら大事な用事があったために食事には参加できなかったが、他の使用人たちに暇を与えるのにご神託の日という都合のいい理由があったため、今日こうして実現することができたのだ。

 私はその計らいに父に対して感謝の念を抱くと同時に、アデリナに対してより一層の親しみを感じながら、母の温かい料理を口に運ぶのだった。

 こんな素晴らしい日なら何度でもやりたいと私は母に言うが、何度もやるとアデリナを露骨に特別扱いしていることが他の使用人に伝わってしまい不公平感を抱かせてしまいかねないということや、当家で仕事をすることは使用人たちの収入や生活に関わることであるため、なかなか単純なことではないらしい。

 ……こう言うと、まるで私が他の使用人のことを邪険にしているように聞こえるかもしれないが、決してそんなことはなく、他の使用人たちのことも私は大好きである。……ただ、アデリナの場合、その度合いが違うというだけのことだ。


「……そういえばセシリア。今日のデートはどうだったの?」


 ふいにかけられた母の言葉に、私はどきりとする。


「……あ、……えっと…。」


 …どきりとしたのは、「デート」という言葉の恥ずかしさに対してではない。

 ……紛れさせようとしていた後悔や自己嫌悪という負の感情を、再び思い出させられたからだ。

 ミシェルの顔が脳裏に浮かぶ。

 …そうだ。私は今日、彼にとても酷いことをしてしまった……。


「……どうしたの? …………喧嘩でもした?」


 母は言葉を詰まらせてうつむく私の様子を見て、何かを察したようだった。


「……はい、……少し……。」


 私は呟く。

 ……決して喧嘩などではない。私がただ感情をぶつけて八つ当たりをしただけだ。ミシェルが悪いはずもない…。

 自責の念が私を苛む。ちくちくと胸が痛み、目の前の料理は味を失った…。


「……私が、悪いんですわ。…少し、感情的になってしまって…。」


「セシリア…、……そっか。…早く仲直りできるといいわね。」


 母はそれ以上私に何も聞くことなく、「嫌なこと聞いてごめんね」と言うのだった。






 食事を終えて入浴を済ませた私は部屋に戻り、ベッドに腰掛けてぼーっと窓の外を見上げていた。

 ……月は綺麗な満月だ。

 その眩しい光は神秘的で、ご神託の日である今日をより特別なものとして実感させる。

 …ご神託の日ということを抜きにしても、…もっとも、ご神託の日だからこそだったのだが…、今日という日は私にとって良くも悪くも特別であり、…気分の浮き沈みが激しい日だった。

 私は倦怠感に苛まれながら、ただ眩しい月を見つめていた。


 …すると、ふいに部屋のドアがノックされる。

 慎ましいそのノックはきっと、アデリナだろう。私は立ち上がってドアを開けた。

 

「……アデリナ。どうしたんですの?」


 ドアを開けると、そこには使用人服から私服に着替え、もじもじとするアデリナがいた。


「…………お嬢様。あの、…………。」


 アデリナは言葉を選ぶようにキョロキョロと視線を泳がせる。

 …よく見ると、身体の前で組まれた手には一冊の本が持たれていた。


「あの、お嬢様。……その、もし良ければ、……えっと、……ご、…ご本を読んで差し上げようかと思って……。」


「…え?」


 私は目を丸くする。


「あっ、ええっと、…きっと余計なことですよね! すみません…。…でもその……。」


 罰が悪そうにもじもじするアデリナ。

 …………その申し出はきっと、落ち込んでいる私を見て、元気付けようとしてくれているのだろう。

 8歳くらいまでは、私は寝るときにアデリナに本を読み聞かせてもらうということが度々あった。アデリナの優しい声を聞きながら眠るのはとても心地よく、私はその時間が好きだったのだ。

 …しかし、私ももう13歳だ。今ではその習慣もなくなり、一人で寝るのが当たり前になっている。

 …彼女は、少しでも私を慰めようとその手段を考えたが、成長した私が子供の頃と同じような扱いをされることに機嫌を悪くしてしまうんじゃないかと、不安を感じているようだった。

 しかし、私はアデリナの気持ちがとても嬉しかった。

 今日限定とはいえ私のお姉様になってくれたアデリナ。…そのお姉様に本を読んでもらうことが、嫌なわけがない。


「……くすっ。…ありがとうアデリナ。それじゃあ、お願いしますわ……。」


 私はおどおどするアデリナの健気さがおかしくて、くすりと笑いないがら返事を返す。

 するとアデリナはぱあっと表情を明るくさせ、私の部屋に入ってきた。




「……久しぶりですね、こうしてセシリア様にご本を読んで差し上げるのは。」


「そうですわね…。小さい頃はよく読んでもらいましたけど、いつぶりでしょうか…。」


 布団に入って横になる私と、その傍らで本を開くアデリナ。

 ……小さい頃の習慣をただ再現しているだけなのに、なんだか少し照れ臭かった。

 どうやら父は予定よりも用事が長引いているらしく、まだ帰ってきていなかった。しかし私は明日も学校があるため、早く寝なければならない…。

 ……ミシェルのことは相変わらず私の心をちくちくと苛むが、こうしてアデリナが側にいてくれれば、気持ちよく眠ることができそうだった。

 アデリナが持ってきた本は、この国に伝わる童話集だった。小さい頃よく読んでくれた本で、私の大好きな本だ。

 …アデリナはぱらぱらとページをめくる。


「…何の話を読んでくれますの?」


「そうですね…、何がいいでしょう。…………それじゃあ、『木こりと魔女の家』を読んで差し上げますね。」


 アデリナはにこりと微笑んで、その柔らかい絹のような声で物語を語り始めた……。






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