5、セシリアと魔法
「…今度は武器屋さんですか…。」
次に案内されたのは、剣と弓の絵が壁に描かれた武器屋だった。
さっきのカラフルで可愛らしく装飾されたアイス屋さんとは打って変わり、余計な飾り付けのない質実剛健といった佇まいの店舗だ。いかにも筋骨隆々のたくましい剣士や傭兵たちが好みそうな無骨な木造りのお店の扉の前で、私たちはその看板を見上げていた。
扉の外から中の様子は見えないが、きっと剣や斧、弓などの武器が所狭しと並べられているに違いない。
…やはりミシェルもこういうお店が好きなんだろうか…。
「うん。…あれ、あんまりこういうの興味ない?」
実を言うと、私は武器というものが好きではなかった。
…どんな理由があっても、結果的に武器は人や動物を傷付けてしまう。人間の攻撃性をそのまま体現したかのような武器という道具は、私にとってはどうしても受け入れることができないのだ。
そんな私の考えがつい態度に出ていたようで、ミシェルは気を使うように私の顔を覗き込んでくる。
「はい……武器は、相手を攻撃するためのものですわ。私にはどうしても、受け入れられませんの…。」
もし相手がミシェルでなかったなら、私は表面を繕ってお店の中に入っていたかもしれない。しかしミシェルにだけは、本音を話しておきたいと思った。
良かれと思って連れてきてくれたミシェルには悪いと思ったが、どうしてもここは譲れないところなのだ。
「そっか…。でも、僕がいつも探検に使ってるナイフや剣は、ここで父さんが買ってきてくれたものなんだけど。」
…確かに、これまでミシェルは数々の冒険や探検の話を私にしてくれていた。
わざわざ魔物の出没するような場所に赴いて、危険を冒してまでその好奇心を満たそうとする情熱には私も驚かされている。
しかし、ミシェルは護身用に剣やナイフを携行しているという。
……冒険に出る度に、その刃の犠牲となった魔物や動物がいるかもしれないのだ。
そう思うと胸が痛み、ミシェルに対してほんの少し残念に思う気持ちがないわけではなかったが、…それでも私は、彼の性格を知っている。出会ってから決して長くはない付き合いだが、彼はとことん優しい人間だ。
魔物と出会ってもまず上手く逃げるか追い払うことを第一に考え、むやみにその刃を向けようとはしない。私は彼のそういうところが凄く素敵だと思うし、憎まれ口を叩きながらも私に土産話を聞かせてくれる日常がとても楽しみだったのだ。
そんな彼のことを、私はそこらへんにいるような好戦的な剣士や傭兵などと同じとは思わない。
「でも貴方は、魔物や動物に自分から攻撃を仕掛けるということはしないでしょう? 防衛力としての武器の所有は、アリだと思いますの。」
これは半分、父の受け売りだった。父から日頃授業を受けている中で教わったことだが、最近になってようやくその意味が分かったような気がする。
父が言うには、武器を所有することは、それ自体が相手からの暴力を抑止する効果があるという。
自分は武器を持っていますよ、もしあなたが攻撃してくるならば私はこの剣を振るいますよ、ということを相手に知らせることで、相手は反撃を受けるリスクを考えてこちらに攻撃してくることを躊躇するようになるのだ。
私は、ミシェルが冒険に武器を携行しているのはつまりそういうことであり、決して自分から攻撃を仕掛けて魔物を蹂躙するなどするはずがないと信じていた。
「ふ、ふーん。難しいこと言うなぁ…。」
ミシェルはぽりぽりと頬っぺたをかく。
彼はきっとそこまで考えて武器を所持しているわけではないだろうが、武器を携行していることがミシェルの身を守り、結果的に魔物や動物たちの命を奪わずに済むのならばそれが一番だ。
私はミシェルの何気ない行動がちゃんと理屈に基づいたことであるということを見抜き、少しだけミシェルの優位に立ったような気がして得意になった。
「…じゃあ、あっちは? 魔装具屋さん!」
話を切り替えるように、ミシェルは目の前の武器屋さんとは違う方向を指差す。
……魔装具屋さん! そのキーワードに私はピクリと肩が反応した。
人口の4分の1近くが魔法使いであり、アウラ教の総本山であるこのイシュタンバインは、魔法関係のアイテムがとても多く流通する街だ。特に魔導書や杖、魔法を付加した雑貨などは質の良いものがたくさん揃っており、私にとってはとても興味深いジャンルだった。
「あ、あちらなら興味ありますわ! 魔導書や杖が置いてありますのね!」
「よーし、じゃあ行こう行こう!」
ミシェルはそう言って歩き出す。私もその隣をついていった。
「わあ…! ここはたくさん揃ってますのね…!」
お店の扉を開けると、そこには私のとっての楽園が広がっていた。
壁に並んだ無数の魔法杖に、ローブや手袋などの装備品。本棚に敷き詰められた色とりどりの魔導書や、魔法の関連書籍たち。
さすが魔法の街というだけあって、その品揃えは隙がない。
ミシェルが言うには、このお店はイシュタンバインの中でも特に品数も多く人気のお店らしい。私がよく行っていた学校の近くのお店よりも豊富な品揃えだった。
「目の輝きが違うなぁ…。」
ミシェルは私の様子を見て、まるではしゃぐ子供の様子を見るかのようにそう呟いた。
私は壁に掛けられた杖を見比べながら返事をする。
「魔法を嗜む者として当然ですわ! …あ、この杖はアレキサンドライトを触媒にしてますのね…!」
壁の少し手の届きにくい高さに掛けられた、見る角度や光の当て方によって色の変わる鉱石アレキサンドライトが触媒として配された魔法杖を見上げる。
私がこれを使ったらどんな風に効果が出るだろう? 治癒魔法の効力も上がるだろうか?
これだけたくさんの杖があれば、今の私にも扱える杖があるかもしれない…!
もっとも、これくらいのクラスの杖は高価すぎて私には手が出ないんだけど…。
「うわ高っ…。魔装具ってこんなに高いんだ。…セシリアは普段どういうのを使ってるの?」
杖の値札を見ながらミシェルが尋ねてくる。
よくぞ聞いてくれました…!
「私は魔導書ですが、光系ですのでエーリアの魔導書を使っていますわ。魔法の先生が、まだ杖を使わせてくれないんですの。」
エーリアの魔導書、というのは、過去に光系魔法の発展に大きな功績を残したエーリアという魔法使いがまとめた、光系魔法が中心の魔導書だ。
魔法には火系、水系、雷系、地系、風系、光系、闇系の七つの系統があり、人によって得意とする系統が違っている。
そのエーリアという人物も光系の偉大な魔法使いであり、各系統ごとの達人たちが同じように専門の魔導書を編纂し、私たちはその得意に応じてそれぞれの系統の魔導書を使って勉強したり、魔法を使ったりしているのだ。
「へぇー。魔導書と杖ってどう違うの?」
「体内にあるエネルギーを魔法という形に変換するための道具…という意味では共通していますが、使い勝手が違いますわね。魔導書は魔法を具現させるための公式や陣がページに書かれていますので、比較的誰でもある程度の精度で魔法を使うことができますわ。…ただし、その魔導書に書かれていること以上のことはできませんし、結局は紙ですので耐久性に劣りますわね。火を点けられたら燃えてしまいますし、保存状態が悪いと虫にも食べられてしまいます。」
世に流通している魔導書は単系統の魔法だけを収録したものがほとんどのため、光系である私は基本的に光系の魔導書を集めている。
中には幅広い系統の魔法を満遍なく収録した魔導書もあるのだが、そういうものはどうしても広く浅い内容となってしまうため、一つの系統を極めたいと思うならばまず選ぶ必要はない。
もちろん私も魔導書があれば他の系統の魔法を使うことができるが、広く浅くよりも狭く深くというのが私のポリシーなので、自分ではほとんど他の系統の魔導書は持っていないのだ。
「ふーん…杖は?」
「杖は、魔導書よりもはるかに術者の能力に依存しますわ。魔鉱石を触媒にしてエネルギーを変換するのですが、具現させるための公式や陣は術者本人の頭の中に完璧にインプットされている必要がありますの。そのため、より深い知識と経験が必要になりますし、本人の素養にも大きく左右されます。例えば、火系の魔法が得意な人が杖を使って火の魔法を使うと、同じ術であってもその威力や応用力は魔導書を使うより格段にアップしますわ。けれども、他の苦手な系統の魔法は精度や威力が落ちますの。触媒に使われる魔鉱石の特性にも影響されますし。」
水を得た魚のように饒舌に説明する私。
魔法のことになると露骨に舌が回るようになる自分の気質には我ながら感心する。
「なるほど、杖は上級者向けってわけか。」
「そういうことですわね。あとは、杖ですので歩くときの補助に使えたり、耐久性も高かったりという利点がありますわ。……お値段も高くなってしまうのが玉に瑕ですが…。」
「杖だからそれで殴ったりもできるね。」
「……すぐそうやって野蛮な発想になるのはいただけませんわね。魔法っていうのは人の役に立つためにあるんですのよ。私たちが生活に使っている火や水などはみな、それぞれに習熟した魔法使いたちが仕事をしてくれているから手に入っていますのよ。」
「分かってるけどさ。うちの母さんも水系なんだ。おかげで飲み水には困らないよ。」
他の街ではどうなのか知らないが、この街では「魔技就労」というものが一般的だ。
これは、魔法を身につけた人がその魔法を使って社会に貢献し、対価として賃金をいただく働き方のことを指す。
例えば火系の魔法使いが金属の溶融やゴミの焼却などの仕事に就いたり、私のような光系の魔法使いがその治癒魔法を以って医療機関に勤めたりといった具合だ。
父の会社であるベルンシュタイン社も、多数の火系や地系の魔法使いを雇って日々金属素材を生産している。
もちろん魔技就労以外でも、日常生活の中で魔法を使い生活を便利にしようとする人も多い。ミシェルのお母様は水系らしいので、きっと生活の中で色々と便利なのだろう。
「そうなんですのね。…私は光系ですから、治癒魔法で怪我をした人を癒すことができますわ。……まあ、まだ魔導書使いですけど、いつかは杖を持ちたいですわね。」
私のように杖を持つことを憧れとする学生も多いが、その値段の高さに諦める人も多い。例えばさっきのアレキサンドライトの杖はかなり高級品で、50万G近くもするのだ。最低ランクの杖でも5万Gくらいはするため、学生ではなかなか買うことができない。
…もちろん、親に買ってもらったりお下がりをもらったりする子もいるが、私は親から自分で稼いだお金で買うようにと言われているので、まだ持つことでできないのだ。
「何も持ってなかったらどうなの?」
「何も持っていなくても使えないことはないですが…、威力や精度はガタ落ちですわね。陣と公式も頭に入っていなければなりませんし。……私なら、ちょっとした擦り傷や切り傷を治すのが精一杯ですわ。…それに、魔装具がないと体力もものすごく消耗しますの。優れた術者なら、何も持っていなくても切断された腕を繋げるくらいはできるのでしょうね。」
エーリアの魔導書を編纂した故エーリアの全盛期がそれくらいの熟練度だったらしい。今の私にとってはまるで雲の上の存在だが、いつかはそれくらいの魔法使いになりたいものだ。
「両方持ってたら?」
「魔導書と杖は基本的にどちらか一つを選ぶのが基本ですわね。両方持ってても魔法は使えますが、両方持ってるからといって特に良い効果はありませんの。むしろ、両手が塞がるだけ損といったところでしょうか。」
「へぇー、魔法使いって色々あるんだな。奥が深い。」
私の説明に、ミシェルはまるで初めて知ったかのように、あるいはまるで他人事のように腕を組んで感心する。
…しかしいくらなんでも、この街に住んでいるのだからこれくらいのことは知っていて当たり前じゃないのだろうか。
「…そういう貴方はどうですの? こんな街にいるのですから、少しくらいは魔法を使うことはできませんの?」
「使えるよー。全然得意じゃないけど、ちっちゃい火とか電気を出したりくらいなら。」
私の問いに、ミシェルはさらりとそう答えた。
なんだ、いつも剣だのナイフだのって言っていたが、やっぱり使えるんじゃないか。
「え、凄いですわね…。魔装具はどんなものを使ってますの?」
「…………何も?」
「え?」
ミシェルの返答に私は耳を疑う。
……魔装具を使わない? …いやいや、いくら魔法に興味がないにしても、魔法を使うならば魔導書の一冊くらい持っているのが当たり前だ。
普段は友人や家族から借りるなどしていて、自分で所有しているものが一冊もないということだろうか…。
「魔導書も、読んでみたけどさっぱり分からなくてさ。アウラの教典第1巻で挫折したよ。」
…………はあ…!?
余計に意味が分からない。その口ぶりだと、まるで魔法を使うための基礎がまるっきり分からないと言っているようで、そもそも魔法を使うために魔導書そのものを必要としていないみたいじゃないか。
魔法を使うために魔装具を使わないなんて、そんなバカな…!
「…ちょ、ちょっと待ってくださいまし。普通、魔導書を読み込みもせずに魔法を使うなんてできませんのよ? ましてやアウラの教典なんて、初歩の初歩じゃありませんの! 第1巻で挫折したのに魔法が使えるなんて、どういうことですの!?」
アウラの教典とは、初めて魔法の使い方を学ぶ人が必ず読む魔導書である。
全3巻に渡って魔法の基礎がまとめられ、魔法を使うための身体の使い方や意識の持ち方、魔法を使うための体内のエネルギーの扱い方などを学ぶ、超初心者向けの教科書だ。
これこそがまさに、今日の文明を築き上げるに至った始祖アウラによる最大の偉業であり、私たち魔法使いにとっての聖典と言える。
アウラの教典は子供でも読めるような易しめの文体で書かれているため、私の場合はそれを6歳くらいのときに読破し、そこから私の魔法使いとしての日々が始まった。それから今日までは、新しい魔導書を買っては日々その読み込みを行って理解をし、実際そこに書かれている魔法を使ってみてはまた次の魔法に挑戦する…といった具合に、筋肉を鍛える要領で徐々にレベルを上げていくという毎日だ。
このように、魔導書を読んでその内容を理解することは魔法を使うならば必ずクリアしなければならない条件なのだが、ミシェルの口ぶりはまるでその条件を完全に無視しているように聞こえる…!
「さあー。才能じゃないの? セシリアも自分でよく言ってるよね。」
まるで興味なさげに答えるミシェル。
「………………ありえませんわ。この私ですら、火系なら魔導書を使ってようやく松明に火が灯せるくらいですのに!」
才能…!? そんな言葉で、魔法を使うのに勉強と魔装具を必要としないなんてことが説明できるわけがない。信じられない!
「そう言われても…。使えるんだからしょうがないじゃん。」
あ、ありえない…! アウラの教典すら理解していない人が魔法を使えるなんて、いくら才能があろうが不可能だ!
…ミシェルがこんなつまらない嘘をつく人だとは思わないが、その発言は戯言としか受け取れない…!
「しょっ…、証拠を見せてくださいな! ほら、どこか広い場所に行きますわよ!」
「ちょ、引っ張らないでよ…!」
私はミシェルの腕を引き、勢いよくお店の扉を開けて外へ出た。
「…ここならいいでしょう。誰にも迷惑がかかりませんわ。」
セシリアは強引にミシェルの腕を引き、魔装具屋から離れた人気の少ない公園へとやってきた。
魔法を使うとなると周りに迷惑がかかるといけないため、人気が少なくかつそれなりの広さのある場所が望ましい。
セシリアは魔導書も読まずに素手で魔法が使えるというミシェルの発言がどうしても許せず、その真偽を確かめようというのだ。
「…魔法のことになると目の色が変わるんだから…。」
「うるさいですわ! 魔法を嗜んでいる身として、魔導書も読まずに、魔装具の力も借りず魔法が使えるなんて聞き捨てなりません! しかも、使い手の少ない雷系まで使えるなんて…。この目で見ない限り信じられませんわ!」
もしミシェルの発言が本当ならば、彼は自分が一流の魔法使いになるために費やしている膨大な時間と労力を一切無視して魔法を使えるということになるのだ。
……そんなこと、許せない。できるものなら、やってみろ!
「分かった分かった…。…じゃ、見せたらいい?」
ミシェルは飄々とした口ぶりで、さも当たり前のように尋ねてきた。
「え、もうやりますの!? ちょっと待ってください、心の準備が…。」
「なんでセシリアが緊張してるんだよ…。」
ドキドキと緊張するセシリアに対してミシェルはあくまでも落ち着いており、むしろセシリアの強引さに対してやや呆れてさえいた。
「ふーーっ……。………………お願いしますわ。」
セシリアは深呼吸をし、息を整える。
「はいはい。じゃあまずは火系から…。」
ミシェルはそう言って、右の手のひらを上に向ける。
すると次の瞬間、シュボッ!という音を立てて、直径10cmほどの小さな火球が手のひらに浮かんだ。
「あっ、え……!?」
その光景に、セシリアは思わず自分の目を疑った。
「…次、雷系ね。」
セシリアが目の前の事実を理解する前に、ミシェルは左手をかざす。
すると、パチパチッ、パチッ!という、小さな電気が発せられ、その手の周りを覆った。
ミシェルの右手には火球が浮かび、そして左手には電気を纏っていた。
「……はい、こんなもん。全然大したことないでしょ?」
ミシェルはふう、と息を吐き、魔法を消してセシリアに向き合う。
…しかしセシリアは、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「……………………。」
「……なんか言ってよ。」
「…し、信じられませんわ…。火力は大したことないにしても、…あ、貴方、詠唱なしに出せますの……!?」
「詠唱? ああ、魔法の前に光ってるあれか。…そういや僕したことないな…。」
信じられない。本来ならば魔法とは、魔導書の内容をしっかりと理解し、魔法の基礎である生命エネルギーの使い方を身体に覚えさせた上で、魔導書なり杖なりの魔装具を持ち、具現のために必要な詠唱を行なって初めて使用できるものなのだ。
それをミシェルは、あろうことかその原則を無視して魔法を使用したのだ。
「あ…、貴方、ご自分が何をやっているのか理解してまして? 詠唱もせずに魔法を使うなんて、…私の魔法の先生でもできませんのよ!? しかも、二系統の魔法を同時に使うなんて、そんなこと……!」
セシリアがそう言うと、ミシェルは得意げに鼻を鳴らした。
「そうなんだ。…ふふ、やっぱり僕才能あるのかな。」
「………………ありえない…。信じられませんわ…。」
どれだけ優れた魔法使いであっても、魔法を使うためには魔導書を読み込み理解する必要があり、詠唱を必要とする。しかも、同時に使うことができる魔法は一つの系統のみに限られるという制限がある。
ミシェルが今して見せたように、火系と雷系という違った系統の魔法を同時に使うなどということは、魔法の原則から外れているのだ。
セシリアは目の前の現実を理解できず、うつむいてワナワナと震えた。
魔導書を読み込まずに魔法を使えるという事実だけならまだしも、ミシェルはさらに詠唱すらせず、二つの系統の魔法を同時に使うということまでして見せたのだ。
…信じられない。信じられない。信じたくない。認めたくない…。
「それより、もう昼だよ? お腹空いたからご飯食べにいこう。」
ミシェルは、なぜセシリアがそこまで魔法にこだわるのかが理解できていなかった。
自分のやったことは全然大したことじゃないし、この程度の魔法じゃ料理のための火すら賄えない。…そんなものより、以前自分の怪我を治してくれたセシリアの魔法の方がよっぽど立派じゃないか。
本気でそう思い、セシリアに対して尊敬の念を抱いていたからこそ、ミシェルはセシリアが現在抱いている感情を想像しきれずにいた。
「……ブツブツ……詠唱もなしに……そんなことが…。…………ぅ……。」
「ねえ、セシリア?」
なおもうつむき独り言を呟くセシリアに対し、ミシェルはその腕を掴んで振り向かせようとする。
…………すると。
パシン!
「いたっ………え。」
今度は、ミシェルが目を丸くする。
………………今、…手を払われた?
じんじんと軽い痛みが走る自分の手に視線を落とし、再び顔を上げてセシリアの顔を見る。………セシリアは肩を震わせ、その目には涙が浮かんでいた。
セシリアはキッと眉を吊り上げ、涙目でミシェルを睨む。
「ぐすっ……うるさいですわ…! 貴方っていつもそう! …いつもいつも、私の手の届かない世界のことばかり楽しそうに話して! ……私が、どれだけ頑張っているのか知りもしないくせに! 私には、ベルンシュタインの娘として生まれた責任がありますのよ! 立派な大人になるために、日々色んなことを勉強していますのよ! ……魔法だって、小さな頃から努力し続けて、やっと学校で一番の治癒魔法使いになりましたのに、……その努力を、そんな簡単そうにあしらわないでくださいまし!!」
セシリアは高ぶった感情を抑えられず、堰を切ったように言葉を投げつけた。
「セシリア…!? 違う、僕はそんな…。」
「私は! 少しでも人の役に立てるようにと、血の滲むような思いで魔法の練習や勉強をしています! …それでも、魔装具も使わず、詠唱もなしで、二つの系統を同時に使うなんてできませんわ! でも貴方は、ろくに魔導書も読んだことがないのにそれができる! …なんでできるんですの!? どうして!?」
セシリアはショックだった。
セシリアは、ミシェルよりもはるかに多くの時間と労力を費やし、立派な大人になれるように、両親や周囲からの期待に応えられるようにと、日々勉学に努めていた。
幼い頃より魔導書を絵本代わりに読んできたセシリアにとって、治癒魔法の成績で学校のトップに立っているということは数少ないアイデンティティであり、誇りであり、自信だったのだ。
……そのことが、他でもないミシェルの存在によって、いとも簡単に崩されてしまった。
どんな魔法使いであれ、魔導書の理解や詠唱の必要性など、魔法を使うために必要な条件は一様に課せられる。しかしその共通したルールがあるからこそ、世の魔法使いたちは競い合うように努力を重ねるのだ。
もしもそのルールに縛られずに魔法を使うことができる者がいたとしたら、日々そのルールに従っている自分がバカバカしくなってしまう。
「…ぐすっ、…ぅ……。…魔法も…冒険も……、…私にできないことを…そんな簡単に見せつけないでくださいまし……。」
とめどなく溢れる涙が頬を伝い、地面に落ちる。セシリアは乱暴に目をこすり、ミシェルに背を向けた。
こんな怒りをミシェルにぶつけるのは理不尽なことだと、頭では分かっていた。しかし、一度たがが外れてしまった爆発的な感情を理性で抑えられるほど、セシリアは大人ではなかった。
街の外に出ることができないセシリアはミシェルの冒険の話を羨ましく感じていたが、学校でトップになれたという魔法の能力があったからこそ、セシリアはその自信を保っていたのだ。…しかしその自信と誇りすら奪われてしまっては、今の自分に何が残っているというのだろうか…。
「セシリア、…………。」
ミシェルは言葉を失い、代わりに一歩足を踏み出す。…が。
「近づかないでくださいまし!」
セシリアの言葉により、その足すら動きを止めざるを得なかった。
……かける言葉が見つからず、ミシェルはただ閉口するしかない。
やがて、セシリアがぽつりと呟いた。
「……………私、…貴方のこと…嫌いですわ…。……貴方のこと見てると、…惨めになるんですのよ……。」
その一言に、ミシェルは後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
…そんなつもりじゃなかった。自分はただ、セシリアに色々な世界のことを見せて上げたかっただけだったのに。窮屈な毎日で疲れているであろう彼女に、少しでも光を与えてあげたかっただけなのに。
生まれの違い、育ちの違い、…そして才能の違い。
セシリアが感じているのは、言ってしまえば単なる羨みややっかみ、嫉妬という感情に他ならない。
……しかし、彼女の出自や、現実に置かれている環境、社会的な立場、そしてそんな毎日を過ごす彼女の心中を思えば、彼女の受けた衝撃をそれだけの言葉で片付けるのはあまりに残酷というものだろう…。
日々両親や他の貴族たちからのプレッシャーを受けながら、社会的な評価や世間体を重んじ、自分に関わる人々の面子を潰さぬよう細心の注意を払いながら生きているセシリアにとって、好きなことを自由に選んで生きているミシェルの存在は、あまりにも眩しすぎたのだ。
…同じ街で暮らしておきながら、なぜ貴方はそんなに自由なの?
長い沈黙の末、セシリアは「…私、帰りますわ…。」と呟き、うつむいたままとぼとぼと歩きだしてミシェルから距離を置く。
ミシェルはその肩を掴むことも、声をかけることもできず、力なく伸ばした手は空を掴み、ただ自分から離れていく少女の背中を目で追うことしかできなかった…。
屋敷に戻ったセシリアは、心ここに在らずといった様子で自室へと向かった。
ご令嬢の予定よりもかなり早い帰宅に、使用人たちは慌てながら「おかえりなさいませ」と声をかけるが、見るからに活力の感じられないセシリアの様子を見て、かける言葉を見つけられないでいた。
その中でも、ベテランの使用人であるアデリナだけはセシリアに近づき「どうかなさいましたか?」と尋ねたが、
「……なんでもありませんわ。…少し、放っておいてください。」
…と言われ、それ以上言葉をかけることはできなかった。
自室に着いたセシリアは、どさりとベッドへ倒れこむ。
…………何もやる気が起きない。
両親がどこへ出かけているのかすら、今はどうでもよく思えた。
枕に顔を埋める。
頭に浮かんでくるのは、先ほどのミシェルとのやり取りと、別れ際のミシェルの悲痛な表情……。
流し尽くしたと思った涙が、再び溢れてくる。その涙は枕を濡らし、嗚咽の声は空気に溶けて消えていく。
「うっ……ぅ……。…ミシェル……私は…………。」
今のセシリアが感じているのは、ただひたすらミシェルへの申し訳なさと自分への失望だった。
いつも屋敷に侵入してまで冒険の話とお土産を持ってきてくれるミシェル。目を輝かせて楽しそうに話すその目には何の曇りもなく、その意図はただ私に楽しんでもらえるようにという好意のみであることに疑いようがなかった。
…しかし自分は、自分のくだらないプライドのためにその好意を疑い、あろうことか拒絶の言葉を投げかけてしまった。
分かっているのに。分かっていたのに。どうして私はあんな酷いことを言ってしまったのだろう。
セシリアは枕に顔を埋めながら、底の見えないほどの自己嫌悪に苛まれていた。
今日はご神託の日だというのに、私はなんと愚かな人間だろう。
ああ女神様、願わくば、その御言葉で私を癒してください。
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