14章

 徴候ならいくらでもあった。気づけなかった自分がひたすら憎くて仕方がない。でも、今さら言っても仕方がない。

 あんな風に呼び出されて遊んだあと、衣空がまた部室に寄るようになったかと言えば、そうではなかった。なんでなのかは、わからなかった。

 それでも、すこし浮いた気分になっていたのかもしれない。孤立した衣空のそばにいるのはぼくであるべきだ、みたいな、図に乗った思いがあったのかもしれない。

 ある日、部室に寄る前に、一年B組の教室に行って、衣空を部室まで連れて行こうと思ったのだ。ほんとうに、気軽な気持ちだった。ぼくの方から衣空に会いに行くのは、これが初めてだった。

 衣空の教室の前に、人だかりができていた。まさか、また。どうやって歩いていたのかわからなくなって、バランスを崩して、廊下の壁に手をつく。

 しかし、どうやら様子が違った。そこに衣空はいなかった。いたのは数人の教師と、学校の中では見たことのない大人たち。それぞれが、カメラとマイクつきのレコーダーを持っている。

辟易した顔でかれら記者たちに教員が応対している。

「困りますよ、報道の自由ってもんがあるんですから」「日本はなにか隠さなきゃいけないことでもあるんですか?」「もう言い逃れできませんよ! あの女の子を出せ!」

 大勢の記者がおしかけていた。信じられなかった。マスコミならば多少の人権侵害を厭わないとはいえ、高校生を相手に、しかも、ロボット関連の話題で、こんなに踏み込んで取材をするなんて、考えられないことだった。

 しかし、こいつらは、外人記者だ。それも、根っからのカトリック国の。かれらの本国は、堂々とロボット使用に反する立場を取っていて、日本がロボット関連の事件で失敗を起すと、かならずと言っていいほど、過剰に取り上げて、その欠点を強調しようとする。外国の記者に対して、日本の司法は強く出ることができない。なんと言っても、世界的な会議の場でロボット使用について議題に挙げられるのは困るからだ。いまのところ、日本を中心としたアジアの、非キリスト教圏、その中でも後期高齢化の進む諸国と、発展途上であるがゆえに労働力不足にあえぐ諸国家で限定的に使われているからこそ見逃されてきた問題を、人道の観点からやり玉に挙げられるのは痛い。そして、ロボット労働力を殺げば、アジアの国際的競争力は地に落ちる。――政治の話はどうでもいい。

 記者の周りを取り囲むやじ馬たちに、なにがあったのかと訊く。どうやら、放課後に校内に大挙して押し寄せた外国人記者たちが、教室から出る衣空を囲んでインタビューを開始しようとしたらしい。そして、そのあまりに強引な取材に、さすがに教員が呼ばれてきたところを、衣空は隙をついて逃げ出した。

「利用されていた、というのは、どういうことなんでしょうか? あなたの意思で、いじめのターゲットとなったんですか? それとも、意思とは関係なく、そのように体が動いてしまうんでしょうか?」

「日本におけるアンディ―、レナのつかわれ方について、なにか思うところはありますか?」

「具体的には、どのようないじめを受けていたんでしょうか? 使命のためとはいえ、苦しかったのでは?」

 ……あまりに不躾な、衣空に対してなされたという質問の数々を聞いて頭が痛くなる。

 いったい、どこから嗅ぎつけたのだろう。そう考えてから、騒ぎを起こしたのも、それを煽って大きくしたのも自分だということに気付いた。……ぼくのせいだ。あのスレッドは、学校側によって削除される前に、キャッシュを取られていたらしい。

 ぼくはその場できびすを返して、部室まで走った。衣空がそこに逃げ込んだと、なぜか確信していた。


 息を切らしながら、部室の扉の前で肩を上下させる。あんなに、自分がレナであるかどうかを気にしていた衣空が、報道陣に囲まれて、あんな不躾な質問をされたら。……精神医学の教科書に乗りかねない重大な事例だ。

 ぜんぶぼくのせいだ。ぼくが余計なことをしたせいだ。簡単に予測できてしかるべきだった。重大な失敗を前に、なにより自分が信じられなかった。

 それでも意を決して扉を開けた。信じられないほど、ドアが重かった。胸を押しつぶされるような感覚はしかし、すぐにもっとリアルな感覚によって上書きされた。

 悪臭、だった。

 足を踏み入れるのを一瞬ためらった。部屋の壁に衣空がもたれている。悪臭の原因は、嘔吐と失禁だった。彼女の周りを守るように散らばる色とりどりのCDの山が、まるで棺桶に入れられる花のようだった。

 徴候は、あった。彼女のあこがれる時代の音楽は、常にドラッグカルチャーと共にあった。

 「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のあの奇抜な、常識はずれのサウンドは、ジョンがLSDをキメながら作ったものだ。

 震える手を押さえつけて、冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、周囲を観察する。転がった注射針と、空いた錠剤のケースがいくつか。パッケージのラベルを読む。ぼくの知識が間違っていなければ、MDMAだ。

 壁にもたれた衣空を横にして、シャツのボタンを外す。顎を上に向けて、喉に指を突っ込む。吐しゃ物を掘るようにしてかきだす。喉を刺激されたからか、衣空みずからがえずいた。

 なぜ、衣空がもう音楽を聴く気がなくなった、と言いながらも、なんども物理市P. M.に行っていたのか。さいきん、部室に来ずに、物理市P. M.に行っていたのはなぜか。

 物理市P. M.では、ネットじゃ買えないものならなんでも売っている。。ドラッグ売買の基本は、最初は安く、中毒になると目の飛び出すような高価で売りつけること。衣空は、何度も何度も繰り返し物理市P. M.に出向いては、その都度、別のバイヤーから、初回の値段でドラッグを買い集めたに違いない。だから、錠剤だったり、注射剤だったり、形の上で、そして純度や混ぜ物にもヴァリエーションがあるのだ。

 最近、部室から衣空が回収したCD、全部ネットのオークションでは高い値段の付くものばかりだ。売って得た資金で、幻覚剤を買ったんだろうか?

 呼吸がごく弱い。ドアを飛び出して、この階のAEDを取りに走ろうとした。

 ――だが。AEDは使えない。使ったら、ここの場所が、救急に通報されてしまう。

 そうなったら、いま校内に残っている記者連中はどうなる? 女子高校生、学校でオーバードーズ? 見出しの記事が脳裏にすぐに浮かんだ。

 しょうがない、生涯で一度だけ授業で経験した、人工マッサージをほどこす。

――Wake up, little Susie, wake up

  Wake up, little Susie, wake up

 ……「ウェイク・アップ・リトル・スージー」。ノリのいいサウンドで馬鹿な歌詞を連ねるだけのこの曲は、BPMが100の、実に心臓マッサージに向いた曲だった。陽気な歌詞を口ずさみながら、マッサージを続ける。

 特に、「明日に架ける橋」はドラッグとのかかわりが疑われた歌だった。その歌詞は、深く人生に悩み、人間関係も、社会生活もうまくいかなくなったとしても、「私」がそばにいて助けてあげるよ、というものだ。人間関係や、社会生活の苦難を、荒波にたとえて、「私」は橋に例えられる。第三連からは、唐突に、その橋を渡ったあとの情景が描かれる。一転して、輝いて見える世界。これは、ドラッグが見せる幻覚を表しているとされた。

 腕が棒になるくらい人工マッサージを繰り返すと、衣空の息が弱弱しく吹き返した。安堵で、腰を抜かしてしまう。これで、すぐ死に至ることはないだろう。だが、病院に連れて行かなくては。

 衣空にいっしょに逃げ出そう、と提案したとき、彼女がそれを断ったのは、理性が残っていたからでも、ここでやり直そうと決めていたからでもない。この世界から、ドラッグの助けを得て逃げ出すと、もうあのときには決めていたからだ。

 もちろん、歌詞を担当したサイモンは、この説を真っ向から否定している。『明日に架ける橋』はドラッグソングではない、と。

 衣空に回復体位を取らせると、忘れていた悪臭が鼻をついた。吐しゃ物の、そして脱糞、失禁の臭い。吐き気を催したぼくは、そのまま部室の床にぶちまけてしまう。

 ああ、衣空がなんで自動翻訳を禁じていたのか、いまさらになってわかった。すべてがいまさら、いまさらだ。

 自動翻訳機が、「Sail on, Silver girl, sail on by」をどう訳したか、おわかりだろうか?

「漕ぎ出せ、銀の少女よ。漕ぎ出して行け」

 そんなわけないだろう。まったく違う。

 歌詞の意味は、自動翻訳に頼ってちゃわからない。『明日に架ける橋』のなかでももっとも謎めいた名詞、“Silver girl”は、極めてマイナーな、ジャンキーしか使わないようなスラングなのだ。だから、衣空は。

 衣空の〈紙背〉が、彼女の服のポケットから転がり落ちていた。それをなにげなく拾うと、ぼうっと発光してディスプレイに、薬物中毒で衣空が気絶するまで操作していたであろう画面が表示される。

 文書ファイルだった。

「これを読んでいるのはおそらく守柄先輩でしょう。そうでないなら、恥ずかしいので、すぐに読むのをやめてください。

 さて、いまわたしはMDMAをキメて、ラリっているところでしょうか? それとも、量を誤って死んでしまったのでしょうか。なにぶん、かれらが初心者向けに配る錠剤は、成分の含有率が低いとは聞くものの、実際にはどれくらい質が悪いのか分らないので、念のために多く呑み過ぎてしまったかもしれません。

 効きはじめるまでに十五~三〇分はかかると聞いていましたが、なんだか、すでに視界が歪んできたようです。よかった」

 ……衣空は、ただ現実逃避のためにドラッグに手を染めたのではない。

 ドラッグは、人間とロボットを峻別するのに、なのだ。実際に。

 急性中毒を起こすほどの量の薬物を摂取したロボットは、すぐに全機能を停止する。逆に言えば、ドラッグが効果を及ぼすのならば、それは人間でしかありえない。

「ばか……ばかじゃないのか」

 あんなに人工知能の仕組みを理解するのを嫌がったくせに、なんでそういう機能の穴みたいなところだけは小賢しく利用するすべを思いつくんだ。

 衣空は、自分が人間であるかどうかを確かめるために、これだけの量のMDMAを服用したのだ。

「先輩は、わたしがレナでもなんでも関係ないと言ってくれましたね。でも、わたしにとっては関係が大ありなのです。もしわたしがレナだったとしたら、わたしがこうして先輩のことを好きだと思う気持ちが、この世のどこにも存在しないことになってしまうのです。

 もちろん、わたしのなかにそういった気持ちが存在することを、わたし自身は否定しようもなく実感として思っているのです。ですが、そう思うことさえも、『そう思うように』プログラミングされた結果だとしたら、それは『そう思っていない』のと同じじゃないですか? わたしがばかだから、誤解していたのかもしれませんが。でも、どうやら、よろこばしいことに

わたしは人間のようです。だから、いまはうれしくて心の中でなんどもなんども繰り返しています。愛していますよ、守柄先輩。愛しています。ねえ、ほんとうなんですよ。この前、カラオケ行ったり、すっごく楽しかったんですよ。だから、もう大丈夫なんです。未練なんてないんですよ。ちゃんと確かめる勇気が出たんです。愛しています。先輩」

 ……ここまで打ち込んで衣空は気を失ったらしい。

 いまならわかる。彼女がなぜ、プリクラに「I am a Skala, I am an Isola」と書いたのか。Isolaは、イタリア語で、《島》という意味だ。そして、Скала(skala)は、ロシア語で、《岩》。アドレスを交換した時に、衣空が親近感が湧く、と言ったわけ。衣空が、「わたしはけして泣かない」と言ったわけ。

 なんでそんなことまで知ってるんだ。目の前でぐったりと横たわる衣空に文句を言いたくなった。でも、彼女はぼくがそのことを知っていると思ったに違いない。「どの曲が一番嫌いでしたか?」「アイ・アム・ア・ロックかな」。こう答えたことをはっきり覚えている。

 さて、衣空をどうするか、だ。どうすれば、あのマスコミ連中に知られずに、救急を呼ぶことができる?

 突然、ぼくの目が衣空の右手にまだ握られた、未使用の注射針に吸い寄せられた。

 衣空は、ロボットじゃない。それはいい。だが、ぼくは?

 ちょっと待ってくれ、いくらなんでもそれはないだろう。だが、笑い飛ばせないのも事実だった。

 自分が浅い呼吸を繰り返しているのを、遠くから聞くようだった。

 だいたい、 こんな根本的な問いですら、いま初めて思いついた。はじめてだ。ぼくの自宅に、両親はいるのか? なんで、仮病で何日も学校を休めたんだ? 親に文句の一つも言われずに?

 じゃあ待てよ、このぼくの頭に残ってる記憶はなんだ、そう思ってから衝撃的な事実に気付く。ぼくに、高校に入る前の記憶なんてない。記憶にないことを不思議に思ったこともなければ、意識したこともなかった。なぜだ?

 すこしは人工知能の勉強をしていたぼくは、すぐに検討がついた。人に過去を訊かれたことがないからだ。人に過去を訊かれれば、不自然にならないような回答をぼくは返しただろうし、それがぼくの持つ過去となったはずだ。両親についても、問われたらはじめて、死別したとかなんとかの理屈付けをしたのだろう。

 じゃあ、ぼくがあそこまでは?

 まさか、人間の手によって、ロボットは自己複製を禁じるようなプログラムが元から仕組まれている――自分と同じレベルのロボットを作ることのできるロボットは存在しないっていう都市伝説は、ほんとうだったのか?

 じゃあ、いまこの手記を書いているぼくは、一体何をいるんだ?

 四つん這いになって横たわる衣空に近づく。震える両手で、聖なるものを扱うかのように、衣空の右手から注射器を奪い取る。

 守柄、じつにいい名前じゃないか。Скала、いかにも、ぼくの頭に入っているであろう。シリコン、ケイ素。半導体素子。

 もしぼくがアンディーだったなら、好都合だ。ドラッグでシステムが落ちる前に、エラーメッセージと救護要請を近くの医療機関に発信できるだろう。その際に、マスコミがいるから注意しろ、との添え書きをすることができるだろう。たぶん。発信! 今まで、そんなことを意識してやったことなんかなかった。当たり前だ。ふつうの人間がしない行為をするようなアンディーはいない。でも、やるしかない。はじめてでも、成功させるしかない。

 人間だったらそれはそれでもいいんだ。いや、むしろそうだろう。ちょっと今は混乱していて、記憶が、脳の働きがおかしくなっているだけで。ごめんなさい、お母さん。忘れたりなんかして。

 衣空、いま行くよ。きみだけをさきに行かせておくわけにはいかないよね。待たせて悪かった。気付いてやれなくてごめん。

 窓からは、高さを抑えられた建物にさえぎられることなく、夕方の低い日差しですら入ってくる。

 握った注射器を左腕の静脈にあてる。注射針、先端、銀色の。

 Silver girlは、きらりと輝いた。





――That's cool but if my friends ask where you are I'm gonna say

  That's cool but if my friends ask where you are I'm gonna say

(ああ、いいぜ。でも、もしきみがどこに行ったか聞かれたら、ぼくはこう答えてやる)

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an Isolated Bazooka. 田村らさ @Tamula_Rasa

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