10章
衣空の目は赤かった。
いやな予感がしていた。そして、自慢じゃないが、ぼくのいやな予感は当たる。
その日は六限が体育で、ぼくも疲れていたらしい。部室棟の四階の隅にぼくの部室はあるのだが、どうやら階数を間違えて、三階をうろついていた。四階に文化部の部室が収まっているのに対して、三階は体育会系の部室が多い。だから、着替えとかの関係で、放課後すぐ、二十分くらいの間は人が多いのだが、そのあとは部活の活動限界時刻、下校時間まで、しばらく人気がほとんどなくなってしまう。だから、電気の消えた廊下を歩きながら、階を間違えたことに気付いたのだ。それで、階段のところまで戻ろうとしていたときだった。
ガラの悪そうな男子学生が、女子学生を連れて歩いていた。憤っているらしく、大声で罵倒語をしきりに繰り返していた。
すれ違いざまに、睨まれたような気がした。被害妄想なのかもしれない。それでも、体格からして別の生き物としか思えないかれらは、道を譲るということをしない。かれらの脇を体を横にするようにしてすり抜けてから、ぼくの足は次第に早まり、最後には半分駆け足のような速度で、四階の部室まで急いだ。
部屋に入ると、ちゃんと、衣空がいた。ヘッドフォンを深くかぶり、しかし、プレイヤーの電源はついていない。ドアを閉めるのも忘れて、体が強ばる。絶対よくない。
衣空のヘッドフォンを外した。強引に外そうとして、床に落ちる。反応がない。手首を取って、できるだけ敵意のない声を装って話しかける。「……ねえ、なにかあったでしょ」
まるで、ぼくが部屋に入ってきたことに今気付いたかのように、ゆっくりと――昔の映画に出てくる機械のロボットのように――衣空は振り向く。
何度か口を開け閉めして、踏ん切りをつけるかのように、肩を震わす衣空を眺めていた。シャツのボタンが、何個か取れているのが見えた。
「……服」
ほんとうに聞こえるか聞こえないか、そのくらいの小さな声で衣空は言った。「服、脱がされそうになったんです」
ぼくは、衣空の手首から手を離した。ああ、悪い予想が、当たる。
せきを切ったように衣空の口が回り出す。
「今まで、表だっていじめてくるのは女の子ばっかりだったのに、なんか今日は男が混じってるからおかしいな、とは思ったんです」聞きたくない。耳をふさごうかとすら思うが、体の横に垂れ下がった手が動かない。「ど、どうやらみんなあの掲示板を見たらしくて、ですね。どうせ毎晩あんなことしてるんだったら、っていう理屈らしくて、い、意味がわかんないです」
囲まれて、四方から伸びてくる手。嫌がる衣空を、少女たちが押さえつける。不躾な、遠慮のない、持ち主の見えない手が彼女の体を撫ぜ、掴み、殴打する。
「反抗されると思ってなかったんでしょうね、隙をついて、その時持ってた鞄を振り回して、逃げてきたんです。……どうしましょう、鞄、置いてきちゃいました」
そんなもの、あとでいくらでも取ってきてやるから。
「わけわかんない……あのスレッドはもう消えたはずなのに。今まで、ここまで目立って犯罪みたいなことはしなかったのに」
いじめっ子について、共感力があればいじめなんてできないはずだ、と言う人がいる。間違いだ。かれらの共感力は人一倍高い。同じグループの中の人間に対して、であれば。
共感が生まれるのは、プロトコルを共有するものに対してのみである。だから、異質なものとして線引きした人間に対しては、共感を示すことは一切許されない。
エイリアンの痛みを想像するヒーローはいない。
アメリカ小説だったら、ここで衣空を強く抱きしめてやるんだろう。でも、そんなことはできなかった。ぼくは男で、五体満足で、教室の中に居場所があって、家も裕福で、成績も悪くなかったから。ぼくに触れられたら、衣空はもう取り返しがつかなくなるほど汚れてしまう気がした。
「鍵のついた下着を買わないとダメですかね。ば、ばかばかしいですよ。ナノテクノロジーがこんなに発達したのに、造るものがレイプ防止アンダーウェアですか? どうなってんですか、人間って」
こころは進化しない。人間に追加パッチはない。
「……先輩にこんなこと言ってもしょうがないですけどね。先輩はなにも悪くないのに、罪悪感とか不快感を押し付けて、わたしにそんな権利なんてないのに」
「ち、ちがっ……そんなこと、」
「どうしたらいいんですか、一人じゃ抱えてられないからって、人におしつけられるほど、わたしは偉い人間なんですか? わたしは、なにを支払えば、先輩に――みんなに助けてもらえるんですか?」
衣空は突然立ち上がると、ぼくのほうに一瞥もくれずに部屋を退出しようとした。「……ごめんなさい。ここに逃げ込むのがあの人たちに見られてたら、先輩にも迷惑かけることになります。あの、なにか言われたら、部室に鍵をかけ忘れて勝手に入られた、ってことにしていいですから。もう、二度と会いにはきませんから、安心してください」
そんな、待ってくれ。追いかけようとしたぼくの脚に、地面に落ちたヘッドフォンのコードが絡まった。バランスを崩して、顔を地面に強打する。
鼻血を垂らしながら、歯の付け根がぐらぐらする気色の悪さに耐えながら立ち上がると、もう彼女の姿はなかった。
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