9章

 家に帰ると真っ先に、〈紙背〉を大きめのディスプレイに接続して、動画作成の準備をした。

 ぼくはぼくで、衣空を助ける方法があるはずだ。彼女の力になる理由を捻り出せたわけじゃない。それでも、衣空が見せたあの無表情が夢に出てくるのは嫌だった。

 件の掲示板には、まだあのスレッドが残っていた。すでに新規レスは落ち着いていて、ほっとけばもう話題にはならないような気がした。でも、このまま過去ログ落ちさせたら、キャッシュがサーバーにサルベージされてしまう。スレッドを立てた人間に、このスレを消させるしかなかった。

 かといって、いきり立って人権侵害だの、通報しましただの、そういうことを書き込むのは意味がない。それじゃ解決にならないのだ。

 では、どうするか。

 例のコラージュ写真をダウンロードする。……吐き気がするような画像だが、これをいまから何時間も見ることになる。

 よくできたコラージュだ。ほんとうに、衣空の顔と首から下の女性の体とが、ほとんどシームレスにつながっているように見える。衣空の表情は、ぼくの見たことのないような笑顔で、ぎゅうっと胸が締め付けられる。どこから持ってきた写真なんだろう。

 さて――圧縮方式には、可逆と不可逆の二種類がある。ところで、不可逆というのは、取り返しがつかない、という意味だ。いまでもインターネット上の画像のやりとりでデファクトスタンダードの位置を占める.jpgはこの不可逆圧縮方式を取っている。

 不可逆圧縮方式は、情報量を抑えることは得意だが、劣化に弱いという特徴がある。つまり、どういうことかというと、エディタで開いて上書き保存を繰り返すだけで、イメージ自体をひとつも編集していなくとも、劣化が進んでいくのだ。

 もちろん、一回や二回では人間の目で気付けるような変化にはならない。だが、百回、二百回と繰り返せば、画像の上を一面ノイズが覆うこととなる。

 .jpgの圧縮原理を説明はしないが、圧縮の際に画面をブロック単位で区切るため、連続していない部分は特に劣化が激しくなるのだ。つまり、今回の場合で言うと、衣空の首。

 動画をキャプチャしながら、ぼくのデスクトップ上で衣空はなんども上書きを繰り返される。その度に、汚く、崩れていく彼女。笑顔にゴミが乗って、首はノイズで切断される。

 ……。

 もういいだろう。こんなものでみんな納得するだろう。この画像がまぎれもなくコラージュであることを。

 最初から衣空が本当にこんなことをしていると思ってみている人はひとりもいないだろう。でも、こうやってそれが嘘であることを、証拠と一緒に示してやって、それでもそれをネタにすることのできる人は少ない。暗黙の嘘は、明るみに出してやるだけで崩れ去る。

 もちろん、簡単に光源の矛盾を指摘したり、周波数分析にかけてやることもできた。でも、こんな掲示板を見てる馬鹿にも視覚的にわからせるには、こういう動画が一番だと思ったのだ。

 ……いや、そうじゃないんだろう。たぶん、ぼくのこの手で、衣空のゆがめられた像を破壊してやりたかっただけなのかもしれない。動画を適当に編集して、キャプションを付けて、「はいコラ確定。解散」とかなんとかコメントを付けて、その掲示板にレスをした。

 ほう、とため息をついた。椅子の背にもたれかかって、眉の間を指で揉む。

 さすがにこのレスを、衣空に対する擁護だと思うものはいないだろう。だから、もし試みが上手くいかなかったとしても、逆効果にはならないはずだ。

 そう自分に言い聞かせても、心臓はどくどくと打っていた。ぼくはいまとんでもないことをやらかしてしまったのではなかろうか。この行動がもし想像もつかない裏目に出たらどうする?

 ただ、長時間の操作で疲れた脳は、ベッドに倒れ伏すとすぐに眠り込んだ。

 夢は見なかった。ただ、衣空のコラージュが網膜にこびりついて落ちないだけだった。


 次の日の放課後、部室に入ったぼくが真っ先に確認すると、件のスレッドは投稿者によって削除されていた。

 達成感みたいなものはなかった。当然かもしれない。なにも成し遂げていないんだし。でも、安堵が体を足元から震わせて、やっと自分が異常な精神状態に置かれていたことを知った。大それた、そうとしか言いようがない作戦は、だが、成功したらしい。

「ね、守柄先輩があれやったんですか」

 いつも通り、遅れて部室に入ってきた衣空にそう聞かれて、ぼくは練習したとおりにとぼける。「なんのこと?」

 口をぱくぱくさせて、衣空は、「……じゃあいいです」

 予想外に聞き出してこようとしないので、かえって拍子抜けしてしまった。が、それでいいのなら、それでいいのだ。

 でも、衣空は機嫌がいいらしくて、その日ぼくははじめて彼女の歌を聴いた。と、いっても、鼻歌と半分半分くらいのものだが。

 歌っていたのは、ビートルズだった。「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」。

――I think, er No, I mean, er Yes but it's all wrong.

 あんまり心地よさそうに陶酔して歌っているので、彼女がぼくの視線に気づいたのは、アウトロの、ジョンの謎めいたフレーズまできっちり歌い終わった後だった。クランベリーソース。クランベリーソース。「……あ、ごめんなさい。キモかったですか」

 顔をちょっと赤らめている。「ぼくもけっこう音楽聴きながら歌っちゃう方だから気にしてなかったけど。でも、歌ってるのはじめて聴いた」

「自分の部屋と勘違いしちゃったんですかね……。なんか、目に入るいたるところにCDが積んであって、この部室が自室とあんまり変わらない光景になっちゃったんですよね」

「そろそろ片づけてほしいんだけどな……」

 机の上に山積みにされたCDケースは、いまにも崩れそうだった。

「そういえば、衣空はなんでレコードで音楽を聴いたりしないの?」

 ぼくも衣空と出会ってから、少しは昔の音楽について勉強したりもした。だから、彼女が好んで聞く、二十世紀の音楽が、本来はレコードで聴かれていたということも当然知っている。「んー……まずもってめんどくさいし……。それに、レコードとCDで音質が根本的に違う、っていうのは、ほんとなんですけど……、二、二〇〇〇ヘルツ以上の高周波の存在であたたかみが増すとか、都市伝説じゃないんですか、さすがに」

 楽しそうにレトロな音源について語る衣空を見てると、なんだか満足げな気分になってきた。削除されたスレッドの跡地を見たときには湧かなかった達成感が、いまごろになって。

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