8章
衣空の肩から振り払われた手のやりどころがわからず、じっとテーブルの木目を見ている彼女を見下ろす形で、数秒のあいだ、ぼくは体をこわばらせていた。
「……それで、ぼくにこれを見せてどうしようと思ったの」
今まで、一度も衣空の側から相談めいたことをされることがなかっただけに、どうすればいいのか、判断に困っていた。
「先輩が、自分でこのコラージュ画像のことを知ったら、たぶん見たことすら隠そうとして、なんでもなかったように振る舞うじゃないですか。それがやだったんですよ。誤解されても困るし」
先輩が一度わたしのいじめられているところを見てたの、ほんとは知ってたんですよ。と打ち明けられる。
「正直、もうそろそろ嫌気がさしてるんじゃないですか?」
くたびれた表情で衣空はそう言った。ぼくたちの会話の雰囲気にも、怪訝な顔一つすることなく、店員は衣空の注文のぶんを給仕した。ストローの先で衣空は氷をもてあそぶ。
「だって、わたしみたいに味噌のついた女の相手するくらいだったら、世の中もっとまともな子がいっぱいいますし。ここで見捨てるのも気が引ける、くらいの惰性できょうもわざわざ呼び出しに応じてくれたんでしょ?」
……強く否定はできない。少なくとも、そんなことはない、と言ってあげられるだけの正当性は自分の中になかった。むろん、素朴な庇護感情がないわけではないけど……、それを認めたら、衣空を、まるで保護の必要がある二級市民であると立場で示すことになりかねない気がして嫌だったし、今までぼくの横を通り過ぎてきた、数々のいじめられっ子に手を差し伸べなかったぼくが、今さらなんでそんなことができる? 偶然衣空がぼくの部室に逃げ込んできて、交流を持つようになったから? それとも――ぼくが若い男で、衣空が若い女の子だから?
世の中は簡単なボーイミーツガールでできちゃいない。やさしさを示すのにも理由……言い訳が必要になる。
ぼくがたぶん一番欲しているのは、衣空が助けてくれ、と声をあげてくれることだ。ぼくになにができるわけでもないが、それでも、衣空の味方をする理由ができる。
「ねえ、衣空。もうこれは、ほとんど刑事事件だよ。……警察なりなんなりに行ったほうがいい」
逃げるような言葉だけならすぐに出てくる。自分のあまりの情けなさに、手から汗がにじみだしてきた。
「そうかもしれませんね。警察に行って、このエロ画像を消してもらって、プロバイダから投稿者を突き止めてもらって。若者のトラブルだから厳重注意。一回くらい全校集会がそのあとにあるかもしれませんね。それでおしまいですよ。あの子たちはそのまま学校に居座り続けて、いじめは終わるかもしれませんが、その過程であのコラージュはみんなの目に触れて、下世話な関心が集まって、わたしはずっと後ろ指をさされ続けて。なんの解決にもならないでしょう」
「……」
そんなことは……わかってるけど。
「インターネットに流れたんですよ。いまはまだ学内ネットワークだけですけど、もう男子生徒の何人かはあの画像を保存して使ったでしょうし、そのうちパブリックなネットワークに流れて、将来わたしが就職活動するときとかに、名前で検索されたらあの画像が出てくるのかもしれませんよ」
もう終わったんです。すでにとっくに取り返しがつかなくなってるんです。衣空はテレビに映る悲劇に感情移入するかのような口調で言い放った。
「たぶん先輩は、助けてくれって言ってほしいんでしょう。……わたしだって助けてほしいですよ。でも、根本的に無理なことを人にお願いするほどわたしは身の程知らずじゃありません」
現実はコミックじゃないのだ。いじめられっ子でも分け隔てなく接してくれるイケメンに恋人にしてもらうことで、クラスの雰囲気が変わったりはしない。社会常識を無視した冷徹な教師が、いじめっ子にいじめられる苦しみを味わわせたりはしない。熱血漢によって、いじめられっ子のいいところが見出されて、クラスに溶け込んだりはしない(そもそも、いいところがなければ人権がないとでもいうつもりだろうか?)。そして簡単に人は夜の校舎の屋上から飛び降りたりしない。
衣空は肌でそれを知っているからこそ、全面的な解決などという虚構を目指さない。彼女はたぶん、やりすごす気でいるのだ。そして、せめてその支えになってくれないかと、ぼくのほうに遠慮がちな目線を向けている。
「それでもうれしいんですよ。先輩がわたしと会ってくれるだけで。内心でどれだけ疎まれてようと、それを表に出そうとしないでいてくれることですらものすごくうれしくなれるんです」
あー、とさすがに恥ずかしそうに顔の前で衣空は手を振る。「……今のはなしで」
ぼくは、ソファに深く体を沈み込ませて、目をつぶった。「また、そうやって衣空は人の内面を予想するよね。もし、ぼくが理由もなく、こころから本当に、衣空の味方でありたいと思ってたらどうするの」
「そしたらもっとうれしいだけです。……でも、先輩はそういう卑怯な人じゃないと思ってますから」
衣空はその場で軽く伸びをする。「ねえ、つまんない話しちゃいましたね。わたし、このあとCD見に行くんですけど、先輩もきますか? というか、きてくださいよ」
すこし唐突なくらい、不自然に衣空は会話の流れを断ち切った。もう、続けてくれるな、そういうことなんだろう。
正直なところ、衣空ほどCD媒体に愛着は湧いていなかった。結局、聴きたい音楽があればインターネットで購入すればいいし、衣空が言うような、過去環境での再生というのも、じつはネットで検索すればいくらでもそれを再現するツールや録音があるし。衣空も知らないわけではないんだろうけど。
それでも、ついて行くことにした。たぶん、こんなことになる前と、全く変わらない衣空が見られるのは、趣味を楽しんでいるときだけだから。
衣空のいいところは、黙っておごられてくれるところだった。いや、なにも男として度量が広いところを見せてやりたかったとか、安っぽい憐憫だとか、そういう理由でしたわけではない。衣空に、自分は対価を払わずとも、ものをおごってもらえるだけの――その程度の親切を享受する価値のある存在だとわからせたかったのかもしれない。
もっとも、壊れた衣空の自尊心が、ぼくの行動をどこまで素直に受け入れたのかはわからない。でも、ぼくがなにを意図しているのかくらいには気づいているのだろう。それを彼女がどう消化するかはともかくとして。
喫茶店から数百メートル、路地を何度も乗り換えて彼女の行きつけるCDショップまで歩く。慣れた様子で、環境ナノマシンが分解しきれなかったゴミを当座のあいだ入れているポリバケツや、どうみても衛生環境に問題がありそうな屋台が椅子として使うビールケースを避けながら歩いていく衣空に、ぼくはついていくだけで精いっぱいだった。
ぼくや衣空のように、ちゃんとした都市に住む人間にとっては
服装のトレンドからしてすこしぼくらとはちがう
CDショップの前で衣空が足を止めた。
「もうここに何十万クレジットも注いだ気がします……」衣空はなぜかちょっと誇らしげに自虐の言葉をつぶやいた。
ワゴンに大量に刺さったCDケースの存在感に圧倒される。数十センチメートル四方の空間に、これだけの小さな、さまざまな書体のアルファベットが並ぶ光景というのを、はじめて見たからかもしれない。
衣空はそれだけの情報量を瞬時に選別できるらしく、そこにざっと軽く目を通すと何枚か興味なさげにCDをつまみあげるとそのままワゴンの横を通り過ぎて、店内に入った。
店内は薄暗く、狭く、棚は高く、圧迫してくる。ぼくはといえば、こういう個人商店に入るという経験自体がまれなので、どことなく居心地の悪さを感じていた。昔の人間は買い物をするたびにこんな感覚を味わっていたのか。
「う、げ……一万八千……」
すっかりジャケットの背が焼けてほとんど文字の読めなくなった一枚のアルバムを衣空は手に取ると、値段を確認して呻いた。
「え、外のワゴンは一〇〇クレジット均一だったのに?」
中古のCDなのに、なんでそんなに値段の差があるんだろう。というか、定価より高いのではないだろうか。一万八千クレジットあれば、すこし高級なディナー二人分くらいにはなる。
「うん、内容はぶっちゃけネットに音源が落ちてるんですけど……。有名なアルバムですからね。でも、このCDは実は初版プレスだけライナーノーツがちがってて、ほら、見てくださいよ」
そういってケースを開けて、見せてくれたところには、なにやらプロポーズめいた文言が。思わず衣空の顔を見てしまう。
「ね? 実はこれ、このバンドのボーカルが奥さんにプロポーズするときに使ったんです。当時そのバンドのファンだった奥さんは、当然この初版プレスを発売日に買って、この四曲目のライナーノーツを見て、すぐに電話でオーケーの返事をしたんだとか。だから、初版の四千枚は、このバンドのファンなら絶対に欲しがるので、こんな値段になるわけ」
といっても、一万八千……。ただの他人のプロポーズの言葉をでばがめするために一万八千というのは。
「だって、そのライナーノーツの文章自体も検索すればすぐみられるんじゃないの?」
「まあ、それはそうなんですけど……先輩、ひょっとして所有欲とかないんですか?」
どっちかというと独占欲の方が強いとおもう。とは言わなかったけど。
衣空はけっきょくその一枚は買わず、一〇〇クレジット均一のものを何枚か清算して外に出た。
「買い物、長いのかと思ったけど、意外とすぐ終わるんだね」
「まあ、そうそう新入荷があるわけでもないですし。それに」衣空は足元のゴミ袋をわざとらしく蹴飛ばす。ローファーにごみが付くからやめてほしいな、とか思った。「どうせ最近はCD買ってもろくに聞いてませんから」
「なんで?」
「単純に、まだ聴いてないのがいっぱいあるからですよ。一枚聴くのに数十分かかるのに、一日に三枚増えてたら、時間がいくらあっても消化しきれないです。それに、知ってる曲を気分に合わせて聴きたい時の方が多いですし」
ずいぶんバカバカしい話のように思えた。「もうそれ、買うのが楽しみになってるんじゃないの」
「当たらずとも遠からずです。しかも、なんか最近はそろそろ音楽とか聴く気すらなくなってて……」
衣空の歩みが遅くなる。
「なんか、ばからしい感じがして。好きな曲が見つかったらうれしいですけど、うれしくなったところで、だからなにって思うようになっちゃったんですね」
先輩はそういうことってないですか? と振り返って無表情に聞かれる。「ぼくは……あんまり趣味とかないから」
「そうですか……。なんかね、自分でも自尊心が低くなってるのはわかるんですけど、だからいま音楽聴いても逃避というか、埋め合わせにしかならない気がしてこわいんです」
うーん、よく表現できないですね。と首をかしげてみせる。
追い込まれて余裕がなくなったと言ってしまえばそれだけなんだろうけど、ちょっとやそっとじゃ共感できない喪失がある気がした。だからなに。うつろな目で衣空はそう言い放ったのだ。
「そういえば、部室にいるときは音楽聴く気分になるんですけどね……愚痴みたいになっちゃいましたけど、単純に飽きただけかもしれないし、あんま深く考えてないです」
もしかして心配しちゃいました、か。と軽く付け加えて訊かれる。ため息をついて誤魔化しておくと、興味を失くしたかのように衣空は早足でぼくから距離を取る。
駅が見えた。
高さで路線をわけたモノレール網が一つの駅に何路線も乗り入れるため、どうしてものっぽにならざるをえなかったのだ。駅の一階は大きな円形のホールになっていて、シャトルのように上の階とのあいだを一日に何度も往復するエレベーターが壁一面を丸く取り囲んでいる。
「先輩ってどこ住んでるんですか?」
東中野のあたり、と答えると、じゃあ路線が違うので、と言って衣空はエレベーターホールの人ごみの中に消えて行った。未練なく去る衣空の後姿をみて、ぼくも自分の乗る電車が来る階に行くエレベーターに乗った。
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