4章
衣空は、いつも四時になる直前くらいに部室にやってきた。はじめのうちは用事でも済ませてからくるのかな、くらいにしか思っていなかったけど、すぐにわかった。一回帰るふりをしておかないと、うちの部室があるサークル棟に、いじめグループの人間を呼んでしまうからだ。
いつもちょっと困ったような顔で部室に入ってきては、ぼくをみるなり、知り合いにあったときに自然に出るあの軽い笑みをこぼす衣空からは、そんな配慮はみじんも感じられなかったけど。
別に衣空は部室に来て、とくになにをするわけでもない。勝手に持ち込んだCDとオーディオで、ひたすら音楽を聴いている。女の子がするにはずいぶんと武骨なデザインのヘッドフォンをついにうちの部室に常備するようになった。そして、人がいるのに沈黙している状況が苦手なぼくが水を向けてやると、たまにぽつぽつと自分の考えていることを述べてくれる。
「わたしがなんでいじめられるようになったか、知ってますか?」
あるとき衣空はぼくの物言いたげな視線に対して、ヘッドフォンを外すと、そう話題を振ってきた。なんとなく、そういう話題についてはタブーなのかと思っていて、衣空とそういう話をすることなんて一度も考えたことすらなかった。
「……知ら、ないけど。美貌が妬まれでもしたんじゃない」
いじめを行ってるグループのほとんどが女子生徒だということは知っていた。と、いうか、彼女の教室の前を通りすがったときに、一度だけ、現場を目にしてしまったことがあったのだ。
休み時間になると、競うようにして教室の外に出たその少女たちは、じゃんけんをする。最後まで負けた女の子がわざとらしく悔しがってみせる。まわりの女の子はそれを囃し立て、宣告する。「じゃあ、美咲、お得意のモノマネで佐伯さんを爆笑させてきてよ」
当の衣空は、といえば、教室の中でうつむいて、できるだけ時間をかけて教科書を鞄にしまい、次の教科の準備をしていて、聴こえないふりをしている。声高に騒がれていて、廊下で行われていることが聴こえてないはずがないのに。
宣告を受けた女の子は、教室に入って衣空の席に近づく。衣空の肩がこわばる。美咲、と呼ばれた少女はへつらうような笑みを浮かべて、教室の入り口でそれを見ているグループのほうに目線をやる。やっちゃいなって。口だけで少女たちは言う。
美咲という少女は、衣空の肩を叩く。衣空が、低い声で一言「……何」とだけ聴き返す。ぼくと会話しているときとは、まったく違う声色だった。少女はかろうじてそれとわかるような、レベルの低いモノマネをする。衣空が反応に困っていると、少女はすぐにグループの仲間と合流する。「ダメじゃん佐伯さんあんなんじゃ笑えないって」「きびしー!」グループの中でも立場の大きな女の子が、衣空に近寄って大きな声でこう言う。
「衣空ちゃん、あなた趣味がお笑いなんでしょ。だから美咲のギャグなんかじゃ笑えないんだよね。ねえ、わたしたちにお手本見せてよ」
どっと湧くグループの少女たち。ここまで無関心をとおしてきたクラスメイトですら、下世話な目線で衣空を見る。顔を真っ赤にさせた衣空は、助けを求めるようにまわりを見渡す。
だめだった。渡り廊下の死角からそれを眺めていたぼくは耐え切れなくなって、その場から逃げ出した。泣きそうにすらなっていた。こんなことを、休み時間の度に繰り返しているのか?
人間の自尊心が目の前で凌辱されるのを見るのは初めてだった。
そのシーンは考えから追い出そうとしても、ふとした瞬間に何度も何度も眼前によみがえり、ぼくを悩ませた。
だからこそ、衣空に話を振られたときも、できるだけ、いじめには詳しくなさそうな、いかにも無知なばかに思えるような回答をしてしまったのかもしれない。
「え、守柄先輩そういう冗談言えるんですか?」
ほら、茶化すようなことを言っても怒らない。正解の選択肢を選んだんだ。ぼくはこのころになると、衣空と会話する、というのがどういうことなのかつかみかけていた。
「でも。ふつうの女子高生を褒めるときは〝かわいい〟って単語を使わなきゃだめですよ。それ以外は褒め言葉にならないんです」
「そうだったの? ……ごめん」
「べつに、謝らなくていいです。じつはちょっと気分がいいです」
教室の真ん中で辱められる衣空と、目の前でちょっと頬を染める衣空とが、オーバーラップする。
汚れている……。一瞬でもそう思った自分に、今度ばかりは心底嫌気がさした。……わかりやすく説明するならば、一度落とした飴を拾って、よく払ってもうゴミもついていません、衛生的ですと証明されて口に含んだとき、それでもあなたはどう思うだろうか。と、いうことだ。……人間性を消費財と考えるような、最低の行為だ。
ぼくがこの場で自殺したいとすら考えて、自己嫌悪にかられているとも知らずに、安らいだ顔をしている衣空は暢気につなげる。「あれ、かわいい、って言い直してくれないんですか」
からかってるつもりなのだろう。罪滅ぼしというわけではないけど、でもぼくは言いたくなった。「衣空はかわいいよ。だから妬まれちゃったんだろうね」
なんなんだろう。ため息がもれた。たぶん自分で自分を洗脳したいのだ。みなの前でいくら恥をかかされようと、それは衣空の美しさとはなんの関係もないのだ、と。自分は文句の付けどころのないヒューマニストで、傷ついた衣空の自尊心を、むしろ支えとなって立ち直らせてやるのだと。
まるで小説みたいなストーリーだ。失った自尊心や傷つけられたプライドが再生されることの崇高さを描くために損なわれるプライドならば、そんなものは崇高でもなんでもない。――屈託が過ぎるだろうか。目の前で懊悩する衣空はほんとうで、彼女に罪、責任がないのもほんとうで、支えとなってあげられるのがぼくだけというのも部分的にほんとうだというのに。
今度こそ衣空は真っ赤になって、「ば、ばかじゃないんですか、人が真剣に悩んでるのに、かわいいから妬まれたって、」お前が言えって言ったんだろ。
表面的にはふつうの高校生らしいやりとりを演じながら、心の奥底が冷えて動かなくなっていく。そうなりたくないのに。
「……ほんとは、半分わたしが悪いようなもんなんです。一か月半くらい前に、ぼーっと歩いてて、机にかけられた野々宮さんの鞄を落っことしちゃったことがあったんですね。で、その場で謝ればよかったんですけど、なんでかわかりませんけど、声が出なかったんですよ」
野々宮さんというのは、おそらくリーダー格の少女のことなのだろう。
「なんでなんでしょうね……謝らないで軽く流せるレベルのことなのか、そうじゃないのか、判断がつかなくなっちゃったんです、たぶん」
それに、野々宮さんが衣空の鞄をひっかけて落としてしまっていたとしたら、きっと謝らなかったはずだ。……おそらく、衣空が謝らなかった、謝れなかった理由はそこにある。
先にも言った理由で子どものコミュニティにいじめが起こるとして、当然誰が標的になるのか、という問題は残る。
そしてきっとそれは、半ば偶然で、半ば偶然ではない。
この短い付き合いで断定するのも危険だとは思うけど、衣空みたいな子は、もともとは自分のことがけっこう好きなんだろう。だから、最初からアイデンティティの形成にコミュニティの力を必要としなかったのだ。
衣空の自己愛は、けっこう言葉の端々から伝わってくる。いかに冗談として誤魔化していても、自分が他人に拒絶されることを本能として意識していない人間のセリフ回しを平然とする。もちろん、ふつうの状況ならば、それは大きな魅力となりうる。
だが、特殊な状況において、それはデメリットともなる。
これを出る杭は打たれる、なんていう古めかしいことわざで説明するのはいい加減にすぎる、というものだろう。
衣空は、自分の趣味を持っている。アナクロ音楽。いっぽう、流行りのドラマやらのメディアにはめっぽう疎い。衣空のアイデンティティが満たされるのは探していた中古のCDを偶然レコードショップの店頭で見つけることであって、昨日発売のマンガをいち早く読んで感想を共有することではないからだ。
衣空のような人間の存在は、いわゆる子どものコミュニティにとって大きな不安の種となる。まさか、自分たちがやっている、この反復された模倣というやり方は、非常に稚拙なのではないか? そう疑念を抱かせる。
そして、コミュニティはその異質な価値観を試す。承認を個人の内でフィードバックさせるそのやり方は、われわれのやり方より優れているのか? と。なんども言うように、衣空がコミュニティを(少なくともアイデンティティの依り代としては)必要としないのは、ひとえに彼女の早熟な――もしかしたら無根拠な――自己愛によるものだ。ならば、その自己愛を、自尊心を砕いてしまうのが、一番テストとしては簡単だ。
そして、人間を一人壊した後で、コミュニティはほくそえむ。なんだ、なんて脆い基盤の上に成り立つやり方なんだ、と。やはり、われわれの方策が正しいのだな、と。
あとは、ここに人間の根源的な攻撃性が付加されて、いじめというシチュエーションは形作られる。
もちろん今言ったようなケースばかりではないだろう。ありがちなのが、こういったスケープゴートを都合よく用意できなかった場合に、コミュニティ内に犠牲者を作るパターン。これは、理由なくランダムに犠牲者が選ばれ、そしてまるで受け持ちであるかのようにその役目は順番に誰もが果たしていくことになる。そして、全員がいかに自らのコミュニティのシステムが危ういものであるかを知り、そこからはみ出したときのことを身をもって知ることで、以後の裏切りが出ないようにする。
なんとも下らないシステムだ。だが、無駄がない。
「……ねえ、衣空。衣空はなんにも悪くないよ」
だから、ぼくは、モニタに注視してるふりをしながらそう言った。視界の端で、衣空が優しく肩をすくめるのが見えた。そんなことは、とっくに知っているんですよとでも言いたげに。
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