3章

 いじめられっ子というのはシチュエーションの一種で、パーソナリティの一部ではない。すくなくとも、最初のうちは。

 たとえば、なにか手に負えないほど性格のゆがんだ、攻撃的な人間がいじめを〝起こす〟と考えていないだろうか。クラスという社会に適合できない人間が、排除される過程で起こると考えていないだろうか。核家族で育てられたコミュニケーション能力の不足した子どもたちが成長過程で当然発生する摩擦を上手に処理できなかった結果だと考えていないだろうか。弱者を群れの中にわざと生み出して、かれらを捕食者の生贄に差しだすことで群れ全体の生存率を挙げようとする動物の本能の名残だと考えていないだろうか。

 おおむね間違いである。だが、おおむね部分的に、これらのフレーズは、いじめの形容に成功している。

 根本的ないじめの原因は人間のコミュニケーションの基本的なあり方に由来する。

 コミュニケーションのもっとも根幹をなすのは、〝模倣〟だ。送信した情報が、間違いなく伝わることがコミュニケーションでは基礎、前提となり、伝達にミスがなかったかどうかをもっとも効率的に判断するのが、模倣である。受け取ったパケットをそのまま打ち返すことで通信者相互の間に少なくとも齟齬がないことを確定させる。

 次は、プロトコルの確立だ。つまり、やり取りしたデータは、同一のやり方によって解釈されることが必要となる。このとき人間はプロトコルを宣言しない。なぜなら、自らのプロトコル――価値観と言い換えたらさすがに誤謬が過ぎるが――を公開することは、自らの弱みをさらけ出すのも同然だからである。このような状況下でどのように同一の儀典を確立するかというと、〝反復〟である。同様の情報に対して、なんどでも同じ反応を返す。このことによって、経験的に、演繹的に人はお互いのプロトコルをすり合わせていく。こういった手法で、明言することなく共有されたプロトコルは、第三者による傍受を受けるリスクが抑えられ、なおかつ、このようにしてプロトコルを共有したもの同士は仲間として認識されるため、敵対する状況はあまり考えずにすむ。

 難しいような話だが、簡単に言えばこういうことだ。「おはようございます」と言われれば、何度でも「おはようございます」と返す。会釈をされれば、何度でも会釈を返す。「おはようございます」と言われて、「なにがおはようございますだ、こっちは徹夜なんだよ殺すぞ」と返す人間とは、コミュニケーションの基礎を築くことはできない、ということ。敵意のなさは模倣と反復によって示される。

 さて、このようにして、コミュニケーションの準備が整えられる。察しのいい人ならもう気付いているかもしれないが、このようにしてミクロに形作られるネットワークは(人間の脳の器質的な問題で一定の方向性はあるとはいえ)、ランダムに違うプロトコルを採用することになる。首を縦に振るのがイエスである文化圏と、首を横に振るのがイエスである文化圏が発生しうるのだ。そう、ここに、原始的な〝異文化〟が発生する。

 コンピュータとちがって、人間は複数のプロトコルを使い分けることができない。会話の相手によって、価値観を変えることは不可能だ。

 ある程度ならば、すりあわせによってプロトコルを共通させたコミュニティを作ることができるだろう。だが、あるところで物理的な、精神的な断絶が生じて、〝異文化〟が発生する。プロトコルを共通しない〝異文化〟は、つまるところ、なにをするのかわからない相手であり、恐怖の対象となる。そして、すでに確立されたプロトコルは前述のように変え難く、そのためこの溝は永久に埋まることはない。

 いや……というよりも、異文化の存在こそが、模倣と反復による、慎重で、執拗なプロトコルの構築というやり方を人間に強いたのかもしれない。その因果関係は大した問題ではないけれども。

 前置きが長くて恐縮だ。さて、このようにして人間のコミュニケーションの始まりには異文化への恐怖があることは理解してもらえたと思う。このため、あらゆるコミュニティは、絶え間なくプロトコルの共有を確認することがその機能と目的の主な部分を占めることになる。そして、安心感を提供するわけだ。

 ミームめいた、せわしないスパンで小さな変化を繰り返すファッションの流行、三か月ごとに入れ替わるドラマ、アニメ、流行りのギャグ。同じものを見、同じ反応を返すことでコミュニティの参加員はテストを何度も何度も繰り返し合格していく。

 ところで。目に入るコミュニティすべてで、完全に同一のプロトコルが共有されたと仮定しよう。しかし、このコミュニティの構成員は、どのようにしてその共有が上手くいったと確信するのだろうか? あくまでも、暗黙のうちに交わされる儀典のやり取りは明確に言葉に出されることはなく、ならばあるコミュニティはそのネットワークのすべてのノードが健全であることを確信するのか。

 もちろん、異文化だ。それは唐王朝にとって朝鮮、渤海、倭であったし、冷戦期の合衆国にとってのアカであったし、ジョックにとってのギークであったし、若者にとっての老人であり、ブルーカラーにとってホワイトカラーであり、男にとって女であり、一年B組にとって佐伯衣空である。

 目に見えるところに差異としての〝外部〟がいてくれるからこそ、差異がない集団は同質であると定義できる。

 傍観者もいじめに加担しているとされるのはこういった理由がある。なにも、止めるような行動をとらなかったから彼らはいじめに加担しているとみなされるわけではなくて、あるコミュニティに属することそれ自体がいじめの原因になるのだ。

 学生の時代というのは、毎日同じ場所で、毎日同じ人間とのみコミュニケーションを取る。だからこそ、〝外部〟は、集団の〝内部〟に作られなければならない。こうしていじめは起きる。

 思春期というのは、個人のアイデンティティをグループに依存させやすい。アイデンティティはなにか価値のあるものによって自らの行いが認められることによって強化学習されるものであるが、その第二段階としては、帰属し、しかるべく振る舞うだけで承認を与える仲良しグループというものが当然ある(第一段階はもちろん家族だ)。こうして承認を与えられることで自己の評価が高まると、自己による自己の承認が十分に報酬となる。こうして、自らの承認を得ることで自らの評価を高める正のフィードバックが確立される過程ではじめて、その実現手段として人間は趣味を、生きがいを持つようになるのだ。これを俗に大人になる、という。

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