6章
ひさびさの
こんな場所に用事があるわけではなくて、後輩と待ち合わせをしているのだ。しかも、驚かないでほしい。相手は女の子だ。
半地下のカフェは照明を極端に絞っていて、滅菌された空気なんだけど、物理市のなかを複雑に経由した光が店内に差し込むと、すこしだけその猥雑な空気が混じるようだった。駅前から学校までの一本道の脇に並ぶチェーンの喫茶店くらいにしか入ったことのないぼくは、こういういかにもな〝個性〟を持つ空間をみると、すこし面食らってしまう。なんだって、いまどきBGMがオーケストラなんだろう? 今じゃもう木でできた楽器を演奏する人……というか、できる人なんてほとんどいないのに、音楽自体はしぶとく生き残っている。
土曜日の昼過ぎにも関わらず空席が目立つ店内で窓際の席に案内される。ちょっと落ち着かない気分だ。どうせ来週になればまた学校で会うというのに、なんだって彼女はぼくをわざわざ、週末に呼びだしたんだろう。
テーブルの表面に埋め込まれた端末に注文を入れると、そのディスプレイはすぐにテーブルの木目に溶け込んで判別がつかなくなった。彼女の指定する店なのだが、どうもコーヒーの味に自信あり、という形容が付くタイプの店のようで、紅茶派(というかコーヒーが飲めない)のぼくはむずかしい顔になる。
カラン。すすったコーヒーはやっぱり苦かった。店内のスピーカーが鐘の音を鳴らして、来客のあったことを告げる。
「ごめんなさい。わたしから呼んでおいて、遅れちゃって」
当世風の服装に、ヘッドフォンを合わせるそのファッションは、
店員の案内も待たずに、ぼくのいるテーブルまで慣れたふうにやってきた彼女にぼくは問いかけた。
「この店にはよく来るの?」
「はい。その、趣味の関係で
恥ずかしげに眼をそらして、でもちょっと誇らしげにそう語る衣空の趣味は、ちょっと時代錯誤的だ。聴きたい曲があればなんだってネットで入手できるところを、彼女は、CD時代の音楽にこだわっている。前にそう指摘したら、彼女はこう答えた。「ちがうんですって。ネットに転がってない昔の曲ってのがいっぱいあるんです」
「そうなの?」
「ええ。そういうのは、こういうとこで実物を見つけないと聴くことができないから」だそうだ。
こういうとこ、というのはもちろん
この渋谷には二店舗だけ中古のCDショップがあって、衣空はそこに通いつけているらしかった。
「っていうか、その、ふつうに学校の近くの喫茶店を使えないのは、あの子たちがいるかもしんないからで」
声のトーンを下げ、不機嫌そうにこぼす衣空。
「それで、今日ぼくを呼んだのは?」
衣空は眉根をよせる。
「あの、くれぐれも内密ですよ」
急に口調の温度が変わった彼女に合わせて、ぼくも無意識に椅子に座りなおしていた。衣空は、胸ポケットからくしゃくしゃになった〈紙背〉を取り出してその端っこをつま先で弾く。すっとしわが伸びて、透明度が下がり、ディスプレイになる。
触れたくないものに触れるかのようにパネルをゆっくり操作して、目当ての画面を出した衣空は、口をとがらせると、毅然とぼくの眼前にそれを突きつけた。
ふだんは重力とは無関係そうな顔をしている内臓が、急にそれを感じたみたいに、数センチ落ちてきた。心臓も二拍打ちそこなった。え、どういうことなの?
全身に汚い言葉を落書きされたはだかの衣空が、男たちに囲まれている写真が映っていた。
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