夜は短し眠れよ思考

荒井 照

第1夜

他の地域はともかく、そもそもこの方法の是非はともかく。


母方の実家には「オドホドゲさん」という古いしきたりがある。


亡くなった方の遺体を火葬してしまう前に、三日間、その人の家の軒先に遺体を埋めておく。その間は葬式代わりに、「オドフミ」という儀式が行われる。弔いに来てくれる人々が、軒先に小さく盛られた塚土の上でぐるっと三回転するという何とも見目奇妙なしきたりだ。曰く、二度と生きて戻らないようにという祈りを込めて上から土を踏み固めてしまうそうだ。どちらにしろ三日経てば掘り起こして火葬してしまうのだから、結局は同じなのではとも思ってしまう。


ただ、最近は他の土地から移り住む人も増え、この「オドホドゲさん」の慣習も減りつつあるのだと。祖母の真っ白な寝顔を見つめ、母が静かに言葉をこぼした。


昨日、母方の祖母が亡くなった。


母には歳のひと回り上の兄がいる。そのことを考えれば、祖母はいわゆる大往生というやつで、齢も九十を超えていた。大きな病気をしている訳でもなかったし、帰省の度に見る実家の庭は生垣から庭まで丁寧に手入れが行き届いていた。病に苦しむ訳でもなく、足腰が弱った訳でもない。幸せといえば幸せな逝き方だったのかもしれない。


「気は進まないよ、本当に」


地元の葬儀屋の手で棺桶──正直、漬物桶をひと回り大きくしただけにしか見えなかった──に納められる祖母の姿を見て母が額の汗を拭った。

田舎特有の土の混ざった空気の臭いと、しまわれ込んでいた礼服の防虫剤の匂い。混ざって、とても呼吸がしにくい。余計な遮蔽物のない空から、容赦なく陽光が脳天に刺さった。


「普通の葬儀じゃダメだったの?」

「お母さん、どうしてもこっちが良いんだって言ってたから」


淡々と埋められていく棺から目をそらして尋ねる。母は白いハンカチを口元に当て、鼻水だか汗だかをまた拭った。泣いている、ようには見えなかった。ただ虚ろに、視界からどんどん塗りつぶされていく産みの母親のことを眺めている様は、少し不気味だった。


暫くすると、汗だくの葬儀屋の人たちがこちらを向いて深々と頭を下げた。おそらく今日の儀式はこれで終わりなのだろう。母が差し入れたペットボトルの緑茶を流し込みながら、真っ黒な軽トラに乗って帰って行った。



「オドフミさんで、明日から人が来るけん。あんたもちゃんと手伝わんとね」


その車を見送りつつ、親戚の集まり特有の「手伝い」を言い渡された私は黙って頷いた。軒先には砂まみれのシャベル二本が、黙って並んでいる。柄には、葬儀屋の名前が太めのマジックペンで雑に書かれていた。これまで何人の死を見てきたのだろう。そう思うと、家の軒先にあることがそもそも恐ろしく感じる。家に戻りながら振り返り、何度かそのシャベルの位置を確認した。ポルターガイストなんて信じちゃいないけれど、私にとって、そもそもこの儀式自体が心底不気味だった。



その日の夜、夢を見た。


暑い暑い真夏の日、私は一人で路傍のベンチに座っていた。


見覚えがあるその場所は、母方の実家に一番近いバス停だった。心ばかりの屋根がついていて、ベンチの影には露天売の野菜が破格の値段で売っている。目に痛々しいほど鮮やかな色彩の緑と青は、どう考えても夏の景色としか思えなかった。


ベンチの脇にたっているバス停のポールは、たぶん数十年前からずっと同じように歪んでいた。まるでお辞儀みたいだ、と幼心に思ったのを未だに覚えている。一時間に一本しかないバスの時刻なんか書いてあっても無駄で、今や時刻表の文字は掠れて読めなかった。


私はそのベンチに座って、なぜだかバスを待っていた。特に乗るつもりもないし、誰かを迎える予定もない。ただそこに座って、次のバスが来るのをじっと待っていた。屋根の影から少しはみ出た脚が、僅かに太陽にじりじり焼かれる。


熱いな、と体の向きを変えた瞬間。地面が唸るような振動をあげて、遠くからエンジンの音がした。私は思わず立ち上がり、なにもない道の向こう側に目を細める。熱で揺らいだ地面の先に、ほんの少しだけ影がみえた。


その姿と形には記憶があって、確かここを一時間に一度行き来するだけのバスだった。白の車体に、赤と青のライン。トリコロールには程遠いが、若い頃はまだおしゃれな柄だったのだろうと思う。じっと目を凝らす内に、ゆらぎの向こうからどんどんとこちらへ大きくなってくる。


私は、なぜあれを待っていたのか。その理由をぼんやり考えたまま、バスは目の前まで来て停車した。細切れのエンジンの低音の振動が、排気の匂いと混ざって妙に威圧感がある。黙って立っている私に向かって、後方の二つ折りのドアがばたりと開いた。乗客はもちろんいない。乗車のアナウンスもない。入口のステップには、長いこと踏まれたであろう「ご注意ください」の文字。


沈黙が続くこと、数十秒。バスの折戸は何事も無かったかのように閉じ、全く同じようなエンジン音を響かせて過ぎて行った。


残された私とバス停は、ただぽつんと、夏の熱さをジリジリと感じていた。



翌朝、「オドフミ」の儀式は無事行われた。多くの人がうちの軒先に来ては塚を踏み、手を合わせて帰っていく。無数の足跡が土に残り、立てかけられたシャベルと私たちがそれを逐一眺めて日が終わった。


三日目の朝、ふと塚を見ると大きいタイヤの跡が残っていた。


「トラクターでも通ったんかね」


と母やぼやいたが、私も母もここ三日そんなものは通りを走っていないことを知っている。不思議がる母を余所に、私はこないだ見た夢のことをぼんやり思い出していた。同じような暑さ、同じような色をした夏景色。ふと、あのバス停のことを聞いてみた。ここから最寄りのバス停で、昔はよくバスで祖母宅へ通っていたのだ。


「あのバス停なら、もう十年前になくなってるよ」


塚の土を確かめるように踏みしめながら、母はそう言った。



どこか耳の奥で、あのバスのエンジンの音が聞こえた気がした。

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