進展
ーー次の日のことである。
まつりは柄にもなく、彼へのお礼のためにクッキーを焼いてみた。
お菓子類を手作りするのはまつりの中では趣味なのだが、今まで男子にあげたことはない。
昨日は確かにリラックスしてよく眠れた。だが違う意味で早起きもしてしまった。
カバンの中でクッキーを入れた袋がコトコト揺れている。
教室に着いても、どうも落ち着かない。彼はまだ来ていないようだ。
『喜んで受け取ってくれるだろうか。甘いのとか苦手だったらどうしよう。私なんかから贈られても困るだけだろうか。やっぱりやめとこうかな。いやいや、これはお礼なんだ。作ってくれたお礼』
頭の中で様々な思いが浮かんでは消え……繰り返している間に彼が教室へと入ってくる。
まつりは椅子から勢いよく立ち上がって駆け寄ろうとしたが、彼は避けるようにまつりの横を通り抜けていった。振り返ると、席に着いて教科書を開いている。まつりとは目線を合わせようとしない。
まつりは無視されてしまった……彼が避ける理由も解らないまま、呆然としているといつの間にか教室はクラスメイトで溢れていた。
❇︎
まつりは数人の友達とテーブルを囲んで食事をする。ただまつりは上の空だった。
友達の話には加わらず、相づちを打ちながら彼のことを考えていた。
昨日は、少し打ち解けたような気がしたのに。
彼は教室で誰かと話していることは少ない。ひとりでいることが殆どだった。
きっかけはどうあれ、彼はまつりに話し掛けてくれたのだ。辺りを見渡すと彼の姿はなかった。
まつりは友達に謝ってその場から抜け出した。
どうしても、もう一度話がしたかったからだ。
❇︎
花壇を見に行ったが彼の姿はない。彼の行きそうなところをしらみつぶしに探す……
といっても、想像できそうな場所は限られている。
この時間帯は使われることがない東校舎の廊下を歩いて理科室の前を横切ろうとしたその時、準備室に彼の姿を捉えた。そっとまつりは扉の窓から中を窺った。
彼はどうやら何か作業中のようだ。黙々と小瓶からピペットで吸い出して、真ん中の茶色い遮光瓶に移し変えている。なんだかその様子が白衣を着ていたら、科学者のようだとぼんやり考え込んでいたら、急に扉が開いた。
「あ。えっと、通り掛かったら
まつりはなにかを誤魔化すように話し、頭を掻いた。
だがまつりの動揺をよそに彼は頭を下げて謝る。
「今朝はその……無視したみたいになってしまって、ごめんね。クラスでもし、僕と話しているところを見られたら、月下さんが困るだろうと思って」
彼は申し訳なさそうにしている。だがそんなことよりも彼から立ち上る心地いい香りに鼻がいち早く反応した。
漂ってきた香りには嗅ぎ覚えのある香りだった。
「ラベンダー……」
私は口から漏れ出した言葉にハッとして口を押さえる。少し、驚いた表情の彼は、はにかみながら頬を掻いた。
「キツイかな……ほんの少し香水の試作品を付けてるんだけど……あんまり匂うと先生に怒られちゃうね」
「ううん。そんなに強くは匂わないよ……ただ、覚えちゃったから」あなたの匂い。とはさすがに、本人を前にしては言えなかった。
尋ねたいことが増えた。どうしてこんな場所にいるのか。
どうして香水なんて付けているのか。
そもそも、中学生には早いんじゃないかとか。
頭の中で様々な問いが混濁する。
口火を切ったのは彼だった。
「えっと、忙しくないなら、その……渡したいものがあるんだ」
「わ、私も渡したいものがあって、ってカバンの中だ! 放課後でもいい?」
「僕は、別に構わないよ。
「私も今日は別に用事もないから。またここに来たらいいのかな?」
「うん。昼休みと放課後は先生に準備室は使わせてもらえるように許可、貰ってるから」
「うん。わかった。じゃあ、放課後」
まつりは彼に別れを告げて、理科準備室を後にした。
心臓は早鐘のように打っている。
なんだか二人だけの秘密が出来たようで、まつりの足取りは弾んだように軽やかだった。
☆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます