だれがわたしたちに罪を定めるのですか Ⅲ

「今、なんと……?」

 少年は年若い男の整った面を見つめた。彼の目は暗闇に潜む猫のそれ。三日月型に歪められた瞳に宿るのは場違いな好奇。そして違えようのない嗜虐だった。

 細い、けれども骨ばった男の手が、青い襟首に伸ばされる。力任せに少年を引き寄せた若者を苦しめるのは、ルヴァシュが初めて直面する感情だった。

「君は、ほんとに似てるんだろうね」

 どろどろに粘ついた、有り触れてはいるが特殊な暗澹を、ゼドニヤは自覚しているのだろうか。

「この短い間で、あいつにあんな顔をさせるなんて」

 突然の暴挙に長い睫毛を瞬かせることもできなかった少年は、首を撫でる指の冷たさに身を竦めた。冷気は滑らかな喉元から強引に持ち上げられた顎まで這い上がり、薔薇色のふくらみの緩やかな曲線をなぞる。

「な、なに、」

 あえかな抵抗はこじ開けられた亀裂から流れ込む奔流によって、あっけなく封じられた。金属は男の硬い皮膚とはまた異なる冷たさでもって少年を苛む。傾けられた杯から進入する赤は喉を灼き、薄い胸をむかつかせた。芳醇であるはずの葡萄酒は濃厚な渋みでもって舌を刺す。飲み干しきれなかった一滴は細い顎を伝って首筋を濡らした。酒気に触れた肌に他者の吐息がかかると悪寒が奔った。

「ねえ、ルヴァシュ。君は“真実”が知りたいかい?」

 熱に浮かされた病人の譫言めいた囁きが酒気により赤らんだ耳殻をくすぐる。言葉を封じられた少年は眼差しと頷きでもって応えを返した。

 ゼドニヤは、ツァレを人間だと言った。可哀そうだ、とも。ならば、何がしかの理由によりルヴァシュを嫌っていることは間違いないこの男は、もしかしたらあの少女を助けてくれるのではないだろうか。彼の話は俄かには受け入れがたいが、「そうあってほしい」と願ったものでもある。だからこそルヴァシュは己が信じる神の定めとは相反する「真実」を許容することができた。

 ゼドニヤにツァレが置かれている境遇を説明すれば、あの侘しい洞窟からどこか遠い――彼女が人間として生きられる場所に連れて行ってくれる。そしたらツァレは、もうこれ以上虐げられずに済む。細い身体に痛々しい痣を拵えることなく、心穏やかに……。

 ぶん、と頭を勢いよく頭を下げる。白い歯と褪せた金色に挟まれた皮膚は切れ、滲み出た鉄錆は葡萄酒の芳香と絡み合い一つになって、より堪えがたいものになった。

 杯に滴る雫は神の恵みの証たる果実から醸した液体よりも鮮やかで透き通っている。

「そう」  

 男は空になった器を満たし、湿った唇に近づけた。

「だったら、これ全部飲んで」

 自らの血が混じる一杯を干しても、素焼きの壺はとめどなく紅を噴き出す。杯を重ねるごとに身体は火照る。潤んだ緑に映る、ざらついた赤茶を彩る蛇は微動だにせぬはずなのに、彼は蠢き最初の女を唆して禁断の果実を捥がせていた。

 腹の底からこみ上げる吐き気を抑え、最後の一滴を嚥下する頃には蛇と女だけでなく全体が揺れていた。こうあるべきだと教えられ、無批判に信奉していたルヴァシュの世界全てが。

「えらい、えらい。よく頑張ったね」

 ルヴァシュは祭儀や祝祭の際に少量の酒を舐めたことはあるが、呷った経験はなかった。ふらつく脚は己が役割を放棄し、少年の華奢な肢体が崩れ落ちる。

「じゃ、ここは人目が多すぎるから、ちょっと外に行こうか」

 赤い顔をして項垂れる自分と、ルヴァシュに肩を貸すゼドニヤは、傍目には仲が良い兄弟のように見えているかもしれない。 

 行き交う人々は一目でそれと分かる神官装束の少年が酔いつぶれていても、振り返りもせずに通り過ぎる。都の人々はルヴァシュの故郷ならば眉を顰められるだろう行為に慣れ切っているのだ。だからこそ暗がりに立ち春を鬻ぐ女は、躊躇いもせずに生命の樹が刺繍された袖を引く。引き締まった腕に引きずられながら垣間見たのは、聖なる都には存在してはならないはずの堕落だった。

 暗黒の帳に覆われて判然としない混沌と喧騒の細部は、夜明けと共に訪れる旭光によって暴かれるのだろう。罪は暗闇に在っては紛れるが、光の下ではその影の濃さによって浮かびあがるばかり。篝火に照らされた神殿と白亜の門に群がる民草は、夜闇を駆逐する松明とその炎に飛び込む羽虫のようだった。

 熱と質量を備えたうねりに揉まれながらも前進する青年が目指す場所は、ルヴァシュには見当もつかない。神殿に背を向ける彼に支えられた自分がどこに辿りつくのかも。

「僕の実家は、海が見える所にあってね」

 青年の口ぶりは、憎悪さえ感じられた先程のものとは打って変わって明るかった。

「その離れでは、小さな女の子が兄上たちや使用人たちに虐められてた。やれ“妾の子供”、“女の癖に父上に可愛がられて生意気だ”って。兄上たちは意地悪だけどその分頭が回るから、父上の目にはつかない場所でアマラを虐めるんだ」

 滔々とよどみなく流れる声は柔らかい。

「だから僕は、“兄上たちと同じ領主になる”なんて言いだしたあの子の力になってやりたくて、ここに来た。命惜しさに継承権を放棄して僧籍に下った僕には似ても似つかない、強い女の子にこの国をあげたくて」

 穏やかな囁きの異質さはルヴァシュの頭に厚く垂れ込める靄を払う。乱れ、ぼやけていた視界が晴れると、数瞬前までは異国の見知らぬ街路同然だった路地は馴染み深いものになった。犠牲の獣が出入りする「羊の門」付近のこの道は、幾度となくツァレと並んで歩んだのに、どうして分からなかったのだろう。

「この国を、あげる……? あなたが?」

 ゼドニヤは立ち止まり、ルヴァシュを炉端に放る。

「この弱い国を、他の誰かに取られてしまう前に、僕はここに来た」  

 大して重要ではない重荷にするようなぞんざいな仕草は、少年に受け身を取る余裕を与えなかった。

「もうとっくに気づいてるだろうけど、僕が旅の商人だっていうのは嘘だよ」

 強かに打ち付けた背の痛みに喘ぎ、咳き込む少年の胸元を掴む青年の口の端が吊り上がる。

「僕はサロナメヤの王アビアザルの第四子にして、異端審問官長官のゼドニヤ」

 その笑顔はやはり猫の――逃げ惑う鼠を弄ぶしなやかで残忍な獣のものだった。

「謂れのなく苦しめられる同胞を君たちのような異端から救うためにやってきた、正義の味方だよ」

「異端? ……僕たち、が?」

 ゼドニヤは息も忘れ、荒れ狂う胸を抑える少年の頬に手を添える。

「そうだよ。びっくりした?」

 尖った爪で黒ずんだ塊を剥ぎ、塞がりかけていた傷を抉った。

「そりゃ僕たちだって色々あくどいことしてきたけど、この国のやり方ってほんと汚いよね」

 染み一つ、傷一つない指先は肌理細やかな頬を挟む。あらん限りの力を込めて横に引かれた皮膚はひりつき、細く長い痕が残った。

「隷属民を動物扱いしてただ働きさせるなんて。せめて彼らの労苦に見合った報酬・・は恵んでやるべきだろう? それとも、君たちの聖典には“無知なる者にも教えを広め、救済しなさい”って書いてないの?」

 青年は磔刑に処された救世主が遺した遺言を諳んじ、頬袋に木の実を溜めた齧歯目めいた面相になった少年の頬を打つ。衝撃音は乾いた空気を裂き、人気のない辺り一面に響き渡る。湿った呼気とくぐもった呻きが妙にはっきりと聞こえたのは、風一つ吹かぬ夜半だったからだろう。       

「いいかい、ルヴァシュ」

 成人した男の重みを乗せた足先が柔な腹部に食い込む。ルヴァシュはうらぶれた路地に倒れ、精緻に彩られた長衣は雪と泥を啜り、醜く変色した。悲嘆や憤りに駆られて神の意思を疑いながらも、無垢だった少年の心もまた同様にひび割れ、砕け散る。

「僕はここで君と神学上の論争を重ねても構わないけど――どうせ僕が勝つに決まってるし――それは無意味だと思ってる」 

 己の足が蹴り倒した少年の髪に絡んだ穢れを払う青年の手つきは労わりに満ちているが、声はやはり身の毛がよだつほど凍てついていて。

「君の大切な女の子を助けたいのなら、彼女を解放してやればいい」

 月光を従えた青年の身体の輪郭は朧な黄金に縁どられ、迷い揺れる緑には神々しく映った。

「この国ごと、彼女を縛るものを壊してしまえばいいんだ」

「……でも、そんなことをしたら、」  

「大勢の人が死ぬ? そんなの、関係ないだろう? ……どうせそのうち現実になるんだから」

 少年の悴む指を包む掌だけは燃えるように熱く、振りほどこうにも振りほどけない。 

「力のないこの国は、このままじゃ敗戦を重ねて、東から襲ってくる異民族に蹂躙されて滅びる。そうしたら君の大切な女の子も、戦火に巻き込まれて死んでしまうだろうね。でも、」

 毒のように滴る言葉から耳を守りたくとも、温かな縛めからは逃れられなかった。

「君がイオネと同じように僕の手助けをしてくれるのなら、僕が君の大切な者を守るよ。僕にはそれを可能にする力がある」

 染み渡る青年のぬくもりが少年の拒絶を蕩かすまでに、長い時間は必要とされなかった。

「君も彼女も救われるんだ。君が、ほんの少し勇気を出すだけで」

「……僕は、」

 天上からこの世の全てを支配する至高者の威厳と、迫害を受けてもなお逞しい少女の無垢な微笑み。真にルヴァシュが守りたいと欲し、何者にも代えがたいと認めるのは――

「ツァレが、それを望むなら」  

 神からの気まぐれな愛ではなく、少女から不当に取り上げられた幸福だった。

「決まりだね」

 ルヴァシュは、己の弱さゆえに要らぬ苦しみを味わわせてしまった友のためならば、どんな事でもしてやるつもりだったのだ。


 一年の最後の雪の夜。少年は本来あるべき神殿の祭壇の前にではなく、場末の宿のむき出しの石壁の前で佇む。

「道案内ご苦労だったね、イオネ。もう下がっていいよ」

 義理の兄は一礼をして退室する。その場に残されたゼドニヤとルヴァシュ。先に沈黙を破ったのは青年だった。

「久しぶりだね、ルヴァシュ」

 高貴な身には相応しからぬ、粗末な寝台に腰かけた青年の優雅な口元が描く弧は魅力的で――

「約束の物はちゃんと持ってきた?」

 それゆえに恐ろしかった。

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