だれがわたしたちに罪を定めるのですか Ⅳ

 むき出しの項に打ち付ける風はさながら抜き身の剣。霙交じりの一陣が吹き荒れ、少女はぶるりと痩せた肢体を震わせた。皸だらけの指先は、息を吐きかけても温もらない。

 本音を言えば、一刻も早く温かな――ツァレがツァレとして生まれ落ちる以前、十月十日に渡って微睡んでいた胎内を思わせる洞窟の最奥に戻りたい。

 けれども骨ばった肩を掴む指は固く食い込んでいて、ちょっとやそっとでは離れそうになかった。

「ねえ、この間の話、考えてくれた?」

 少女が密かに亡き母の面影を重ねていた、水鏡に映る自分にも似通った女の体温は懐かしさよりも違和感を感じさせる。

『……今まで、あんたには悪いことをしてたと思っていたの』

 女は生え揃った睫毛を伏せ、呆然と立ち尽くす少女を抱きしめた。数日前、思い描いた少年とは異なる姿に落胆を隠そうともしなかった少女にそうしたように。

 家事によって引き締められた腕のほんの僅かな肉が、ふくよかな胸部が、柔らかに少女を包む。

「兄さんやネリ姉さんがしたことは確かにおぞましいことだけど、でも、あんたには関係ないのに、」

 この女が何を言っているのか、理解したくない。寄る辺なきけものとして独り生き続けてきた自分に、闇に蕩けて消えた父母やきょうだいたち以外に血を分け合った者がいるなど。

 少女は頭を振り、柔らかな檻から解放されようともがいた。しかし骨が浮いた背に回された腕は緩まず、より強固に少女の背に食い込むばかり。

 嫋やかな手が強風に嬲られ揺れる銀の一房をそっと梳く。

「兄さんが死んでからずっと独りでこんなところで暮らしてて、寂しかったんでしょう? だから、あんたは……」

 肩甲骨に触れるまでに伸びた髪は、見つめ合う女と少女の双眸そのものの、灰色の雲の向こうの天空を閉じ込めた布でくくられている。ひび割れ荒れ果てた荒野のような、けれどもか細い先端が、硬く歪な結び目を解く。縛めから解き放たれた髪はさらさらと流れ、二つの首筋を掠めた。

 互いの睫毛が絡まり、吐息が頬にかかる距離は、ツァレが知らなかった――想像もしていなかった現実を伝えてきた。

 傷一つないはずの白い面の蟀谷にほど近い場所には薄赤い――よくよく目を凝らさなければ分からない、けれども確かな殴打の痕が咲いていた。仄かな紅や蒼の花弁は、女の皮膚のあちらこちらに飛び散っている。ツァレとそっくり同じ形の唇の端は切れ、血が滲んでいた。しなやかな身体に痛ましい痕跡を残したのが、かつてツァレも味わわされた杖による一撃なのか、エルメリの夫の拳なのかは定かではない。ツァレはそれを追求などしたくないし、エルメリもそれは拒絶するだろう。

「町の人間、それも神官なんかに近づいたのよね? あたしが、お義父さんや夫の反応を怖がってばかりで、きちんとあんたの面倒を見ようとしなかったから……」

 かさついた指先が前髪をかき分け、露わになった額をそっと撫でる。大きな鋭い目の下、微かな頬骨の出っ張りの上には、濁った黄色の一片が張り付いていた。気づかわしげに眉を顰める女の息子が振るった暴力の名残が。

「ダドは、最近は敏感な年頃に入って気難しくなってるけど、根は良い子だもの。きっとすぐに兄妹みたいに仲良くなれるわ。だから、」

「あたしはそんなのいらない」

 かつての痛みは、色褪せ、縮むごとにその存在を意識することは稀になっていた。けれども何かが触れれば鈍く疼くことに変わりない。

「あんたは欲しくなくても、それは必要なものなのよ。今は分からなくても、いつか……」

「違う」

 少女は己に纏わりつくぬくもりを払いのけた。肌と肌がぶつかる乾いた音はびょうびょうと荒れ狂う木枯らしや、樹々が擦れあう音にもかき消されず、少女の鼓膜を揺るがせる。

 は、と息をのむ気配に釣られて僅かに頤を動かすと、潤み震える灰色が飛び込んできた。

「あたしは、あたしがここにいたいからここにいるんだ」

 少年じみた面差しは戸惑い引き攣れているのに、少女を閉じ込める柔らかな檻は狭まるばかり。

「今更、あたしが、あんたたちと同じように生きられるもんか」

 脆い肉に拳を鎮めると、細い喉からくぐもった呻きが漏れた。二度、三度と、肺腑が軋むまで腕を振り上げる。

「今まであたしのことなんて放っておいたくせに。あたしが村で虐められても、知らん顔して見てたくせに!」

 滑らかな白皙が爛れ、血が滲むまで。肋骨に守られた虚ろな肉塊の脈拍が乱れ、吹き荒ぶ風と同じ律動を刻むまで。

「どうして今更あたしを助けようとするんだ!」

「……ツァレ」

「何もかも手遅れなのに!」

 とめどなく襲う嵐を受け止めかねた肢体はぐらりと傾ぎ、踏み荒らされた雪原に倒れ込む。

「もっと早く。お父さんが死んですぐ、ルヴァシュと出会う前に、あんたがそう言ってくれてたら、あたしは……」

 捲れた裳の裾から覗くまろやかな曲線を描く脚にはやはり、棒か枯れ枝のような自身のそれにも在る色彩で蝕まれている。

 儚い四肢を凍てついた大地に縫い止め、締まった腹部に跨ると、見下す女の双眸が驚愕と恐怖に支配された。 

「あんなことしなくても済んだかもしれないのに! 罪人を殺さなくても良かったかもしれないのに!」

 長い髪を乱暴に掴み、項垂れた頭を揺さぶる。

「あたしが苦しいのも、あいつらを殺す時に心臓が痛むのも、何もかもあんたのせいだ!」 

 八つ当たりであることは承知している。貧相な胸で渦巻き、はけ口を求めて喉元までせり上がった熱をこの女にぶつけるのは間違っていると。

「……ごめん、なさい」

 すっきりとした眦を涙で煌めかせる女は、もはやツァレを見ていなかった。彼女の瞳が映すのは己を蹂躙してきた全てであって、行き場のない怒りに支配される少女ではない。

 女は決まりきった謝罪を吐くのに、解放は希わない。神官に踏まれ蹴られる自分自身の似姿を見ていると、乾ききった瞳が熱を持った。

 ――自分は、こんなに哀れな生き物だったのか。狼の強靭な牙も狡猾な狐の知恵も持たない、軟弱で哀れな羊。群れから爪はじきにされた、惨めな……。

 突き付けられた自身の倨傲と愚昧は、少女の誇りを粉々に打ち砕く。生ぬるい水滴が降りかかると、口元の細かなひび割れはひりついた。

「……あ、んた、泣いて」

 仄温かい雨は女の瞳に意思の輝きを灯す。

「煩い!」

 透明な雫に濡れた指先には、細長い青が絡みついている。ルヴァシュがツァレにくれた、大切な切れ端。彼と自分を繋ぐ、頼りない繋がりが。

 雪を啜り泥に塗れたそれは、エルメリの掌中にある。

「返せ」  

「――駄目よ」

「返せって言ってるだろ!」

 痛ましく腫れあがった頬を殴打しても、鳩尾に衝撃を沈めても、腹立たしい光は消えなかった。

「あたしのことはもう放っておいて!」

「いやよ」

 頑なに張りつめた女の眼差しは、やはり少女に母を想わせた。生まれて最初に神にもぎ取られた慕わしい存在の胸も、エルメリのふくらみのようにツァレを受け止めてくれただろうか。

 それが許されることならば、この乳房に顔を埋めてみたい。湿った匂いを胸いっぱいに吸い込んで、たわいない出来事で笑い合って……。

 脳裏に過った白昼夢にしては鮮やかな憧憬は、砕け散った誇りの欠片とともに稚い心を切り裂く。

 とうに切り捨て、拒絶したはずの幸福に未だしがみ付く自分自身の浅ましさへの憤りと羞恥は、冷え切り悴んだ末端を燃え上がらせた。疼痛ばかりを与え薄い胸を掻き乱す温情など、永遠に消え去ってしまえばいい。

 少女は組み敷く女の擦り切れた胸元を引き裂く。外気に晒された白皙は艶やかで、短刀の鈍色が良く映えた。

「ツァレ?」

 この肌には、きっと血の赤も似合うだろう。少女は両の脂肪を押しのけ、虚ろな肉の塊の在り処を探る。

「もうルヴァシュがいればいい。――あたしは、あんたなんかいらない!」 

 汗ばみ濡れる手が直に柔肌をまさぐると、まろみを帯びた身体がびくりと跳ねた。

「ツァレ!」

 幾多の咎人の生命を啜った鋼が、魂は宿さずとも穢れなく鮮やかな紅蓮を舐める。

「止めなさい!」

 鋭利な切先はあらん限りの力を込めた抵抗によって軌道を逸らされ、薄皮一枚を切り裂いただけだった。

「止めるもんか!」

 女と少女は互いの髪や衣服を掴み、手足を絡ませ縺れ合う。

 エルメリがツァレの頬を打てば、ツァレはエルメリの肩を噛む。女が少女の背を雪に押し付ければ、少女は女の腹部を蹴り上げる。

 果てしなく、いつまでも続くかのような銀のけものの闘争に終止符を打ったのは、覚えのある一声だった。

「てめえ」  

 どこからともなく現れた少年は少女の脆弱な腹部に強烈な一撃を加えた。胃の腑からこみ上げる酸は溶岩さながらに少女の意識を灼く。

「誰の許可取って人の母親襲ってんだ」

 ごろごろと転がり氷粒を舞い散らせた太腿に足が置かれ、尖った跟で柔な肉を押し潰される。

「この女を殴っていいのは俺か親父かジジイだけなんだよ」

「……ダド。もう、」

 非情な靴底は、しなやかな筋肉に覆われた脹脛に伸ばされた腕にも振り下ろされた。

「てめえも、何勝手なことしてくれてんだ、ババア」 

「――っ。ごめんなさ、」

 母親の髪を鷲掴み、頬を打擲する少年の眼は憤激でぎらついている。縄張りを侵された獣の怒りは、真っ直ぐにツァレに注がれていた。

「お人よしのあんたでも、これでもう分かっただろ?」

 少年は残忍な笑顔を浮かべ、小さな頭を足先で小突き、踏みしめる。細かな引っかき傷を拵えた顔面が薄汚れた白に埋まると、息もできなくなった。

「こいつは、村でただ一人優しくしてやってくれてたあんたに襲い掛かって殺そうとする、どうしようもないやつなんだ」

「……」

「こんなやつは、こいつが言ったようにもう放っておけばいい。あんたは黙って家にいればいいんだよ」

 喉を掻き毟り大気を求める少女の短い銀の髪を、蜘蛛の巣さながらの亀裂が奔る誇りを踏みにじる仕草の烈しさとは裏腹に、母の乱れた胸元を直す手振りは繊細だった。いっそ優しいと評せるほどに。

「……そうね、ダド」

 女は虚無を宿していた灰色の目を伏せ、頑なに握り締めていた手を開く。醜く皺が寄った青は眦が裂けんばかりに双眸を見開いた少女の足元に放り投げられた。

「あんたの言う通りだわ。あたしが間違ってた」  

 女は息子の手を支えに立ち上がる。そして地に伏す少女には一瞥もくれぬまま、あるべき場所に帰っていった。

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