だれがわたしたちに罪を定めるのですか Ⅱ

 素朴な素焼きの平皿にルヴァシュの瞳にも似た褪せた緑が並べられている。豪快に盛られた筒状の塊を齧ると、羊の旨みと脂が溢れ出た。塩漬けの葡萄の葉の風味と香味野菜の辛みが肉の旨みを引き立てている。 

「僕の奢りだから勘定は気にしないで、好きなだけ食べてね」

 さっぱりとしているが濃厚な凝乳ヨーグルトを口休めに掬う青年はある一枚を指さした。

「何となく頼んでみたけど、これ結構美味しそうだね。イオネ、食べてみなよ」

 黒に近い玄色の皿には潰した胡桃のソースがかかった蒸し鶏が盛られている。彩と風味づけのために香菜を散らしたそれは、姉が得意にしていた品で……。

 ナナはいつも、家族の誰かの誕生日や祭日の際にこの料理を作っていた。姉はきっと、嫁してからは夫や新たな家族のために、腕によりをかけた一皿を拵えていたことだろう。

「俺は結構なので、ゼドニヤ様が召し上がって下さい」

 有り触れた一品を映しているはずの男の瞳は虚ろで、ここではない――彼がとうに喪った幸福を求めて彷徨っていた。

「君はもう十分に分かってると思うけど、僕は大食いだし欲張りだから、君の分も平らげちゃうよ?」 

「ご自由にどうぞ。これは元々、ゼドニヤ様の財布の金で頼んだものですし」

 イオネの主である青年は、従者の胸の裡を知っているのかいないのか。

「それもそうだね。じゃ、遠慮なくいただくよ」 

 ゼドニヤが能天気に鶏肉にかぶりつくと、イオネはおもむろに席を立った。

「俺は、少し外の空気を吸ってきます」

 イオネが逃れようとしているのは酒場の喧騒か、それとも未だ癒え切らぬ喪失の痛みからか。

「何? 柄にもなく人酔いしちゃった?」

「そんなところです。……ルヴァシュ、この方のお守りはお前の手には余るだろうが、少し頼んだぞ」

 彼が青年であった時分は刃物めいていて鋭かった目元は、深い皺に覆われ柔らかなものになっている。しかしルヴァシュは、イオネを避けるように顔を伏してしまった。自分を捉える男の瞳に過ったのは、紛れもない追憶だったから。

「人のことを襁褓もとれない赤子みたいに言って」

「実際、大差ないでしょうよ。……数か月前、俺がよせと忠告したのにいかにも怪しげな草を食べて、数日腹を下していたのはどなたでしたっけ?」

「その話はもうやめようよ。君たちにはあの後ちゃんと謝ったじゃないか」

「ですがあの数日がなければ、俺たちはもっと早く――」

 頭上で飛び交うのは長年連れ添った夫婦の痴話喧嘩そのものだが、実際のゼドニヤとイオネの間には少なからぬ隔たりがあるのではないか。

「はいはい。分かった分かった。君はしばらく好きにしてていいよ。僕は明け方までこの店で飲んでるからさ!」 

 青年は害虫か野良犬にそうするように、わざとらしく手を払って従者の背を押す。一見良好な主従の姿に湧いた疑問は、少年の胸を塞がせた。

「やっと煩いのがいなくなったね!」

「……そ、そうですね」

 ルヴァシュにとっては義理の兄、ゼドニヤにとっては護衛である男の仲介を失えば、同じ卓を囲む二人は縁もゆかりもない他人に過ぎない。

「この鶏、君もどう?」

「いえ、僕はもうお腹いっぱいなので……」

「そっか。じゃあ、僕が全部食べるね」

 ぎこちない会話が途絶えた後、食物を咀嚼し嚥下する音だけが鳴り響く。神殿で儀式が執り行われる際の、厳かなそれとはまた違う静寂に包まれた空間は、不気味なまでに静まり返っていた。

 深い紫の葡萄酒で乾いた口を湿らせる。ぴりりとした辛みと、木苺の酸味が干し葡萄の芳醇な甘味を引き締める液体は美味ではあろうが、故郷のそれには及ばなかった。

 もう、戻りたい。

 頑なに秘め隠し、眼を逸らして決して直視しようとはしなかったもう一人の己の囁きは、薄い胸の空で虚ろに吹き荒ぶ木枯らしだった。

 自分が欲するのは、豪奢ではあるが冷え冷えとした浮彫が施された白亜の神殿なのか。それとも鄙びてはいるが穏やかな火山の麓の農村なのかは分からない。あるいは、そのどちらでもないかもしれない。そもそも、具体的な場所ではないのかもしれない。

『もうすぐ晩御飯ができるわよ』

 そっと降ろした目蓋の裏で年若い娘が微笑んだ。ルヴァシュとよく似た面立ちのその娘は胡桃の欠片を握っている。赤い汁に染まった指が手際よく夕食の準備に励む様は、幼児の目にとっては魔法に等しかった。老いた父や優しい兄、姉の庇護下にあった、羊たちや甥や姪と共に荒野を探索していた日々はもう二度と戻らない。

「ルヴァシュ」   

 落ち着いた、けれども明るく華やかな声が鼓膜を揺さぶるが、それはルヴァシュが求めるものではなかった。

「ねえ」

 だってツァレの声は少女にしては低くとも、もう少し高くて、掠れていて――

「ねえってば」

 雪交じりの木枯らしのように胸に響く。

 ならば、今ここでルヴァシュの肩を掴んでいるのは、一体誰なのだろう。

「あ、」

 眠りの誘惑を退け、こじ開けた双眸は気づかわしげに整った眉を寄せる何物かの像を捉えた。ツァレの面立ちは中性的ではあるが、身体は僅かばかりであっても少女らしい肉と曲線を備えている。対して、ぼやけた視界に飛び込む四肢は細くとも鍛え上げられた筋肉で覆われ直線的だった。となれば、この人物は男でしかありえない。

「もしかして君、寝てた? 疲れてるの?」

「いえ、そんなこと……」

 筋違いだと弁えつつも、落胆を抑えられなかった。長らく消息を絶っていた義理の兄と再会したのは――それは気まぐれに善良な娘を屠り、孤独で非力な少女の苦難を黙殺する非情で冷酷な存在なのかもしれないが――神の思し召しとして喜ぶべきだろう。しかし、その後の「奇跡的な再会を祝って祝杯を挙げよう」なんて甘言に惑わされず、真っ直ぐに神殿に帰るべきだったのだ。

「じゃあ、何か悩みでもあるの?」

 そうすればふとした一言に心を乱され、真鍮の杯を握る手をみっともなく震えさせ、青い衣に紫の染みを作ることもなかったのに。

 潤したはずの口内は干上がり、舌の根は凍り付く。

「――え? そ、そんな……」

 さながら石と化したかのような器官が紡いだのは、自己嫌悪すら覚える狼狽と動揺だった。ルヴァシュのものであるはずの身体はゼドニヤの眼光に縛められ、指先を動かすことすらままならない。重い全身で唯一自由になるのは、きょときょとと落ち着かない眼だけだった。

 青年は少年の頬の不自然な赤らみを認める、吊り上がった口の端に微笑を刷いた。

「無理に隠さなくてもいいよ」

 この日初めて出会った人間に、どうしてそれが。何も言ってないのに。姉の結婚までに幾度となく顔を合わせ、兄弟としての信頼を培った義理の兄ですら、気づいた素振りすら見せなかったのに。

 緑の眼は縺れる赤い肉では形にできなかった問いを雄弁に物語る。

「僕には君と同じくらいの年の妹がいるから、分かるんだ」

「……は、はあ」

「そもそも妹と僕は母親違いだし、アマラは末っ子で甘やかされているのをいいことに我儘放題していて、最近では女なのに剣を振り回して皆を困らせているけれど……やっぱり、きょうだいは可愛いよ」

 返ってきたのは思いがけず穏やかで物柔らかな、いっそ優しいとすら表現できる眼差しだった。

「僕にも覚えがあるけれど、君やアマラぐらいの年齢の子供は、色々なことに悩んで、考えるだろう?」

 この隙の無い身のこなしや剽軽な物言いの、その内奥を決して瞳に乗せぬ青年にも、愛慕する者がいる。

「それは時が経てば笑い飛ばせる類のものかもしれないけれど、現在の君たちにとっては重大で、時には持て余しかねて自らも周囲をも傷つけてしまう」

「……」

「だったらそうなる前に、身近な誰かの力にその荷を預けてしまってもいい。それが他者に打ち明けがたいものであっても」

 緩やかに伏せられた目が愛おしげに細められた。イオネがルヴァシュを通して亡き妻や息子を想うように、ゼドニヤもまた別の、ルヴァシュにはまったく似ていない誰かに想いを馳せているのかもしれない。彼曰く、気が強く男勝りな妹に。だったら、ルヴァシュもゼドニヤに、ここにはいない誰かの面影を重ねてもよいのではないか。

 都に発つ旅の始まりの日。喉が枯れるまでルヴァシュの名を叫んで、涙ながらに見送ってくれた家族が最後に手向けてくれた、大切に仕舞い込んでいていつしか失念してしまっていた一言が、唐突に脳裏に蘇った。

 ――お前が信じる道を歩め。それがきっと、正しいことなのだから。

「ゼドニヤさん」

 今度こそ迷いなく、けれども密やかに発したのは不敬であり冒涜であった。 

「あなたは、神様の意思を疑ったことはありますか?」 

「神を疑ったことがないのは、一握りの特別に幸福な人間だけだろうね」

 想像を絶する惨苦に見舞われてもなお、天上の至高者を慕い愛し続けることこそが、神の僕に求められる条件であるのなら。

「……そう、ですか。だったら、僕は、」  

 ルヴァシュはやはり神官などになるべき人間ではなかった。平凡な村で平凡に羊を追って、平凡に生涯を終える。平凡こそが自分に相応しい道だったのだ。

 定められた草原から足を踏み出した愚かな羊は、やがて野の獣の牙に引き裂かれる。自分は、知らず知らずのうちにあるべき居場所から抜け出て、未知の荒野に迷い込んでいたのだ。

「僕は、もう、分からないんです」 

 ルヴァシュはそっと軋む左胸を抑える。その下の心臓は荒れ狂っていて、こうして自分が息をしているのが不思議なくらいだった。

「至高神がどうして二つ脚に――ツァレに、あんな運命をお与えになったのかが」  

 ゆるゆると閉じた目の奥で、銀髪の少女と共有した時が入り乱れる。

『あたしはツァレ』 

 あの日そっと触れた掌は、ルヴァシュのそれとは比べられぬほどに固かった。赤錆が染みこんだ指先はひび割れささくれていた。だがルヴァシュは彼女の手を穢い、振り払うべきものだとは感じなかった。むしろ、そう年が変わらないだろう少女がこれほどの苦労を重ねている一方で、自分の掌がこんなにも柔らかで滑らかなことが恥ずかしいとすら思うようになった。

「あの子は、何も悪いことをしてないのに」

 至高神はどうして、あんなにも無垢で純粋な少女に酸鼻を極める役目を振り分けたのか。秘め、押し殺してきた蟠りを吐き出し終えると、自分の頬が濡れていることに気づいた。本当に泣きたいのは、涙を流して嘆くに値するのは、ツァレであってルヴァシュではないのに。

 黙って脈絡のない告白を受け止めていた青年は、手慰みに弄んでいた杯を置く。

「可哀そうだね」

 金属と樹木がぶつかる音はけたたましく耳を打ったが、飛び交う怒号に掻き消され、振り返る者はなかった。

「だから、僕は、」

「その女の子も、君も」

「……は?」

 青年は卓上の酒壺の封を破る。

「僕が、どうして?」

「イオネに聞いてはいたけど、ほんとに“いる”なんて驚いたよ」

 最初の女を唆す蛇が描かれた土塊から迸ったのは、血と見紛うほどに鮮やかな流れ。

「人間と同じ言葉で喋って、火を操る動物なんているわけない。そんな単純なことが、どうして理解できないの?」

 くすんだ金の淵で揺蕩う赤は少年の心に飛び散り、雪いでも落とせぬ痕を残した。

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