だれがわたしたちに罪を定めるのですか Ⅰ

 雪は天上の星が降って来たのか錯覚するほどに穢れない。少年はふと掌を開き、舞い散る白を捕らえる。冷たきそれを握り締めるとか細い末端の感覚が消え失せた。

 纏う衣服と同じ緑の眼の端に映る神殿は豆粒のようで、橙色の篝火に照らされている。街路には主の罪を購うために奉げられた羊や鳩の糞が転がっていて、饐えた臭気が漂っていた。古びた牛酪と牧草と家畜の排泄物から立ち込める、羊小屋のぬくもりを構成する臭い。かつてルヴァシュの傍らに在ったそれは、明日には白銀に覆われ消えてしまうのだろう。

 途切れなく降り注ぐ破片はふわふわと儚く、どこか羊の毛にも似ていた。

「ルヴァシュ」

 聖性と悪を隔てる門の影から現れた男の声音は低く、仄かに自責の念を滲ませている。

「待たせて悪かったな」

 彼の面立ちが二十の半ばを超えたばかりという実年齢よりも老けているのは、数年に渡る放浪のためだろうか。

「いいえ。僕もここに着いたばかりですから、お気になさらないでください」

 少年は己の細い肩に積もる白を払おうとする手を制し、微笑む。

「ならいいが、無理はするなよ」

「大丈夫ですよ」

 男が下げる角灯の明るみは、地面の暗がりまでは届かなかった。少年は泥に塗れしとどに濡れた足元をそっと隠す。

「そうか。なら――」

「はい。行きましょう」

 慣れたはずの七つの階段から転がり落ちた四半刻前から熱を持つ足首の痛みをも。傍らの男に見咎められぬように。  

 凍てついた銀の光は弱き星彩を減じさせ駆逐する。今宵の月は猫の爪のように細いが、暗黒に縫い止められた真珠は雲間に隠れたままで……。

 肩越しに見下ろした道は闇に呑みこまれていて、ものの数分で辿りつけるはずの分岐路すら定かではなかった。

「どうした?」

 少年の眼前に広がる、石畳の破片が転がる酷道と同様に。

 ――この道は、一体どこに繋がっているのだろう。

「いいえ、何でも」

 少年は長靴を履いた脚を縛める迷いを振り払う。たとえこの道が地の底に続いていたとしても、ルヴァシュは歩まなけなければならない。それが、己に残された唯一の贖罪なのだから。

「心配しないでください」

 神官として神に祈祷を捧げるべき舌が動く。

「イオネさん」 

 少年の薔薇色の唇から押し出されたのは、亡き姉の夫の名だった。


 懐かしい人と偶然の再会を果たしたのは、眩いばかりの満月が煌々と青き闇を暴く夜だった。

「……あ、え? え?」

 少年は長い睫毛を瞬かせ、丸い目を零れ落ちんばかりに見開く。

 対峙する男の面は――ルヴァシュとて人の事は言えないけれど――日に灼け精悍ではあるが、これといった特徴に欠ける平凡なものだが、見間違えるはずがない。 

「い、イオネさん?」

 義理の兄イオネ。神が定めたのりを犯したために、姿を変え幾代にも渡って罪深いこの世を彷徨う贖罪の旅に出たはずの彼が、どうしてこの都にいるのだろう。イオネは妻と子供の死を受け止めかね自死したはずなのに。

 谷底に身を投げたイオネの亡骸は、村人の懸命の捜索も虚しく、ついに見つからなかった。ゆえにイオネの家族は、彼の「遺品」を納めて墓を設けたのだった。

 名すら刻まれなかった石碑の赤みは数年の月日によって隔てられていても鮮やかに蘇る。故郷を離れ聖都に赴く前に暇を見て花と葡萄酒を備えた墓は、イオネの老母の労苦によって磨かれ保たれていたのだが―― 

 しかと眼裏に焼き付けたはずの、焼き付いて離れぬはずの悲哀が風に巻かれて手元からすり抜ける。

 義理の兄は生きていたのだ。彼が家族にも真意を打ち明けずに故郷を出奔した理由も、こうして奇跡的に向かい合う現在に至るまでに、どんな辛酸を舐めたのかも分からない。けれども姉が選び愛した男は、二度と戻らぬ者への哀惜に駆られ、最愛の者との来るべき永遠の至福を投げ捨てるような、愚弱な人間ではなかった。  

「お前は、ナナの……」

 深い皺が刻まれた目元には星明かりにも勝るとも劣らない輝きがある。

「はい」

 背に回された腕の温かさが、向かい合う男が生者である何よりの証だった。

「お前、大きくなったなあ。あの時は背がナナの腰までぐらいしかなかったのに」

 太く、節くれだった指が白茶の癖毛を掻き乱す。

「……僕、そんなに小さかったですか?」

「冗談だ」

 愛おしげに細められた双眸は、喪った者への確かな愛が滲んでいた。

「……そうですか」

 かつてイオネは、姉の長い髪をそうして撫でていたのだろう。

「やっぱりお前はナナに似てるよ。母親違いなのに、不思議なもんだな」

 イオネが真実、万感を込めて抱きしめたいと欲するのは、死した妻や息子であって、彼らと似通った容貌を備えてはいても、なり替わることはできない少年ではない。

「……よく、言われてました」

 しかしルヴァシュは眦から零れ落ちる涙を止めることができなかった。

「村にはイオネさんの墓があるんですよ。知っていましたか?」

「俺のことを勝手に殺すなんて、失礼な奴らだな。親父たちは止めなかったのかよ」

 とめどなく打ち寄せる波のごとき雑踏から抜け、互いの頬を寄せて見つめ合う。    

「だってお義兄さん、誰にも何も言わないでどこかに行っちゃうんですもん。そりゃみんな“イオネは死んだんだ”なんて噂もしますよ」

「そうだな。それは悪かった」

 男の口ぶりは粗雑でぶっきらぼうであっても、どこか優しい。義理の兄はこんなにも陽気な男だったのか。ルヴァシュの心にしまわれた彼の姿は、姉の葬儀の際の打ちひしがれ、追い詰められた手負いの獣さながらのものがほとんどで。だからこそ、弾けんばかりの笑顔は衝撃的だった。

「僕なんか、イオネさんのために神官にまでなったのに」

「はは。ありがとうな」

 広い胸はあの火山の麓の村の名残りを漂わせている。

「“ありがとう”じゃないですよ。僕、ほんとに……」

「すまん」

「……今まで何やってたんですか?」

「それは、」

 故地の水や葡萄の味を忘れても、身体の裡に沁みついて落ちない匂いを胸いっぱいに吸い込む。その葡萄に通じる甘酸っぱさに緩められた涙腺のたがは、

「イオネ」

 凛と通る耳慣れぬ声によって引き締められた。

「主をほったらかしにして、そんなところで何をやってるんだい?」 

 故郷で交わされる言葉にも近い異国の訛りを纏う問いを紡いだのは、いっそ少年のようですらある若い男。亜麻色の髪を結えもせずに垂らす青年は、整った細い眉を訝しげに顰めてルヴァシュを一瞥する。

「僕は君と、主従として友として少なからぬ歳月を共にしてきたけど、君にそっちの気があったとは知らなかったな」

「待ってください、ゼドニヤ様」 

「僕は君の嗜好を責める気は毛頭ない。ただ、友に秘密を打ち明けてもらえなかったことを残念に思っているだけで……」

「違いますよ」

「何が違うんだい? ……ああ、可哀そうに。この子、恐怖のあまり泣いているよ?」

 少年は「僕が来たからにはもう安心だ」と胸を張る青年に曖昧な笑みを寄こす。青年の口ぶりは冷たげな外貌に反して飄々としていて気さくだが、彼の瞳は時折鼠を狙う梟のように細められる。

「君、こうしてよく見ると中々に可愛い顔をしているね。道理でイオネに狙われるわけだ」

「ゼドニヤ様」

 値踏みの眼差しは人当たりの良い冗談に包まれていてもなお鋭く、世慣れせぬ少年を怖気づかせた。ひしとルヴァシュの肩を掴む腕の筋肉の張りは、華美ではないが仕立ての良い衣服越しでも十分にその存在を主張している。

 蟀谷を抑えた男があらぬ疑惑の払拭に取り掛かるまで、少年は抜き身の剣のごとき眼光から解放されなかった。

「こいつは俺の弟なんですよ」

「弟? それにしては似てないなあ」

 イオネはぞんざいな素振りで青年の腕を払う。

「妻の弟です」

 ルヴァシュに投げかける青年の瞳から懐疑と警戒が剥がれ落ちた。

「ああ……」

 囁きは行き交う吐息にすらかき消されかねないほど儚かった。ゼドニヤと呼ばれた彼は、イオネの過去を――その全容とまではいかずとも、重要な断片は把握しているのだ。

「変な疑惑かけて悪かったね。一応謝っとくよ」

「まったくですよ」

 いかにも親しげにイオネと言葉を交わす、ペテルデ人には珍しい名を持つこの青年は何者なのだろう。

「あの。……この人は?」

「よく訊いてくれたね、ルヴァシュ!」

 躊躇いながらも発した問いに応えるゼドニヤの手振りは大げさで、いささか芝居がかってもいた。

「あ、はあ」

「僕はサロナメヤのゼドニヤ」

 神の怒りに触れて滅んだ荒野をも版図に収めるサロナメヤは貿易によって財を成した交易都市である。海峡で隔てられた灼熱の地の異民族との――時には刃も交えた――交易によって力を蓄えた海沿いの国は近隣の小国を併呑し、ペテルデをも含む大陸中部南方の覇者となりつつある。

「僕たちが運ぶ香は、君たちの神殿でも使われているんだ」

 誇らしげに胸を張る青年が語ったのは、少年にとっては耳慣れぬ事実だった。

「では今回は、香の取引のためにここに?」

「まあ、それもあるにはあるけど――商人とは、常に頭の隅で商品の販売先の拡大を目論み策を巡らせる者だからね――今回ばかりは商用ではないよ」

 ゼドニヤはそのすらりとした体躯には不釣り合いな強力で大柄なイオネを引き寄せる。

「僕は、こいつの里帰りについてきたんだ」

「ゼドニヤ様は旅の途中で行倒れてた俺を拾って、護衛として雇って面倒を見てくれた命の恩人なんだ」

 永遠の炎が燃える渓谷には、炎を目印に世界中の死者の魂が集まる。彼の地に赴けば、喪った慕わしい者との邂逅を果たすこともできる。

 伝承を頼りにした長い旅を終えた男の、いかにも迷惑そうに顰められた面には往時の翳はない。

「ナナと息子に会えないまま、谷の途中でくたばりかけてた俺を助けてくれたのはゼドニヤ様だけだ。だから……」

 だが虚空を彷徨う眼が宿す深淵は、星明かりに照らされていてもなお底が見えなかった。

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