にがよもぎの星 Ⅲ

 茶褐色の包から伸びる脚には細長い青が巻かれている。巻いた者の気質を反映してか――丁寧に繊細に重なる布を解くと、それはまるで蛇のようにとぐろを巻いて滑り落ちた。露になった皮膚は生来の白皙を取り戻している。

 きつく縛められていた足首をぐるりと回し、右に、左に動かす――異常はない。生まれ落ちて以来常に側にあった器官の不具合はすっかり治まったのだ。

 養生を強いられていた小さな素足は疼いている。早くどこかに行こう、肺や脇腹が軋み背に汗が流れるまで、白き野原を駆け巡ろう、と。

 斑の牛皮に散らばる穴から仰いだ空は相変わらずツァレの瞳と同じ色をしているが、大気は穏やかな沈黙を保っていた。冷たく澄んだ氷を纏う樹々の枝はしんと静まり返ったまま、姦しい囁き興じることもない。

 数多の罪人の生命を啜った靴底は乾いた血がこびり付いている。本来の温かな色合いを思い出すことすらできぬほどに黒ずんだ毛束の、幽かな茶色の残滓は柔らかで。ややくすんで灰色がかった毛皮よりも明るい茶の毛髪に似ていなくもなかった。


 少年が跪くようにツァレの足元に垂れた瞬間が蘇る。己が衣服を割き――もっともルヴァシュの手つきは危なっかしく、いつ傷一つない肌から紅い珠が噴き出すかと心配でならなかったから、途中でツァレが変わったのだが――少女の足を恭しく支えた指先はひんやりと冷たく、やはり蛇のように滑らかだった。

「あ、これ……」

 ツァレの短剣の柄に触れた少年の面にあえかな笑みが咲く。娘とは違って手先が器用だった父が遺してくれた剣の柄には、鶏の頭と蛇の足を備えた神が刻まれている。ツァレの眼には奇怪としか映らぬ彼を、これは幸運のお守りなのだと示された時は正直戸惑った。

 蛇や鳥は美味しいし食べごたえがあるから好きだが、特別にその外観を愛おしく思っているわけではない。だいたい、ツァレが一番可愛らしく感じる生物は蟻なのだ。父がそれを知らぬはずはないのに、どうしてこんな奇妙な神の姿を、恐らくはツァレが生涯に渡って使い続ける短剣の柄に彫り込んだりしたのだろう。頭部が獅子である分、男であり女である闇の神の方がまだ勇ましくて良かった。

 種々の不満を噛み砕き咀嚼しながら腰の帯に下げた短剣は、しかしやはり幸せを招く品であったのかもしれない。

「僕も持ってるんだ」

 きっちりと閉められた襟首が緩められ、蝋めいていて肌理細やかな胸元を掠める首飾りをそっと渡された刹那、心臓がびくりと跳ねた。少年のぬくもりを吸った閃緑岩は白と煌めく黒が入り混じっている。研磨された表面には、傍目には怪物としか断じられぬ神がいた。ツァレの短剣の柄に鎮座する者と同じ、鶏の頭に蛇の足の彼が。

「この神さまはね、至高神に忠実に生きた人間を天国に連れて行ってくれるんだよ」

 ルヴァシュの実母ニノから、彼女の従妹でもあった義理の娘ナナへ。ナナから、異母弟であるルヴァシュへ。亡き女たちの乳房に挟まれていた小石は、次は誰を守護するのだろう。

「……そう。ねえ、ルヴァシュ」

 ルヴァシュはその魂が肉体を離れぬうちは清貧と節制の内に生きる。妻を娶ることも子を残すことも禁じられた少年が首飾りを捧げる相手には、ツァレはなれない。そんな明白な事実が、何故だかとても口惜しかった。

「あたしが欲しいって言ったら、ルヴァシュはあたしにこれをくれる?」

 自分の頬はルヴァシュの一挙一動で紅潮したり蒼ざめたりするのに、こうして閉じられた空間で一緒にいても普段と変わらぬ彼の態度も腹立たしい。だからほんの冗談のつもりで発された問いかけは、無理難題に等しくなったのだ。

 今はツァレの掌中にある平たい楕円形の石は、ルヴァシュの母や姉の遺品でもある。喪った愛しい故人を偲ぶよすがを、そう簡単に他者にくれてやるわけがない。もしもツァレが「その短剣をくれ」と頼まれても、たとえ一生分の食糧と引きかえだと仄めかされても、きっぱりと拒絶する。なぜなら父が拵えてくれた剣は世界で唯一の、代わりのない品であるから。

「……ごめんね」

 だからルヴァシュが申し訳なさそうに目を伏せるのは当然のことなのだ。それは十分に理解しているが、この薄い胸が塞ぐ理由は分からない。

「ううん、あたしの方こそ」

 自分自身でも筋違いだと自覚している落胆はか細く柔軟な管を流れて全身に行き渡る。挫いた右足すらも、そのじくじくとして陰湿な熱が失われた。それ自体は良いことなのかもしれないが、入れ違いのように生じた息苦しさや胸の軋みは耐えがたい。むしろ、先程の腫れの方がまだ我慢できた。

「ちょっと冗談で言ってみただけで、ルヴァシュを困らせるつもりはなかったんだけど……」

「そう? それならいいけど、」

 揺らめく火影に照らされた頭部が傾ぎ、ふわりといかにも柔らかな髪が、湿って温かな呼気が、むき出しの素肌をくすぐる。

「僕は弱くて、こんなことしかできないから」

 苔色の虹彩に映える茶色の睫毛が震えると、ツァレの心も慄いた。

「……ルヴァシュ」

「ほんとに、ごめんね」

 少女の艶やかな皮膚を濡らすのは少年の眦から零れ落ちた透明な雫だった。踝から甲にかけて、足指の付け根から爪先までを這う一滴は、拭う間もなく乾いてゆく。

 ――魂は、神の火花は、もしかしたら涙にこそ宿っているのかもしれない。

 二つ脚を例外とすれば、ツァレが知る限り全ての動物は涙を流さない。我が身を蝕むまで悔やみ嘆き、枯れ果てるまで悲嘆の証を迸らせるのは、人間だけの行いなのだ。

 そここそが魂と神性の在り処だと神官でさえも断言しているのに、激情に駆られ引き裂いた心臓はただただ虚ろな室が広がるばかりの、空っぽの入れ物だった。今になって冷静になって考えてみれば、あれは罪を犯しけものになった人間なのだから、魂を宿していなくて当然かもしれない。けれども、あるべき神性すら見いだせなかったのは不思議だった。

「……悪い事してないのに謝るなんて、やっぱりルヴァシュは変だね」

 もしもあの塩辛い、汗とそう大して変わらぬ風味の液体に、人と二つ脚を隔てる秘密が隠されているとしたら。

「あたしよりよく泣くし」

 己の足先から滴るそれを舐れば、自分も人間になれるのだろうか。

 こんなことは、考えるだけ無駄だ。もしも奇跡が起こってこの身に魂が与えられたとしても、ルヴァシュと並ぶに値する身にはなれないのだから、全ては無意味なのだから。

「それも、ごめん」

「また謝った」

 人間は、どうしてけものの身に堕ちるのに罪を犯すのだろう。魂は備えぬが聖性の欠片は有する咎人が、二つ脚と変わらぬけものだというのは本当なのだろうか。処刑の話を語って聞かせる際の父の目の澱みは、未だに夢の中に出て来る。

『いいか、ツァレ』 

 あれは真実を語るのではなく……。

 幼き日に埋められた氷の欠片よりも、薄い胸部を突き刺す柘榴の棘よりも鋭い予感は、紛れもなくツァレの裡から生まれたものだった。

 芽吹いて間もない若芽は脆弱だが、幾多の困難を掻い潜り成長した暁には厄介ないばらになる。だから、災厄の種はなるべく早く摘んでしまわなければならない。父がツァレに嘘偽りを教えるはずはないのだから。

 世界を囲い、守り、戒める仕組みがそう容易に変わっては困る。蟻でさえ、生まれ持った軛から逃れることはできない。現に、ツァレが何度か捕まえたことのある女王蟻は、その体躯で他との位の差を歴然と示していた。神により下等と定められた生き物ですら、生まれ持った軛から逃れることはできないのだ。人間ならばなおさらそうだろう。

 働き蟻は女王蟻になれない。二つ脚は人間になれない。ならば、人間から魂を奪う「罪」とはどのようなものなのだろうか。

「ねえ、ルヴァシュ」

 ひび割れ、血が滲む唇が蠢くと、少年の華奢な肩がぴくりと震えた。

「な、なに?」

「今度は変なこと言わないから、安心していいよ」 

「う、うん」

 深く深く息を吸い、荒れ狂う臓器を宥める。

「世の中にはいろんな悪いことがあるけど、ルヴァシュは何が一番いけないことだと思う?」

 充血した眼の間を流れる、高くも低くもない鼻梁の下で控える薔薇色の亀裂が発したのは、かつての父の言葉と同一だった。

 喉元にせり上がる熱を噛み殺し、そっと確かめた結び目は固い。

「そっか。……ありがとう」

 忌まわしき何かを封じ込めるかのような結玉を弛ませるには手間が掛かった。いっそ、遙か東方の伝説の、決して解けぬ縛目を断ち切った王のように、剣でもって終わらせてしまえばいい。

 頭の片隅は手早く楽な方策を取り上げているのに、実行することができなかったのは、ルヴァシュが与えてくれた物を傷つけたくなかったからだ。

 僅か十日後に迫った新年祭の準備に追われる彼とは長らく顔を合わせていない。ルヴァシュが最後に洞窟を訪れたのは――

「蟻」

 今この瞬間はツァレの掌中にある蜂蜜の壺を持ってきてくれた、厳寒の午後だった。

「いいものあげる」

 悴んだ指先から黄金が降る。木の乾いた洞は春の花の香りで満たされ、とろりと粘つくさざなみは慌てふためく黒粒を呑みこむ。

「あ、」

 蜜の糸に手足を絡め取られ縛められた蟻の数匹は、甘い海に沈んだまま。同胞に貪られ引きちぎられた彼らの断片は雪に蕩けて入り混じり凍り付いて、強風に砕かれ散ってしまうだろう。

 早く春が来ればいい。少女は灰色の眼で曇天を睨め付ける。

 生涯で最も波乱に満ちた――突然の、そして永遠の父との別離を余儀なくされ、かねてより望んでいた「友」と出会った――年に終幕が落とされれば、陰鬱な死の季節の終焉も近づく。そうすれば深い眠りに就いた獣たちは目覚めて、森は再び賑やかになるだろう。

 来るべき生命弾ける日の輝かしさが、太陽が隠れた空と競い合うかのごとき瞳に喜びを灯す。痩せて一層大きさが際立つ眼は、厳酷な刻を避けて穴に籠らぬけものの影を捉え、零れ落ちんばかりに見開かれた。

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