にがよもぎの星 Ⅱ

 温かな毛皮に包まれた踵が霜を砕く。微細な氷粒が残したあえかな悲鳴はしなやかに流れる銀に弾かれ、凍りついて地に落ちた。

他者の熱を吸い込んだ霜焼けが騒めく。痒み、じくじくとした熱で少女を苛むのは四肢の末端に巣食う腫れだけではなかった。

 汗と生理的な涙でぼやける視界に白い手が飛び込んでくる。柔らかな肌は赤らんだ汚泥を滴らせる前髪をそっとかき分けてくれた。白い額を撫でられると、胸の奥に潜む臓器がびくりと跳ねた。

「顔、赤いよ。……もしかして、熱がある?」

 緩やかな弧を描く白茶の毛が薄い頬を掠める。緑の瞳は高さの変わらない鉛色の双眸を真っ直ぐに覗きこんでいた。

「別に、熱なんてないよ。……ルヴァシュの勘違いじゃない?」

 真摯な眼差しがもたらすものから逃れるべく、ついと仰いだ空は背の高い樹々と黄土色の門で遮られている。堅牢だが色褪せた石が隔てるのは、偽りの創造主の二つの被造物。人間――神が去ったこの世界の主と、人間の支配下に置かれる動物たちだ。

 太陽が登れば消え去る夜露の如き人間。この儚い存在には想像もできぬ時を見つめ続ける石すらも不変ではなく、やがて風雨に削られ塵となる。目に見えず実態を備えぬ透徹なうねりが血と汗が滲む努力の証を消し去ってしまう瞬間を迎えずとも、地震や大水などの天災に見舞われれば、永遠を体現しているかのようなこの眺めは崩れ去ってしまうのだ。

 人間が築き上げた諸々が天上の至高者の掌の上に乗せられている以上、それは甘んじて受けるべき罰である。

「そっか」

 この刹那のぬくもりも、いつかツァレの息吹が途絶えたその時に、共に深淵に沈んでしまうのだ。誰にも語り継がれぬ想いは花を咲かせはしても実は結ばない。だからこそ、細やかだが鋭利ないばらに蝕まれ続けた、痩せた土壌に根付いた若葉が尊かった。それが自分だけが知る、自分だけの宝物であるから。

 この瑞々しい芽はいずれ毒を垂らし、ただでさえ傷んだ指先を爛れさせるかもしれない。けれども、それが彼に与えられたのなら、ツァレは痛みすら頭を垂れて受け取るだろう。

「でも、いつまでも寒いとこにいると体に悪いから、」

 不意に骨ばった肩に腕を回され、痩せて肉付きが悪い身体を引き寄せられる。ぐらりと揺らいだ肢体の重みがかかった右足が上げた悲鳴は悴んだ耳には届かない。

「早くツァレの洞窟に戻ろう」

 なぜならツァレの意識は、傍らの少年の全てを捉えるために奉げられているから。

「うん」

 淡い薔薇色の亀裂から漏れる白い蒸気が乱れれば、そっと――ルヴァシュには悟られぬように、己が身体の重心を片側に傾ける。

 四半刻前、ルヴァシュは捻った足首を持て余すツァレに華奢な背を差し出しなんとか立ち上がったものの、前に進むことはできなかった。細い脚は二人分の体重を支えきれず、生まれたての小鹿よりも震えていた。

「……僕がもっと大きかったら、ツァレの力になれたのに」

 前のめりに倒れ踝までを雪に埋めた少年の丸い目の端に羞恥の涙が滲む様は可愛らしく、小さな心臓は場違いな感情に軋んだのだった。

「仕方ないよ。ルヴァシュはあたしより力が弱いんだから」 

『これから俺が言うのは大切なことだから、絶対に忘れるなよ』

 かつての父の言葉が唐突に脳裏で再現される。

「ほんとに、ごめんね」

「別に、そんなに謝らなくてもいいよ」

 呼気に濡れ艶めく唇は女であるツァレよりも色艶よく厚みがあり、手を伸ばせば容易に触れられる位置にある。己の血色に乏しいそれは撫で押しても歯の硬さを率直に伝えるばかりだが、薄紅の肉はふわりと指先を包むだろう。――いや。ルヴァシュが柔らかいのは唇だけではない。

「ルヴァシュはどうしてそんなに謝るの?」

 神殿の写本係の見習いとして常日頃から聖域の中に閉じこもる彼の二の腕は、がっちりと詰まった、少女にあるまじき筋肉で覆われたツァレの腕よりも穏やかで温かだ。蝋めいた白さの胸板は、流石に肋骨の上に貧相な脂肪を乗せた己の胸よりも固かったが、太腿はどうだろう。かつて諦めたあの肉は、予想に反して骨ばっても筋張ってもいないかもしれない。

「え?」

 また彼の胸に宿るものも、深い亀裂が奔るまでにひび割れ乾いたツァレの心とは比べ物にならぬはずだ。

「ずっと思ってたけど、ルヴァシュはあたしを虐めてもいないのに謝るなんて、変だよ」

 何の気なしに押し出した問いを突き付けると、少年の滑らかな皮膚が強張った。

「なんでって言われても、それは――」 

 焦げ茶の脚衣に隠された皮膚も肌理細やかで、押せば丸い光の輪を作るはずだ。

 恐らくはルヴァシュは自分を信頼しきっているから、巧みにどこかの暗がり――あるいはツァレが住まう洞窟に連れ込んで押し倒せば、彼を意のままにすることもできるだろう。

 ツァレが狼であるならばルヴァシュは羊。自分たちの力量の隔たりは右足をくじいた程度では埋まるまい。

『いいか、ツァレ』 

 もがく四肢を絡め取り、かつて父がツァレにもいつかそうしてくれる――父にとっての母、母にとっての父が――伴侶が現れると教えてくれたように、ふっくらした頬を両の手で挟んで慌てふためく少年にくちづけたら。そうしたら、ツァレは彼と一つになることができるのかもしれない。もしくは、かつて父が母に最初はそうされたと語ったように、腹部に拳をめり込ませ、気絶させてしまえば。

 しかしルヴァシュは聖霊を伴侶とする身に科せられた掟を破った咎を背負わされ、柘榴に囲まれた禁域で捧げられる贄となる。神官たちは人間の女同様にけものの雌との交わりも禁じられているのだから、それは当然の結末なのだ。そもそも、父と母のように元々好き合っていたのならばともかく、ツァレが彼にそんなことをしてしまえば、ルヴァシュに嫌われてしまうに決まっている。

 ルヴァシュとツァレの境界線は近くに在る平行線のようなもので、永久に交わらない。どんなにツァレが希っても万物を貫き縛める法則は変わらないのだ。

 人間は罪の木の実を齧れば魂を失うが、けものはけもののまま。この理不尽さすら漂わせる決まりは、峻厳なる雪深き山々の頂から吹き荒れる風ですら消失させることはできない。

 己の命を分かち合い、または受け継ぐ者としてではなく、憐憫の情に駆られて差し出された犠牲は虚しいだろう。ツァレだって、一陣の木枯らしにさえ攫われてしまいそうな不確かで歪な贈り物など欲しくない。

 しかも残念なことに、ルヴァシュにとってのツァレは、ツァレにとっての蟻のような、慈しみはするが唯一絶対ではない存在である。だからルヴァシュを挟んで聖霊と張り合っても徒労に終わるだけなのだ。

「ルヴァシュはなんにもしてないじゃない」

「……そうだね」

 何の気なしに吐き出した囁きが思いのほか鋭く、意図せぬ非難の調子すら纏っていたのは、ツァレの中に自覚のない妬心と苛立ちが潜んでいたからだろう。

 祭日の折々を除けば人通りなど絶えて等しい門は侘しく、磨かれた長靴と擦り切れた栗鼠の皮が奏でる音が虚ろに木霊する。 

「だから、僕は、」

 風雨に晒され色褪せた黄土の石壁と森の狭間。ルヴァシュは唐突に、人間と二つ脚どちらにも属さぬ狭い世界で足を止めた。そうしようとすれば聖なる都にも恐ろしきけものの塒にも容易に潜り込める、どっちつかずの場所で。

「ねえ、ツァレ」

 生え揃った睫毛が懊悩を刻んでもなおあどけない面に落とす影は長く濃い。癖のある髪よりも濃い茶色の眉の間には、柔和な面差しには不釣り合いな皺が刻まれている。

 束の間であるはずなのにもどかしさすら覚える、破りがたい沈黙を引き裂いたのは、幼き日のツァレの脳裏に泡沫のごとく去来しては消え去っていった仮定だった。

「ツァレは、もしここから出ていけるとしたら、どうする?」

 少年が暗に仄めかしたように、ツァレの生活は決して安らかではない。

 ツァレは良くは知らないし、追及もしなかった両親の罪により同胞である二つ脚にすら拒絶され、神官たちには踏まれ打たれる日常は惨苦に満ち満ちている。恐るべき暗黒を駆逐する太陽であり月であった父。唯一の頼りを喪ってからの日々は、盲人が杖も案内もなしに獣道に挑むに等しくて。

「ここじゃないどこかでは人間として暮らせるのなら――」

 降りかかる痛みも爪はじきにされる憤りも、己を取り巻く不可避の災害として割り切れば、いつしか斑の牛の皮の穴から洞に忍び込む雨粒と同じになる。

 土と戯れる農民は、一生に一度や二度は旱魃や大雨に額に汗して実らせた麦穂を刈り取られてしまうだろう。牧人が率いる群れが、予期せぬ流行り病や猛獣の牙によって全滅させられることもあるだろう。要するに、ツァレを虐げる苦難は他より突出しているが特別ではない。炉端や井戸端で人々の口を賑わわせるが直に忘れ去られる、ありふれたものなのだ。

 住み慣れた森を離れ遙か彼方の地に移っても、そこではそこの試練がツァレを待ち受けているだろう。ならば無益な足掻きは一切せずに、予測できぬ運命のうねりに身を任せた方が余程楽だ。それに、ここには――

「ルヴァシュ、ちょっとあたしについてきて」  

 伏せた目蓋を持ち上げ、口角を持ち上げる。か細い喉を強張らせる情動によってくぐもった叫びは、低く掠れていてもなお澄んで清らかだった。  

「え、ちょ、だ、駄目だよ」

 腫れ、陰湿な熱が絡む足を持ち上げると、困惑と焦燥がせめぎ合う瞳に誹謗の色が加わる。

「ツァレは足を痛めてるんだから、無理をしないで真っ直ぐ家に……」

「いいから」

 ぶつぶつと、途切れながらも続いた忠告が止んだのは、ルヴァシュにもなじみがあるだろう楢の大木の下に辿りついた直後だった。

「ここがどうしたの?」

 胡乱げに辺りを眺める少年の足元にはまばらな苦蓬にがよもぎの群れが隠れている。時期が巡れば銀がかった――ルヴァシュの瞳とはまた違う緑に彩られるそこで眠るのは、苦く舌を刺す植物だけではなかった。

「そこにね、あたしのお父さんがいるの」

「――え?」

 少年は彼にしては機敏な動作で飛び跳ね、数瞬前まで立っていた場所をまじまじと注視する。

「あたしがね、そこにお父さんを埋めたんだ」

「……そっか」

「あたしのお母さんや、生まれてすぐ死んだお兄さんやお姉さん、みんながそこにいるって、お父さんが言ってたから」

 ツァレが言わんとすることを察したのだろう。何の変哲もない地面に向ける少年の横顔には、面識もない死者への哀悼すら読み取れる静謐が落ちている。幾度か目にした覚えもある翳りは、優しげではあるがありふれていて平凡な造作を厳かに彩っていた。

「この木の側にいると、まだお父さんが生きてる気がする」

 既に冷たくなっていた亡骸に縋りついた秋の終わりは肌寒かったが、大柄な肉体を引きずって運ぶと、額から首筋までに透明な珠が流れた。転がっていた木の枝のみを頼りに父を納める穴を掘るのは骨が折れ、手の甲で汗を拭えば潰れた肉刺がひりついた。

 けれど、父はまだ生きているのかもしれない。「待ってたか?」と口笛を吹きながら、野太い笑いを轟かせながら射止めた獲物を放り投げてこないなんて、どうして断言できる。

「だからあたしはここにいるよ」

 永遠に戻らぬ日々の明るみはいまだ眼裏に鮮明に蘇る。

「あたしはお父さんやお母さん、お兄さんお姉さんたちと――みんなとずっとここにいる」 

 太陽と月が沈んだ仄暗い世界で見出した星明かりは、光芒の残照と同等の価値があっても、大いなる天体になり替わることはできない。だがもしも、己の胸の裡をすっかり吐露してもなお、ルヴァシュが「自分を選べ」と迫ってくるのなら――

「……そっか。そうなんだね」

 朧な期待は実体を備える前に微かな微笑に散らされ、神が定めた掟以外の全てを蹴散らす疾風と共に少女の手元からすり抜けた。

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