にがよもぎの星 Ⅰ

 血と雪が一つになる。穢れなき白は苦痛を啜り、悪しき女神が住まう地下の深淵の世界に堕ちていった。

 聖域の中の唯一の汚濁に近づく者に禁忌を教える樹は、びょうびょうと荒れ狂う木枯らしのために、手折られんばかりに撓っている。葉も花も実も備えぬむき出しの幹は厳めしく寂しげで、ツァレは灰色の眼をそっと伏せた。

 大風に煽られた毛髪は針のようで、しなやかなそれが頬や首筋を掠めると全身が慄く。大気は細い手が握る短剣の切先よりも鋭い。冷たいうねりは柔らかな白皙を引き裂き、脂肪と筋肉を貫いて脆い骨格までを凍てつかせた。

 小刻みに震える唇から零れる呼気は途切れない流れに攫われ消えてゆく。

 ――この風が何もかもを吹き飛ばしてくれたら、いつかの禿鷲の同胞を山々の頂から運んでくれたらいいのに。

 くすみぼやけた世界を切り裂く翼の黒さはどんなにか鮮やかで力強いだろう。全てを射抜く黄色の目は、厚い雲の面紗を被って離さない、意気地のない太陽など足元にも及ばぬほど輝かしいはずだ。あの鋭い嘴が己が短剣の代わりに咎人の胸を開き、とうに脈拍を止めただろう生命の源を抉り出してくれたら……。

 少女はあえかな希望が叶わぬと悟りながらしばし薄い目蓋を降ろす。数瞬の後、曇天を宿した双眸は白き褥の上に転がる肉塊を映し、微かに膨らんだ胸には失望と落胆の棘が突き刺さった。

 粗末な衣に包まれた少年の胴からは枯れ枝のような四肢だけが伸びている。健やかに上下することはもう永遠にない胸板は傷一つない。当然、罪に塗れた神の火花を閉じ込めた心臓は肉の檻に囚われたままだろう。

 このような吹雪の日には死肉を啄むあの鳥とて巣に籠るだろう。世の獣や鳥たちは温かな洞に、人間たちは温かに爆ぜる炉端に集う。生きとし生ける全てが血を分けた親しい者たちと身を寄せ合う冬の盛り。獣たちから拝借した毛皮でさえも太刀打ちできぬ寒気に苛まれているのは自分と神官たちぐらいだ。

「早うせぬか、このけものめ」

 眦を吊り上げ苛立ちを表現する男の首には、深い皺と少なからぬ薄茶の染みが刻まれている。神官とて人の子だ。滅多にその感情を面に出さぬ彼らも、この寒さは許容しがたいのだろう。

 早く神殿の内に戻り、香辛料を入れて熱した葡萄酒でこの氷と化した手足を温めたい。赤らんだ耳は、潔斎と清貧を友とする身にはいささか似つかわしくない囁きを捉えた。

「……近く大儀を控えた御身が御風邪を召されてはなりませぬ。どうぞ、中へ」 

 耳慣れぬ男の申し出に応じ、大神官は白亜の穹窿目がけて踵を返す。

「よいか、お前たち」

 足音一つ立てぬように厳粛に、しかし素早く歩を進める老人は居並ぶ若者たちに忠告を与えることを忘れはしなかった。

「これを二度とこのように私を煩わせぬように躾けておけ」

 忌々しげな囁きは真っ直ぐにツァレに――役立たずのけものに向けられている。

「ことの次第はそなたらの如何に関わる。ゆめ忘れてはならぬぞ」

 青い血管が浮く血色が悪い甲には五本の柘榴の棘が生えている。その指先が己が胸を指した時、ツァレは言い知れぬ息苦しさに襲われた。細い脚は役割を放棄し、雪の上に崩れ落ちた。

 青い衣の上に羊毛の毛氈を重ねた若者たちの一人は、引き締まった腕を持ち上げ、

「このままでは私たちが凍えてしまうからな」

 うっすらと雪が積もった亡骸めがけて放り投げる。華奢な身体は歪な放物線を描き、頭部を喪った躯に折り重なった。幼いと評することすらできる罪人の肉は固く、強かに大地に打ち付けられる衝撃を和らげはしない。

 あらぬ方向に捻った右足首から生じた熱は心臓から全身へと届き、小さな旋毛から悴む爪先までを燃え上がらせた。真っ赤に熱せられた炭を押し付けられたかのように疼くそこは、やがて歩行すら困難になるまで腫れあがるだろう。

 疼痛は、先ほどまでは忌々しいものでしかなかった冷気への愛着さえ芽生えさせる。擦り切れた栗鼠の毛の些細な刺激すら疎ましい。

「……っ」

 じくじくと鈍い、けれども激しく引き攣れる圧倒的な熱量の前では、粗い布目から忍び込み蒼ざめた肌を濡らし汚す薄紅は無いに等しいものだった。 

 困苦によって細められた眼差しの先には茶色の頭部がある。

 近頃の神殿では、蛮族との聖戦で命を散らした勇士たちを弔うための鐘の音が止むことはないに等しい。久方ぶりの処刑のために、短刀を携え柘榴の垣根をかき分け禁域に辿りついたツァレを出迎えたのは成人の儀を迎えてもいない少年だった。

 最初ツァレは、己が目と正気を疑った。薬湯によって眠らされた彼がルヴァシュに見えたから。これが彼であるはずはないのに。

 少年がルヴァシュではありえない、名も声も知らぬ咎人だと気づくまでには大した時間を要しなかった。けれどもツァレの手足からは力が抜け、そうしなければならないと理解しているのにしばらく斧を振るうことができなかった。ようやっと全身で生命を刈り取る衝撃を味わった際には、骨が浮いた背は冬だというのに不快な汗で覆われていた。

 縛められた足首を心中で痛罵し、引きずるように身を起こして暴いた胸元にはもちろん数日前にルヴァシュの胸に刻まれた痣はない。

 少女はそれが見当違いのものだと自覚しながらも、どことなく慕わしい少年と共通する面影を宿した彼に激情を募らせる。

 好天を保っていた空が、よりによって処刑の日に機嫌を悪くしたことも。足を捻ったことも、腹が減っていることも。手足の指が霜焼けでこそばゆいことも、全てこの少年が悪い。

 この少年がルヴァシュに似ているから、自分は定めを完遂することができなかった。今まで多少の失敗はしていても、心中では悲鳴を上げていたとしても、与えられた運命を放棄することはなかったのに。

 少女は己が怒りがは八つ当たりに過ぎぬと自覚しながらも、衝動に身を任せて亡骸の胸元を暴く。鉛色の天の下に晒された肌は垢に塗れ薄汚れていたが肌理細やかだった。

 少年は既にほとんどの生命を流し尽くしてしまったのだろう。しっとりとしたそこに刃を沈め肉を割いても、鉄錆は仄かに滲むだけで溢れない。だが彼の奥深くに潜んでいたぬくもりは凍てついた末端を蕩かし、途絶えていた循環を復活させた。

 感覚が蘇った指先で千切った器官は成人のそれよりも小さく頼りない。

 ツァレとルヴァシュを――二つ脚と人間を隔てるのは、この不確かな肉に魂と神性が宿っているかどうかなのだ。ぬらぬらと艶めく表面はただただおぞましいだけで、遠くの至高神に由来する欠片の美しさも、清らかさも見いだせなかった。ならば人間の裡にある聖性は、最も尊い臓物の内側に隠されているのだろう。

 少女は深く息を吸い、そっと掌中の塊を握り締める。野を駆ける獣には及ばぬ、しかし尖った爪は容易く滑らかな肉に食い込んだ。

「お前、何を……」

 成熟した女の乳房を連想させる、ぐずぐずにふやけていながら芯に弾力を残した臓物は躊躇いなくあかぎれが目立つ指を呑みこむ。赤黒い洞が亀裂になるまで押し広げ、両の手で掴んで引き裂くと、断裂はますます深くなった。

 拳大の肉の断末魔の悲鳴は耳を澄まさねば聞き逃してしまうほどに幽かだった。

 とうとう二つの断片と化したそれの内側には幾つかの室がある。

「え?」

 畏れを抱きながら抱いていた至高者への憧憬がひび割れた。地に叩きつけられた土の器のごとく呆気なく。

 心と同じで、真に尊いものは目に見えないものかもしれない。けれどもこれでは、ツァレが求めた、人間とそれ以外を分かつに相応しい煌めきなど、最初から存在していなかったみたいではないか。永久に錆びぬはずの黄金の鎖が、きらびやかな鍍金の下に腐食した現実を隠していたなんて。

 急に、全てが馬鹿馬鹿しくなった。潰れた肉の片割れを、滅多に過らぬ怯えと戸惑いを面に張り付けた神官の足元に放る。神からの贈り物のかつての在り処の飛沫で汚された長靴は、曇り一つ許さぬほどに磨かれていたからこそ滑稽だった。

 少女は肉の片割れを捻り、痛んだ右足で踏みしめる。肉体と精神――己を構成する全てを賭けて。

「出てこれるなら、出てきてみろ」

 全身を駆け巡る激痛を噛み殺し、喉も裂けんばかりの大声で叫ぶ。縺れ縮こまる舌で押し出された呪詛は慣れ親しんだ胎内から押し出され、怯え喚く赤子の雄叫びだった。

「大切な物をあたしにこんなにされて悔しいなら、」

 厚い靴底で遮られていてもなお、肉が潰れる生々しさは堪えきれぬ嘔吐感と一体となって、足裏から旋毛までを苛む。

「あたしを殺して止めればいいんだ!」

 名を呼ぶことすら赦されぬ神。あるいは大神ヤシャリ。

 少女が罵りと不敬を突き付けながらも焦がれる天空の至高者は、頑なに沈黙を守ったまま応えない。

 至高神は温情と慈悲を垂れ魂を与えてやりながらも、自らに背いた二つ脚を疎む。大神は配偶者であった女神に生み出された女を疎んじる。ならば二つ脚であり女であるツァレは、一体どの神に縋って生きていけばいいのか。 

 やっぱり神さまはあたしのことが嫌いなんだ。

 何より明確な拒絶の証はあえかな希望ごと少女を打ち砕き、細い身体から意思の力を奪い去った。神に挑んでいた最中は興奮と緊張に張りつめていた四肢が、真白の上にだらりと投げ出される。

 自分は仲間である二つ脚からも弾かれ見下される、みすぼらしいけものなのだ。生まれ落ちてすぐ母を喪い、父も死した今となってはもはや誰にも愛されぬ、次代に命を繋ぐこともままならぬ身など、いっそこのままここで凍り付いて砕け散ってしまえばいい。そうすればツァレは父母やきょうだいたちがその一部となった、原初の闇に還ることができる。

 その暗黒を支配しているのは、男であり女である醜怪な創造主なのか。はたまた兄であり夫であった大神を憎む女神なのかは判然としない。だが、塵となり消え去る己にとってはどちらでも同じだ。

 霞み、薄れゆく意識を誰かの呼び声が引き留める。

「ツァレ」

 その高さは少女めいていたが、澄んで明るい響きは少年のものだった。

「起きて」

 しかと肩を掴み揺さぶる掌のぬくもりが少女を永久の微睡みから連れ戻す。

「こんなとこで寝てたら死んじゃうよ!」

 涙すら流れぬほどに乾いた瞳が映すのは、柔和な面差しを焦燥と不安で歪めた少年の姿だった。

「ルヴァシュ?」

 彼の丸く優しい目元には透明な光が――涙の粒がある。熱い熱いそれはうつぶせた少女の項に降り注ぎ、体表の氷を融かして心までに染み渡った。抱き寄せられ、密着した肌から伝わる体温も。

 少年は血と肉片に塗れた手を躊躇いなく、奪うように掴む。

「……ツァレが儀式を放棄して、先輩たちはとても怒ってる」

 見つめ合う少年と少女の距離は、互いの呼気が髪をそよがせ、生ある限り途切れなく奏でられる楽の振動が感じられるほど近しい。

 このまま彼と溶け合って一つになれたら、自分も人間になれたらいいのに。

「だから罰を受ける前に、ほとぼりが冷めるまでここから逃げよう」

 虚ろな胸にありえぬ願望の炎が灯された瞬間。この日一番の烈風が吹き荒れ、たわむ柘榴の枝をへし折った。

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