わたしは妬む神である Ⅵ

 結うには足りぬ長さの毛髪は引けばぷつりと千切れてしまうだろう。傷んだ銀糸はしかし古びた金属の和かな光沢を放ち、北風が吹けばさらさらと流れる。しかし冷たげな色合いに反して温かな印象を与える流れは、今は土と埃が絡んで汚れていた。 

 血が通っているのかと不安を覚える、赤みに乏しい頬もまた大地に押し付けられている。薄い胸はひび割れた唇と同じ律動で上下していた。

 音のない悲痛な喘ぎは木立の奥の少年の耳にも届く。

 少年は濡れた瞳を目蓋で遮り、悴む耳を柔らかな掌で塞いだ。けれども眼裏に焼き付いた陰惨は振り払おうともがくほどに鮮やかに蘇る。

「う、」

 五指の微かな隙間から鼓膜に忍び込む呻きを止めるにはどうしたら良いのかは分かり切っている。ルヴァシュ自身が淡々と繰り広げられる暴力から彼女を救うには及ばずとも、止めに入ってやればいいのだ。高位の神官に言付かって彼らを呼びに来たとでもうそぶけば、横たわった少女の腹を尖った爪先で抉る男はたちまちどこぞに消え去ってゆくだろう。

 一つ二つの小さな嘘を紡ぐだけで、少女は苦悶から解放される。なのにどうして踏まれ蹴られてもいない、赤や青の痣ではなく上質な牛革に覆われたこの足はなぜ動かないのか。頭では故郷を離れてから初めてできた友人の下に駆け寄るべきだと理解している。なのに身体も心も、かたかたと小刻みに震えるばかりで役に立たない。

 ツァレは女の子だけど僕よりも丈夫だから、少しぐらい……。

 脳裏に過った思考のおぞましさは、他でもないルヴァシュ自身を打ちのめした。

 こんなにも弱くて醜い人間が、義理の兄を「救う」だなんて馬鹿げている。他の見習いの幾人かが陰で嗤っているように、さっさと田舎に帰って兄の手伝いをして羊を追っていたほうがいい。鄙びた小村出身の自分はどんなに研鑽し修行に励んでも、見習いから抜け出すのがせいぜいの、うだつの上がらぬ一生を送ると決まっているのだから。代々有力な位を独占する幾つかの家系に生まれついただけで、未来の栄光を約束された者たちと違って。

 七つの天を貫き至高神の坐所まで届かんばかりにそびえる尖塔。遥かな高みから降る葬礼の調べは清澄であるはずなのにもの悲しい。

「行くぞ」

 少女を取り囲んでいた男達は鐘の一突きを合図に白亜の穹窿に吸い込まれていった。

「だ、大丈夫?」

 自分は結局、こうして全てが終わった後でしか、彼女に手を差し出すことしかできない。

「……ルヴァシュ」

 ひび割れた唇の端から細い、尖った顎にかけてを臓腑からせり上がった液体で汚れた白皙は、汚物に塗れているはずなのに清らかで。

「あたしは、ひとりで立てる」 

 何より、誇り高く力強かった。大きな灰色の瞳は生理的に滲んだ涙で潤み、弓矢に囲まれた狼の眼のぎらついた光を放っている。余計な施しなどしてくれるな。情けないお前の慈悲など要らぬとばかりに。ルヴァシュの情けなさを糾弾し、自身にけものとしての運命を与えた神に挑むように。

 それが彼女に利をもたらさぬ、実を結ばぬものであっても、ツァレが差し出された贈り物を払いのけるはずがない。彼女は普段は考えることといえば蟻か水切りぐらいのぼんやりとした少女だが、研ぎ澄まされた勘と野の獣めいた知性を備えている。

 聡明な彼女が、一時の感情に駆られて己が身を追い詰める愚を犯すはずはない。ツァレは理由なく他者の善意を踏みにじる傲慢な少女ではない。

「で、でも」

 だが一瞬、唾棄すべき自身の愚かしさを見抜かれたようで、呼吸すらもできなくなった。特別に意識せずともできていたことが、こんなにも難しいことだったなんて。

「手、よごれると悪いから」

 せめて銀の毛先の土塊を払おうと伸ばした手を制するのは、くぐもっているが柔らかな響き。

「あたしは大丈夫」

「……う、うん」

 行き場を失った指先は虚しく宙を切り、何物をも掴まなかった。

「それより、今日は何する? 最近は栗鼠も肥って美味しくなってきたから、一緒に罠を仕掛けてみない?」

 細い肢体を蝕んでいた苦痛などなかったように吊り上げられた口角は不敵とも大胆とも受け取れる。 

 整った弧を描くこの亀裂はかつて、今しがた食肉だと断言した動物を愛でる言葉を発していたことを、想起せずにはいられなかった。


「ねえ、あそこに白い栗鼠がいるよ」

「そうだね。可愛いね」

「うん。でも、こういうやつは他のやつよりも弱いし目立つから、きっとすぐ死んじゃうだろうね」

 凛とした横顔に浮かんだのは無垢で残酷な微笑だった。

 この猛々しい少女ならば、幼かった自分がそうしたように、手ずから餌を与えてまで虚弱な羊の仔を生き永らえさせはすまい。父同様に、屠って己や家族の生命の源として供し、その肉を食んだだろう。それは非常に賢明な、神の意に適った選択なのだ。

 後日、好んで登る楢の大木の根元にいじらしい骸を見出した少女は、歓声を上げてその尾に刃を食いこませた。

「見て! 雪みたいでしょ?」

 高々と掲げられた毛の束は真白だが、少女の足元には無残な肉塊が転がっている。紅く円らだった眼は残忍な嘴に抉り取られていて、はみ出た腸には濁って穢い粒が群がり蠢いていた。

 しかしツァレは、人の手には負えぬ野生の厳しさや醜悪さと直面してなお、彼女が生きる世界を愛するのだ。

 鋭い双眸は曇天を映しているはずなのに澄み切っている。

「あたし、こんなに綺麗な尻尾を拾ったのは初めて」

 自分は姉の死を嘆くあまり束の間とはいえ神を呪ったのに、どうして彼女は穢れないままでいられるのだろう。獰猛さすら漂わせる笑顔は、一陣の風となって少年の胸で吹き荒ぶ。

 ツァレは気ままで厳格な自然。あらゆるものを揺るがす木枯らしそのものなのだ。透徹なうねりは富める者の替えのある外套も、貧乏人のたった一枚の晴着をも無差別に吹き飛ばす。透徹な風たる少女は、自分のように無為な後悔に囚われることもない。

 あの時ああしてやれば良かったと悔やむぐらいなら、なぜ行動しなかったのだ。彼女ならばきっと、長く己の眠りを妨げた煩悶を一笑に付すだろう。

 ――ツァレは身体も心も、あらゆる意味で自分より強くて勇敢なのだ。

 微かな自負心に阻まれ呑みこめぬまま喉元で痞えていた蟠りを胃の腑まで落としたのは、名も知らぬ少年の俊敏な一撃。

 初めて出会った他者から下された率直な宣告は、脆弱な腹部や胸元を打ち付ける拳に勝った。

「あんた、弱いんだな」

 銀髪の彼の面差しが、友人である少女のそれと重なって。ツァレ自身に己の愚かしさを誹謗されているようで。黙認してきた彼女の苦痛が我が身に降りかかってきたようで。

 自分は一目でそれと分かるほど弱い。

「羊も、そ、でしょ?」

 だからこそ女であるツァレは、顔に傷を拵えてまでルヴァシュを守ろうとしたのだ。

「ツァレ」 

 ルヴァシュはからからと降り注ぐ雹に苛まれながら、意識を失った身体を掻き抱かずにはいられなかった。

「今まで、ほんとに、」

 彼女は耐えてきたのだ。ルヴァシュはたったの一撃で動けなくなった拳など足元にも及ばぬ暴力の的となりながら、既に頼れる者も亡い日々を。ツァレは手探りで暗がりを歩むような希望の光射さぬ深淵と、独りで戦っていたのだ。

 こんなこと、ツァレが起きてる時に言わなきゃ意味ないのに。

 蟠る自責は鼓動と共に増幅し、薄い肉を突き破らんばかりに増幅する。嫌悪を覚えるほど大きな心臓の蠢きの他に聞こえるのは、柔らかな白茶に覆われた耳朶をくすぐるあえかな息遣いだけだった。

 固く引き締まっているがか細い腕だけで己の明日を切り開くのは、どんなに大変だっただろう。だらりと垂れる四肢を引きずり、ようやく見慣れた洞窟まで辿りついた時、少年の背は汗に濡れていた。脇腹を指す針は一呼吸ごとに数を増し、なけなしの気力と体力を奪う。

 気を抜けば崩れ落ちる手足を叱咤し、ひしと目蓋を降ろした少女を横たえる。こつこつと音を響かせる岩盤は固く、身を横たえても疲れなど癒せそうになかった。

「なにか、食べ物は」

 せめて然るべき栄養を採らせるべく、眠る少女への申し訳なさを押し殺して彼女の住居を探索しても、麦の一粒も落ちていなかった。凍てつくばかりの外気に反して温かな洞に蓄えられているのは、いつかの白い尻尾や鹿の角などの、ツァレらしい品々だけで。辛うじて干した苔桃を探り出せたが、これでは腹の足しにもならないだろう。

 神殿の貯蔵庫には各地から捧げられた実りが溢れるほど蓄えられている。うず高く積もった袋の中身の嵩が少しぐらい減っても、気づかれはしないだろう。唐突に深淵から岸辺に浮きあがった悪魔の囁きは、暗黒の淵を朧に照らすあえかな光芒でもあった。

 いや、いくらなんでもそれは、園から草を千切るのとは違う。

 毛先から体温を吸って温もった雫が滴るまでにかぶりを振っても、己が裡から這いあがってきたものからは逃れられない。

 そんなことをしてはいけない、と誰かが耳元で叫ぶ。嫋やかな悲鳴は一体誰のものなのだろう。

 明るい陽光に照らされたなだらかな小路から、茨に覆われた獣道に迷い込もうとする少年の背を押したのは、己自身から響く非難だった。

 ――でも、あの子がこのまま飢え死んでしまったら……。

 暗がりから飛び出て、剣の切先めいた強風に身を晒す。崩れ落ちた四肢は凍え、末端は悴み蒼ざめた。

 神にすら見捨てられた彼女の力になれるのは、自分しかいない。

 握り締めた透明な礫はたちまち蕩けてゆく。じくじくとした痺れを残して掌中から消えていった雫は、凍った大地にすら弾かれ地表で冷えて固まった。

 懐に穀物を納めた袋を隠し、革帯に乳と蜜で満たした革袋を下げて走った道は、普段とは全く異なっていた。

 誰かに異変を感づかれ、呼び止められはしまいかと不安でならない。行き交う人々が皆自分を監視し、咎めているようで、心臓が休まる暇は片時もなかった。

 これからは既に持て余した重荷を背負って生きて行かなければならないのだ。たわいない眼差しに背を震わせ、仲間であるはずの神官の呟きにすら胸を締め付けられる一日は、地獄の一年に匹敵するだろう。

「……お粥、ありがとう」

 だがたとえ乾かぬ苦杯と引きかえであっても、虐げられる少女に笑顔が灯るならそれで良かった。

 ふと仰いだ空からは暗雲は去り、嵐に洗われ束の間の清らかさを取り戻していた。至高神は全ての罪を把握しているはずなのに、天は穏やかに凪いだまま。遠くの星の清冽な輝きも変わらない。 

「ねえ、可愛い坊や。今夜は寒いから、あたしの胸で温まっていかない?」

 蠱惑的な紅で彩った女に青い衣の袖を引かれ、腕に得体のしれない弾力を押し付けられる。女の肌蹴た胸元はまろやかに膨らんでいたが、怯えた少年にとっては未知の恐怖そのものだった。

「少しいいことするだけなんだからそんなに嫌がらなくてもいいじゃない。あたし、あなたを天国に連れて行ってあげるわよ」

「や、やめ……」 

 女の肌から漂う甘さと脂粉の臭いは暴力的なまでの濃厚さが、異性の色香に慣れぬ少年の脳裏を掻き乱す。

 この女の「天国」に連れて行かれたら決して元に戻れなくなる。天啓とも直観ともつかない警告が命じるままに少年が掴んだのは、通りすがりの男の逞しい腕だった。

「助けてください!」

 灰色の髪を無造作に束ねた男は唇を尖らせた娼婦と、近くの路地裏に潜んでいた彼女の情夫をすげなく追い払う。

「大丈夫か?」

 月光が薄闇の面紗から彼の造作を暴いた途端、少年は瞠目してその姿に見入らずにはいられなかった。

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