わたしは妬む神である Ⅴ

 高みから射した光が葡萄唐草を照らしている。房と蔓と葉の連なりは赤子を抱いた女を取り囲んでいた。雄獅子の頭を持つ醜怪な神は待ち受ける運命――己が母に下界に投げ捨てられる悲劇を予期しているのかいないのか。彼であり彼女の目はぽっかりと開いた洞窟そのもので、何者をも映していなかった。

 少年はある種の懐かしさに――自ら切り捨てたはずの地への望郷の念に駆られ、羊皮紙に刻まれた文様をそっと撫でる。丸い目を眇めて仰いだ採光窓から覗く空は晴れ渡っているが、既に日は傾いている。

 もはや遠い故郷では今頃、村人総出で葡萄酒の仕込みをしているのだろう。ルヴァシュの旅立ちを泣きじゃくりながら見送ってくれた甥や姪は、笑い転げながら神の恵みを搾っているはずだ。兄は羊を追い、老いた父は孫たちを遠くから見守って……。

 ナテアは、僕の羊は元気だろうか。

 古びた牛酪と甘酸っぱい果実の匂いが鼻腔を指す。神殿の奥深くの、遙かなる古代から連綿と受け継がれ叡智を蓄えられた場にはそぐわない芳香は、故地を離れて幾ばくも経たぬ少年にとっては祭壇で焚かれる香に勝るものだった。

 瞳に溜った熱を零すまいと目蓋を降ろしても、眼裏では次々に鮮やかな情景が浮かびあがる。火山の麓の侘しい村は埃の臭気が立ち込める保管所とは似ても似つかなかった。

 濃淡様々な緑と大地の黄の合間で、白と茶の獣が跳ねる。しかし無垢な仔は次の瞬間には赤い海に沈んでいた。羊の幼子の円らな瞳の黒は、人間と同じ姿かたちを備えながら人間ではないけものの灰色になって……。数日前に目撃した光景の醜悪さは肋に守られた臓器を締め付けた。

 少年は高位の神官に言付かり、莫大な蔵書の中から一刻を掛けて探し出した写本を抱きしめる。新たな写本の挿絵と装飾の参考にすべく選ばれた書物には、「あれら」の起源も記されていた。

 二つ脚のけもの。驕れる神に土塊より創られた人間を憐れみ、特別に自らの神性を分け与えた慈悲深い神に背いた罪深き者たち。穢れなき水に浸かってもすすげぬ業に戒められた、おぞましい……。

 長閑な田舎においては実在を知っていてもなお幻に等しかった彼らが、確かなぬくもりと痛みを持つ存在としてルヴァシュに迫ってきたのはつい最近のことだった。

『あれらには悪魔が憑いている。近づきすぎると魅入られることもある』

 写本係の神官を取りまとめる壮年の男が指さして見習い達に示したもの。それは他者の黒ずんだ生命で小さな顔や細い身体のあちこちを汚した、銀髪の少年だった。

 少年は不手際を痛罵され、肉付きが薄い頬を殴打され平らな腹部を踏みしめられている。けれども彼はぼんやりと大きな目を見開いたままで、端が切れた唇は助けを求めるために開かれることはついになかった。決して祓えぬ穢れを纏っているはずの少年の瞳は虚無を宿していながら無垢だった。

 神に捧げられた仔羊と同じ透明な双眸。澄みきっていて冷たい泉を思わせる眼差しに射抜かれた胸に湧いたのは、鈍い痛みだった。

 あの、結局はその犠牲も徒花となった幼子と似通った目をした少年のことが気になってならなかった。彼の傷ついた頬を清潔な布で拭って、かつてディナにそうしたように慈しんでやりたかった。

「ああ、ご苦労」

 この不可思議な胸の軋みは、ルヴァシュが渡した写本をぱらぱらと捲って、目的の物かどうかを確かめる神官に吐露してはいけない。きっと「お前は悪魔に憑かれている」と眉を顰められて終わりだ。

「あそこは埃臭くて満足に息もできなかっただろう? 少し外で新鮮な空気を吸ってこい」

 言外に、作業の邪魔だから出ていけと告げられる。神経質な彼は、周囲に気を散らす者がいては集中できない性分なのだ。

「は、はい。ありがとうございます」

 写本室の暗がりに吸い込まれていった男を煩わせてはならぬと、密やかに足を運ぶ。精緻な浮彫が施された白亜の穹窿を潜ると、むっとする鉄錆の臭気が鼻を衝いた。異臭は葉を落とした柘榴の木立の向こうから漂っている。色褪せくすんだ葉の奥には傷み擦り切れた銀の輝きがあった。

 いつかの少年は矢傷を負った獣のようだった。彼はのろのろと立ち上がると、周囲に一瞥もくれずに聖域と俗界の狭間目がけて駆け出した。生気溢るる若鹿めいたしなやかな走りは、ルヴァシュには到底真似できない素早さを備えてもいた。 

 気を抜けば縺れふらつく脚がもどかしい。閑散とした市街地を抜ける少年は、声をかけても届かない先にいた。せめて彼の姿を見失わぬように、と冷ややかに陽光弾く白銀の軌跡を脳裏に焼き付ける。

 我ながら、脇腹の痺れを堪えてまであの少年を追っている理由が分からなかった。掌の中の、己の体温を吸って生ぬるい薬草をそっと握る。途中、偶然に傷に効く薬草の群れに出くわし、何とはなしに千切ったのだった。これをあの少年に渡せば、彼は自分に近づいてくれるかもしれないと願って。

 彼は喪ったあの羊ではない。よしんばルヴァシュが彼に追いついても、薬草を差し出す間もなく、話しかけた途端に逃げ去ってしまうかもしれない。野の獣めいた身のこなしを見せる少年は、警戒心も人間よりは動物のそれに近いだろう。ルヴァシュの苦痛は実を結ばぬまま散って塵になってしまうだろう。

 だが、それでも。

「ま、待って」

 褪せた黄色の門の外側の世界に踏み込まずにはいられなかった。もう一度だけでいいから、あの目が見たい。大切なあの子に会いたい。

 霞み、潤む視界が捕らえる像が次第に大きくなってゆく。少年の背は華奢で肉付きが悪く、哀れみを禁じ得ないほどに痩せていた。

 ――もう少しで、あの骨が目立つ肩に手が届く。

 朽ちた落ち葉の甘やかな湿りを吸っても、早鐘を打つ鼓動は宥められない。

「ねえ、きみ……」

 なけなしの勇気を振り絞ると、粗末な衣の下の背筋が強張ったのが見て取れた。

「あ、あの、」

 銀の毛先はさらさらと揺れ、細い顎を掠める。遠目では朧にしか判別できなかった少年の面差しはきりりと引き締まっているのに脆く儚げで、少女のようですらあった。

 灰色の目は大きさと鋭さが同居していて凛々しく、淡く血の色を透かす唇は薄い。細い眉は意思の強さを窺わせる弧を描き、聡明そうな額に据えられている。

 少年とも少女ともつかない中性的な面立ちはしんと張りつめていて、一切の情動を表さない。喜びも悲しみも、自らを虐げた人間の仲間であるはずのルヴァシュに対する怒りも。

 その眼にすら感情を乗せぬ少年の内面を代弁するのは、彼がひしと握り締めた血塗れの短刀。そして細い脚から繰り出された強烈な一撃だった。 

 骨を砕かんばかりの蹴りを見舞われた脛がぐらりと傾ぎ、鈍い痛みに蝕まれた肢体が朽ちた葉の柔らかな褥に打ち付けられる。あまりの出来事にしばし瞬きすらも忘れた少年の鼻先に突き付けられたのは、咎人の胸に沈められ心臓を抉った刃の切先。

「……待って。その、僕は……」

 未知の危険への怯えは、左右の肩甲骨の間を伝う汗の冷たさや絞り出した声のみっともない震えとなって表れた。

「僕は見習いの神官で、」

 こんなことを言っても仕方がないのに。この少年は謂れなく暴力を振るう神官たちへの憎しみを募らせてきたはずだ。なのに――服装から容易に察せられることではあるが――自分から身の上を明かして憎悪を煽るなど、愚かしいにもほどがある。

「それは見れば分かる」

 しどろもどろに紡いだ、引けばぶつりと千切れてしまいそうな呟きに応じたのは、呆れと苛立ちが潜んだ声音だった。ぽつりと無造作に放られた囁きは低く掠れているが耳に快い。けれどもあの高く可愛らしい嘶きとは全く違う。だがやはり、瞳の透明な輝きは通じているのだ。

「……なんで?」

「僕は、君と友達になりたいんだ」

 たとえけものであっても、理由のない苦杯を舐めさせられていいはずはない。則を超えた家畜には時に罰を与える必要があるが、それとて犯された罪に値するものでなければならないのだ。

『羊は人間の心が分かるんだ。だからどんな時も敬意を持って扱ってやらないと、こいつらは儂らを見限ってどこかに行っちまう』

 徒に重ねた鞭はいつかの裁きの際に我が身を切り裂く。父のしみじみとした口癖は尽きかけた気力を漲らせ、頭の奥の乱れを払いのけた。

 この不当な扱いを受けるけものの苦痛を和らげてやらなければ。魂も神の火花も宿さぬけものにも痛みを感じる心はあるのだから。

「……あたしは女だけど、あんたよりは強い」

 ましてやこのけものは女――見た目や声だけではどちらなのか判然としなかったが――なのだから、もっと大切にされてしかるべきだ。人間でも、また動物たちにおいても、大抵の「女」は「男」に力で劣る。だから男は女を守り慈しむべきなのに、彼女を虐げる神官たちはどうしてあのような目を背けたくなる罰を下すのだろう。

 彼女は少年じみた格好をしていても、華奢な骨格の上に薄く柔らかな肉を纏っている。胸部には微かながらだがふくらみがあった。

「だったら、余計に自分の身体を大切にしないといけないんだよ」

 首筋で意識させられた空を切る刃の余韻は、少女の性別を見誤った申し訳なさで忘れることができた。自分だって、女に間違われたらいい気はしない。この二つ脚の少女が察しが悪いルヴァシュに憤慨したのももっともだ。

「じゃあね、えっと……」

「あたしはツァレ」

 銀髪の少女の白皙の頬はうっすらと赤らんでいる。それが彼女の怒気によるものなのか、はたまた別の感情から発するものなのかは分からない。

「あんたの名前はなんていうの?」

 だがルヴァシュはそれが優しく温かなものであればいいと祈らずにはいられなかった。     

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