わたしは妬む神である Ⅳ

 雨戸の隙間から忍び込んだ雨粒が項を濡らす。白茶の癖毛から滴り少年の背に伝うそれは、血走って赤い目をした若者の灰色の毛先からも垂れていた。

 擦り切れた絨毯は雫を吸ってかつての鮮やかさと艶やかさを取り戻す。それは父の最初の妻が婚礼の際に持ち込んだ品である、と教えてくれた姉はもういない。竈の側で麺麭の生地を捏ね、頬を小麦粉で汚していた娘の軽やかな笑い声が石を積み上げた壁を打ち付けることはないのだ。

 狭い家の中にはこんなにも懐かしいぬくもりが溢れているのに。耳を澄ませば今にも澄んだ鼻歌が聞こえてきそうなのに――姉を愛する人間が、彼女のことを想って泣いているのに。

「兄貴は死ぬつもりなんだ」

 天の底が抜けたのかと不安になるほどの豪雨と閃光を背にして立つ青年の頬には泥の痕があった。脹脛の半ばまでを覆う長靴は汚水を啜ってふやけている。

 彼は、脇目も振らずに驢馬を駆らせて来たのだろう。兄を救うために、我が身を蝕む嵐を物ともせず、一心に。

「義姉さんと子供のところに逝こうとしてる」

 全身を小刻みに震わせる青年の頬を濡らすのは、額にへばり付いた前髪から落ちた水滴ではなかった。

「だけど、まだ間に合うはずだ」

 鋭い眦から溢れた熱情は羊脂の蝋燭の炎よりも温かいだろう。でなければ姉を喪って以来、常に父の目を覆っていた氷が融かされるものか。

「……儂らは、何をすればいいのかね」

 自らの足に縋りつく若者の肩に手を置く老人の背からは無気力の荷が降ろされている。嗣業である羊たちの世話すら兄やルヴァシュに任せ、家に籠って娘や二人の妻を――喪った者を悼むばかりだった父の声は張りを取り戻していた。

「あんたたちが、義姉さんはそんなこと望んでないって、兄貴を説得してくれたら、きっと、」

 蒼ざめた唇から紡がれる哀願は掠れ、ひび割れている。けれどもざあざあと降り注ぐ雨以外は遮る物がない音は、どんな楽よりも聴衆の胸を軋ませた。

「あの頑固者の目も覚めるはずだから、だから……」

 その一言を最後に、とうとう精魂尽き果てて土間に崩れ落ちた若者の面立ちは存外あどけなく、彼が成人を迎えてもいない青年であることを思い出させた。ルヴァシュの兄に担がれ炉端の傍らに横たえられた身体は引き締まっていても細い。

 自分とそう変わらない年頃の少年が、兄のために命を賭けた。荒れ狂う自然の恐ろしさは彼とて熟知しているだろうに、嵐に挑んでここまでやってきた。

 なんて勇敢なんだろう。

 少年は火影が揺らめく横顔を緑の眼に焼き付ける。父と兄は既に支度を整え、驢馬の背に跨っていた。

 父と兄は隣村の男たち総出で行っている義兄の捜索に加勢しようと、一刻も早く一月前に足を運んだ場に向かおうとしている。恐ろしい罪を犯そうとしている姉の夫のために。

「ルヴァシュ? どうした?」 

 頼りない自分一人が加わったところで大した力にならないことは分かり切っている。

「僕も行く」

 少年はそれでも彼らと共に泥濘む山道を駆けずり回りたかった。泥だらけになっても、傷だらけになっても――いっそ死んでも構わない。婚礼の宴で姉と同じ杯を干したあの若者の面に、朗らかな笑みを蘇らせることができるなら。

「僕も一緒にお義兄さんを探すよ」

 これは最初で最後の恩返しの機会なのだ。亡き姉に捧げられる最も尊いもの。

「しかし、お前……」

 父や兄が暗に示すようにここで踵を返して家の中に戻ったら、ルヴァシュはナナとの約束を破ることになる。たとえそれがある意味では正しいことだとしても、自分の心の声に背いて我が身の安全を取った愚か者にはなりたくない。姉が残してくれた言葉を守るためにも、自分は行かなければならないのだ。

「人手は多い方がいいでしょ」

 固い決意を込めて深い皺に埋もれんばかりの目を見つめる。瞳に灯る火はしばし逡巡し揺れていたが、やがて辿るべき道を見出して定まった。

「……そうか」

 年端もいかない幼子にそうするように、ルヴァシュを持ち上げた老父の手には鞭がある。しなる革が冷たく湿った大気を切り裂くと、首を擡げ草を食んでいた家畜の身体がぶるりと蠢いた。額に菱型の班がある驢馬は水の礫に怯みながらも歩を進める。

 いつまでも広く大きなものだと思っていた背には隠しきれない老いの兆候があった。しかと腕を回し身を寄せ合っているからこそ、父の衰えはより浮き立つ。

「ねえ、お父さん」

 父は、こんなにも儚い存在だっただろうか。最近杖の助けを要することが多くなった父は、それでも村では一番の羊飼いである。どんな時も――それこそ今日のような嵐の日にも――草原に出て己が群れを追う男は、幼児にとっては永遠に力強く頼れる庇護者であるはずだったのに。

「どうした?」

「……実は」

 薄い目蓋の奥の、転びかけた幼い自分を抱え上げてくれたいつかの父の像が急にぼやけたのは勢いを増すばかりの雨のためではなかった。

 ――ああ、自分はもうすぐ「子供」ではいられなくなるのだ。唐突に突き付けられた現実は鋭い矢のようで、引き抜こうとしても深く深く傷口を抉るばかり。

 あと五年も経てばルヴァシュは成人する。そうしたら、いつまでも安全な巣に留まって餌を求めて囀ってはいられない。己が翼で大空に羽ばたかねばならない時は存外間近に迫っているのだ。父の後を継ぐのは兄や兄の息子なのだから、自分は潔く巣から去らなければならない。

 兄や兄の妻、甥や姪たちは出て行けとは言わないだろう。心優しい家族は飛び立つ若鳥をむしろ引き留めようとするかもしれないが、己の道は己が力で切り開かなければならないのだ。

 その先に待ち受けているのが姉や義兄の身を襲った悲劇だとしても、ルヴァシュは進まなけれなならない。

「ずっと考えてたんだけど、分からないことがあって、」

 神さまはどうしてお姉ちゃんを殺してしまったの。お姉ちゃんはあんなに働き者で、悪い事なんて一つもしてなかったのに。

「……さあ、着いたぞ」

 躊躇いがちに、途切れ途切れに形にされた細やかな不敬と涜神は、雨音や男達の喧騒に掻き消されて老いた耳には届かなかった。少年は返事がなかったことに安堵し、一方で微かな不満に胸を乱しながら、ぐずぐずにふやけた地を踏みしめる。一切の抵抗なく踵を呑みこむ大地は死した女の腐肉を連想させる柔らかさで、細い肢体を戦慄かせた。

「イオネは、儂の息子は、見つかったか?」

 すんと嘶く驢馬を軒先に留めた父に突き付けられたのは、非情で冷酷な結果だった。

「わざわざ隣から来てくれたあんたたちには悪いが、もう手遅れだ」

 覚えがある面差しの壮年の男の落ちくぼんだ目にあるのは、紛れもない諦観。

「四方八方探したが見つからねえ。あいつはもうこの世にはいねえんだ」

「そんな、こと……もう少し探せば、きっと」

 男は父の背後から唐突に身を露わした少年に驚きもせずに――あるいはそんな些細な仕草をすることすら億劫なほどに疲弊しているのか――哀れみの一瞥を投げかける。

「多分、身投げでもしたんだろう。谷底に狼が群がってた。せめて亡骸ぐらいは持って帰ってやりたかったが、あの深さじゃ降りようにも降りられねえ」

「……」

「もう、諦めるしかねえんだよ」  

 そして男はこれ以上は決して語らぬと言いたげに、貝のように口を閉ざした。

「ま、待って、」

 少年は一切を拒絶し跳ね返す背を目がけて走り出す。

「……ルヴァシュ」

 父や兄の制止をも振り切り、がむしゃらに脚を動かしても、男には追いつけない。

「おねがいだから」

 途切れなく地を穿つ透明な粒は視界を遮り、少年はふと遠い異国に迷い込んだかのような恐れを抱いた。もたつく脚はやがて絡まり、均衡を崩した躰は冷ややかな大地に倒れ伏す。

 擦れた掌や頬からは血が溢れ、泥が滲んでひりついている。傷口に入った穢れは直ちに洗い流さなければならない。その処置を怠ると傷は膿み、負傷した部位の切断を余儀なくされ、最悪の場合には死に繋がる。泣きじゃくる弟の膝の血を拭いながらナナが語った言葉が脳裏に過るが、萎えた手足は冷たくなるばかり。

 ――ルヴァシュたちは間に合わなかった。土塊より闇の神に生み出された人間を憐れみ、魂を与えたもうた至高神に唾吐くに等しい罪を犯した義兄は、もう永遠に救済されない。彼の墓は栄誉ある人々のための場所ではなく、侘しい村はずれの空き地に作られる。彼の魂は、いつか犯した罪を雪ぐ刻が訪れるまで罪深いこの世を彷徨う。

 いつかイオネが楽園に還ったとしても、それはもはやイオネではなく、彼はもう彼としては永遠に姉とも我が子とも会えない。義兄に下された裁きの残酷さに、胸が引き裂かれた。義憤は熱い滴となって溢れだし眦を濡らすが、あえかなぬくもりは瞬きよりも早く天から降り注ぐ涙の冷たさに散らされる。

 至高神は慈悲深い父であるはずなのに、悲嘆に駆られて道を踏み外した羊を再び群れに加えることは赦さない。

 なぜです、神よ。冒涜の言葉は口内で蕩けて崩れ落ちる。激情が命じるままに舌を動かすことはあまりにも罪深く恐ろしかった。

 たとえ一瞬でも自分を罵った少年を至高神が見逃すものか。きっと、今にも大地が割れて不遜なる徒を呑みこみ、地の底の地獄に連れて行くに違いない。

「ルヴァシュ」

 少年はひしと目蓋を閉ざして審判の訪れを、轟く地割れの音を待つ。だが彼の耳に飛び込むのは天空に奔る閃光の後に続くものばかりだった。 

「……帰ろう、ルヴァシュ」

 兄に抱きかかえられながらようやっと身を起こした少年の頬に付着した土塊は、瞬く間に雨に流され消えていく。だが真白だった心に撥ねた染みは、天から齎されるものでは清められなかった。

 鉛の帳を切り裂く金は戦慄を抱かせるほどに眩いが、一向に己の頭を砕かない。 

 悪戯を隠した子供のように怯え、罪が露わにされる瞬間を畏れ焦がれながらも迎えた葬儀の日は風が強かった。

 家族だけで慎ましく執り行われた埋葬が終わり、少年は名も刻まれぬ墓石の前に立ち尽くす。仰ぐ蒼穹は穏やかで、畏るべき怒りの徴は欠片ほども見当たらない。

 なぜ神は自分を赦してくれたのだろうか。

『怖いことがあったらお祈りすればいいのよ。神さまはお優しい方だから、あなたを怖がらせる悪魔を追い払ってくれるわ』

 無垢な姉や義兄を無慈悲に屠った神が、神官たちが断言するように真に慈愛に満ちた父であるのなら。

「お義兄さん」

 自分の祈りは彼の元に届くはずだ。子羊の毛に絡む穢れを払った彼が、もう一匹の羊を見捨てておくはずはない。

「いつか僕が、あなたを助けます」

 纏う服の裾をはためかせる風には冬の息吹が混じっていて冷たいはずなのに、温かに少年を包む。

「僕が神さまに身を捧げてお願いするから、」

 春になったら花を備えに来よう。姉が好きだった犬薺イヌナズナを沢山摘んで、葡萄酒も携えて……。

「だから、待っていてください」

 ふと零れ落ちた微笑みが行き着く先は風だけが知っている。だがそれが遠い東の、聖なる都だったらいい。自分を呼ぶ兄に応えた少年の眼は千切れた雲に隠れた太陽を映して輝いていた。

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