わたしは妬む神である Ⅲ

 薄い布越しに接する羊の毛は温かいが、この牛酪の臭いはいかんともしがたい。父の羊たちの塒である藁葺の小屋には様々な気配――子羊の糧でありルヴァシュたちの大切な食物でもある乳の甘さと、屋根に葺かれ床に敷き詰められた枯草の青臭さ、そして微かな排泄物の臭気が入り混じり、沁みついていた。

「ぼくたち、いつまでここにいればいいの?」

 円らな目を瞬かせながらルヴァシュの袖を引く甥の顔には疲労の影が落ちている。

「ぼく、おかあさんのおかゆがたべたい」

 空腹と母恋しさを訴える幼児は滑らかな頬を膨らませ、赤く柔らかな唇を不満げに尖らせた。

「ナナおばさんのあかちゃんはいつうまれるの? アンナはすぐうまれてきたのに、おばさんのあかちゃんはいちにちたってもでてこないなんてへんだよ」

 年端もいかない少年と幼児には骨が折れるだろう、と今は隣家の女に預けられている兄の娘が生まれたのはほんの二月前なのに、随分と昔のように感じてしまう。姪が安らかな母体から出てきたのは、柔らかな毛先を弄ぶ大気が葡萄の香気を纏う――村中が葡萄酒の仕込みに取り掛かっている正午だった。

 夫に連れられ出産のために里帰りをした姉は呻く義理の姉の汗を拭い産湯を用意していた。もうすぐ私も義姉さんの世話になるんだからこれぐらいやらなくちゃね、と微笑みながら。

「おばさんのあかちゃんはいじわるだね。おばさんがこんなにさけんでるのに、はやくでてきてあげないなんて」

 耳を澄ませば朧げながらに形になる呻きはひび割れ苦痛が滲んでいる。

 ――ナナ、ナナ。……しっかりして!

 ――ああ……。 

 耳を防ぎたくなる叫びの合間に響き渡る兄の妻の声は懸命よりも悲痛に近いように聞こえてならない。

「……きっと、恥ずかしがり屋の赤ちゃんなんだよ」

 姉はいつも――それこそ手酷い悪戯をしでかした甥を叱っている時でさえ――歌うように柔らかく、春の日差しのように温かい音を紡ぐ。採光窓から忍び込む悲鳴を慣れ親しんだ彼女のものだと認めるまでには、少なくはない時間を要したものだった。  

「でも、ぼくがあかちゃんだったら、すぐにうまれて、おかあさんをはやくらくにさせてあげるのに」

 甥はまだ生まれてもいない赤子に憤懣を募らせ、手慰みに鼻息も荒く藁を千切る。

「……そうだね。だったら、赤ちゃんは怖がりなんだよ」

 おとうさんとおじいちゃんはどこにいったのと唇を尖らせる彼の疑問はルヴァシュの胸に巣食うものでもあった。

 新たな生命が生み落とされる場は神聖であると同時に穢れている。至高神は病や武器のために流される血と同様に産屋を汚す赤を疎み、出産直後の女に神殿への立ち入りを禁じたほどだ。だからこそ産湯で清めた赤子を抱いて聖堂に赴き、子のために神の祝福を希って犠牲を捧げるのは父親の、ひいては男の役割である。

 産屋となった我が家が役目を終えるまでは近づくことさえできないルヴァシュたちは、当初はこの羊小屋で来るべき時を待っていた。

 だが陣痛が始まった朝が終わり日が沈み、水平線の果てに隠れた太陽が再び顔を出してもなお産声は轟かない。父と兄は夜更けと共に何事かを囁き、そして訝しげに眉を寄せるルヴァシュたちには一言も残さずにどこかに走り去ってしまったのだ。

 乱暴に閉められた戸が奏でる軋みと夜の湿った闇を色濃く残した大気は冷ややかで、羊の毛に触れていてもなお背筋に悪寒が奔るほどだった。この寒気は本当にただの寒気なのだろうか。

 脳裏に過った不吉な予感は頭を振っても追い出せなかった。考えまい、考えまいとするほど意識してしまうそれは葡萄畑を蝕む雑草だった。たちどころに深く根を張った草は、どんなに力を込めて引き抜いても地に根を残す。そして葡萄に与えられるべき水と栄養を吸って再び芽を出し、作男の手を煩わせるのだ。  

 でも、ちゃんと神様に犠牲を捧げたんだから。

 心中で独り言ちたのは、大いなるものへの懐疑とも期待ともつかない――そのどちらでもあるように装いながらその実どちらでもない、堰切らんばかりにうねり波立つ自らの猜疑を宥めるための呪文だった。

 父や姉や兄が語る思い出を縁にしてその面影を辿るのみの実母は、出産のために若い命を散らした。彼女はルヴァシュを生み落としてすぐ、大量の血液を失ったために息を引き取ったのだ。

 母の身に起こった不運が姉を襲わないなんて、どうして断言できるだろう。

「ルヴァシュ、どうしたの?」

「え? “どうしたの”って、どういう……」

 短く切りそろえられた無垢な爪の先は真っ直ぐに自分を指している。

「かお、まっさおだよ」

 生え際から零れた珠は蟀谷を伝って首筋をも濡らしていた。べたつく水滴は袖で拭ってもなお細い鎖骨に絡まり、薄い胸や腹を縮こませる。細い身体を包む仄かな熱は汗と風の冷気によってどこかに追い払われた。革紐に遠して首から下げた、幸運を齎すはずの神が刻まれた石はもはや不快な重しでしかなかった。

 全身に氷の膜が張っているのかと錯覚してしまう震えが最高潮に達したのは、騒々しかった外の音が――姉の叫びがぴたりと鎮まった直後だった。

「おばさん、いたいのおわった!」

 稚い甥はこの静寂を新たな生の始まりだとして飛び跳ねている。しかし緩やかな弧を描く毛髪の奥の耳は一切の叫びを捉えない。劈く産声どころか弱々しい喘ぎすらも。

「はやくあかちゃんにあいにいこうよ!」

 窓や藁の隙間からは明るい陽が射しているのに、目の前が真っ暗になった。瞬きや呼吸すらも忘れ、じっと澄ました意識が掴むのは、煩わしさを覚えるほどに脈打つ己が心臓だけ。

「ねえ……、はやく、」

 ルヴァシュの様子から何らかの異変を察した甥に涙ぐみながら手を引かれても、萎えた脚を動かすことすらできない。

 もしも千々に乱れる頭を掻き乱す予感が的中していたのなら、このままここにいた方がいい。風前の灯は全ての闇を駆逐するには足りないが、か細い炎が灯っている間はまだ儚い希望に縋っていられる。

 悲鳴が止んだのは、姉が命を生み出す行為に没頭しているから。産声が聞こえないのは、産婆が赤子を引き出すのに手間取っているからに違いない。

 姉が死ぬはずない。愛し仔を犠牲にしてまで願った幸福がこんなにもあっけなく断ち切られるなんて、馬鹿げたことがあってたまるものか。

 神の祭壇のまえでそうするように膝をつき頭を垂れた祈りの時間は、長かったのか短かったのかは定かではない。

「あ、おかあさ……」

 だが不安げに揺れる甲高い響きが真実をもたらす者の来訪を告げた折には、高みに設けられた窓から覗いていた日輪が厚い雲に隠れて見えなくなったことは、恐らく一生忘れられないだろう。

 羊小屋に蔓延する澱みを払う風を従えて立つ女は静かに黒褐色の布で覆った頭を振る。彼女の赤らんだ眦からは透明な雫がとめどなく溢れていた。悲嘆は狭い頬から首筋までを滑り、膨らんだ胸部に落ちて染みを作った。

 ぽたぽたと滴る嘆きはルヴァシュの緑の瞳からも、甥の母譲りの濃紫のそれからも零れ落ちる。遮るものがない哀しみは足元の藁に吸い込まれて消えていった。

 羊は主たちの嗚咽に同調するかのように、音もなく這いより首を絞める哀しみを分かち合うかのごとく啼く。村中に轟く家畜の挽歌の終幕を飾ったのはナテアの低い嘶きだった。

 子を喪った母の憂いに痺れる鼓膜もそのままに羊小屋を後にする。義姉が半ば蹴破って開いた扉の先には小さな身体に縋りつく大きな男の姿があった。

「ナナ、ナナ!」

 細い肩を掴み姉の名を呼ぶ男に応えるべき者はもうこの世にいない。彼女の亡骸の隣に横たえられた赤子の口元はぴくりとも動かない。

「イオネ。妹は、もう……」

 男の狂乱を鎮めるべく彼の腕を掴む兄の眼は濡れているのに、部屋の隅で蹲る父の双眸は乾いていた。

「娘よ」

 老い、細かな皺が刻まれた喉が蠢く。

「……どうしてお前まで儂より先に逝くんだね?」

 しゃがれ掠れた問いに答えるべき娘の唇からは生命の色が喪われ、蒼ざめ冷たくなっていた。 

「儂はお前のことを孝行者だと思っていたが、とんだ見当違いだった――父をこのように嘆かせるお前はとんでもない親不孝者だ」 

 ぼんやりと頼りない、しかしなお白々と明るい光が、鞣革の皮膚を清める一筋を煌めかせる。くぐもった嗚咽が渦巻く部屋の壁を打つ若い男の慟哭は、いつまでも続いていて止む気配がない。

「さあ、ナナとナナの赤ちゃんに最後のお別れをしましょう」

 姉の嫁ぎ先である隣村で行われた葬儀でも、哀惜を帯びた唸りは響いていた。招かれた泣き女を柩に近寄らせもせず、義姉が編んだ白茶の三つ編みに、撫で冷えきった赤子の躯に熱い滴を降り注いでいた男は、とうとう村の男達に羽交い絞めにされて亡き妻から引き離された。

 蓋をされた小さな柩が暗い穴に呑みこまれる。姉と、息をすることもなく死んでいった赤子は、いつかの裁きの刻まで眠るのだ。何物にも――冬の寒さにも、突然の嵐にも脅かされることなく。母の胎内に還ったかのように安らかに。

 柩に覆いかぶさる土塊はやがて死者のための家を埋め尽くす。渦巻き状の木目が僅かに覗くばかりとなった瞬間、沈鬱に腫れた目を伏せる少年の首筋の産毛を獣の雄叫びがひりつかせた。

「離してくれ! 俺は……」

 獣じみた――けれども聴く者の身を切り胸を軋ませる咆哮を発した男は、己が身を縛める手を振りほどくべくもがく。

「いい加減にしねえか!」

 手負いの熊めいた狂乱を呈する彼は、頬に固い拳が食い込んでもなおしばらくはその鋭い眼差しからぎらついた輝きを絶やさなかった。

「お前、妻と子供を埋葬させないつもりなのか!? 女房と息子をこのまま悪魔にくれちまうのかね!?」

 しかし雷鳴と錯覚するほどに轟いていた嘆きは次第になりを潜め、しまいには糸雨のような喘ぎに取って変わられた。

「夫なら――父親なら、黙って見送ってやるのが筋ってもんだ! じゃねえと、お前の女房は河を渡れねえよ」

 名も知らぬ男は地に伏す男の肩を抱き立ち上がらせる。

「あの娘は赤子を抱いてあの世に逝く。……ただでさえ大変な旅だ。少しでも楽になるように祈ってやれ」

 墓掘人の円匙シャベルの無情な一振りが姉の柩を居並ぶ者たちの眼差しから完全に隔てた。

 喪服はまばらに、だが次々と新たな墓碑の元から去る。村人たちの背を見送り、最後に立ち去ったのはルヴァシュ達一家ではなく、妻の墓の許に蹲るイオネ。彼の落ち窪んだ双眸はまるで墓穴のように暗く、少年の胸に言いようのない不穏な予感を吹き込んだ。

「さあ、日が暮れる前には村に戻るぞ」

 後ろ髪引かれる思いで、何度も何度も振り返って仰ぎ見た男の姿が隣村から消えた。血相を変え家に飛び込んできた彼の弟が更なる悲しみを吐き出したのは、姉の葬儀から一月後の夕べだった。 

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