わたしは妬む神である Ⅱ

 侘しい山々に遮られた蒼穹の機嫌は測りがたい。恵みのしるしたる雨が途絶えれば大地はひび割れ、人も家畜も飢えて死んでしまう。けれども雨は多すぎれば作物を根から腐らせ、河川を反乱させて卑小なる人の手が築き上げた全てを押し流してしまうのだ。

 少年の村の暮らしを支える果樹は水を嫌い、収穫期に大雨が続けば質の良い葡萄の新酒を味わう楽しみは諦めざるを得なくなる。だからこそ燦燦と辺りを照らす旱天は少年の足取りを軽くさせるのだ。

 放牧地と家々の間の葡萄畑には虫除けのために設けられた垣根がある。

 野薔薇は日に焼け褐色の斑点が散っていてなお見事な――曙の空のような桃色だった。からりと乾いて心地よい秋風にそよぐ五枚の花弁は、生まれたての子羊の鼻に似ていなくもない。

 少年は世話を任されている羊の仔が笑う様を思い浮かべ、そっと辺りを窺った。細かな棘を生やした野薔薇の繁みの合間には、周囲の陽光を浴びて艶やかな果実とは比べ物にならぬみすぼらしい房がある。萎れ、乾いた葡萄はきっと収穫の際に弾かれてしまうだろう。絞られ壺に注がれ地中で成熟の時を過ごすこともなく朽ち果ててしまうのだろう。

 村人たちの糧にも都人や神官の悦びにも、神への捧げものにもならない実りは哀れだ。これをこのまま腐らせてしまうよりは、母に似て甘い果物を――とりわけ葡萄を好むあの仔にあげたほうがいい。

「あの、すみません」

 葡萄畠の主のかがめた腰に声をかけた少年の耳が捕らえたのは、訝しげな返事だった。

「なんだね?」

「これ、もらっていいですか?」

 壮年の男は鞣革のように焼け深い皺が刻まれた口元を歪める。

「構わんよ。――でも、そんなのを手に入れてどうするんだね?」

「僕の羊にあげるんです」

 夜明けの空を宿した花に隔てられた男はぽつりと呟くと、汗が伝う腕を少年の眼前に差し出す。

「そういえば、お前の姉さんはもうすぐ嫁に行くそうだね」

 彼の太い指は芳醇な香りを漂わせる一房が――大きな粒をつけた、瑞々しい葡萄があった。仄かに熱を帯びた実はずしりと重く、瞬く少年の眼にはどんな宝玉よりも尊く映った。

「はい」

「可愛い娘の嫁入りだ。お前の親父さんは群れの羊を屠って俺たちに焼肉を振る舞ってくれるだろう。当たり年の葡萄酒も出してくれるだろう――楽しみだな」

 手短に礼を伸びて別れた男の笑い声は太く、逞しい。太鼓のような音に背を押されながら仰ぐ空は侘しい山々に遮られてもなお果てしない。真綿とも羊毛ともつかない雲に彩られた青には白い顔の雪鶏セッケイが飛び交っていた。柔らかな茶色の髪をそよがせ小さな顔を包む風には微かな牛酪の臭いが混じっている。

「ディナはどこ? 僕、ディナに葡萄を持ってきたんだよ」

 樫の木の影で涼んでいた若い男の投げ出された右足の先には一匹の子羊がいたが、それは求める仔ではなかった。ディナには父親らしき雄羊譲りの濃茶の斑があるが、すやすやと寝入っているこの羊は雪のように白い。

「ああ。あれは多分洞窟にいるよ。……今日は特に暑いから昼寝でもしてるんだろうな」

 羨ましげにぼやく長兄は嘆息とも欠伸ともとれる吐息を漏らした。

 一月ほど前に生まれた兄の赤子の夜泣きは激しい。比較的眠りが深いルヴァシュもつんざく鳴き声によって目を覚ますことがたびたびあるのだ。僅かな物音にさえ耳を澄まし家畜を守る羊飼いの例に漏れず、眼が冴えやすい長兄はなおさらだろう。

 眠たげに目蓋を擦る兄が握る羊飼いの杖は薄茶の岩壁を指している。風雨によて削られた入り口はぽっかりと深く暗くて、無謀を犯した何者をも呑みこんでしまいそうに見えた。

 葡萄畑の合間に家々が点在するスタヴ村や周辺の村々では、悪魔が住んでいるのだと伝えられている岩窟はいつもひんやりと湿っている。岩壁をぽたぽたと滴る雫の不気味さは幼子の心をびくつかせるには十分で。羊を追って迷い込んだ幼い日のルヴァシュなどは、姉が探しに来てくれるまでじっとしゃがみ込みこんで、神に祈ったものだった。傍らの羊が汗ばむ顔に鼻先を擦りよせて励ましてくれなかったら、揺らめく自分の影にさえ怯えて失神していたに違いない。


「ルヴァシュ?」

 永遠に続くかと思えた恐怖と試練の刻に終焉を告げた声の温かさは、片手では足りない年月が過ぎ、生まれ落ちて十二回目の秋を迎えた少年の鼓膜の奥にも時折蘇る。

「ああ、怖い思いをしたのね。可哀そうに」

 あの日、ナナは自分の服の袖で蹲る幼子の柔らかな頬にこびり付いた涙の痕を拭ってくれたのだった。

「……ナナお姉ちゃん?」

 ルヴァシュのそれよりも明るく柔らかな緑の瞳に過っていたのは、神への感謝と安堵の念。

「そうよ」

 眩い光を従えて洞窟に駆け込んできた小柄な体の輪郭は仄白く縁どられていて、泣き疲れて眠っていたルヴァシュは姉の姿に気に入りの物語の一幕を重ねずにはいられなかった。

「さ、早くお家に帰りましょう。父さんも兄さんも心配しているわ」

「うん」

 自らの過ちゆえに天から落ちた女神は肉体を変え、幾代にも渡って地上を彷徨う。しまいには娼婦にまで身を堕とした彼女を救い、七つの天の向こうの故郷に帰還させるのは、至高神から遣わせた救済の預言者で――

「さがしに来てくれて、ありがとう」

 男である自分が女神で、女であるナナが預言者というのは可笑しい。父や兄に今考えていることを知られたら笑い飛ばされてしまうだろう。けれども手を引かれて暗がりから太陽の下に連れだされた幼子にとっては、縁に意匠化された糸杉が赤く刺繍された黒の布で長い髪を覆った娘は神に等しい存在だったのだ。

「いいのよ。私はあなたのお姉ちゃんなんだから」

 幼児がひそかに赤茶けた石の下で眠る実母の面影を重ねている横顔には、いつも穏やかな微笑が灯っている。  

「ねえ、ルヴァシュ」 

「なあに?」 

 ――きっと、女神さまも嬉しかっただろうな。

 田舎の小村に住まうルヴァシュでは、村でたった一人の神官が読み聞かせる聖典を通してしか近づくことのできない救世主は、姉のように澄んだ瞳の若者だったに違いない。そして、頼もしい若者に導かれて暗黒からあるべき光輝の世界に復帰した女神の喜びはいかほどのものだったのか。

「怖いことがあったらお祈りすればいいのよ。神さまはお優しい方だから、あなたを怖がらせる悪魔を追い払ってくれるわ」

「うん!」   

 せめてもの慰めにとふっくらとした手が差し出した山葡萄の酸味と渋みは幼い舌をひりつかせたが、少年は残さず平らげた。

「ああ、ほんとに、ちっちゃい子は泣いたり笑ったりで忙しいわねえ」

 この葡萄を全て呑みこんでしまえば、姉の不安の種である――村人たちにも「この子は男の子にしては大人しいね」と囁かれる――自分の弱さや臆病さも消えてなくなってしまうのではないか。そうすれば姉が「やはり幼い子供には母親がいた方がいいのかもしれない」などと胸を痛めることもなくなるだろう。

「少し花を摘んでいきましょう」

「どうして?」

 握り締めた指先はか細く頼りないが、長年の家事によって硬く鍛えられていた。

「あなたのお母さんのお墓に供えるのよ。あなたがこうして無事に見つかったのは、楽園のニノさんが神さまに頼んでくれたからでもあるんだから」

 足元の苦菜は夜空の星よりも鮮やかに薄茶と褪せた緑が入り混じる大地を彩っている。手折った茎から溢れ出た汁を舐めると、一端は静まったはずの舌の痺れがぶり返した。 

 

 稚い目には悪魔の巣窟と映った洞窟も、成長した少年にとっては羊たちの憩いの場である。

 牛革の長靴の尖った爪先がどこかからか転がり落ちてきた小石を跳ね返す。緩やかな弧を描いて飛ぶ粒は聳える岩石に当たって砕けた。細かな破片はふわふわとした白い背に吸い込まれる。ぴくぴくと耳と尻尾を振り、胡乱げにルヴァシュを一睨みしたのはナテアだった。

 好物の臭いを嗅ぎ取って微笑みながら駆け寄った獣の腹にはたっぷりとした乳房が垂れ下がっている。彼女はもはや虚弱な一匹ではなく、二匹の仔を養う母親なのだ。

「あ、駄目だよ」

 少年の細腕でも抱えられた頃と変わらぬ仕草で葡萄を強請ねだった雌羊は、不満の呻きを漏らしながらも萎れた実を齧った。彼女の視線の先には背に隠した瑞々しい果実があることぐらい、考えずとも理解できる。

「これはお前の子供にあげるんだから」

 口元の毛を紫に染めた獣の喉が絞り出したのは哀しみと縒り合されて一つになった諦観だった。ナテアは予感しているのだろう。

「ディナはもうすぐ神様の所に逝くんだから優しくしてあげないと」

 遠からず愛し子を喪うことを。自らの乳の臭いがする幼子が血溜りに沈む日が刻一刻と迫っていることを――ディナが姉と隣村の若者の幸福を祈願して神に捧げられる贄に選ばれたことを。

「……そんなこと、お前だって分かってるよね」

 低い低い嘶きが遮る物のない平野に木霊する。奥深い余韻が消え去った後は何故だか風の音さえも物寂しく聞こえてならなかった。 

「綺麗だよ、お姉ちゃん」

「そう? ……ありがとうね、ルヴァシュ。ああ、そうだわ……」 

 斑の子羊に手ずから葡萄を食べさせた午後から婚礼の朝までは午睡うたたねのように短かった。

「じゃあね、ルヴァシュ。お姉ちゃんが教えたことを守って、父さんや兄さんの言うことをよく聞いて、立派な人になるのよ」

 美しく着飾った姉が凛々しい青年の腕を取って歩む。近辺で唯一の聖堂で互いを生涯の伴侶とすることを誓った夫婦を取り囲んで踊る、二つの村の若者たちの折り重なった歌声は朗々と響いていた。清らかで荘厳な歌の合間に割り込む野太い叫び叫びは家長たちのもので、彼らは空になった羊の角の器が満たされさえすれば再び陽気な笑いを轟かせる。

「どうした坊主、浮かない顔して」

 黙りこくって俯いた少年の華奢な背をいつかの葡萄畠の主が叩いた。  

「さてはお前、姉さんがいなくなるのが寂しいんだろう? ――あの娘はお前の母親代わりだったもんな」 

 花嫁の弟としてルヴァシュも加わった祝宴は日暮れまで続いた。酒宴には何一つ欠ける物はなく、姉の顔から喜びが絶えることはない。  

「気持ちは分かるが、折角の門出なんだ。楽しまなきゃ損だぞ」

 しかし伏せた緑の目には、式の前日に屠られた子羊の澄みきった瞳から光が消える様が灼き付いて離れなかった。

「……はい」 

 ディナの無垢な眼差しは真っ直ぐにルヴァシュに注がれていたのだ。かつて果汁に濡れた口から最期の息吹が吐きだされるその時まで。

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