わたしは妬む神である Ⅰ

 星は七つの天のいずれかの領域に属している。ならば葡萄酒を満たした杯に沈めた真珠のごとき煌めきは、一体どの天にあるのだろう。至高神に最も近い第一天か。それとも、天上界と下界の境目たる第七の……。

 いずれにせよあの星は――全知全能の神は、ルヴァシュの罪を天上から見ていただろう。来るべきこの世の終わりと再誕の時にそうなるように、瞬く星が降ってきて自分の頭を打ち砕かないことが不思議でならなかった。荒れ狂う心臓を鎮めるために、深く深く息を吸う。しかし凍てついた空気は徒に肺を刺激するばかりで、治まりかけていた鈍痛を再燃させただけだった。

 小さな手をそっと胸の上に置く。ただそれだけで軋むそこには、暗がりには紛れても光の下でははっきりと分かる痣があった。

 ――でもこんなのは、ツァレのに比べれば……。

 柔らかな唇を噛みしめ痛みを呑みこむ。肩越しに白茶の毛先をたなびかせる風の行く先を辿っても、銀の輝きは見つからなかった。珍かで人目を引く、けれども傷み艶のない短い髪は、それでも眩くルヴァシュの瞳に映るだ。

 少女らしい淑やかさよりも凛々しさや快活が際立つ顔立ちの少女の薄い腹には、花弁が張り付いていた。意識を失った身体を横たえる際、偶然に翻った上衣の隙間から覗いたものは未だに眼裏から離れない。色合いや大小も様々なあの花のほとんどは、自分と同じ神官が――ひいてはルヴァシュが付けたものでもある。

 幾度か彼女が罰を受ける光景を目の当たりにしたが、止めに入る勇気がなかった。こんなことは言い訳にすらならない。ツァレはあの細い身体でルヴァシュや彼女よりも背が高い少年に立ち向かったのに、男であるはずの自分が声を上げることすらできなかったなんて。

 至高神の楽園にいる姉は弟の弱さと情けなさに涙しているに違いない。

『ねえ、ルヴァシュ。今からお姉ちゃんが教えることは今のあなたには少し難しいかもしれないけれど、絶対に忘れないでね』

 全てを知りながら黙認することは実際にその行為に荷担するに等しい。心の中で罪を犯したら、それは本当にそのことをやったのと同じなのだ。

『私がいなくなっても今言ったことを守って、神さまの前に立っても恥ずかしくない人になってね』

 だから人間は心正しく生きなけらばならない、と姉は嫁入り前に教えてくれていたのに、ルヴァシュは約束を破った。

 寒風に苛まれかさつきはするが、ひび割れも苦痛を滲ませもしない唇から漏れたのは自責と自嘲を内包する懊悩だった。決定的な罪に手を染める前から、ルヴァシュは既に咎人であったのだ。

『処刑って、こういうことでしょ?』

 自覚なく犯される大罪とその意味を自覚しながら犯す微罪は、どちらがより穢れているのだろう。

 ――お父さんが言ってた。

 鮮やかな笑顔と共に蘇ったいつかの山葡萄の酸味と渋みは舌を刺したのに、何故だか胸が軋む懐かしさを感じさせた。

 脳裏に住む少女の銀の髪が伸び、ルヴァシュと同じ白茶に変じた。大きくも鋭い灰色の双眸は丸く優しい春の若草の緑に、すんなりと引き締まった四肢は小柄でふっくらとした若い娘のそれに。

 少年は足を止め懐かしい過去の奔流に身を委ねた。目蓋に灼き付いた頭上の白き光明は大地に堕ちて黄の苦菜になり、並ぶ家々や神殿にさえも降り積もる雪は霞草となって残照を跳ね返す。身を切る風が運んできたのは故郷の葡萄と羊の香りだった。


 採光のために開けられた隙間から一条の白金色が伸びていた。細く長く伸びる光は舞い散る埃を煌めかせ、娘の白い指先に当たって砕ける。黒に近い焦げ茶の下衣の上にはまっさらな布が広げられていて、生成りの糸を通した針で縫い合わされていた。

「ねえ、ルヴァシュ。父さんと兄さんにお昼ごはんを届けに行ってちょうだい」 

 何をするでもなく、じっと息を殺して姉の手仕事を見つめていた幼い少年は果てしない青を切り取る枠を眺める。雲一つない、けれども円錐状の山々に遮られた蒼穹の太陽は天頂に坐していた。そろそろ羊たちに草を食ませに出かけた父や長兄の腹が鳴る頃なのだと気づくと、腹の底が急に疼いた。

「うん。お父さんたちは、今日は洞窟の方の草原にいるんだよね?」

 渡された包みは仄かに温かく、香ばしい匂いを漂わせている。羊の乳の乾酪チーズと卵を乗せた両端が尖った楕円状の麺麭と、潰し挽いた豆が入ったそれは少年の好物だった。

「ええ、そうよ」

 細い両腕では持て余す包みは成人した男二人の昼食にしても大きすぎる。

「ぼくもお父さんたちと一緒に食べていいの?」

「ぜひそうしてらっしゃい」 

 少年は緑の瞳を輝かせふっくらとした腰に抱き付いた。柔らかな腹部からは湿って穏やかな香りがしていた。

「ついでに、あなたのナテアにこれをあげてきたらいいわ」

 ナナは衣服の隠しをまさぐり、取り出した巾着を幼子の掌に渡す。 

「うん!」

 ずしりと重い袋には干した果物が入っていることも、父が所有する群れで最もか細く嘶く雌の子羊が甘い果実を好むことも、ルヴァシュは知っていた。小さなナテアの毛の手触りや円らな瞳が放つ、朝露に濡れた葡萄のような輝きも。

 ――途中で転ばないように気を付けて、寄り道しないで帰ってくるのよ。

 戸口に立って手を振る姉の姿が瞬く間に遠くなる。実りと収穫の時を今か今かと待つ畠の樹々からは熟れた紫の房を垂れていて、辺り一面には甘酸っぱい香気が立ち込めていた。

 大人の足にとっては平板であっても幼子にとっては小高い丘に匹敵する小路には、葡萄の紫を薄め明るくしたような色合いの花が咲いている。

 香料にも染料にもなり、同じ重さの金にも匹敵する雌蕊を付ける番紅花サフランに似たこの花には毒があり、一口齧れば息絶えることもある。物心ついたばかりの少年の手を引いて、艶やかな花弁を指さしながら危険を教えてくれたのは姉だった。  

 ――お姉ちゃんは独りで寂しくないのかな。 

 振り返って仰いだ緑滴る葉に遮られた白茶けた石積みの壁際にはもはや若い娘はいなかった。

 けれども眼前に広がる裾野のあちこちにはいかにも柔らかな毛の塊が潜んでいる。燦燦と降り注ぐ陽光を浴びる白い群れには、ルヴァシュが名を呼ぶと嬉しげに喉を震わせ飛び跳ねる子羊の姿はなかった。

「――あ!」

 幼子は求める影が潜む丈高い樫に駆け寄る。

「お父さん! ぼく、お昼を持ってき、」

 少年の首から下がった平たい小石が緩やかな放物線を描く。

 木陰から伸びた二本の腕は木の根に躓き大きく傾いだ幼子の胴を掴み、泣きじゃくる赤子をあやす手振りで高く掲げた。

「そうか、そうか。じゃあ、そろそろメシにしよう」

 年老いた父の顔は日に焼け浅黒く、目の端や口元には深い皺が刻まれていたが、灰緑の瞳に灯る光は若々しい。

 村共有の放牧地に流れる小川まで羊に水を飲ませに行った兄の帰りを待ちながら、父と並んで大切な糧を分けあう。成人した男としては平凡でも、小さなルヴァシュでは比べ物にならない大きさの体躯の父は、時折そっと麺麭の欠片を小さな手に握らせてくれた。

 前妻に先立たれた後娶った、年若い二番目の妻が命と引き換えに産んだ息子。最初の妻との子供たちとは年が離れた末子を見つめる老人の目は赤らみ潤んでいる。

 老いても曇りない眼に宿る光が憂いに翳るようになったのはいつからだろう。もはや目鼻立ちすら朧になった一番上の姉が、遠い村に嫁いでいった日からだろうか。それとも、長兄が祭で出会った娘に結婚を申し込み、相手の両親からも承諾の返事を受け取ったと報告してきた日からだろうか。

「ねえ、お父さん」

 腰に下げた袋はずしりと重い。革紐できつく縛った口を開くと中から乾いた一顆が零れた。

「お父さんも、ぼくと一緒にナテアにごはんをあげる?」

 父が五十を超える歳月をかけてゆっくりと積み重ねた羊飼いの経験と勘を頼りに、ナテアを間引こうとした朝を思い出す。

 この羊はきっと上手く育つまい。父は静かに首を振って鋭利な切先を子羊に向けたが、彼女はそれでも鼻をひくつかせて母の匂いを探っていた。同じ胎から生まれ落ちた子羊に押されはね除けられた末に、ようやくありついた乳房に吸い付くナテアの眼差しは無垢だった。

 ルヴァシュが泣いて頼まなければ喉を切られて家族の食卓に並んでいたはずの命は、弱々しくもその生命の炎を保っている。

「ナテアはとってもあったかくて、抱っこするとにっこり笑うんだよ」

 か弱い子羊は最近では足腰もしっかりしてきて、きょうだいたちに餌を横取りされることも少なくなっていた。

 今のナテアを一目見せれば、父も「あれに草を食わせても無駄だ」なんて意地悪は言わなくなるのではないか。

「……儂には他に仕事があるから、生憎お前の羊に関わってる暇はないなあ」

 仄かな期待は手渡した杏と共に噛み砕かれたが、父の鞣革の頬や口元には黙認の影が落ちていて、幼子の胸を騒めかせた。

 老人は艶めく杖を片手に立ち上がる。険しい視線の先には、霞草の花束にも似たふわふわとした群れ――長兄を先頭に闊歩する羊の姿があった。遠くの兄にも分かるように昼食の包みを頭上で振る父の背は逞しいが、隠しきれない老いを背負って丸まってもいる。

 堅強を誇っていた父は数年前から体調を崩すことが多くなっていた。特に、風の勢いや冷たさの移り変わりが目まぐるしい季節の変わり目には。

 喉に絡む諸々を革袋の水で押し流す。ルヴァシュの体温を吸って人肌ほどに温もった水は生ぬるかったが、どんな美酒よりも甘く乾いた口内に染み渡った。 

「なんだ。もう昼を摂ったんですか」

「ああ。腹が減ってたんでな」

「二人ともせっかちだなあ。少しぐらい俺を待っていてくれてもいいでしょうに」

 拗ねたようにぼやく長兄の背の向こうから小さな羊が駆けて来る。

「ナテア!」

 広げた腕に飛び込んできた獣の仔からは古い牛酪バターの臭いがした。   

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