見よ、主のいばらが罪深き者の肉を割く Ⅳ

 温かな音が耳を打つ。銀の睫毛に囲まれた目蓋のあわいから忍び込む光は柔らかな橙色で、なだらかな起伏に覆われた石壁に映る影の輪郭はゆらゆらとしていて定まらない。父にしては細い影の手元には細長く丸い何かがあった。

 これまた父ではない――だって父の声はツァレのそれより低く、けれども豊かに轟いていた――澄んでいて高い響きが降る。

「ツァレ?」

 擦り傷だらけの小さな顔を覗き込むのはくすんだ緑の――父やツァレ、ましてや父から伝え聞いた母の灰色ではない双眸。緩やかに波打つ前髪の隙間から覗くくっきりとした眉は気づかわしげに寄せられている。恐らくは様々な殴打の痕が散っている痩せた身体は毛皮にしては薄い何かで包まれていた。

 ツァレの皮膚の奥底に未だ残る、母の柔肌のぬくもり。生まれ落ちた娘を抱いてすぐ息絶え、塵となり闇の一部となった彼女の胸のように滑らかなそれは空の青だった。

 今は厚い雲の向こうに隠れている、人間と神の住まいを隔てる膜の色には覚えがある。

 神官だけに赦されるはずの衣。獰猛なけものの爪に挟まれ奪われかけたが、ツァレがどうにか守り抜いたもの。では、全身を蝕む痛みに喘ぐ自分の側にいるのは――

「ルヴァシュ?」

 更なる休息を求める身体を叱咤し、重い目蓋をこじ開ける。

「起きた?」

 葡萄酒で満たされた大杯を干したかのように揺れ、ぼやける眼が最初に捕らえたのは麻の肌着の袖から伸びる手首だった。

 少年は亡き父が愛用していた小さな鍋を木の匙でかき混ぜている。その指先は細かな破片が刺さり、ささくれていて。ぼんやりと光を透かす布越しに仰ぐ身体はいかにも華奢で頼りないが、少女ではありえない直線で構成されていた。触れれば折れんばかりに繊細な鎖骨の下には、少女らしい曲線に乏しいツァレの胸にさえある微かなふくらみは存在しない。ルヴァシュと自分の身体の造りの違いを意識すると、何故だか柘榴の棘が刺さった場所が疼いた。

 少年が身を屈めて鍋の様子を窺うと、弧を描くことなくすとんと落ちる布の合間から胸板が垣間見えた。成人した男の隆起も、ましてや成熟した女の豊満さも備えぬ薄いそれには赤く丸い痕がある。自分と同種の生き物に刻まれた暴力の痕跡は蝋のように白い肌の上でより一層鮮明に浮きだっていた。

 ルヴァシュは常日頃から神官たちに打たれ踏まれるツァレとは違う。彼が唐突に振り下ろされる拳が齎すものに慣れているはずがないのに、どうして笑っていられるのだろう。自分を完全には守り切れなかった不甲斐ないけものを罵らないのだろう。

 羊飼いは狼を追い払えなかった犬を始末するし、神官たちは手順を誤った二つ脚に罰を与えるのに、仰ぐ少年は憤りの気配すら見せずに微笑んでいる。

「待っててね。もうすぐできるから」

 飴色の木がぐるりを回されると洞窟は甘い匂いで満たされた。ただ一度だけ貪った母の乳房を思わせる香気が鼻腔をくすぐる。胸いっぱいに蒸気を吸い込むと、空っぽの腹は獣めいた唸り声を出した。

「火傷しないように気を付けてね」

 ふ、と息を吹きかけられた匙の中には穀物の粒で満たされている。口内に流し込まれた挽き割り小麦は羊の乳で煮込まれていて、蜂蜜で味付けされていた。混ぜ込まれた干し葡萄ははちきれんばかりに膨れていて、犬歯で押すとぷつりと潰れた。

 乳と蜂蜜と葡萄のそれぞれ異なる甘味と小麦の芳しさが蕩ける粥は、初めて舌に乗せたのにどこか懐かしい。

 一匙嚥下すれば次が欲しくなる滋養は生まれ落ちて最初に啜った乳のごとく身体に染み渡り、凍え震えていた身体を動かす熱を生み出した。

「美味しい?」

 自分と年が変わらない少年に母の姿を重ねるなんて馬鹿げている。だいたい、母ならば破れてしまうのではないかと危惧してしまうほど、ツァレの心臓を騒がせるはずはないではないか。

「……うん」

 しかし蟀谷こめかみから流れる汗を拭い、そっと腕を回して骨ばった背を支えてくれる少年の湯気で霞む横顔はあまりに優しく、その腿に縋りたいという欲望を抑えるのに苦労した。自分のそれと同程度の太さの太腿はどうせ骨ばっていて硬いだろう。最初に喪った大切な者のようにはツァレを包んでくれないだろうに、どうしてもそのぬくもりが欲しくなったのだ。

「良かった」

 もたれかかった首筋と肩からは汗と砂埃の匂いがする。汗ばむ痩躯を湿っぽく包むそれはいつか想像したような若葉ではないが、やはり春の草原を連想させた。真っ白な羊たちが喜び勇んで駆け回る一面の草の海を。

 与えられた掟を忘却したものの正しい神に跪くことは忘れなかった民と、悪と闇を拝む民の境界線。至高神を崇める者たちが住まう地の西の果て、英雄が盗み出した炎が燃える渓谷に繋がる平野から来た少年は微笑む。

「これね、僕が小さい頃体調を崩すと、お姉ちゃんが作ってくれたんだ」

 今度は自身の手を動かして粥を掬う。乳白色に沈む紫は謳うように紡がれた彼の故郷で育まれたものかもしれない。ルヴァシュの生地スタヴ村が属する一帯は神殿にも捧げられる葡萄酒を産することで有名で、村人のほとんどは葡萄作りか牧羊を生業としているそうだから。

 少女は獣の乳で潤された喉に奇妙な引っかかりを覚え、しっとりと掌に馴染む椀に視線を落とす。ほとんど空になった器に盛られた粥は美味しかったが、材料はどうやってこの洞窟までやってきたのだろう。手足を生やさぬ果樹や穀物が独りでに歩いてきて、ルヴァシュがかき回す鍋の中に飛び込むなどありえない。そんなことは父が語ってくれた懐かしい物語の中でしか起きないなんて、父が死してすぐ理解させられた。

 神官たちは時に旱魃に悩まされる地に雨を降らせ、敵の軍勢に雷を落とすが、それはあくまでも神の力によってなされた奇跡。卑小なる人の子の懸命な祈りに心を動かされた天上の主の慈愛の証でしかない。そして至高神は、自らを裏切って産みの親である彼であり彼女の先兵として戦ったけものには、生存を赦す以外の慈悲は垂れない。だから心がひび割れるほどに祈っても、ツァレの腹に沈められた踵は神官たちが飽きるまで退けられなかったのだ。

「ねえ、ルヴァシュ」

 黙々と鍋をかき混ぜる少年の頬に落ちる睫毛の影は濃く、あどけなさが残る面立ちには不釣り合い影が射している。

「なに?」

 けれどもぱっと振り向いた彼の瞳には神の火花が――罪を知れば砕けてしまう星が煌めいていた。それは爆ぜる炎が見せる幻覚だったかもしれないが、曇天を宿した目には他のどんなものよりも尊く映った。

「ルヴァシュがあたしをここまで運んでくれたの?」

 ――この穏やかな羊が他の羊の牧草を奪うものか。確かに彼は鋭利な角を生やしているが、それは同族の脇腹を掠めもしないだろう。

「うん。あのままあそこにいると雹に打たれて痛いし、風邪をひいちゃうからね」

 どろりと煮崩れた小麦と共に噛み砕き嚥下した仄暗い不安は、瞬く間に胃の中で消化され消えてゆく。

「そっか。……あたし、重かったでしょ?」

「そんなことないよ。思ってたよりは軽かったよ」

 ――思ってたよりは?

 銀の細い眉を幽かに顰めさせた疑念を突き付けるには、目前の笑顔はあまりに純粋で無垢だった。

 少女はさして咀嚼せずとも滑らかに喉を通る糧と共に一抹の不服を嚥下する。匙を口に運ぶごとに乳粥が、ルヴァシュと共有する温かな時間が減ることが惜しく、永遠に続けと希わずにはいられなかった。

「良かったら作り方を教えようか? 小麦と干し葡萄はちょっと余ってるから、お腹が減った時に煮ればいいよ」

「……うん」

 鍋の中でぐつぐつと煮えるものを平らげてしまえば、ルヴァシュは行ってしまう。彼が属する人間の住処に帰って、褪せた黄土色の門で囲まれた聖なる都の頂点に立つ白亜の神殿で至高神に祈りを捧げるのだろう。

 きっと祭壇の前に立つ彼の胸を占めるのは天上の大いなる支配者で、みすぼらしいけものでは決してない。少女とも少年ともつかない顔立ちの、あるべき肉に乏しく骨が目立つ体を男の服に包むツァレでは、ルヴァシュの哀れみを誘うことしかできないのだ。

 この貧相な身体が村の二つ脚の娘やエルメリ、あるいはいつか殺した女のような丸みを帯びていたら、自分たちの関係も変わっていたのだろうか。

 特別な薬草で深い眠りに陥っていた彼女の胸は豊かに盛り上がっていた。今はすんなりと引き締まっている自分の肢体が、いつかあのようになるとは到底信じられなかった。

『お前のお母さんも、昔はお前みたいに――いや、もっと痩せてたぞ。でも、いつの間にか柔らかくなってたんだ』

 もはや闇に還って久しい父は、娘がひっそりと押し潰していたひらひらとした衣服への憧れを把握していたのだろうか。女の着物の袖は機敏な足の動き妨げになるかもしれないが、一度くらいはあの華やかな袖に腕を通してみたかった。いや、ルヴァシュと出会ったあの夕暮れに女の恰好をしていたら――

「ツァレはよく食べるね」

 痩せて目ばかりが大きい顔に向けられた静穏な眼差しにはもっと別の、小さな胸に巣食う氷の粒を融かすに十分な熱が宿っていたのかもしれないのに。

「……お粥、ありがとう」 

 無理やりに流し込んだ小麦の最後の一粒は乳と蜜を纏ってなお苦く感じられた。

「じゃあね、ツァレ」

 皺が寄った上衣を掴む少年の、細かな木片が刺さった指が牛の皮を捲り上げる。斑の皮の隙間から仰いだ空は赤く、沈みゆく黄金の球が放つ光が眩しかった。

「また変な人に襲われないように気を付けてね」

「ルヴァシュこそ。……ほんとに、門のところまで付いて行かなくていいの?」 

「うん。ツァレは僕のことを心配してないで、もっとゆっくり身体を休めないと駄目だよ」

 待って、もう少し一緒にいて。

 声にならなかった願いは細い背にぶつけられることもなく、夕闇の彼方に消えてゆく。ふわふわとたなびく白茶の頭の上では一番星が瞬いていた。

 いつか自分もその一部となる深淵が、茜色に藍色を滲ませたこの夕べのように美しい闇だったらいい。

 薄い目蓋を降ろし佇む少女の銀の髪。その一房を弄ぶ烈風の咆哮は、夜が明け空が明らむまで鳴り響いていた。

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