見よ、主のいばらが罪深き者の肉を割く Ⅲ

 獰猛な指が青い胸元を手繰り寄せる。

「あんた、そのなりだと神官なんだろ? こんなとこであいつと遊んでていいのかよ」

 狭まる布に絞められた首筋は白く、頼りない。うっすらと開かれた目蓋のあわいから覗く緑には涙の膜が張り、伏せられた睫毛には透明な苦痛が絡まっていった。

 常ならば優しげな弧で形作られた唇は苦悶に歪んでいる。しかしルヴァシュは淡い薔薇色のそれを窄めてツァレに助けを求めようとはしなかった。

 逃げて。

 舌に乗せられはしたが音にならなかった言葉は、それでも悴む耳をくすぐり薄い胸を貫いた。

 ルヴァシュはあからさまに彼より強い少年に襲い掛かられてもなお、自分の身を案じてくれている。少女であるツァレにさえ力で及ばない少年が、自分のことはいいから一刻も早く安全な場所に行けと。

「……う、」

 見開かれた灰色の瞳に映る華奢な肢体に拳が食い込む。

「何か答えろよ、神官サマ」

 悲痛な呻きに返されたのは、多分に嘲りを含む笑い。それは強者が弱者に――猫が鼠に、狐が羊に、神官たちがツァレに寄こしてきた嘲笑であり、屠殺者が潰される家畜に手向ける憐憫だった。

「あんた、弱いんだな」

 さっと細い顎を撫でた鋭利な爪が柔らかな襟から離される。支えを失った少年の身体は一瞬の間に大地に落ちた。雪で覆われてもなお固い地面に打ち付けられた背は酷く痛むのだろう。

「ルヴァシュ!」

 帽子から零れた癖毛に氷片を絡めた少年の指先は今度こそぴくりとも動かなくなった。しんと静まり返った場に響くのは、幽かな呼気とひび割れ掠れた叫びだけ。

 息絶え、腐乱した女の乳房で覆われた空は荒れ狂っている。しかし豊満な谷間には一筋の閃光すら射さず、猫が喉を鳴らす音も聞こえない。

 頑なに押し黙る天をねめつけ、心中で罵らずにはいられなかった。

 暗雲垂れ込める空を超えた楽園にいるはずの至高神は、愛し子の危機を把握しているはずだ。なぜなら彼は全知全能の、この世に並ぶものなき偉大な存在だから。天上の玉座に坐しながら、偽りの創造主に創られた世界で這いまわる人間たちの間に在り、迷える羊たちと喜びと悲しみを分かち合う牧人だから。

 なのになぜ至高神は、大神ヤシャリは、ルヴァシュを助けようとしないのか。天上にいる彼にとっては、薄紫の双眸をぎらつかせる少年に裁きの鉄槌を落とすことなど造作もないことだろうに。

 けものの少年は地に伏す人間の少年を組み伏せる。そしていかにも温かな帽子を毟り取り、折り目の細かい上衣に手を掛けた。露わになった麻の肌着から覗く鎖骨は細く、日光を知らぬ胸元は蝋のように光っている。

「やめて」

 もつれ合う少年たちに、目前で繰り広げられる惨状に色を喪った少女の頬に、みぞれ交じりの強風が打ち付けた。

 さらさらと流れる毛先は夜の蛇のように冷え切っている。凍てつく外気に苛まれる首筋に絡まる蛇の動きは知らぬはずの女――ツァレを胎から出してすぐに命を落とした懐かしく慕わしい母ではない、けれども確かにツァレを生み出した恐ろしく大いなる何か――の艶めかしい指先の蠢きだった。

 地下世界の主である女神の掌。あるいは蛇に唆されて犯した罪に伴侶を加担させた最初の女の罪深い手か、我が子を下界に投げ捨てた智慧の女神の非情な指が、だらりと垂れるばかりで為すべき用をなさない手足を撫でる。

「ダド!」

 少女らしいまろみに乏しい、ただ細いばかりの両脚を戒めていた鋼鉄の鎖が解かれ、呆けていた身体には熱と生命がみなぎった。つい先ほどまでは石か氷と化したのかと錯覚するほどだったのに、今では鳥のようだ。

 これなら、なんでもできる。この不遜な略奪者を撃退し、怯え震える大切な羊を救うことができる。 

 栗鼠に包まれた足が大地を蹴った。擦り切れ雪に塗れた裾はひらひらと、月夜の晩に舞う蛾のように優雅にはためき、力強く空を裂く踵は銀のけものの肩甲骨の狭間にめり込む。

 みしり、と軋む骨の悲鳴とともに響いたのは肉を踏む確かな手ごたえだった。

「――っ」

 思いがけず助走をつけた少女の体重をまともに浴び、倒れ込んだ少年は呆然と大きな目を見開く。

「てめえ」

 まさかツァレが――女が自分に歯向かうとは。彼の呻きと呻りに混じるのはそのような驚愕だった。

 右足はじんと痺れ、全身の骨は下した痛みの余波に喘いでいる。けれどもツァレは身を起こしたけもの胴に鋭い足先を振り下ろした。

「……ツァレ」

 辛うじて身を起こした蒼ざめた顔色の少年が見守る前で、何度も、何度も。脚の付け根の筋肉が強張り、心臓の虚しい動きが速まり、骨が浮いた背がぐっしょりと濡れるまで。

 自身の力と優位を敵の四肢に刷り込むために。二度とこのけものが不埒な考えを起こさぬように、少年を永久に自分の縄張りから追放し、彼から復讐などを企てる余力を砕いてしまうためにも。

 引きしまった脇腹に渾身の力と意思を込めた一撃を沈める。尖りが目立つ喉笛から漏れたくぐもった響きは耳に快かった。

「ねえ、その人……」

 少女は己が足で踏み苛んだ肉体に跨り、固く手を握り締める。

 組み伏せた痩躯はしなやかで力に満ちた狼の若者のそれだが、今は雪の上で惨めに伸びた狐でしかない。しかも、己が力と知恵に慢心したために格下のけものに打ち負かされた愚かな狐だ。

「それ以上やったら、」

 指の付け根の骨を柔な顔面に打ち付ける。頬骨に当たった関節から広がる激痛は下腹の奥から湧き出る炎に巻かれて消えていった。

「死んじゃ、」

 皮肉げに歪められていた頬は漆にかぶれたかのような赤に染まり、歯と拳に挟まれた唇の端は裂け、一筋の紅で彩られた。とめどなく流れ、汗ばむ首を伝って踏み荒らされた白に落ちる雫は少女の皮膚にも飛び散る。

 生温かく粘る赤は、ツァレが初めて独力で流させた他者の血。己が手で勝ち取った勝利の証だった。

 見下ろす銀の狐の四肢は力なく垂れているが、双眸の燈火の炎は未だ尽きていない。ぎらぎらと揺らめくそれは生命が放つ輝きだった。

 三日月のごとく細められた薄紫が灰色を挑発する。

 ――こいつ、まだやる気なのか。

 強かな挑戦を受けたけものの胸に去来したのは、どんな手段を使ってでもこの湿った吐息を絶たなければならないという決意だった。

 少女は二つ脚の牙に――数多の血と罪を啜った鈍色の刃の柄に手を伸ばす。 

「――で、お前の気はもう済んだのか?」

 しかしその一瞬の隙の合間に天地が逆転し、細く肉が薄い身体は土と雪が入り混じった褥に押し付けられた。

「これまではお袋の……だから大目に見てやってたけど、もう限界なんだよ」  

 痩せた肩に、肋が浮き出た腹に熱い塊が打ち付けられる。

「こっちが黙って様子を見てたらいい気になりやがって」

 砂塵に塗れた銀の髪を揺らした少年は腫れた頬に飛び散る鮮血を青い血管が這う甲で拭い、

「ほんと、馬鹿な女だな」

 自らの鮮血で穢れた拳を無防備な鳩尾に押し込んだ。

「――う、」

 鋭敏な臓器を圧迫する衝撃は暗黒に蝕まれる意識を削り取り、か細い呼吸の律動をす。

 成人した男の掌ならば容易に包める喉は甲高く耳障りな音色を奏でる。まるで冷え切った指が弄る首から胸元が壊れた笛になったかのように、ひゅうひゅうと。

「もっと肉がついてたら優しく・・・してやったんだけどな」

 強者の冠を取り戻した少年は鼠の尻尾を爪に挟んだ猫の笑顔を浮かべ、全身をしとどに濡らす銀の鼠の襟首を持ち上げる。

 拘束から逃れるべく尖った爪先を引き締まった脛に打ち付けても、少年は微動だにしなかった。ツァレは肉が薄い腿に加えられた、骨の髄までをも痺れさせる一撃に耐えかね、噛みしめた唇の間からくぐもった呻きを漏らしてしまったのに。

 残忍な指が細やかに膨らんだ胸部に伸びる。あえかなふくらみをこそぎ落とさんばかりに鷲掴まれる屈辱を雪ぎたくとも、もう腕も脚も命を宿さぬ枯れ枝と化していて動かせそうにない。

「クソ生意気な目つきだな」

 唯一自由になる双眸から放った眼差しが実体を備えていれば、立ちはだかる少年の胸板の奥で波打つ臓器を貫けもしただろう。けれどもそれは叶わぬ望みであり、銀のけものは片側の口元だけを吊り上げた。

「こんな貧相な女、頼まれたってもう指一本触れたくもねえから安心しろよ。お前よりかは村の皺だらけのババアどもを相手にした方がまだいい」

 やがて放り投げられた哀れみを覚えるほどに痩せた、けれども引き締まってしなやかなけもの身体は、全てを穏やかに見守っていた大樹の幹に当たって止まった。

 濃い霧がかかったかのように霞み、眼に鮮血が垂らされたかのように赤らむ視界が捉えたのは、毛皮の帽子と栗鼠の尾を伴にして凱旋する勝者の後ろ姿。

「ツァレ!」

 そして涙を湛えた目でこちらを見つめる少年だった。 

「……ごめんね、僕……」

 少年は自身の衣服の乱れはそのままに項垂れる少女に纏わりつく土と雪を払う。無垢な指が銀の髪の合間からそっと摘まんだ虫食いが目立つ木の葉は半ば朽ちていて、強風に煽られてぼろぼろと崩れた。そっと頬を撫でて湿った欠片を清める指の柔らかさが心地良かった。

「僕は男だからツァレを助けなきゃいけなかったのに、」

 堪えきれなかった熱い雫は丸い眦から零れ落ち、向かい合う少女の薄い唇に降り注ぐ。

「ツァレがこんなになるまで、何も、できなくて……」

 亀裂に沁みこみひりつかせるそれは塩辛いはずなのに、蜜よりも滋味豊かに舌を癒した。肩に回された腕は父の太く逞しかったそれとは比べ物にならない細さなのに、同じくらい温かいのが不思議だった。

「だ……じょ、ぶ」

 少女は鈍い痛みと不快な熱に蝕まれた四肢に残された力をかき集め、萎えた手足を持ち上げようと奮闘する少年に微笑む。

「羊も、そ、でしょ?」

 本当は、もっと欲しい。この渇き、ひび割れ、痛めつけられた心が潤うまで、この甘い雫を啜りたい。

「牧羊犬、狼から、羊、まもる。……当然の、こ」 

 だけどこれ以上ルヴァシュの泣き顔を眺めるぐらいなら、死者の魂を清める劫火の河に飛び込んだほうがましだ。

「心配、しないで」

 全てを薙ぎ払う洪水に呑まれても絶やされなかった小さな炎は軋む胸の奥で爆ぜ、火の粉を散らして灰の中に潜り込んだ。

「――ツァレ?」

 天空を埋め尽くす雌狼の乳房から迸る乳が、楢の樹の根元で身を寄せる少年と少女に降り注ぐ。ゆるゆると閉ざされる瞳が最後に捕らえたのは、雪の上を転がる水晶の粒の冷徹な光だった。

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