見よ、主のいばらが罪深き者の肉を割く Ⅱ

 滑らかな指の先には葉を落とした楢の枝があった。

「いたよ」

 節くれだった裸体を晒す樹上で陽光を透かして輝く尻尾が動いている。ふさふさとした尾の持ち主は鼻をひくつかせ、黒く円らな目で地上のけものを見下ろしていた。

 長い不毛の季節に備えて木の実を齧り、脂肪を蓄えた栗鼠はでっぷりと肥っている。 

「……ほんとにやるの?」

「もちろん」

 少女は研ぎ澄ました視線を灰褐色の毛玉に注ぎ、用心深い獲物の隙を探った。あかぎれとささくれが目立つ指は灰色の石を挟んでいる。霜に覆われ凍てついていた破片は、少女の体温を吸って温もっていた。もはや身体の一部と化した大地の欠片の先端は棘のように尖っている。

 ――あれを火で炙ったらどんなに脂が滴るだろう。あの尻尾を襟巻にすれば、このむき出しの首はどんなに温まるだろう。

 地を模した夏毛を脱ぎ捨て、雪に紛れる純白の冬毛を纏った小動物を、気配だけを頼りに探すのは難しい。しかし身体を芯から蝕む飢えに耐えかね、寒さを堪えて洞窟から飛び出し、仕掛けた罠を巡っても獲物を持ち帰られる日は稀だった。だからこそ無垢な眼差しでこちらを窺う栗鼠の突然の出現は、まさしく天啓のような出来事だったのだ。

 掌中の礫をちょろちょろと動く小さな的に当てさえすれば、久々の肉にありつける。黄金の雫を滴らせ芳しい匂いを漂わせる幻影が薄い腹を呻らせた。湧き出る唾液を嚥下すると乾いた喉がきゅうと鳴った。鋭利な犬歯の付け根は肉の弾力と脂肪の甘みを求めて疼いている。全身が熱を生み出すものに飢えているのだ。

 今の自分の目は飢えた狐のようにぎらついているだろう。水鏡に映して確認せずとも理解出来る。

「ツァレ」

 傍らの少年の震える声が全てを教えてくれるから。

 厚い雲が垂れ込めた鉛色の重苦しい空に浮かぶ太陽は白く、輝かしいはずの輪郭はぼやけ滲んでいた。頼りない光輪を背に立つ栗鼠はにんまりと大きな前歯をむき出しにする。愛くるしいはずの顔で形作られたのは紛れもない嘲笑だった。

 あの栗鼠は嗤っているのだ。ツァレには、幼く愚かしい二つ脚の子供には自分は捕まえられぬと見縊って。

 来れるものなら来てみよ、と。空舞う翼も柔らかな喉笛を切り裂く爪も牙も持たない孤独な生き物を、罪を犯したために魂を奪われ砕かれた、かつて人間であったけものを哀れんで。

 薄茶の口の端が吊り上がる。曝け出された口腔は成熟した女の唇を連想させる艶を放っていた。

『ねえ、あの子のこと、聞いた?』

 それは幼き日に向けられたあのけものの女たちの唇そのもので、少女は薄暗い澱から冷徹に光るものが這いあがってくることを自覚せずにはいられなかった。

 頭上の栗鼠は、ツァレの胸に最初に氷の粒を埋め込んだ彼女たちの厭らしい微笑みを被っている。

 少女は瞬き一つせず、呼吸すら忘れて空を仰いだ。

 お前がその気なら受けて立とう。自分は魂も神の火花も持たぬ卑小な存在だが、血の管には天地創造より脈々と父祖から受け継いだ誇りが流れている。何よりも尊い宝を自分の掌の大きさにも満たない獣に汚されてたまるものか。

 ――あたしは必ずお前を撃ち殺して鮮血滴る肉にかぶりつく。肉を引き裂いて噛み砕いて消化して、この血肉の一部にする。だからお前が笑っていられるのも今のうちだ。

 曇天を映した刃のごとくぎらつく灰色の双眸で揺らめく炎は氷柱のように透き通っていた。音もなく飛んできた透明な矢に射抜かれた獣はびくりと身を震わせる。縺れ絡み合っていた視線を先に外したのは天の獣だった。 

「今だよ」

 雪の下で眠る大地そのものの色した袖から伸びる手から放られたのは研ぎ澄まされた殺気だった。

 ひゅ、と大気を切り裂く音が鳴り、ぴんと張りつめていた緊張の糸は断ち切られた。実体を備えた意思は栗鼠の胴に直撃し、均衡を崩した獣は細い枝から足を滑らせ宙に身を投げ出す。

「ルヴァシュ!」

 土色の温かな毛で覆われた肉はたじろぐ少年の足元に堕ちた。

「……やったね」

 雪に塗れる栗鼠の四肢はぴくぴくと痙攣していたが、やがて動かなくなった。少年はだらりと垂れる尾をそっと掴み、ついに息絶えた小動物を少女に差し出す。

「凄いね、ツァレ」

 ふわふわとした毛髪を毛皮の帽子に押し込んだ彼の面差しに浮かぶのは混じりけのない讃嘆だった。

「僕、弓矢もないのに狩りができるなんて知らなかった」

 ルヴァシュの頬は強い葡萄酒を飲み干したのかと見紛うほどに紅潮し、長らく瞳を覆っていた得体の知れない何か――哀しみを紡いだ糸で織られた薄絹のような膜の隙間から年相応の光が瞬いている。緑の眼からこぼれる輝きは冬空の星よりも清冽で、雲の後ろに隠れてばかりの頼りない太陽よりも眩かった。

 白き花弁が混じる風が吹き荒れる。亡き勇士たちの柩に縋って涙を搾る泣き女の叫びを乗せたそれは柔らかな皮膚を引き裂くのに、粗末な衣に包まれた身体は熱を帯び、じっとりと汗ばんでいた。骨ばった背を伝う水滴を意識させる静寂は祈りにも似ている。

 乾いた目に映る世界は白と灰色で埋め尽くされているはずなのに、なぜこれほど煌めいているのだろう。ルヴァシュは神官の衣に袖を通しているが、それ以外はごく普通の少年なのに。彼の白茶の髪や苔色の双眸は有り触れたものだし、顔立ちは柔らかで優しげだが抜きんでて整っている訳でもないのに。

「ツァレは僕なんかよりよっぽどいろんなことができるんだね」

 だが緩やかな弧を描く淡い薔薇色の唇から自分の名が零れるたびに、僅かに膨らんだ胸が軋むのは認めざるを得ない事実なのだ。

「そ、そう? お父さんの真似しただけだから、そんなに褒めなくても……」

 魂が宿らぬ心臓が跳ねる。脈打つ塊が兎になって、薄い肉の檻を突き破って穢れない世界に飛び出そうとしているみたいだ。

「凄いよ! だって、この栗鼠はあんなにすばしっこかったのに、ツァレは一撃で石を当てたんだよ」

 頼むからこれ以上こちらに近づかないでほしい。でないと心臓が破れてしまう。太い尻尾を湿らせる不自然な汗の匂いを嗅ぎ取られたらどう弁明すればいいのだろうか。

「ほ、ほら。あたしはいつも水切りで石投げの特訓をしてたから……」

 額から吹き出した汗の珠が蟀谷こめかみを濡らす。少女は不快な一筋を拭い泉の淵で腰をかがめた。

 遠い空を映した鏡の表面は曇っていて、並んだ二つの像の目鼻立ちの違いを判別することすら難しい。

「魚がいるの?」

 ――こうしていると、あたしたちは同じ生き物みたいに見える。

 人間と二つ脚は、同じ姿かたちを備えている。けれども両者は決して相容れない、住む世界が異なる被造物なのだ。

「べ、別に」

 みぞれ交じりの北風が凪いだ水面を打ち付ける。波紋に掻き消された二つの像は一つになったのに、現実のルヴァシュとツァレの間にはおおよそ指先から肘までほどの距離が空いている。たとえ流れる血を雑ぜ合わせることができても、魂の有無だけはどうにもならないのだ。

「なんにも……」

 乾いた眼を潤ませる何かを零すまいと見上げた空は黒く、雷を伴う嵐の訪れを予感させた。

 唐突に口を噤んだ森。不気味な生温かさが混じる空気。乳飲み子を抱えた雌狼の乳房のように膨らんだ雲。これらは全て嵐の予兆である。父の逞しい腕の中で森を敬う心と共に刷り込まれた、大切な掟を見誤るはずがない。

 だが少女のむき出しの首筋を引きつかせたのは、刻一刻と迫りくる凶事ではなく何者かの気配だった。

「ツァレ?」

 異変を察知した少年の寄せられた眉根には困惑が刻まれている。

「ちょっと黙ってて」

 息を潜め、人間にしては鋭く、森の獣にしては脆弱な殺気を放つ者は何かなど火を見るよりも明らかだ。

 ――この間、ここらで知らない人間を見たって……。

 数日前の不吉な予感が戦慄となって、小さな旋毛から尾骶骨までを駆け抜ける。ぱきり、と枯れ枝を踏む音に釣られて見据えた木立の奥には、黒い何かが潜んでいた。獣の体毛にしては滑らかに光を弾くもの。それは女の手によって仕立てられた一枚の衣に他ならない。

 柔な素肌を守る硬い毛を持たぬ人間と二つ脚のみが必要とする毛皮が翻る。はためく四つの筒から突き出ているのは、しなやかなで俊敏な少年の四肢。

 エルメリの息子ダド。少女はどこか自分と通ずる特徴がある凛とした面を傷んだ銀の髪で縁どる少年の踵を思い出し、悴む手足を強張らせた。自分より拳一つ分は背が高い彼の身のこなしには狼の荒々しさがある。

「ルヴァシュ、逃げて!」

 あの重い一撃をまともに食らったら、ルヴァシュはどうなってしまうのだろう。自分は耐えられた衝撃でも、か弱い彼にとっては致命傷になるかもしれない。

 成長し骨と内臓を守る脂肪を蓄えた羊にとっては微風に等しい一撃でも、時に若毛も生え揃わぬ子羊の命を刈り取る。

「え?」 

 不穏な気配を纏った闖入者に狼狽え、ぼんやりと口を開くことしかできない少年はまさしく祭壇に供えられた子羊だった。母の甘い乳房と瑞々しい牧草から引き離された羊はめえめえと嘶き不安を訴えるが、やがて大神官の刃で屠られ穏やかな目から光を喪う。

「早く!」

 ツァレはルヴァシュが犠牲の獣となる光景など見たくなかった。それが自分の眼前に在るか否かに関わらず、苦しみ呻く彼の姿など許容できそうになかった

 ――ルヴァシュには指一本触れさせない。

 銀のけものは背で羊を隠し、もう一匹の銀のけものの前に立ちはだかる。

「どけ」

 だが少女の決心は繰り出された打撃を防ぐには及ばなかった。

「ルヴァシュ!」

 鳩尾に重い拳をめり込ませた少年の華奢な身体は崩れ、がさりと音を立てて地に伏す。彼の唇から漏れ出る喘ぎは苦悶でくぐもっていた。

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